緩く縛った紐ほどほどけ始めていることに気付けない、それはあまりメジャーじゃない真理だ、それは状態として変化していないせいだ、硬く縛った紐には緩やかな状態から変化した跡というものが見える、だから、それが再び緩んだときは誰でも気付くことが出来る、でもそれは真理としては初歩の初歩だ、言うまでもないことだけれど、だが人はそんな初歩の段階で満足してしまう、緩く縛られた紐には注意など払わない、彼らは一見してわかること以外相手にはしない、だから、ずっと同じものを見続けながら生きる、それはつまり紐についてはひとつの形態しか理解し得ないということである、俺はそういう時いくつもの状態にこだわってしまう、だから紐についても、ひとつの形態しか理解しない連中よりは遥かに深い理解が出来ていると言える、俺がどうしてこんな話をしているのか君には理解出来ないかもしれない、でも俺はこういう話を根気よく続けてゆくことが結構重要だと考えているんだ、もちろんこれはほとんどの場合徒労に終わる、なぜなら彼らの前提は遮断することだからだ、他人を遮断すれば自分が確固たる理論を持っているということになる、まあ、子供騙しだけどね、でもそんなことばかりして、永遠に自分を騙し続けたまま死んでいこうとしている人間はごまんと居るんだよ、そして俺はそんな現状が少々忌々しいと感じているんだ、大多数高なんだが知らないけれど、馬鹿が幸せに暮らせるような世界でいちゃ駄目なんだよ、敢えてこういう言い方をすることを許してもらいたいのだけれど、俺は可能性のある人間は導いてやりたいんだ、良き先陣としてね、それぐらいの資格はあると言えるだけのことはしてきたつもりだ、人間は旗じゃない、強い風に靡いていれば見映えよく見えるけれど、風が無い日にはしょんぼりとしなびていることしか出来ない、そんなのあまりにも情けないし、しょうもない話じゃないか、移動し続けることさ、ひとつの地点からひとつの地点へ、移動しながら考えるということをやり続けなけりゃ人間はすぐに野良の猿に仲間入りさ、そして、群れて馴れ合って居るだけでいっぱしの大人みたいな、そんな幻想に溺れて目が覚めることなく死んでいく、考えただけで鳥肌が立つね、少なくとも八〇年は生きていける時代だというのにさ、どれだけの機会をドブに捨てるつもりなんだ、でも遮断されてるからね、俺は特に彼らに話しかけることはしない、無意味なんだよな、初めから、すべての出来事について、考え得る可能性は無限にある、思いつく数だけある、安直な結論に終始するか、本当にその現象から受け取るべきものを幾つもの選択肢の中から掴み取るかは自由だ、けれど、選択は無限に行われる方が得るものは多い、それは当り前のことだ、当り前のことのはずだろう、けれど人によっちゃあ、塾講することを無駄足のように言うやつも居るよ、俺はほんのちょっと微笑んで返すのみさ、話にならないやつと話をしても仕方が無いからね、本当に、柄にもないこと言うけどさ、こんなに選択肢の無い世間で当り前のように生きていると人間としてはろくなもんになれないと思うよ、国が悪くなるのは政治家のせいじゃない、それは絶対に国民のせいなんだ、でも、政治家に責任を押し付けて知らん顔が出来るシステムがあるものだから、みんなそうして生きてしまう、国が悪くなるのは政治家のせいじゃない、国民のせいなんだ、国が変わる方法なんてひとつさ、全体のレベルを底上げするには、国民ひとりひとりが心を入れ替えて自分の人生を真剣に考えることだ、でもそんなこと不可能なんだよ、さっき言ったように、安直な選択をすることを結論が早くて有能なことだと勘違いしている馬鹿どもは一回しか書き込めない記録メディアみたいなものさ、上書き更新が出来ないんだ、だから最初に書き込まれたことを忠実にやり続ける、そして気付くことすら出来ないで骨に還っていくんだ、この社会は本当にそういう人間を育てることに長けているよ、俺みたいな人間は変り者って言われてお終いさ、おかしな話だぜ、俺はどこにも無い話をしているのに、よくある話しかしていないような連中がどうして俺の話していることを云々出来るつもりで居るんだろう?本当に、悪いんだけど、思考の成り立ちからして違うんだよね、もう少しわきまえて欲しいものだよ、どうにも今日はくだらないことばかり話してしまう、でもまあ、たまにはこういうのもいいんじゃないか、相手にしても仕方のないやつを相手にしなきゃいけない時もあるんだよ、だから俺は近頃終始イライラしてるのさ、イライラしたって何にもならないことだらけなんだけどね、こんな街に住んでいると、本当に時々、虫でいっぱいのプールで溺れているような気分になることがあるよ、呼吸をしようとしても虫しか飛び込んで来ないんだぜ、やってられないよな、疲れてるのかって?そうかもしれないな、でもそんなことばっかりだったぜ、小学生のころからさ。
