午前、ワールドシリーズ観戦、午後も逆転優勝の余波、テレビから離れられなかった。申し訳のように歌集を読む。妻、名古屋旅行より帰る。歩数は1,875歩だった。
朝6時、加茂郵便局のポストに「短歌人」令和7年1月号の作品ほか1通および1枚を投函する。帰ってきてプラスチックごみを出す。朝食後は、WSをテレビ観戦する。午後遅くXに投稿する。歩数は4,767歩だった。
朝6時から洗濯物を干す。妻、9時前に出発。テレビでWSを見る。カップ酒をを飲みながらの視聴である。言い訳のように歌集を読む。短歌を作る。歩数は2,417歩だった。
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一本亭と輪王寺宮(『狂歌東乃春』より抜粋)
としころやつかれ思ふことあれハ玉の絵をかきてミかいたらみかいたたけに光るなり性根玉てもなにのたまてもとよみて人々に送りけるか既に
一万枚におよひぬこたひはからす」(十三ウ)
日光准三宮大王此事を聞しめさセられこその霜ふる月の末つかたかたしけなくも昇殿のミゆるしを蒙り奉り恐れおほくも玉座ちかきところにめさせられ御席上におゐて宝珠のかこ狂歌をもしたゝめ台覧に備へ奉りしことを恐れ入て ありかたやわれハ琥珀のそれならて玉につきてそあかるちりの身と左右の御方へ申上侍りぬれハいと興しさせ給ふよしことにその折からの御筆一管をも頂戴しありかたさのあまりハたとへんかたなく冥加のほともいとおそろしくて初はるにかくなん申侍る
*「日光准三宮大王」。「日光」だが『山川 日本史小辞典 改訂新版』で「輪王寺(りんのうじ)」を見ると「東京都台東区の上野公園にある東叡山寛永寺の本坊。当寺3世の後水尾天皇の皇子守澄(しゅちょう)入道親王のとき,日光に輪王寺の寺号が与えられ,親王が日光輪王寺門跡と寛永寺の住持を兼ね,輪王寺宮と号したのが始まり。以後代々の輪王寺宮は寛永寺に住み,江戸と日光を往復して両寺を統轄した。」とある。「准三宮(じゅさんぐう)」は太皇太后,皇太后,皇后の三宮に准ずる待遇を与えられた人。「大王」は皇族の敬称である。
* 当時の輪王寺宮は「公遵入道親王(こうじゅんにゅうどうしんのう)」(一七二二~一七八八)と思われる。「江戸時代中期、中御門(なかみかど)天皇の第2皇子。/享保(きょうほう)7年1月3日生まれ。母は清水谷石子。享保15年親王宣下をうけ、16年京都毘沙門堂にはいり出家。元文3年輪王寺門跡(もんぜき)。延享2年天台座主(ざす)となり、寛延2年再任。天明8年3月25日死去。67歳。俗名は保良(やすのり)。号は随自意院、随宣楽院。著作に『随宣楽院宮詩文集』など。」(日本人名大辞典)
*「霜ふる月の末つかた」=陰暦の一月末。
*「宝珠のかこ狂歌」=「宝珠の加護狂歌」と読んだ。
*「台覧」=「皇族など高貴な人が見ること」(デジタル大辞泉)
*「筆一管」=「筆一本」に同じ、数え方。
於関東旅亭
浪花一本亭
松濤芙蓉花
誠のこと申も恐れおほん筆かく有かたき年のはしめに
やつかれの狂歌實珠のかこをうつせし南都」(十四オ)古梅園の墨に若狭国なりけるめしの昆布をとりそへ恐なからおなしく台覧にそなへ奉るとて御取次へ申上侍る
*「古梅園」=「墨の老舗の屋号。また、そこで製造した墨。江戸時代に奈良で創業され、江戸日本橋にも支店があった。」(デジタル大辞泉)
*「めし(召)」=「貴人・上位者が物などを取り寄せること。御請求」(日本国語大辞典)
春のきてあら玉の墨をたてまつるいはふ若狭のよろこんふそへ
*「あら玉」=「(新玉)《枕詞「あらたまの」が「年」にかかところから「新玉の年」の意に用いる》年の始め。新年。正月」(デジタル大辞る泉)
Xへ投稿する。歌集を読む。セブンイレブンで買い物をする。これとは別に冷蔵庫は私の食べ物でいっぱいである。明日から二泊三日で友人と旅行なのである。歩数は3,981歩だった。
