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ボロボロの壁

2022-02-06 22:55:00 | 小説





特にこれといって上手く続けられる仕事もなく、思い出したように働いては数日後には辞めている俺たちにとって、のんびりとしけこめるモーテルなんかあるわけもなく、だから俺たちはいつでもなんとかガソリン代だけを稼いでは、街から少し走った山の中腹にある、十年前に営業を取りやめたコテージの一部屋に忍び込んではヤリ溜めをした。疲れたり飽きたりして勃たなくなっても無理矢理二回は追加した、あとは裸のまま壁にもたれ、ラジカセで音楽を聴きながら毛布にくるまって煙草を吸い、酒を飲み、寝たり起きたりしながら朝までを過ごすのだ。それが俺たちの―デートと言えばデートみたいなものだった。俺たちは同じ学校の同じクラスで、腐れ縁から始まっていつのまにかそういう仲になっていた。それも、熱烈な愛とかそういうのではなく、いつのまにか、気が付いたら裸になって舐め合っていた、そんな感じだった。そもそもいつでもつるんでいられる同級生なんて限られていたし、その中でも俺たちはとりわけ人間嫌いな偏屈だった。ババ抜きで最後に残った二枚みたいな関係だったのだ。そんな関係は何年も続いた、四年とか―あるいは六年くらいは続いていたのかもしれない。いまとなってはそれが正しく何年だったのかなんて、俺にも、そしてあいつにも分ることはない。緩慢な自殺のような毎日だった。そして俺たちは、それがそういうものだと知りながらもそれを苦だとも思いもしなかった。どうせ他に生きる術があるわけもない。俺たちは野生の動物のような愚かさで自分の立ち位置を全うしていたのだ。


ある日の少し肌寒い冬に、いつものようにやりまくってダラダラしているときに、あいつ―アビーはこんなことを口にした。
「ここの壁さ、だいぶんボロくなったよね。」
うん?と、少しウトウトしていた俺はそれをもう一度繰り返してもらった。それから眠気覚ましに煙草に火をつけて、煙を吐きながらそうだな、と答えた。笑わないで聞いてくれる?とアビーはいつになく暗い表情で続けた。俺は煙草を消して頷いた。
「この安い木造のコテージがあと何年もつのか分らないけど…あたし時々、自分があの壁みたいなものじゃないかって考えることあるのよ、最近。」
歳より臭い悩みだな、と俺は返した。アビーの言うことは分らなくもなかった、いや、もしかしたら本当は恐ろしく分っていたのかもしれない。だから逃げようとしたのだ。
「俺たちまだ二十代じゃないか。」
そうだけど…と言ってアビーは俯いた。もっと上手く言えるはずなのになにも言葉が見つからない、そんな様子だった。俺は彼女がなにか思いつくまで待っているつもりでいたが、眠気覚ましの煙草を早々に消してしまっていたせいですぐに眠ってしまった。目覚めた時はもう朝で、アビーも静かな寝息を立てていた。女は老けるの早いっていうしな、と思いながら俺はその頭を撫でた。

それから数週間、俺たちは互いになんやかやつまらない用事を抱えて会うことが出来なかった。たまにはきちんと仕事をしたりしなければいけなかったから、それぐらい会わないでいることはよくあることだった。俺はなにも疑っていなかったし、なにも心配してはいなかった。これまでの生活が変わることなんて考えもしなかったし、始まった時と同じでなんとなくいつまでもそれが続いていくものだと暢気に考えていた。アビーがもうお終いにしましょうと言ったのは、ひと月ほどあとのコテージだった。

「あたしね、結婚することになったの。」
俺はどんな言葉も思いつかず、阿呆みたいに口を開けてアビーの顔を見ていた。彼女の言っていることがまるで理解出来なかった。まるで外国の言葉を聞いているみたいだった。
「今しかないと思ったの。ボロボロの壁になる前に…自分を守るために、何かしなくちゃいけないと思って。」
両親には少し前から煩く言われていたの、と、思い出したように付け加えた。
「だから、俺と別れて―誰かと結婚するって?」
自分でも馬鹿みたいだって思うわよ、とアビーは俯きながら言った。
「でもね、あたし、この壁を見るのが怖いのよ。怖くてどうしようもないの。まるで少し先の自分を見ているみたいな気分になるの。だから、利用出来るものは利用して、この人生を抜け出そうって思ったのよ。」
俺はなにか言うべきだと思った。だけど、なにも思いつかなかった。彼女にしてみればそれなりに納得のいく段階を踏んでいるのだろう。だけど、俺にとってはまったくの晴天の霹靂というやつだったのだ。この毎日にこんな終わりが来るなんてほんの数分前までまったく考えてはいなかったのだ。
「両親が凄く喜んでいるの…やっと親孝行してくれるって。何年かぶりに小遣いくれたの。だからね、あたし車呼んでそれで帰るから…だからね、送ってくれなくていいからね。」
アビーはあまり俺のほうを見ずに早口でそんなことを言って、じゃあ、さよならね、いままでありがとうと言ってコテージを出て行った。俺は何も考えられず、しばらくの間コテージで立ち尽くしていた。それからどうしたのかあまりよく覚えていない。気づくと自分の部屋で水のシャワーを浴びて震えていた。慌てて湯に切り替えて、バスタブに湯を張り、ゆであがるまで浸かっていた。


取り乱したりはしたものの、数週間は比較的穏やかに過ぎていった。俺は時間を持て余すのが嫌になって、フルタイムの仕事に就き、やけくそで働いた。食肉工場で豚肉を捌く仕事だった。力だけは無駄にあったので、年寄りの多いその職場で俺は重宝された。家に帰ると力を使い果たして、シャワーを浴びて飯を食うとすぐに眠くなってベッドに横になった。こんな毎日もいいものかもしれない、そんな風に考え始めた矢先のことだった。