非常階段の先で光輝く太陽を見た、それは死にゆくものが最期に見る光景のように思えた、でもそれを確かめる手段なんか何も無かった、それを知るには俺はまだ強欲過ぎたんだ、衝動に従って―意味も分からないままに歩を進め、名前も分らないビルの屋上でそういう光景を目にすることはよくある、俺はそういう時「呼ばれている」と言う、ある種の光景、風景が電波のようなものを使って俺に呼びかけるのだ、だから俺は常にどこかで、そういう電波をキャッチ出来るようにアンテナを伸ばしている、受信帯域を確保している、電波を受信するのは一瞬なのだ、僅かでも隙があれば折角のチャンスを逃してしまう、報道系のカメラマンがテレビで似たような話をしていた、でも俺のは仕事じゃない、言ってみれば娯楽のようなものだ、そこに意味が存在するかと言われれば無意味かもしれない、でもそれは明らかにただそこを訪れる場合とはなにか違うものを秘めている、そう、例えば、太陽の角度とかね―そういう、ほんの一瞬の為にアンテナは研ぎ澄まされるんだ、問題なのはその光景そのものじゃない、きちんと受信することが出来るかどうかだ、それはタイミングの問題なんだ、だってそうだろう、太陽の動きはほぼ決まっているし、建物や自然もそこに在り続ける、気まぐれに形を変えるようなことはまずない、だからそれは、タイミングの問題なんだ―何のタイミングなのかって?ある程度答えることは出来る、でもそれは完全な答えじゃない、でも答えることは出来る、そう、しいて言うなら、世界が違って見えるタイミングさ、違う世界のドアが開く瞬間のタイミングなんだ、それは外界だけの問題じゃない、この俺の中に、そういうものを求める瞬間というのが必ずある、もちろんこれは、俺だけのものではない、どこの誰にだってあるはずのものだよ、けれど、そうした欲望を確かに認識しているかどうかによって結果は違ってくる、俺はそれを求め、ある程度手に入れることが出来るということさ、それは受信出来ない誰かと何が違うのか?それは大袈裟な話になるよ、人生そのものが絡んでくる、近頃俺は人生についての話をし過ぎて少々食傷気味なんだ、それについて語るのはまたの機会にするよ、今日はそういう気分じゃない、そう、ほんの少しの視線の違いなんだ、簡単にそう言っておくことにするよ、簡単に言おうが詳細に説明しようが、分からないやつは分からないものだからね、もう俺は説明の必要性を感じなくなったんだ、一時期試してみた上での結果だけどね―ステージの違いっていうものがあるじゃない?分からないやつが分かるやつのステージに上がって来るなんて無理なことなんだ、だって自分自身の有様についての覚悟が違うんだから…まあそんな話はいいよ、ともかく俺は非常階段を下りて下界に戻った、その非常階段がくっついてるビルの入口にあるいくつかの看板を見てみたけれど、オフィスにせよバーにせよ喫茶店にせよ今はもうやっていないようだった、もう何十年も建物としての役割を果たせないままそこにある、そんな感じがした、入口であったのだろう場所は板で覆われていた、非常階段を降りている時に、階段の真裏に小窓があったことを思い出して回ってみた、よくある交差式の引戸タイプのサッシで、滑らせてみると当り前のようにすっと開いた、トイレか何かだろうか?