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戦国の忠臣【鳥居 元忠】 これぞ日本の魂だ!

2024-05-05 12:10:23 | 政治
 
忠義忠節が時代遅れの死語だって?
だから世の中腐るんだよ!

1600年、家康は上杉景勝討伐のために軍勢を出すことを決めて

元忠は伏見城の留守居を命じられた

家康が軍を率いて大坂を離れれば、石田三成ら家康に反感を持つ諸大名が挙兵する可能性は高いと思われた時期です

三成達が挙兵すれば畿内の徳川方の城は真っ先に狙われ、伏見城がその先鞭となるのは必至の情勢

鳥居元忠は家康が若いころから従った家臣・・

家康とは歳も近く3歳しかはなれていません。人質時代を共にすごしたためか絶大な信頼を得ていまし
 
以下の会話がきっと交わされていたはず・・いつもの妄想で書いてみた
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出陣の前に家康は伏見城を訪れ元忠と酒を交わした

【彦右衛門よ・・お主とはこれが 今生の酒になるだろう】

【殿、三河以来 永年の恩顧に感謝しています ここ伏見の城の留守居を仰せつかった時より とうに覚悟はできてございます】

【彦右衛門、三成他の寄せ手は数万ともなる、せめて わしの手勢を受け取ってくれんか・・】

【何を言われます!? 殿は 上杉との戦いのために大軍が必要・・それに例え手勢を戴いたところで 結果は同じ・・】

【それがしは 死地をここと定めてございます 満天下に 三河武士の武魂を示してくれようぞ!】

【そうか! よくぞ申した!】

【そちと わしは肝胆照らす 相仲じゃ わしの胸中を察してくれぃ】

【殿、よおく 判っていますとも! 三途の川で今一度 酒を酌み交わしたいものでございます お待ちしておりまする!】

家康は その言葉に 胸は打ち震え 目に涙を浮かべ 元忠の両手を握りしめたのです 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

間もなく 総大将 毛利輝元の名で伏見城を明け渡すように命令が出ましたが、元忠はこれを拒否1800の兵で伏見城に立て籠もりました

それに呼応した 宇喜田秀家ら西軍の4万の兵が伏見城に攻め寄せた 20倍以上の兵力が城を取り囲んだのです

このとき家康の要請だとして島津義弘が1000の兵を連れて伏見城の援軍にきたが

元忠は家康から聞いてなかったので

 義弘を追い返してしまいました 立腹した義弘は関ヶ原の戦いでは西軍についたのはそれが理由かもしれないです

1800の兵で守っていた伏見城は。本来なら数日で落ちても不思議ではないです

それが10日たっても 落ちないのです

死を決意した城兵の奮戦ぶりは 壮絶なもので
至る所、血潮で真っ赤・・

内臓が飛びだし それを片手で押しこみながら戦い続けたのです

【殿、敵は本丸まで迫っています!御自決を!】

って 家来が元忠に言うと

【何を言うか! わしは自害などせん! 阿修羅になってでも一人でも多く殺すのだ!】

と、仁王立ちしたと想像

予想外の日数をかけさせたことで、その後の三成らの計画が遅れてしまい その間に家康は三成の挙兵を知り、三成らを打つための準備を進めていくことになりました

一説によると

家康は元忠ら将兵の忠義を称え伏見城を守って戦った将兵の血が染み付いた畳を江戸城の伏見櫓に使いました

血の染み付いた床板は、京都の養源院、宝泉院、正伝寺、源光庵、興聖寺の天井に使われ。「血天井」と呼ばれています 

鳥居家はその後、嫡男の忠政が継ぎ磐城平藩10万石となりました

さらに山形24万石となり、元忠の忠義に報いるため鳥居家を手厚く扱ったと記録に残っています(^-^)

しかし 家康はほんまにイイ家来をもってましたね・・関ヶ原はこの一件だけをもってしても戦う前から勝ってたようなものです^^
 
思うに 今では こういう絆を結ぶ機会もないのは確かだけど
 
世知辛い 現代ではこんな絆は皆無。
 
裏切りと騙り、虚言を常套としている今のクソ政治家とは対照的だ(笑)
 
その意味では昔のほうがはるかに良かったと断言できる。
 
※史実を除きすべては私の妄想です 念のため
 
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