ある夜、もう日付も変わったころ、俺は痛みで目を覚ました。左の手首にひどい痛みがあった。寝床で横になっていたはずなのに、リビングのテーブルの前に座っていた。電気をつけ、左手首を見てみると、いま切ったばかりという感じでざっくりと、まるで手を切り落とそうとしたみたいに切り裂かれていて、真っ赤な血がポタポタと床を濡らしていた。俺は悲鳴を上げて洗面に飛び込み、タオルを取って手首をきつく巻き(といっても片手でそうするのには限界があった)、救急病院へと駆け込んだ。自分では気づかなかったが衣服にもかなりの血がついていて、これは大ごとだと判断した看護師が順番を飛ばして診察室へと案内してくれた。
「あと数ミリ深かったら危なかった。」
デンゼル・ワシントンの若いころにそっくりな医者が処置を終えてそう言った。
「どうしてこんな怪我を?」
分らない、と俺は首を横に振った。医者は怪訝な顔をした。家で寝ていたんだ、と俺は分らないなりになんとか説明してみようと試みた。
「痛みで目が覚めて、ベッドに居たはずなのにリビングのテーブルの前に座っていて、手首から血が流れていた。尋常じゃない量だったから、ビビッてすぐ手首を縛ってここに来た。そんな感じだから、自分でもなにがなんだか…。」
医者は頷き、見てればだいたい分るけど、と前置きしながら
「ドラッグやらの類はやってないね?アルコール中毒とか、そういった経験もない?」
ないよ、と俺は答えた。夢遊病の類も?と医者は続けてきいてきた。俺は黙って頷いた。
「そういう…なにか、病気の疑いがあると?」
医者は少し迷いながら、けれども言っておいた方がいいだろうと判断したらしく、少し真剣さを強くしながら、こんなことを言った。
「人間はなにか大きなショックを受けたとき、心と身体のバランスが取れなくなる時がままある、本人がそのショックを自覚していない場合、無意識下においてそのショックに対してバランスを取ろうとするケースは結構ある…例えば、寝てる間に自傷行為に及ぶとかね。」
医者はそう言って俺の目をじっと見た。
「ここは総合病院だ。このまま精神科医に診てもらうことも出来る。君がそう望めばね。」
俺はそんな状態なのかな、と俺は困惑して言った。医者は俺の緊張をほぐそうとしたのか、少し表情を緩めて、笑顔を作りながらこう言った。
「我々は君に聞いた状況から判断するしかない。君は今回たまたまマズい方向に寝ぼけただけかもしれない。でもね、もう一度言っておくよ、あと数ミリ傷が深かったら君はここに来ることも出来なかった。それぐらい危ない状態だったんだ。」
俺は頷いた。少し悩んだが、今日はもう帰る、と答えた。医者は頷いた。
「もう二度と悪い夢を見ないように祈ってるよ。」
ありがとう、と俺は答えて病院をあとにした。


数週間後、俺は知らない間に病院に担ぎ込まれた。道端で血まみれになって倒れていたらしい。仕事が終わってすぐの時間で、まだ眠ってすらいなかった。でもなにをやっていたのかまったく思い出せなかった。目が覚めると真っ白い部屋で寝かされていて、看護師が近くをウロウロしていた。俺が目覚めて驚きの声を上げるとこちらへやって来て、大丈夫、とだけ言ってナースコールを押した。この前の医者がやって来て、俺と目を合わすと悲し気に笑った。
「また会ったね。」
俺が答えられないでいると、彼はそのまま今後の説明を始めた。
「君はこのまま少し入院してもらう。精神科の方の病棟にね。向こうの先生に話をつけてある。これから一日か二日、完全に監視された状態で過ごしてもらう。もちろんそれは、君が安静にしていてもらうための処置でもある。君はどうしてここに居るのかも分っていないはずだ。心苦しいが、少し強引に進めさせてもらったよ。」
俺は何も言えず、頷いた。自分の身に起こっていることが理解出来なかった。連絡しておきたい家族は居るか、と聞かれ、居ない、と答えた。それから俺は監視カメラのついた部屋へと連れて行かれた。精神科の医者を紹介された。優しい笑みの、ソフィー・マルソーを思わせる女医だった。大丈夫よ、ここに居れば悪いことは何も起こらない。微笑むだけでそう患者に伝えることが出来る技術の持主だった。俺は安心した。腕になにかが打たれた。俺は急速な眠りの中へと落ちていった。

目が覚めると、俺は入院患者の格好のまま、あのコテージの真ん中で突っ立っていた、左のこめかみになにか冷たい感触があった。あの医者、と俺は毒づいた、大丈夫だってそう言ったじゃないか?もう助からないと分っていた、身体はなにも自由にはならなかった。目は自然に目の前を壁を睨んでいた、ボロボロになって―そんなにボロボロだったなんて信じられないくらいボロボロになったコテージの壁を。指先にじっくりと力がかかった、ああ、おしまいか―せめてもう少しなにか手に入れたかったな、俺がすべてを諦めたその瞬間だった、突然強い力で誰かが俺から銃をもぎ取った。続いて銃声が聞こえ、誰かがどさりと倒れた。俺は血も凍る思いでゆっくりと振り返った。左目からもの凄い血を吹き上げながら仰向けに倒れているのは、いままで見たこともないような小奇麗な格好をして、明るい色に髪を染めたアビーだった。