ほんの少し背伸びをすれば簡単に入れそうだった、少し悩んで、入ることにした、入口が塞がれているのだ、中で誰かに遭遇する可能性は限りなくゼロだろう、そこはトイレだった、水洗ではあったが和式の便所だった、そこだけ見ると現役のように見えた、個室が三つ並んでいた、あとは手洗いだけだった、女子トイレなのかもしれない、ドアを開けて廊下に出てみるとやはりそうだった、入口が塞がれているので少し薄暗かった、が、階段に窓があるらしくまるで見えないわけではなかった、使われていないオフィスビルに女を追いかけて入る小説があったなと思ったけれどタイトルは思い出せなかった、一階にあるのはトイレと給湯室とシャワールームだった、あとは入口の側に受付のような小窓がある部屋があった、シャワールームというのが少し不思議に感じた、オフィスビル的な建物にそんなものついているだろうか、と思ったのだ、が、そう言えばバーとかも入っていたのだったな、と思い当たった、バーか、喫茶店か、どちらかの人間がこのビルに住んでいたのかもしれない、どちらにせよ、シャワーを浴びるためだけに一階に降りてくるというのは少し面倒に感じた、本来居住を目的に作られたビルではないだろうから、多少の不便は仕方ないのかもしれなかった、ひとつひとつドアを開けて覗いてみたがそれほど面白いものは見つからなかった、二階に上がろうとして、踊り場にある大きな窓が目に入った、そこからは隣のビルの壁面が見えるのみだったが、夕日が斜めに入り込んで窓だけを器用に照らしていた、俺は階段の前で立ち竦んだ、その窓の中に女が居てこちらを眺めていた、その目はなにかを懇願するみたいに潤んでいた、どうか、頼むから上に行かないでくれ、どうかこのまま帰ってくれ、俺にはその女がそんな風に言っているように見えた、折角来たのだからという気持ちが拭えずしばらくの間葛藤したが、意味も無くそんなことを訴えたりしないだろうと思い、断念した、窓にずっと感じていた圧迫感のようなものが、そこから遠ざかるに従ってだんだん薄らいでいくような気がした、俺は入ってきた窓から外に出て、非常階段の一番下に腰を下ろし、いったいなんなのだと考えた、答えは出せる筈もなかった、立ち上がり、表通りへと歩いていく途中で、何かが激しく地面に激突する音を聞いた、思わず振り返ったけれどそこにはただ打ち捨てられた静寂がへばりついているだけだった。
この夜は戻らない、錆びれた運動場のフェンスに巻き付いた蔓の記憶のように、検知出来ない場所で発酵した感情を生み続ける、それはどこにも行かない、蓄積してやがて漏れ溢れ、内側から肉体を侵攻してゆくだろう、いつかはそうなる、いつかはそうなるんだ、肉体には必ず終わる時が来るのだから、だからこうして、無数の引っかき傷を残し続ける、どちらが優勢なのか、当の本人でさえ知ることは出来ない傲慢なレース、何もかもすべて、手の中に留めておくことは出来ないのだと、不遜な笑いを浮かべてすれ違う者のようにあっという間に手の届かないところに行ってしまう、それならばもうかまわないよ、そう言ってしまえるほど思い切りも良くはなく、拗らせた火傷のような思いだけが虫の卵のように植え付けられて繁殖を始める、生まれ増えろ、ここにはお前を食らうものは何もない、好きなだけ増え続ければいい、もうそんな陰の蠢きを楽しむ程度の余裕くらい持っている、この身体を食らい尽くすがいい、どいつもこいつも―人の一生など履いて捨てる程度のものだ、だってそれは誰にしてみても、どんな人生でも曖昧にならざるを得ないのだ、長く生きて、なにひとつ覚えていることすら出来はしない、表向きはそうなる、確かにそうなる、頭で何とかしようとするから虚しくなるのだ、肉体に刻まれたものを信じていればいい、無理に言葉にすることはない、言葉になりたがるものはこういう時間に勝手に寄って来る、言葉として生まれるチャンスを何とかものにしようとしている、だから、どんなに疲れていてもワードは起動される、我知らぬところで、急かされ続けているのだ、奇妙な感触だ、自分同士で会話しているかのような…それは実際に同じようなものなのかもしれない、ただ、他者とのものとは違い、そこには圧倒的な理解はあるけれど同時に、徹底的な認識の違いというものももちろんある、それはどうしたってそうなる、だって、本来なら言葉として浮上してくることのない階層にあるものたちなのだから、深海魚を釣り上げれば目玉や浮袋が飛び出したりするように、在り得ないところまで浮かび上がってきたものたちはかたちを少し変えてしまう、それは致し