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安倍さんは レーガン元大統領に匹敵する偉大な政治家だった

2024-05-05 17:54:30 | 政治

 

米調査研究機関「ハドソン研究所」 ケネス・ワインスタイン前所長の寄稿から抜粋

力強い変革につながる戦略的な構想を持つという意味で、ロナルド・レーガンに匹敵する私が直接知る人物は安倍晋三氏だけだ。

 この2人の偉大な指導者が持っていたのは、構想だけでなく、それを実現する政治的な能力だ。このような政治手腕を持つ人はまれであり、米国人のレーガンへの評価が在任中の支持者を超えて死後に高まったように、日本人の安倍氏への評価も高まるだろう。

何よりも、彼の戦略的な洞察力が優れていたことを示すのは、早い時期から中国の台頭がもたらす挑戦を認識していたことだ。当時は米国政府内でも多くの人が、中国が国際的に「責任ある利害関係者」になると期待した。

が、安倍氏は甘い期待を抱かず、結果的に正しかったと証明された。彼は中国の挑戦に対応する一番の方法は、競争の土台を再定義することと見ていた。

 2007年に首相として行ったインド国会での演説は先見の明があった。

日本の伝統的な政策だった太平洋重視をより広くインド太平洋に広げた。民主主義国で海洋勢力である日本とインドが米国やオーストラリアと協力し、自由と繁栄を推進するというものだ。

 第1次安倍政権は07年に突然終わったが、戦略的な先見の明は、12年に首相に返り咲いて以降に明らかとなった。中国が強制的で収奪的な「一帯一路」で影響力を拡大するにつれ、安倍氏はインド洋と太平洋を合流させて自由を推進する構想を再び訴えた。16年8月の歴史的な演説で、「自由で開かれたインド太平洋」の構想を打ち出した。

 アジアとアフリカを結ぶシーレーンを強調し、安倍氏は二つの自由で開かれた大洋と大陸を通じ、安定と繁栄だけでなく、偉大な躍動が生まれると訴えた。中国と暗に比較し、インド太平洋地域を力や威圧とは無縁で、自由と法の支配、市場経済が重視される地域にする手助けを日本ができると訴えた。

 この構想で、安倍氏は地政学上の中心、自由な国際秩序を推進する努力の中心に日本を位置づけた。米国のトランプ、バイデン両政権でこの構想は大きな戦略の核になった。自由で開かれたインド太平洋を推進するという安倍氏の遺産を前進させなければならない。彼の追憶だけでなく、人類の利益のために。

 優れた戦略家であり、伝達者であった人物の喪失が惜しまれる。彼の優しい心とともに。

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体罰容認は私の人生観

2024-05-05 13:42:22 | 政治
 
社会問題になっている、家庭内暴力やひきこもりなんて甘えてるんだよ!
 
男も女も関係ないです。
 
そんなもの引きずり出してさ 鞭でしばきあげればいいんだよ
 
世の荒波の厳しさを教えるべきだ。そうすることで野垂れ死にするなら、
 
死んどけばいいんだよ
 
要は何が言いたいか、獅子でも子を谷に突き落とし 這い上がってくる子だけを育てたというではないか、
 
それが本人の為にもなるってことだよ😀😀
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【この世を生きる意味とはなんなのか・・】 秀吉の辞世の句は 人生の儚さを象徴

2024-05-05 13:32:40 | 政治

この世を生きる意味とはなんなのか・・秀吉の辞世の句は 人生の儚さを象徴

一介の百姓の倅が 天下を取り

その一代記が小説やら映画で語り継がれています

太閤秀吉は朝鮮出兵で 韓国では 鬼畜扱いですが

日本国内では いつまでも 立身出世の 鏡であり英雄視されています


彼の辞世の句は

『露と落ち 露と消えぬる わが身かな
  浪花のことは 夢の又夢』


彼の命の灯がまさに風前のものとなったとき

脳裏に浮かんだものは 何もかもが現実か幻か・・

一代で築いた その全ての物が 自分の臨終を前にしていかに虚しいものかを感じたようです

秀吉は五大老の筆頭の家康を枕元に呼びこう言った

【家康よ お主は知恵者だ 次の天下はお主のものだろう・・わしはこうして斃れるまではお主にはすべてに勝っていた。 
だが一つだけ、お主にどうしても勝てなかったことがある。 それは人作りよ・・】

