1970年代が子供時代でした。

昭和時代の虐待家庭記録など、自分の不幸についての告白です。

お菓子、自転車、そしてリカちゃん不在リカちゃんハウス

2022-08-20 20:59:00 | 日記
いやなことばかりの子供時代、わたしの唯一の楽しみは、「食べること」でした。
家で虐待、というと「ろくな食べ物を与えてもらえなかったのでは?」というイメージがあるかもしれませんが、それは違いました。むしろ、母が専業主婦であるため、食事作りには変な気合いが入っていましたので、一食一食にかける手間やお金は平均以上だったのではないかと思います。
食に関しては、父も、24時間ずっと家にいる文筆業だったため「食ぐらいしか楽しみがない」という感じだったのでしょう、母の作る三度の食事に要求するものは多かったのです。それで母は、フランス料理教室に通ったりしていました。(わたしに言わせれば「鼻もちならないカルチャーセンターばばあ」という感じに、どんどんなっていきました。)
うちの両親は二人とも、決して育ちがいいわけでもお金持ちの出身でもありません。が、特に母には、山の手ぶって気取りたがるいやらしいところがありました。(父の方はただ美味しいものが食べたいだけで、見栄っ張りではありません。服装などには無頓着で質素でした。)母にとっておやつといえばケーキとか手作りワッフルとか和菓子屋の和菓子であり、スーパーで売っている袋菓子などは「駄菓子」とか呼んでバカにし(この用法は「駄菓子」という言葉の正しい定義から外れているように思えますが)、決して買ってはくれませんでした。
でもわたしが本当に食べたいおやつは、「サッポロポテト」や「ベビースターラーメン」だったのです!

小学校に入って初めて、放課後に友達の家で「ベビースターラーメン」を食べた時の感動は今でも忘れられません。化学調味料風の強烈なうま味は、今までに家で与えられたどんな食べ物とも違っていました。わたしはたちまち夢中になりました。
また「サッポロポテト」も、さらにそれが進化した「バーベキュー味」も、この世のものとは思えないほどおいしくて、魅了されました(そして今でも大好きです)。
甘いものでは「明治かなぼうくん」という、ピーナッツチョコレートが棒ビスケットの周りについている商品が当時あって、そのCMの「金棒もった鬼が来る!」という歌を歌いながら、嬉々として歩き食べ、踊り食べしていました。友達のフミちゃんの家で、そうやって、みんなが食べているような「普通の」お菓子を自由に食べて、好きなことを喋って好き勝手に遊んでいる時こそ、最高に幸せな時間でした。家に帰りたくない、このままここのうちの子になりたい、と心から思いました。そんなこと願ったって叶うはずもなかったのですが…。

フミちゃんは自転車を持っていましたが、わたしは持っていませんでした。そもそも自転車に乗れない、というか乗ったことがなかったわたしでした。父が、「自転車は危ないから、禁止。」という主義だったのです。
そんなわたしは、フミちゃんが自転車で走る後ろをいつも「待って〜!」と走って追いかけていました。
それだけでもバカにされる大きな要因だったのに、しかし、フミちゃんだけは決してわたしをいじめたりしませんでした。彼女はいつも自転車をノロノロ運転にしてくれて、わたしは駆け足という、その変なコンビで一緒に駄菓子屋に行ったりしていました。そしてまた駄菓子屋のおばあちゃんからベビースターラーメンを買うのでした。

フミちゃんとの思い出は小学校一、二年の頃のもので、その後、彼女は引っ越していなくなってしまいます。
うちで、なぜか一回だけ、わたしの「お誕生会」などというものをやることになった、その時にはもうフミちゃんはいなかったので、たぶん誕生会は小学校三年生ぐらいの出来事だったのではないかと思います。
その時に家にどんな友達を呼んだのか、一切記憶がありません。(ただ、フミちゃんがいなかったのは確か。)記憶がところどころしかないのですが、我が家という特殊すぎる地獄ハウスに「普通の人たち」が押しかけて誕生会だなんて死ぬほどいやだ! だってうちが変な家だってバレてしまうじゃないか! と企画段階で既に思ったことは覚えています。

父が「反消費社会」「反物質主義」という思想の持ち主だということは前にも書いたとおりです。
そのポリシーのせいで、わたしは市販の「おもちゃ」というものを一切買ってもらえませんでした。わたしは友達が持っている、テクマクマヤコンとかいうコンパクト(そもそも秘密のアッコちゃんというアニメを見たことがないのでその商品の意味がよくわかっていなかったのですが…)や、お風呂で遊ぶダリヤなんとかセットや、小さいホットケーキがほんとに焼けるミニフライパンとコンロや、そういう、輝かしい、素敵なおもちゃが欲しかったのです。でも、我が家で許可されているのは「たけとんぼ」「手作りのお手玉(中にあずきが入っている)」「ケン玉」など、工夫して自分で技能を高めましょう系の、昭和初期みたいな貧乏くさいおもちゃだけ。

誕生会に来る友達は、そんな事情は理解していなかったのだと思います。

うちが「みんなと同じ」を徹底的に排斥するのは、バースデーケーキに関してもそうでした。普通のバースデーケーキ、つまり「○○ちゃんおたんじょうびおめでとう」と書いたマジパン?のプレートがのっていて、バタークリームを搾り出して形づくったピンクの薔薇の花が飾られた、そんなケーキは、父いわく「愚劣だ。」ということで、禁止。うちでは飾りも何もない、ユーハイムのフランクフルタークランツが誕生日ケーキがわりに供されました。これも、なんだかすごくみじめでした。(クランツもおいしいのだけど、そういう問題じゃなくて、一生に一回でもいいから「城南ちゃんおたんじょうびおめでとう」というデコレーションケーキを見てみたかった。)

誕生会といえば、友達がプレゼントをくれることが普通はワクワク最重要ポイントですが、わたしはプレゼントに関しても悪い予感しか持っていませんでした。

そしてその予感が大当たり…

当時、リカちゃん人形が大流行していて、小学女子のほぼ誰でも持っているようなアイテムとなっていました。しかし、その「ほぼ」の枠からはみ出ている、世にも稀な例外少女が、わたしだったのです。

誕生会に招待されたみんなは、そんなことを知らず、わたしも当然リカちゃん人形を持っていると思いこんで、

リカちゃんハウス(家のみ)!

リカちゃんのお洋服!

など、さまざまなリカちゃんアイテムを誕生日プレゼントとして下さいました。しかし、わたしは肝心の「リカちゃん本体」を持っていませんでした…。
(次回に続く)