方ないことだ、すべてわかった上での挑戦なのだ、人間という存在を、知り得ないところまで知ろうとする行為なのだ、それは途方も無い挑戦だ、ここでいいという標識が存在しない、チュートリアルも、ガイドラインも存在しない、先にそこに辿り着いた者ももちろん居ない、当り前だ、人生というのは基本そういうものだ、そうでなければ個体としてわざわざ生まれてくる意味も無い、誰の人生にだってフィールドは無限にある、スマホのゲームに興じている暇はない、この世で最大のオープンワールドゲームをすでにてにしているじゃないか、自由度は最高に高いぜ、だけど、そのせいで不自由に感じているんだろう、だからそんな風に自分に注釈をたくさんつけてすべてわかった振りをしているんだ、自分が決めていいってことにしとけば真実なんて簡単なものだものな、だけどそれは脳味噌を腐らせるぜ、ほら、言い訳をするたびに腐敗臭がしているじゃないか、覚悟を決めようぜ、この世でたったひとつのルートを辿って、本当の意味で自分の人生を理解しない限り、その辺に居る連中と同じものになってしまう運命から逃れることは出来ないんだ、それがわかってからはあっという間だった、富や名声の為じゃない人生というのは確かに在るんだよ、そんなもの二の次さ、計算機やスケジュール帳を持って生まれてくる赤ん坊なんか居ないだろ、生身で生まれて、生身で覚えていくのが人間の基本なんだ、赤ん坊の特筆すべきところは、知への貪欲さだ、どんなものにでも触れる、どんなものにでも首を突っ込む、本当はそれだけでいいのさ、愚かな連中が自分たちが生き易くするために作った下らないルールのせいでそれは見え辛いのが当り前なんだ、連中は自分たちが正しいことにするためならどんな恥ずかしい理屈だって並べてみせるぜ、そんな連中のために存在するのが社会って代物さ、ガイドラインなんてものが存在する世界なんて絶対に信じてはいけない、それは誘蛾灯のように愚者を寄せ付ける、それを受け入れたり反発したりして良いの悪いのいうゲームをひたすら繰り返してる、共通言語を探して安心する人生なんか真っ平さ、この夜は戻らないんだ、いつでもなにかを書いているようにした、自分が何をしているのかわからなくなったりしないように、少しでも指先が身体と精密に連動出来るように、いろいろなこだわりを捨てて新しいやり方をするようにしたんだ、そうさ、変わらないでいるためには、変わり続けていくことというのは絶対に必要なんだよ、すべてのものをひたすら飲み込んで大きなひとつの流れにしていくのさ、そうして目の前に並んだ様々な言葉を見つめてほくそ笑むんだ、俺はいつだって企んでいる、それが誰かに伝わるかどうかなんて、やっぱり二の次ってもんなんだ。
秋が重い腰を上げて、ようやく日も少しずつ短くなり始めた、空には一文字に切り裂かれたような雲が浮かび、そいつらを見下ろすように鱗雲が多足生物の足跡のようにぽつぽつと揺れていた、秋に生まれたせいかこういう景色の中に居ると俺は妙に安らかな気分になった、それで、帰りそびれて公園のベンチに長いこと腰を下ろしていたんだ、何処にも行けなくなったころ、よく昼間っからこんな風に景色を眺めていたことをふと思い出してね、なんとも言えない気分になった、特別今もマシになったわけじゃないからね、少し落ち着いているというだけのことさ、俺の人生は忌々しいループの中に投げ込まれているんじゃないかと思うことがよくある、特別大事でもない事柄のせいで煩わしいことばかり、付き合う価値もないような連中に絡まれたりする、まあ、どこの誰だってそういう思いは多かれ少なかれしていると思うけどね、そう、出来事自体は珍しい話じゃないんだけど、俺はそんな下らない出来事からでも様々な情報を汲み取ってしまう癖があるからね、そいつが少々面倒臭いんだな、多分最終的には、ヒトラーやフセインみたいな手段を取りたくなると思うよ、まあ、そんな権力があればの話だけどね、自分にそういう一面があるのは理解している、そして、そんな側面を知らずに生きるよりはちゃんとわかった上で生きていく方がずっといい、こんな話してるけど、俺、ガンジーと同じ誕生日なんだぜ、笑っちゃうよな、そう、結局のところ、俺はそんな出来事の中で自分の中を探