素浪人の生活

生きるってすごく大切だね。

DEATH NOTEを一時間と価値観の違い

2008-02-11 02:18:42 | つれづれなるままに
あちゃ~。ちょっとした勉強の合間に見た、
先週と先々週に金曜ロードショーでやってたDEATH NOTEに少しはまってしまいそうです。

藤原達也演じる主人公が正義感という盾を振りかざして、「悪とラベルを貼られた被疑者や刑事施設被拘禁者を殺し続ける。
一般民衆はオカルトのようなものにはまり続け、民衆は主人公が「犯罪者とラベルされた人」を殺しているとは知らないものの、「キラ」という空想の超能力者にはまって(陶酔して)いく。

彼のお父さんは、普通の会社員ではなく警察庁捜査1課(?)の課長級ポストで、「キラ」を捕まえる立場だ。

僕を知っている友達なら、なんで僕がDEATH NOTEにはまるか分かるはずだ。
そう、ひとつは、警察物だから。

そして、もうひとつの理由は、

「悪は去り、正義は常に勝ち続ける、そして犯罪はなくなって欲しい」

と僕も警察官を目指す傍らで思っているからだ。

ただし、間違ってはならないのは、正義とは何なのか?ということだ。

良く僕が出す例は「『正義の味方』にとって『悪』は『悪』であり、『悪』にとって『正義の味方』は『悪』なのだ」という話。

絶対的な悪など存在しないし、絶対的な善も存在しない。
それは、人は現在、立場や境遇や考え方の違いで様々な立場に立っている。

それを自分とは違う価値観だということで攻撃したり、やっつけたりすることは、間違っていると思わないだろうか。

話が飛躍するが、それをよくするのは、「悪の枢軸国」がキーワードのアメリカだ。
それは、相手に共感できて、話し合って、と柔軟に物事を対処できない人がやることだ。(勿論、話し合いをして常に相手に譲歩的である必要は無い)僕はよく人の話も聞かず、理解もせずといわれるけれど…)

話を戻して、正義とは相対的だという話が出来たと思うし、絶対という「善」や「正義」が無いことを話した。

次に、では、「被疑者」や「刑事施設非収容者」(以下、双方共に「犯罪者」)が「悪」では無いという話。

世の中にはルールというものがある。それは慣習であり、文化であり、法律であったりする。それは認める。
しかし、それを破る人は皆「故意的」で「能動的」にそれ(ルール)に反したのだろうか?
そうでない人も居るし、映画で殺される人は殆どが「能動的」でかつ「故意的」であった者が多いが、犯罪者のおおよそが本当はそうでない。

では、そうではない人たちは、絶対に「許されない存在」なのか?(感情論)

そうではないと少なくとも僕は思う。人がルールに反することは許され得ないが、それによっての個人的な価値観や意思でもって誰かを生殺与奪することが妥当になるわけではない。コレでは、古代刑罰方式や戦争事由である。

非常に野蛮だ。

また、凶悪犯を起こした人が、更生・反省しないと誰が判断できる?(国家刑罰論)
出来ない。確かに、反省の色無しでかつ、精神鑑定の結果、無罪になる人も居るにはいる。ただ、「それらの人の命を極めて主観的な価値観で『命』を奪うのが良い」という帰結にはならない。

そう考えれば、やはり、彼がしているDEATH NOTEでの殺戮行為は、不当行為である。

前編をこ1時間しか見てないが、藤原達也の犯罪者撲滅行動には興味を示しつつ、ただ、彼の行動は許され得ない、と価値観の違いを感じる時間でした。

明日は、官庁訪問で見れないけれども、また続きを見ようと思います。