アビーの持っていたバッグには遺書があり、すべてに失望したと書かれていた。当然俺は疑われたが、引鉄が明らかにアビー自身の手によって引かれたことが分ると疑いは晴れ、また、俺や彼女の両親から事情を訊くにつれ、ある程度のことが把握出来るともう俺のところにはやって来なくなった。それから俺は診てもらう項目が増えひと月ほど入院したが、それからはびっくりするくらい良くなって退院した。そのまま仕事場に顔を出すとみんな喜んでくれた。俺は知らなかったが、毎日誰かしらが見舞いに来てくれていたらしい。無理はするな、あとひと月休め、でないと仕事はさせない、と親分が言うので大人しく家に帰った。眠りにつく瞬間には恐ろしくて仕方なかったが、何事もなく朝を迎えることが出来た。ちょっと愉快な夢さえ見た。それは過去と呼ぶしかない頃の夢だった。俺は目覚めるためにシャワー浴び、久しぶりに自分で朝食を作って食べた。なにが失われ、なにが残ったのかまったく分らなかった。だけど、時間は容赦なく更新され、遅かれ早かれ日常は再構築されるだろう。危うく死ぬところだった。でも生きていて、こうして新しい朝を迎えている。人生というやつはとてつもなく残酷なものだ。だけど、そこには必ず未知なる未来が待ち構えていて、日々を乗り越えたものにだけその姿を見せてくれる。俺はもうボロボロの壁かもしれない。だけどまだ横になって眠って、こうして目を覚ますことが出来る。

                                 


  了


ピーナッツバタートースト

2020-12-11 22:12:00 | 小説






 ちょっと焦げたピーナッツバターが乗ったトーストとカフェオレの為ならなんだって出来る、とマリはいつもふんぞり返って話してた。「あたしにとって人生で大事なものはそれだけなのよ」って。実際、一日に二回(朝は寝ていたから二回)の食事がそれだけという日も週に何度もあった。どれだけ捻っても雨漏りぐらいのお湯しか出てこないようなシャワーしかついてない、トイレの水は流すたびに便器の根元から水漏れする、キッチンのガスコンロは油断するとすぐ消えている、窓はもともとそういう模様だったのかと思えるくらいにまんべんなくひび割れていて、ソファーは虎が爪とぎに散々使ったあとみたいに破れまくって、元の布地は何色だったのかなんてもう全然わからない。踏みしだかれた埃がフローリングに吹雪の絵みたいに張り付いて穴だらけの床。五階建ての二階だから本当の雨漏りだけは味合わずに済んだ、そんな部屋で暮らしているくせに、パンを焼く機械だけはフランスのものすごくいいやつを食卓にでんと置いていた。おんぼろの部屋でピカピカに輝いているそれは、あたしからすればスラムに降り立ったUFOかタイムマシンみたいに見えた。マリはそれを買い、上等のパンとコーヒーとバターの為に週に三日、手だけで男をイかせる仕事をしていた。まだ十八になったばかりだっていうのに。その仕事に行き着くまでにどれだけの「なんだって」をしてきたのかは謎だった。でも、きっとそんなに偉そうに話せるほどのことはしてきていないに違いなかった。いつか痛い目に遭うわよってあたしは何度も忠告した。
 「ナイフで脅されて、無理やり突っ込まれて、終いには殺されるかもよ。」
 あたしがそういう度にマリはお馬鹿さん、というようなムカつく笑みを浮かべて
 「大丈夫よ、あたしのボスはとても良くしてくれるの。お客はみんな優しい、綺麗な男の子ばかりよ。」
 「綺麗で優しいからってナイフと性欲を持っていないとは限らないわ。」
 ふんだ。
 「あんたなんて二回ぐらいしかセックスしたことないくせに。」
 それがマリの決め台詞だった。相手が誰かってこともマリは知っていた。あたしとマリは高校の時からの付き合いだから、お互いのボーイフレンドのことも、どこまで行ったのかってことも、大体のことは知っていた。本当にあたしをやっつけたいときには、そいつの名前を口にすることもあった。でもそれで何度か絶交したから、最近はあまり言わなくなった。担任のお情けで卒業して、遊べる友達がみんなどこかへ出て行って、この街にはあたしくらいしか残っていなかった。あたしは学生の時からバイトしてたレストランの居心地が好きだったから、ずっとそこに通っていた。いつか出て行きたいと思うこともあるかもしれないけれど、いまはそんな暮らしが気に入っていた。都会に行ってお洒落な仕事に就きたいとか、大富豪と結婚したいとか、アーティストになるとか、クラスメイトが話している夢はどこか馬鹿馬鹿しく思えて、ただなんとなく毎日を生きていけたらいいかななんて考えていた。年寄りみたい、とマリはそんなあたしをよくからかった。あんたは売女みたい、ってそのたびにあたしは返した。あたしたちは特別気が合うということはなかった、むしろ、まるで違っていて、そのことが面白かった。そして、どちらにもそれを取り繕う気がなくて、お互いに遠慮がなかった。普通の仲良しとは違っていたかもしれない。だからあたしもマリもお互いを親友だなんていうふうには言わなかった。「腐れ縁」そんな言葉が凄くしっくり来る関係だった。あたしは卒業と同時に堅物の親の家を出て、自由に暮らし始めた。ささやかなものだったけれどそれは自由に違いなかった。ことわっておくけれど、マリみたいにおんぼろなアパートメントじゃなくて、もう少しちゃんとしたところに住んでいた。もちろん、私の稼ぎで無理のない範囲でということだけど。マリは私に半年ほど遅れて親元を出て、私の住んでる区域の端っこに今の宿を見つけた。勘当されたって噂で聞いたけど本人には聞かなかった。お休みの日がちょっと騒がしくなるかも、そんな風に思ったことを覚えている。なんだかんだで楽しい日々だったと思う。時々は二人でちょっとした旅行をしたりもした。馬鹿みたいに並んで写真をたくさん撮った。どうしてあんなことしたんだろうっていまでも時々思い出す。でもあの時は少しも不思議に思わなかった。

 二年くらいそんな日々が続いて、マリは客の一人だった男と付き合い始めた。ある日突然マリの家に呼ばれて出て行ったら、モデルみたいな綺麗な男が居て、よろしくと挨拶した。綺麗なだけでなんの特徴も無い男だった。少なくともあたしにとっては。
 「彼はとても優しいのよ。」
 マリは馬鹿みたいな顔でそんなことを言ってた。