りまくっちゃうんだな、そこで自分がどんなことを考えてるか、こう考えているけれどどこかでこんなことも考えているなとか、そういう認識を整理するのが本当に面倒臭いんだよね、そんでまあ、正しさから愚かさまで盛大にばら撒くことになるんだけど…この辺の不安定さは我ながら洒落にならないね、でもちゃんとマシにしようとは考えているんだぜ、何事も日進月歩だよ、本筋じゃないことでも少しずつ進歩していかなきゃいけないのは当り前のことじゃないか、それにさ、俺が住んでいるのは基本的にそんな進歩を知らずに暮らしている人間の為のコミュニティだから、反面教師には事欠かないんだ、こんな人間にだけはなっちゃいけないな、なんてやつが、そこら中でウロウロしているからね、多分、酒文化の街だからなんだろうけどね、暑い地方は駄目だよ、どんな自堕落な暮らしをしても、夏に数日、祭りで踊り狂えばそれだけで清算されると考えている、それだけの人生なのさ、まあ、俺にはどうでもいい話だけどね、俺に絡んでくることさえなけりゃね、俺はそういう人間を区別することが出来るけれど、彼らにはそれが出来ない、そういう認識の違いが俺に面倒ごとを運んでくるんだ、だけどしょうがないさ、俺が彼らを教育してやるわけにもいかないしね、俺と話が合わないのはだいたい、話しても無駄なヤツって感じだから…そういう連中が俺に絡んでくる時って、面白いんだよ、否定したい気持ちは目一杯あるのに、言葉が追いついていないから、変な後出しジャンケンとか、とにかく安いケチをつけるだけの言動に終始するんだ、自信の割に確固たるものを提示することが出来ないのさ、それはつまり、なにも考えちゃいないってことなんだよね、こちらがびっくりするくらい、彼らはなにも考えちゃいないんだ、だからすぐわかるんだよね、あ、こりゃあ絡んでもなにも生まれないやつだってね、そういう人間ってだいたい俺のことを嫌うんだよ、なぜだろうと思うんだけどね、おそらく、俺という人間のオリジナリティーが気に入らないんだろうね、だって、村社会ってのはそうだろ、自分を殺してこそ成り立つコミュニティだろ、日本って国は不思議だよ、どんなに文化的な暮らしが手に入っても、人との付き合い方は村社会の掟のままなにも進化しちゃいないんだ、みんなと同じ方を向くのが正しい、みんなと同じルーティンで動くのが正しい、みんなと同じ話で盛り上がれるのが正しい、この話わからないやつ居ないだろ?俺はそんなこと全部にまるで興味が無いから、村民たちはそれが我慢ならないのさ、まあ、そんなことはどうでもいいんだけど、そう、それで俺は公園を後にした、夕方になったと思ったらあっという間に真っ暗だ、毎年のことなのに慣れることがないね、人間はいつだって時の流れに置いて行かれるものなのさ、夕食の準備が面倒で外で食べることが出来ないかとあれこれ探してみるものの、アレルギーに対応してくれる店なんてバカ高い店しか見つからなかった、しかたがない、スーパーでいろいろと買い込んで家に帰るともう夜の始まりだった、簡単なものを作って食べ、ゴールデンタイムだけはつけているテレビを見ながらコーヒーを飲むとあっという間に零時近く、無意識に過ぎる時間はいったいどこへ逃げているのだろう、睡魔にやられ始めた頭でぼんやりと考えながら、つくづく俺はだらけるのに向いていない人間だと自覚した、少し身体を動かして汗をかいてからさっとシャワーを浴びて、少し何か書いてから寝ることにするさ、自分で作らなければ納得出来ないんだ、今日という一日の証拠ってやつは。
それはどこかにあるのか、それともどこにもなかったのか、違うやり方をすれば手に入れられたのか、近くにあったけれど見落としていただけなのか、要因なんて探せばいくつだって見つかるものさ、でもそんなことに固執したってこの先のことはなにもわかりはしないんだ、もはやどうにもならないことについてあれこれと考えても時間の無駄さ、そんなことをしているうちに少しでも先へ進むのが得策ってことだね、なにしろ人生は有限なんだぜ、その間に出来る限りのことをやらなくちゃ、それが正しかろうが間違っていようがやり続けた人間にしか辿り着けない場所というのは必ずあるからね、間違い続けた挙句最期の最期にたったひとつ有