わたしの父は、「反権力」「反消費社会」「島国根性大嫌い」といった、かなり偏ったイデオロギーの持ち主でした。(「でした」と書きましたとおり、もう他界しました。)政治的活動をしていたわけではなく、職業は物書きだったのですが、まあ「左」の人です。
戦争でひどい思いをした結果そうなったのかと推測します。
父は終戦時、13歳でした。当然、実際に戦ったことはなく「軍国少年」どまり。
でも、というか、だからこそ、というか、戦争中はバッチリ洗脳されて、世界地図に次々と旗を立ててワクワクしながら「大日本帝国の大勝利」を信じこんでいたそうです。
子供は純粋で騙されやすい…。
いきなり敗戦となって、「今まで信じこまされてきたことは何だったんだ!」とショックを受けた13歳の父は、すべての価値観が転倒する中、急速に左翼思想に入り込んでいったようです。
その後、父は会社員にもならず、いかなるお勤め人にもならず、自宅で原稿を書く自由業を選びました。
そして、まるでロビンソン・クルーソーがフライデーをパートナー(?奴隷?)にするように、母と結婚。
わたしという娘が生まれると、家族三人だけのロビンソン島みたいなものが形成されました。
言い換えれば、ミニミニ北朝鮮みたいな専制国家です。父がジョンウンです。
父は何がしたかったのかと考えると、おそらく、敗戦で「国なんて信用できない!」、戦後は兄弟と金銭問題で揉めたりし「兄弟も信用できない!」など、人間不信のあまり、最小限の家族だけを従えてカルトみたいに家に引きこもりたくなった——そんなところでしょう。
母は専業主婦として、目が覚めている間は常に父の世話をし続けなければなりません。父は24時間自宅にいて自宅で仕事をしているので、無期限の住み込み女中みたいなものです!
1960年代や70年代は専業主婦が当たり前の時代だったとはいえ、ここまで四六時中、はべっていなければならない妻は、まず、いなかったでしょう。
母は父に隷属し溜まったストレスを子供虐待で発散していました。
わたしは母のサンドバッグにされ、ヒステリックに怒鳴られたり、殴られたり…。幼児の頃はよく「お尻を出せ」と言われて、裸の臀部を布団叩きでバシバシ叩かれたりもしました。
父は、わたしに手を上げることは決してありませんでした。暴力担当は、もっぱら母でした。
でも、叱責(口頭で怒る、怒鳴る)は、父にもしょっちゅうされていました。
父母二人がかりで何時間も怒鳴りつけ、説教! わたしがどう謝っても表現に文句をつけ全否定! 永遠のように抽象的な屁理屈が続く! という、二対一の虐待モードでした。
虐待といっても、わたしは、よくニュースに出てくるような「熱湯をかける」「何日も食事を与えない」「アイロンで皮膚を焼く」みたいなことをされていたわけではありません。
と言うと、「まあ大した虐待じゃなかったんでしょ?」と思われるかもしれません。
たしかに、命に関わる事はありませんでしたが、暴力よりさらに厭だったのが「よその人は関係ない!」とか言って、あまりに独自すぎる我が家ルールを押し付けられることでした。社会的孤立を強いられるというか。
例えば、小学校に入るとき、「手が器用になるから、鉛筆はナイフで削りなさい。鉛筆削り禁止。」と言われて、「ひごのかみ」という鞘付きの小刀を渡され…
ガタガタの手削りの鉛筆を持って登校…
昔の話といっても、わたしが小学校に入ったのは1972年です。既に誰もが「鉛筆削り器」で綺麗にスムーズに鉛筆を削っている時代です!
一人だけガタガタに手削りした鉛筆を持っていたら、「なんだそれ!」とみんなが驚き呆れ、わたしはたちまちボコボコに虐められました。当然だと思います。これでいじめにならない方がおかしいというものです。
学校に持っていく持ち物にも、我が家流の厳しいルールがあって、「マンガ(キャラクター)が描いてあるものは駄目。」(消費者社会に反対?という意味だったらしいです)「下敷きはセルロイドのものに限る。」(これに至ってはまったく意味不明…)とか言われて、かわいくない無地の、他の誰も持っていないようなアナクロ文房具を買い与えられてしまいました。
何度も言いますが、これでいじめにならない方がおかしいというものです。
こうして見事いじめられっ子になったわたしですが、学校の方が「家という地獄」よりまだマシだ、と思っていたので休むことなく一生懸命通っていました。
それがまた気に食わないのか、教育にも文句があったのか、親は信じられない言動を始めたのでした。
(次回に続く)