 その年の冬、クリスマスやらニューイヤーやらであたしの勤めてる店は凄く忙しかった。おまけにベテランのウェイトレスが突然病気退職したせいで休みも取れなくなって、毎日十二時間働いては帰ってシャワーを浴びて眠り、起きては出かけてまた十二時間働いた。ケーキもカウントダウンもまったくない、地獄みたいな十二月が駆け抜けたあと、騒ぎ疲れた一月の街をぶらぶらと歩いていると、少し先におかしな歩き方をしている若い女が居るのに気付いた。マリと同じコートを着ていたから余計に目立った。それはマリだった。
 「マリ?」
 あたしは叫んで駆け寄ろうとしたけれど、マリは聞こえなかったのか、聞こえたけど無視したのか、近くの角へ入ってすぐに見えなくなった。追いかけてみようか、それとも家を訪ねてみようかと思ったけれど、約束があったから日を改めようと思って家に帰ったその晩から私は熱を出し、数日寝込む羽目になった。きっと、忙しい時間が終わったことで気が抜けちゃったのね。

 熱は数日で引いたけれど、店長があたしを気遣ってもう数日の休みをくれた。あたしが休んでいる間に新人が入ったって。すごく出来る子だから心配しなくて大丈夫だよって。あたしはお言葉に甘えることにして、マリを訪ねてみることにした。最後に見かけたあの後ろ姿が気になっていた。少し細くなったみたいにも見えたし、なにより、歩き方もそうだけど悪い病気にでもなったみたいにあたしには見えた。あの男かしら、とあたしは考えた。

 マリの部屋の鍵は、かかっていなかった。そんなことは度々あったからそんなに深く考えずに部屋に入った。キッチンでマリがうつ伏せに倒れていた。今まで嗅いだことのない臭いが微かにした。マリの頭はへこんでいて、すぐそばに、マリの人生の象徴だったあのトースターが転がっていた。あたしは腰を抜かして、動けなくなった。這うようにそこを離れて他の部屋のドアを片っ端からノックした。三つ隣のおじさんが出てきてくれた。電話を貸して下さい、と頼むと、すぐに部屋に入れてくれて、コーヒーを出してくれた。きっとあたしは酷い顔をしていたのだろう。なにがあったのか、と聞かれたので、友達が殺された、とあたしは答えた。どの部屋かね、とおじさんが言うので、部屋の番号を教えた。おじさんは部屋を見に行って、帰ってきて、警察に電話をかけた。それからあたしを病院に連れて行ってくれた。

 犯人はやっぱりマリの男で、前科持ちだった。母親を殺しかけたとか。あたしはひと月ぐらい何もする気になれなくて、ずっと勤めていたレストランもやめてしまった。暖かくなったころマリの住んでいた部屋に行ってみた。不思議なことにまだそのままになっていた。マリが生きていた形跡はすっかりなくなってしまっていたけれど、あのトースターはテーブルにきちんと置かれていた。人の頭を砕いたというのに、買ったときのまんまみたいに見えた。ただ、すごく埃が積もっていた。あたしはキッチンの引き出しの中のタオルを出して、トースターを何回も何回も拭いた。あたしが彼女にしてあげられることはそんなことくらいだった。そうしてそれを拭いているととても涙が出た。最後には、あたしはそれを抱きしめて子供みたいに泣いていた。

 いま、そのトースターはあたしの部屋にあって、マリのようにあたしを見つめている。あたしは時々それでピーナッツバターをたっぷりと塗って少し焦がしたトーストを作る。カフェオレは嫌いなのでコーヒーを入れる。トーストもコーヒーも、すべてが温かく、それはマリが生きているとあたしに思わせてくれる。あたしは首を横に振る。親友なんて小奇麗なものじゃなかった。それは確かに腐れ縁という言葉が相応しい関係で、お互い正反対の性格で、そんなお互いがあたしたちは大好きだった。穏やかな朝に涙を拭きながら、あたしは初めてこの街を出て行くことを考え始めていた。

                         






月の下、ふたつの孤独

2019-07-23 22:17:00 | 小説







 周辺の木々が溶け込んでいるせいで、夜の闇は微かなグラデーションを描いていた。かつては堅牢だっただろう鉄の門は、血を被ったみたいに赤く錆びて、左側は門柱に繋がる可動部分のところから壊れて落ちていた。その奥に続く上り坂は、四方八方に伸びた草が作り出すトンネルに覆われてどこまで続いているのか判らなかった。小さなマグライトで辺りを照らしてみたが、それがどんなものの入口なのか教えてくれるものはなにもなかった。いつもならそこで引き返していただろう。でもその時の俺はなにか、そのまま帰りたくない気分だった。二年前から突然始まった不眠、夜を凌ぐための散策にもそろそろ飽きていた。このあたりで少し、気分を上げてくれるような凄いものを見つけてみたくなっていたのだ。適当な長さの木の枝を拾って、前方を払いながら少しずつ進んだ。主の居なくなった蜘蛛の巣や、折れた枝や落葉が積もりたいだけ積もった路面を、小さなマグライトひとつで歩くのは骨だった。けれど、不思議なほど引き返す気にはならなかった。はっきりとは言えないが、もともとは二車線程度の舗装道らしかった。テーマパークだろうか、と俺は予想した。それにしては山奥過ぎる気もしたけれど―果たしてそれは予想通りで、半時間も歩くとありがちな夢の国へのゲートが見えた。失笑を呼ぶような貧相なキャラクターが巨大な看板に描かれて俺を見降ろしていた。十年近くこの土地に住んでいたけれど、そんなものがあるなんて知らなかった。俺は廃墟好きで、インターネットでもよくそんなものを見るけれど、おそらくそんなサイトにも取り上げられたことはない場所だろう…それに、廃墟サイトも以前ほど盛り上がっていないし。ともあれ、眠れない夜の余興にはもってこいの場所だった。俺は子供のように浮かれた気持ちになりながら入口を潜った。ゲートのところに閉園の挨拶が残されていた。必死で読んでみようとしたが、ほとんどが掠れて読めなかった。「19」という西暦の最初の二文字が読めただけだった。そんなもの、なにも判らないも同然だ。