私の妄想だけどそんなことを言ったと思いますね。

秀吉は 物ではなくて 人であることを悟ったのです

だから 小説やドラマでは老醜を晒しつつ臨終寸前まで 秀頼のことをくどくど、と

その後見を 家康に 哀願するサマが 描かれています

秀吉は 物や権力こそ全てをゲットしたけど 【人】をゲットすると言う意味では明らかに失敗してます

子の秀頼も幼いし 信頼できる家来は結果的に石田三成ぐらいしか育ててなかった

最後は 【わしの人生の目的はいったい 何だったのか】

と、子孫や優秀な家臣を遺した家康よりは 慙愧の思いだったろうと 容易に推測できます

つまり なにを言いたいかというと、この世を生きる意味と言うか、この世に遺すものは 

むろん、物や権力ではなくて 真の友であり 信頼のおける子供なり 重臣なり

【自分の熱情や夢を受け継いでくれる ものの存在】ではないでしょうか・
 
おわり
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【勧善懲悪は私のモットー】

2024-05-05 13:11:03 | 政治
社会問題になっている、家庭内暴力やひきこもりなんて甘えてるんだよ!
 
男も女も関係ないです。
 
そんなもの引きずり出してさ 鞭でしばきあげればいいんだよ 
 
世の荒波の厳しさを教えるべきだ。
 
それが本人の為にもなると思うね😀😀
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東京壊滅か・・・迫りくる関東大震災

2024-05-05 12:49:11 | 政治
 
 
明日起きても全く不思議ではない 東京直下型巨大地震

倒壊家屋75万戸 死者50万~~~最悪100万人以上

大火災旋風が何箇所も発生し

文字通りの地獄絵図が現出 まさに東京壊滅

それが確実に高い確率で来ると言うのだから怖い

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
東京大学地震研究所などの研究チームが、M7級の首都圏直下型地震が起きる確率を「30年以内に98%」と発表し、

日本中を震撼させた。その後、「30年以内に70%」と修正されたが、リスクが高レベルであることに変わりはない。

東海大学地震予知研究センター長の長尾年恭教授が言う。

「東京というところは、江戸時代以前から何度も繰り返し大きな地震に見舞われてきた。首都直下型地震は歴史が示す通り、

必ずまた起こるでしょう。首都圏の地下構造は3枚のプレートが入り組み、非常に複雑です。それが予知、前兆現象をとらえることを難しくしています」

 巨大地震は避けられず、それがいつ来るか分からないというのだ。

独立行政法人「産業技術総合研究所」客員研究員の寒川旭氏は869年に起こった貞観地震に着目する。三陸沖を震源とするM8.4以上の巨大地震で、津波が三陸沿岸を襲った。

「貞観地震発生までの50年間ほど、長野県から東北にかけて地震が頻発した。西日本の内陸でも地震が起こり、

貞観地震の9年後の878年に、関東で直下型の大地震が起きた。今回も日本海中部や新潟中越などのM7クラスの地震がいくつも起こった後、東日本大震災が起きた。
 
年初に能登地震・・ 先ごろ四国の愛媛でもあった

西日本でも阪神淡路大震災以降、地震が増えている。現在の状況が9世紀と似ていることは、複数の研究者が指摘しています

首都圏は、とりわけストレスが溜まっているエリアと言える。
 
起きれば 今の裏金クソ政府には全く対処できないだろう・・日本は世界最貧国に一気に転落し 長期に亘り立ち上がれず没落必至だ。
 
おわり
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戦国の忠臣【鳥居 元忠】 これぞ日本の魂だ!

2024-05-05 12:10:23 | 政治
 
忠義忠節が時代遅れの死語だって?
だから世の中腐るんだよ!