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資料が語る一本亭芙蓉花
五、結語
近世は和歌と狂歌の並立時代である。この五句三十一音詩史に日本語の歴史を重ねるとき古代語から一歩も出なかった和歌に対して、まがりなりにも近代語を導入した狂歌の今日性が明らかとなる。それは紀貫之らが活躍した『新古今和歌集』の頃すなわち言文一致の時代を思わせるのである。「芙蓉花」が大僧都龍尊の命名(『狂歌拾遺家土産』)であることや、自身の言葉ではないが「同志の人」(『狂歌五題集』)「同志の友とち」(『狂歌東乃春』)に絆の強さを思ったり、一万枚の加護狂歌そして東下り等に目を奪われるのであるが、狂歌の流れとしては貞柳・木端と同じく近代語による言文一致の方向性にあることを忘れてはならない。
のりもののよしだとをれば窓よりもかほつんだいてあふたうれしや 豊蔵坊信海『豊蔵坊信海狂歌集』
あさ夕はどこやら風もひやひやとお月さま見て秋をしりました 黒田月洞軒『大団』
蓮葉においどすはるとくみてしる思へばもはや三年じやもの 鯛屋貞柳『置きみやげ』
今ン日よりからくりかはる冬の景自身番所に火がともります 水谷李郷『狂歌乗合船』
むかしむかしの咄と成りてさるの尻まつかうくさふなる親仁達 栗柯亭木端『狂歌ますかがみ』
いささかなさかななれ共どふぞしてお口にあぢの早うつけたさ 常女『狂歌種ふくべ』
うくひすよ礼に来たなら屠蘇よりも梅酒出そかひとく一口 一本亭芙蓉花『狂歌東乃春』
朝食の前に川西小学校で投票、食事後はワールドシリーズを観戦。わずかに歌集を読む。歩数は4,843歩だった。
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資料が語る一本亭芙蓉花
四、もう一人の一本亭「大石真虎」
ジャパンナレッジで「大石真虎(おおいしまとら)」(一七九二~一八三三)を引くと『国史大辞典』『日本人名大辞典』『日本人物文献目録』『根岸派文学集 饗庭篁村篇 大石真虎の伝』がヒットする。このうち長くなるが『国史大辞典』と『根岸派文学集 饗庭篁村篇 大石真虎の伝』を引用したい。まず『国史大辞典』である。
江戸時代後期の画家。有職故実の研究をもって知られる。寛政四年(一七九二)尾張国名古屋門前町の医師小泉隆助の次子として生まれる。幼名を門吉、成人後は大石良雄を敬慕した姓を大石と改めた。通称は小門太・衛門七・寿太郎・良輔などといい、号を鞆舎(とものや)という。十五歳にして張月樵の門に入り、樵谷と称したが、師弟不和となり、離れて吉川義信について仏画を学び、さらに故実に堪能という大和絵の渡辺清に学んでみずから一家をなし、真虎と称した。不羈奔放の性格から師友に容れられず、諸国を歴遊した。その間古社寺・旧家の什宝を閲覧して見聞を深め、詳細な写生図や紙型標本を作り、故実書を書写して、往古の装束をはじめ、公武の有職故実、兵器の沿革などの考訂につとめ、執筆の歴史画は明確な根拠に基づいて表現したという。武将とその略歴を併記した『百将伝』は、菊池容斎の『前賢故実』の前駆として注目され、尾崎雅嘉の『百人一首一夕話』の挿画は、その公家故実の抱負を示し、真虎の業績を慕った川崎千虎を通じて、明治の歴史画壇に大きな影響を与えた。晩年、名古屋に戻り、聾になり「つんぼ」の三字を書いた木札を胸にかけて歩行したという。天保四年(一八三三)四月十四日没した。四十二歳。同所大須真福寺に葬る。
次に『根岸派文学集 饗庭篁村篇 大石真虎の伝』だが紙の『明治文学全集26根岸文学全集』(筑摩書房)があるので、こちらから引用する。
大石真虎氏は尾張名古屋の医師小泉隆助の二男なり寛政四年に生る母は浪花の狂歌師一本亭芙蓉の娘なりと(氏たま〳〵一本亭と号することあり)
松涛ひさ女のその後でもあろう(なお芙蓉花は「狂歌師」ではない。その対局である)。「大石真虎の伝」は十二回書き継がれているが「明治二十三年二月 春陽堂刊『小説むら竹』第十三巻所収」とある。