 様々な有名どころの美味しいところだけを取ろうとして、すべてが中途半端に終わっているようなアトラクションの数々だった。けれど、電気を止められ、二度と動くことなく錆びついていくだけのそれらはたまらなく魅力的だった。無機物の死体は腐ることはない、人間と違って。彼らはおそらく生涯よりも長い死を生きるだろう。楽し気に彩られた動物を模した乗り物の表情は、そんなことを語りたくて笑い泣きをしているみたいに見えた。開けているせいで月の光を遮るものが無く、散策には困らなかつた。土産物屋やレストランに入り込んで、休憩をしながら二時間ほどが過ぎた。

 メリーゴーランドのゴンドラに乗り込んで休んでいる時だった。背後のガラスがノックされた気がした。風かなと思って振り返ると、汚れた窓からこちらを覗き込んでいる女が居た。ぎょっとしたが、足音がしたので生きているんだと思った。
 「なにしてるの、こんなとこで。」
  女はそう言いながらゴンドラの中に入って来て、俺の向かいの椅子に腰かけた。顔の輪郭を覆うくらいのボリュームのないショートヘアーで、切れ長の鋭い目をしていた。
「なにって…暇潰しかな。」
 「良い子は寝る時間。」
 「生憎不眠症なんだ。」
 あらら、と女は目を大きく開けた。まだ二十歳にはなっていないだろう。
 「本当に居るんだ、そういうひと。」
 俺は苦笑した。
 「俺もそう思ったよ。医者に言われたとき。」
 ふふふ、と女は楽しげに笑った。
 「おじさん名前は?」
 「湯江。」
 ゆえ?と女は首を傾げた。
 「それ、苗字?」
 俺は頷いた。
 「名前は?」
 「升。」
 「みのる。」
 「変な名前。」
 俺は同意した。
 「役所とかでよく聞かれる―外国のかたですか?って。」
 今度はあはは、と笑う。失礼なもんだが、悪気は感じられなかった。
 「仕方ない。」
 「そうだね。君の名前は?」
 「優衣。」
 「苗字は?」
 「捨てた。」
 「ふうん。」
 いろいろあったんだろうな、と思って俺は何故か聞かなかった。優衣は、それが気に入ったようだった。少し親密な感じになってにんまりと笑った。
 「とっておきの遊びがあるんだけど、やってみる?」
 「それって…」
 「いやらしいおじさんが考えるようなことじゃないよ。」
 俺は苦笑した。
 「それなら、やってみよう。」
 優衣はさらに俺を気に入ったようだった。

 数分後、俺たちはジェットコースターの乗り場に居た。それほど大きくはないコースターが、俺はどうしてまだここに居るんだろうというような顔をしてもう来ない客を待っていた。優衣はその車両の前に降りた。
 「あたしが走って逃げるから、おじさんは捕まえて。鬼ごっこ。」
 「マジかよ。」
 優衣はにやにやした。
 「怖い?」
 「そりゃ、怖いよ。錆びてるぜ、このレール。」
 「それは大丈夫。あたし毎日ここ走ってるけど、どこもおかしくないよ。色が変わってるだけだよ。」
 優衣は挑戦的な笑みを見せた。判ったよ、と俺は言った。
 「お前を信じて、やってやる。」
 そう来なくっちゃ、優衣は叫んで、レールの上を全速力で駆け始めた。

 月明かりに照らされた廃遊園地のジェットコースターのレールを俺たちは躍起になって走った。優衣は時々振り返って、俺がきちんとついて来ていることを確認した。俺は初めこそ恐る恐るだったが、吹っ切った今となっては全速力でも走れるようになった。ただ、日ごろの運動不足は如何ともしがたい。時々立ち止まって呼吸を整えなければならなかった。俺がそうなると優衣は走るのをやめて、窺うような仕草をした。もう追いかけっこじゃないな、と俺はまた苦笑した。というか、優衣のほうも初めからそのつもりではないみたいだった。追いかけっこは、このあとになにかを見せるための口実だろう。俺の目にはさっきからループ・コースが見えていた。あそこで優衣は、なにかを仕掛けるつもりなんだ。俺は立ち上がり、また走り出した。優衣も満足げにまた先を急いだ。毎日走っているというのは本当だろう。体力も、足さばきも見事なものだった。ループまでそんなにはかからなかった。そんなに大きなコースじゃない。普通に乗ればあっという間のものだろう…驚いたことに、優衣はレールに手をかけてそこを上り始めた。嘘だろ、と俺は呟いたが、その確かな動作に考えを改めた。まいったな、本気だよ…付き合うと言った以上、俺がそこで尻込みするわけにはいかなかった。決して上れないほどのものではないだろう。覚悟を決めて、優衣の後を追った。優衣はあっという間に頂上に達した。そして、これまた驚いたことに、そこから地上へとダイブした。
 「おい!」
 俺は恐怖も忘れて出来る限りの速度で頂上へと上った。そこから優衣が飛んだ辺りを見下ろしてみたが、そこはちょっとした林になっていて地面を見ることは出来なかった。さすがに飛び降りる気にはなれなかったが、なにかがおかしかった。優衣は自殺するようなタイプに思えなかった。それとも、俺にそれを見せることが楽しくてはしゃいでいたのだろうか?なにかがおかしい。俺は迷った。なぜか、あまり迷う時間はない気がした。優衣のしたことをそのままなぞってみるしかない。でも本当に―?時間に追われ、考えるのが面倒臭くなった。いま思うと本当に馬鹿げたことだが、俺はイチかバチかでそこからダイブした。