1600年、家康は上杉景勝討伐のために軍勢を出すことを決めて

元忠は伏見城の留守居を命じられた

家康が軍を率いて大坂を離れれば、石田三成ら家康に反感を持つ諸大名が挙兵する可能性は高いと思われた時期です

三成達が挙兵すれば畿内の徳川方の城は真っ先に狙われ、伏見城がその先鞭となるのは必至の情勢

鳥居元忠は家康が若いころから従った家臣・・

家康とは歳も近く3歳しかはなれていません。人質時代を共にすごしたためか絶大な信頼を得ていまし
 
以下の会話がきっと交わされていたはず・・いつもの妄想で書いてみた
ーーーーーーーーーーーーーーーー

出陣の前に家康は伏見城を訪れ元忠と酒を交わした

【彦右衛門よ・・お主とはこれが 今生の酒になるだろう】

【殿、三河以来 永年の恩顧に感謝しています ここ伏見の城の留守居を仰せつかった時より とうに覚悟はできてございます】

【彦右衛門、三成他の寄せ手は数万ともなる、せめて わしの手勢を受け取ってくれんか・・】

【何を言われます!? 殿は 上杉との戦いのために大軍が必要・・それに例え手勢を戴いたところで 結果は同じ・・】

【それがしは 死地をここと定めてございます 満天下に 三河武士の武魂を示してくれようぞ!】

【そうか! よくぞ申した!】

【そちと わしは肝胆照らす 相仲じゃ わしの胸中を察してくれぃ】

【殿、よおく 判っていますとも! 三途の川で今一度 酒を酌み交わしたいものでございます お待ちしておりまする!】

家康は その言葉に 胸は打ち震え 目に涙を浮かべ 元忠の両手を握りしめたのです 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

間もなく 総大将 毛利輝元の名で伏見城を明け渡すように命令が出ましたが、元忠はこれを拒否1800の兵で伏見城に立て籠もりました

それに呼応した 宇喜田秀家ら西軍の4万の兵が伏見城に攻め寄せた 20倍以上の兵力が城を取り囲んだのです

このとき家康の要請だとして島津義弘が1000の兵を連れて伏見城の援軍にきたが

元忠は家康から聞いてなかったので

 義弘を追い返してしまいました 立腹した義弘は関ヶ原の戦いでは西軍についたのはそれが理由かもしれないです

1800の兵で守っていた伏見城は。本来なら数日で落ちても不思議ではないです

それが10日たっても 落ちないのです

死を決意した城兵の奮戦ぶりは 壮絶なもので
至る所、血潮で真っ赤・・

内臓が飛びだし それを片手で押しこみながら戦い続けたのです

【殿、敵は本丸まで迫っています!御自決を!】

って 家来が元忠に言うと

【何を言うか! わしは自害などせん! 阿修羅になってでも一人でも多く殺すのだ!】

と、仁王立ちしたと想像

予想外の日数をかけさせたことで、その後の三成らの計画が遅れてしまい その間に家康は三成の挙兵を知り、三成らを打つための準備を進めていくことになりました

一説によると

家康は元忠ら将兵の忠義を称え伏見城を守って戦った将兵の血が染み付いた畳を江戸城の伏見櫓に使いました

血の染み付いた床板は、京都の養源院、宝泉院、正伝寺、源光庵、興聖寺の天井に使われ。「血天井」と呼ばれています 

鳥居家はその後、嫡男の忠政が継ぎ磐城平藩10万石となりました

さらに山形24万石となり、元忠の忠義に報いるため鳥居家を手厚く扱ったと記録に残っています(^-^)

しかし 家康はほんまにイイ家来をもってましたね・・関ヶ原はこの一件だけをもってしても戦う前から勝ってたようなものです^^
 
思うに 今では こういう絆を結ぶ機会もないのは確かだけど
 
世知辛い 現代ではこんな絆は皆無。
 
裏切りと騙り、虚言を常套としている今のクソ政治家とは対照的だ(笑)
 
その意味では昔のほうがはるかに良かったと断言できる。
 
※史実を除きすべては私の妄想です 念のため
 
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