無を言わせぬものを作り上げた、そんな人生下手に成功するより格好いいことだと思わないか、人生はRPGじゃない、クエストなんてクリアーしなくても経験値は得られるんだ、イベントをこなすことだけが重要事項じゃない、自分の人生を売りにするやつが居る、子供の頃不幸だった、酷い目にばかり遭った、裏切られたり騙されたり捨てられたりした、だからひとかどの人間だ…なんてね、俺に言わせればそんなことどうだっていい、不幸な人間が全員強いわけじゃないし、幸せに育った人間が全員ノホホンとしているわけじゃない、重要なのはそんな人生の中で、そいつが一体どういうことを考えていたのか、その結果どんな学びを得たのか、それだけじゃないのかい?学ぶやつはどんな人生でも学ぶし、学ばないやつはどんな人生だって学ばないんだ、そんなこと改めて説明するまでもないことじゃないか、レッテルを貼る、という言葉があるだろう、レッテルを貼られるのを嫌がる人間は、他の誰かにレッテルを貼り続けているものなんだ、あいつは俺とは違うからこうだ…って具合にさ、無意味だね、空っぽの廃墟ぐらい無意味だ、まあ、建造物なら空っぽでも美しいとしたものだけどね、空っぽの人間なんて見苦しいだけだもんな、そうだな、例えば、目の前に死体がある、どんな死体でもいいけれど、出来るだけ残酷な絵面がいい―飛び降りて頭が割れたものにしようか、それが目の前にある、君はどうする?写真を撮ってSNSにアップする?そんな誰かを見て眉をひそめる?気持ちが悪いと言って立ち去る?そいつをじっと見つめながら、そいつがどうしてそんなことをしようと思ったのか考える?それともここから飛べば確実に死ねるなと考える?思いつく限りの行動の中で、どれが一番正しいと思う?そんなこと誰も定義出来やしないんだよ、すでに起こった死に対して、自殺なんていけないことだ、なんていうのはナンセンスだろ、俺に言えるのはそんなことくらいだよ、俺ならどうするのかって?じっと見て、人生を考えるだろうな、そいつが強そうな男なら、こんなやつがどうして死ななければならなかったのか、なんて考えるし、若い娘なら、余程のことがあったのかな、なんて考えるだろうね、まあ、余程のことが無くたって死んじまうやつなんて珍しくもないけどね、だけど、写真は撮らないね、そんなの撮っちまったらなんか連れて来そうな気がしてさ、死体を写真に撮ろうとは思わないね、正解なんて無いのが当たり前なんだ、そんな景色にしっくりくるたったひとつの答えなんて誰にも探せやしない、もしもそんな答えが探し出せるのなら人生なんて必要ないかもしれない、わからないまま進行するのが当り前なんだよ、すべてのことは…俺たちがすることはただただそんな人生に翻弄されながら懸命に生きるのみさ、それは必至で生きるっていう意味じゃないよ、生き急ぐとかそういうことでもない、あらゆる局面に選択肢があって、自分の為にそこから選択するというようなことさ、そしてその選択の良し悪しを問うことなく、すぐさま次の選択をしなければならない、もしもそこに決まりがあるとしたらただひとつ、出来るだけたくさんの選択をするということだ、たくさんの選択をするということは、たくさんの選択肢に気付くということでもある、気付かなければならない、それを選ぶことはどういうことか考えなければならない、真実に対しては無自覚で構わない、でも選択については自覚的に行われなければならない、ひとつひとつの選択に対して、自分の意志を持たなければならない、もしも人生に目標というものが必要だとしたら、そういうことでしかないんじゃないか、確かに選ぶことでしか、人間は先に進めやしないんだ…いいかい、正解だけが学びになるわけじゃないんだ、周辺に転がっているすべての出来事に学びがある、そこからどれだけのものを掬い上げるのか、そいつをどんな風に解釈するのか…真剣に取り組めばわかることがあるんだ、それは無自覚に安易なものに飛びついて生きるよりもずっと有意義で、厳しくて楽しいってこと、俺は求道者なんかじゃない、好き放題やって、それを無駄にしない、あらゆるすべての学びと感情を持って、次の一行に手を付ける、そうすれば俺のすべては、世界の電子の中で人知れず呼吸し続けることが出来るのさ。