 落下のあいだ、いろいろなものが脳裏を通り過ぎた。そこには、不眠症の原因になったのだろういくつかの出来事もあった。そんなことはもう忘れていた。過去は俺から無くなっていた。おそらく、未来もそうに違いない。これが正しい選択なのかもしれない。このまま―そこまで考えたところで、俺は着水した。ゆっくりと川底に着き、反射的に蹴り上げた。ようやく水面に辿り着き、岸を見つけて這い上がった。そこに仰向けになって気持ちを落ち着けていると、優衣がどこかから現れた。当然、俺と同じようにずぶ濡れだった。優衣は年齢の判らない笑みを浮かべて、月の光を遮りながら俺を見降ろしていた。そして、飛んだんだ、と小さな声で言った。俺は誇らしげに頷いて見せた。冗談のつもりだったが、優衣は笑わず、俺に寄り添うように寝転んだ。
 「飛んでくれたんだ。」
 ああ、と俺は言った。
 「絶対、なんかあるんだろうと思ったんだ、なぜか。」
 優衣は少しの間俺の顔を見ていたが、やがて口元を両手で隠しながら笑った。なぜかそれは泣いているみたいに見えた。

 少し休んでから俺たちは歩いて、とある建物へついた。着替えがたくさんある、とのことだった。従業員のための施設らしい。俺たちは一番現実に近いクリーンスタッフのものを着た。もちろん少し離れて。それから優衣に誘われて展望台へ行った。草に塗れながら静かにフェイド・アウトしていく冴えない遊園地の全貌がそこに在った。手すりにもたれて俺はそれに魅入った。死んでいく遊園地。それと意味のない人間。
 「こっち見て。」と、優衣が言った。俺は優衣の方を向いた。
 「あたしと一緒に、ここで生きて。毎日追いかけっこして。誰にも知られずに、二人だけで生きて。」
 俺は黙って優衣の目を見た。それは悪くない選択に思えた。上手くは言えないが、そんな人生があってもいい気がした。世界はキュークツ、そんな歌があったことを思い出した。俺がすぐに答えないので、優衣は不安になったのか、いろいろなことを言った。果樹園もあるから食べ物には困らないとか、お風呂はさっきの川だとか。月はずいぶんと高くなって、色を失くそうとしていた。夜明けまできっと数時間程度だろう。









                                      了




絆創膏と紙コップ

2018-09-12 12:02:00 | 小説






 冴えない中年サラリーマンが、仕事帰りの屋台で誰に聞かせるともなく呟いている愚痴みたいな雨が、途切れることなく朝から降り続いた夏の夜だった。じめついた空気に我慢がならなくなって、眠るのを諦めて服を着替え、街に繰り出した。傘が必要なほどの雨ではなかったので、持って出なかった。ひどくなるようならコンビニに飛び込んで買えばいい。酒を飲むことしか楽しみがないこの田舎町の夜では、のんびり腰かけてコーヒーを飲むような店はまず見つけられない。家賃を浮かせるための、カウンターだけの狭い店が並ぶ飲み屋路地を歩いて、何度か飲んだことがあるバーのドアを潜った。まだ早い時間だったので、客は俺だけだった。若いころはこの街にも一軒だけあったディスコの店員だったというバーテンは、和製グラム歌謡が流行っていたころにテレビでよく見かけたバンドのフロントマンによく似ていた。社交辞令的な挨拶を二言三言交わして、小さいが分厚いクッションのついた丸いスツールに腰を掛けた。バーボンに氷を浮かべてもらって、小さく流れているフレンチポップスを聴きながらぼんやりと飲んでいると、半時間ほどして一人の男が店に入って来た。俺より十は上だろうか。地味だが着心地の良さそうなスーツを着た、小柄なわりにがっちりとした体格は、柔道でもやっているのだろうかという印象をこちらに与えた。彼は俺の二つとなりの席に腰を下ろし、同じように紋切り型の会話を少しだけして、水割りを注文した。それを一口飲むと、ビジネスバッグから紙コップを取り出して自分の正面に置いた。紙コップの中には何かが入っていた。薄暗い照明の下でよく判らなかったが、絆創膏のように見えた。男がどうしてそんなものを出したのかよく判らなかった。テーブルマジックでも始めるのかと思ったが、そんな雰囲気でもなかった。俺よりも少し早いペースでグラスを傾けながら、男はそれをずっと眺めていた。時々男の方に目をやっていた俺は、ふいにこちらを見た男と視線を合わせてしまった。男は気を悪くしたふうでもなく、笑顔で会釈をしたので、反射的に返した。
 「娘が成人して、嫁に行くんですよ。」
 これは、幼い娘との思い出の品なんです。紙コップを手に取って男はそう言った。それはおめでとうございます、と俺は返した。ありがとうございます、と男は嬉しそうに笑った。
 「可愛い娘でした。親バカかもしれませんが、目鼻だちのくっきりした、母親似の顔でね。自慢の娘ってやつですよ。二十年間、ずっと可愛い娘のままでした。とうとう、家を出て行くんですよ。」
 男の話し方にはどこか違和感があった。すべてが過去形だったからかもしれない。だけど、そんな話し方の癖は珍しいものでもないし、第一お互いに酒を飲んでいるのだ。気のせいだと言えばそれで済む程度のものだった。ぼくには子供は居ないけれど、と俺は話を続けた。
 「嬉しくも寂しくもあり、というものですかね。」
 男は大きく頷いた。
 「連れはすでにあっちに行ってましてね。ひとりぼっちですよ、この歳で。」
 俺はなんと返せばいいのか判らず、それはそれは…という感じの曖昧な返事をした。ジェーンバーキンとセルジュゲンズブールの悪名高いポップスが流れていた。
 「お仕事は何をされているのですか?」
 暗い会話になってしまったことを気まずく思ったのか、男は突然話題を変えた。小さなレストランのコックです、と俺は答えた。
 「私も昔やってたんですよ。」
 それからしばらくは食いものの話に花が咲いた。水割りを二杯飲んで男は帰って行った。俺も同じものをお代わりして、それをゆっくりと空けてから帰った。


 翌日の午後のことだった。午前中の営業を終えて、急遽必要になった食材の買出しに行った帰り、大通りの交差点で激しいブレーキの音を聞いた。砂袋が投げ落とされたような鈍い音が続いて、遠い横断歩道の端に野次馬が集まった。スマートフォンのカメラのシャッター音がいくつか聞こえた。事故か。そんなものを気にしている暇はなかった。急いで店に帰って、午後から夜までの営業の支度をしなければならなかった。


 それからしばらくはどんなことも起こらなかった。俺は毎日店に出かけ、時々何をやっているんだろうと思いながら大量の食材を温めたり切り刻んだり捨てたりした。何をやっているんだろうという思いにとらわれないくらいの経験は積んでいた。人生にはあまり意味を求めるものではない。日常に転がっていることの大半には大した意味はない―まあ、そんなことどうだっていいことだけど。浮かれた夏に人々が疲れを見せ始めて、風が少し涼しくなり始めた秋のはじめ、俺はまた気まぐれにあのバーに顔を出してみた。ああ、とマスターが笑顔で会釈した。スツールに座って、注文をし、ぼんやりと飲んでいると、マスターが話しかけてきた。
 「このまえここでご一緒したお客様のこと、覚えてます?」
 紙コップの?と俺が言うと、マスターは頷いた。
 「あの人がどうしたの?」
 亡くなられました、とマスターは言った。え、と俺は驚いて返した。
 「いつ?」
 「ここであなたと話した次の日ですよ。車に飛び込んでね。自殺です。」
 「すぐそこの交差点?」
 「そうです。私はここで人に会う約束があって、昼から出て来ていたんですよ。たまたま目撃することになってしまって。」
 「そうなんだ…。」
 奇妙な感覚だった。別に知り合いというわけでもない、少しここで話をしただけの、名前も知らない男。けれどあの時は確かに生きていて、俺と言葉を交わしたのだ。少ししょぼくれてはいたけれど、ひとりぼっちになったからって死を選ぶような人間には見えなかった。それは実に奇妙な感覚だった。情報は非常に少ないのに、死という絶対的な事実だけが自慢気に伸し掛かっていた。
 「娘さんも可哀想にね。」
 ん、ん、とマスターが奇妙な相槌を打った。なに?と俺は聞いた。
 「あの人の娘さん、亡くなってるんですよ…五歳の時に。」


 「どういうこと?」
 「彼の車で家族旅行に出かけましてね。母親は仕事の都合で後に合流することになってました。高速道路で、酒気帯びのトラックがおかしなタイミングで車線を変更して…運転席に激突して、彼は大怪我を負いました。娘さんは助手席に居たので、かすり傷で済んだのですが、ドアを開けて外に飛び出して、後続車に撥ねられました。手当をしようとしたのか、意識を失っている彼の横には、水の入った紙コップと、絆創膏が置いてあったそうです。自分の手には負えないと思って、助けを呼びに行こうとしたんでしょうね。」
 俺は飲むのも忘れてマスターの話に聞き入っていた。「娘が成人して嫁に行く」と笑った彼の顔を思い出した。おそらくあの日は、「生きていれば二十歳」の誕生日だったのだろう。
 「ようやく意識が戻って、傷が治ってから彼は娘さんのことを聞かされました。退院してからたまたま、愚痴を言いに来たのがこの店でしてね。そのときにそんな話を、聞きました。」
 俺は黙って頷いた。
 「それから何度か辛くなるとここに来て飲んで行かれたんですよ。何年かして奥さんが病気で亡くなられたときに、『娘が二十歳になるまでは生きる』って言っておられました。」
 マスターはそこまで言うと、ひとつ大きな息を吐いた。
 「その時もだいぶん飲んでおられたし…酔った勢いでのことだと思っていたんですけどね。」
 マスターの気持ちは充分理解出来た。けれど、そんなことがなんになっただろう?仮にあの男が、娘の二十歳の誕生日が終わったら自ら命を絶とうと考えていたところで、マスターや俺に何を言うことが出来ただろう?そんなことどうすることも出来ない。出来ないし、それほどの繋がりもないだろう。こんなことを言うと冷たく聞こえるかもしれないけれど、と俺は前置きして、言った。
 「あんまり気にしないことだよ。彼の気持ちなんて俺たちには到底理解出来ない。」
 マスターは少しだけ首を横に振った。違うんですよ、と、小さな声で言った。
 「なんだって?」
 「彼に、最後まで聞けなかったことがあるんです―その、トラックの運転手っていうのは、私の兄なんですよ。」
 俺は驚いて声も出せなかった。そんなこと本当にあるんだな、そんなふうに考えていた。
 「あの人は知っててここに来たのだろうか、すべて判っていて、私に被害者としてのその後のことを聞かせに来たのだろうか。どうしても聞けなかった。どうしても…。」


 話はそれで終わった。味が薄くなった酒を飲み干して、俺は店を出た。高い空に小さな月が出ていた。星はネオンライトに隠れて、ほんのわずかしか見て取ることが出来なかった。客待ちのタクシーがたくさん並ぶ通りを抜けて、家へと続く小道へと歩いた。たくさんの見知らぬ死が少しの間まとわりついていた。けれどそれも眠ればきっとどこかへ行ってしまうだろう。





                       【了】





キリストとフクロウ

2018-09-09 12:47:00 | 小説






コンビニエンスストアの駐車場で鍵つきの車をかっぱらって、曇り空の下、国道を北方向へ二五時間休みなしに走り続けて辿り着いた先は、名もない樹海だった。バックシートを漁ってみると同乗者の荷物のなかに財布があったので、少し戻って営業している廃墟みたいなコンビニでパンとコーヒーを買い、駐車場で食べた。ディズニーの小人みたいなレジの婆さんと俺以外どこにも人間は見当たらなかった。人間よりも野生動物の方が多いに違いないだろう、そんなところだった。こんなところに住んでいる連中はいったいどんなことをして毎日を過ごしているんだろう?農家だろうか。一日中、米や野菜を育てて、それを食って生きているのだろうか。それは至極シンプルな、素晴らしいことのように思えると同時に、非常にハイクオリティな動物の暮らしだという気もした。でも本当はどちらかなんてどうだってよかった。腹が膨れるとすぐに車を走らせた。ゴミは助手席に置き去りにすることにした。樹海の近くには駐車場のようなものはなかったので、少し広くなっているところに適当に止めた。手ぶらで歩み入ると、このところ雨でぬかるんだ土が驚くほどに沈んだ。スニーカーで歩くのは苦労しそうだ。そう思ったが引き返す気にはならなかった。空は今日も曇っていた。いまにも雨になりそうな色だった。けれどこの森の中なら、さほど濡れることもないような気がした。管理されていない森なのだろう、木々のそれぞれが生存を争い、出遅れた木は腐って隙間に折り重なっていた。五分に一度はそいつらを乗り越えて進まなければならなかった。あっという間に身体は土にまみれた。それでも俺は休まずに進んだ。ここに辿り着いたのなら、ここなのだ。樹海の底は戦争の後のような隆起に満ちていた。つまずき、転び、喘ぎながら懸命に歩いた。そんなふうに森の中を歩くのは初めてだった。幼いころに遠足で歩いた遊歩道のことを思い出した。あれは森ではなかったんだな、そう思うと笑えて来た。今頃になって、俺はあれがインチキであることを知ったのだ。それは少なくとも、そのときの俺にとってはとてもよく出来た笑い話だった。一時間ほど歩くと隆起が少なくなった。それはまるできちんと聖地された植林のようだった。平坦な地面の上に、等間隔にすらっとした脚のような真っ直ぐな木々がまるで指示を待つ軍隊のように整列していた。(おそらく俺は来てはならないところへ来てしまったのだ)そんな気がした。誰かの森だとか、土地だとか、そういうことではない。そこは人間が訪れてはならない場所だった、そんな気がした。しばらくの間そこに佇んでいた。それ以上の進行を許されようが許されまいが、先へ進むつもりだった。けれどひとたび油断すると、その場所に飲み込まれてしまいそうな気がして、なかなか踏み出せなかった。雨が降っているようだった。頭上で雨粒が木々の葉を鳴らす音が聞こえていた。地面まで落ちてこないところを見ると、たいした降りではないのだろう。雷が一度鳴った。それが合図だった。俺は聖域に踏み込んで先を急いだ。身体が冷えて寒くなってきたことも理由のひとつだった。聖域を抜けるとそれまでのような荒れ果てた森に戻った。そしていままでよりもきつい傾斜があった。とにかくこの坂を上り切ることだろう、そう思った。不思議と疲れは感じなかった。目的に向かって進んでいるという気持ちが、身体を前へ前へと動かしていた。うっすらと霧がかかっていた。雨はもう止んだのだろうか。俺はここを歩きながら、ここではないどこかにいるような気がしていた。確かに息を切らしながらそこを歩いているのに、本当はもうまるで違うところに居るのではないか、そんな気がしていた。街から、他人から、慣れた場所から離れ過ぎたせいなのだろうと思った。スマートフォンを取り出して時間を確認した。もうすぐ昼になるところだった。そして電波はもう拾えていなかった。プレイヤーを起動して、純粋だったころのU2のアルバムをフルボリュームで流しながら歩いた。聖域を孕んだ得体の知れない樹海で聴くのに適した音楽なんてそれしか思いつかなかった。アルバムが二周したところで、ようやく道の終わりがあった。


そこは開けていて、根っこからすべて刈り取られたみたいにあらゆる草が存在しなかった。下に岩があるのか、土の感触は浅かった。その真ん中に、俺の背丈と同じくらいの木の枝が落ちていた。それは少し身をよじった十字架のような形だった。十字架か、と俺は思った。十字架にはキリストが必要だろう…。俺は森の方に少し戻り、折れた枝をいくつか、それと割れた石を持って広場(そう呼ぶことにした)に戻った。石で拾ってきた枝の先を削り、十字架の脇と背に突き刺して立たせるようにした。それだけで夜になった。俺は眠ることにした。真夏の夜のせいか、あまり寒さは感じなかった。これまでないくらいぐっすりと眠ることが出来た。自分の魂が身体から抜け出して、どこか遠い空を彷徨っているみたいなそんな眠りだった。夜明け前の寒さと、控え目な白さのせいでゆっくりと目が覚めた。習慣的に顔を洗おうと思ったが水溜りすら近くには見当たらなかった。なのですぐに割れた石を手に取り、十字架にかけられたキリストの制作に取り掛かった。いままでに木工彫刻の経験があるのかって?まるでない。小学校の時に彫刻刀で鮫を彫ったことがあるくらいだ。あのころはジョーズが流行っていたからな。「ブルー・サンダー」のロイ・シャイダーが、鮫と戦っていたあの男だって知った時は、結構驚いたな、なんて、集中して何かをやっているとどうでもいいことを思い出す。そんなわけで俺はまともな彫刻なんぞやったことはなかったが、いまは子供じゃない。時間を掛けて、丁寧に進めれば、初めてのことだってそこそこ上手くやることが出来ると知っている。まあ、時間を掛けることを良しとしない連中の方が、世の中には大勢いるわけだが。分刻み、秒刻みに結果を追い求めていると、それだけの成果しか得られないものだ。世界が単細胞で溢れ始めたのは、そうしたタイムテーブルが当たり前になったせいだろう。ところで、キリストを彫ろうと思ったらどこから始める?俺は顔からにした。その方が早めに気持ちが入りそうな気がしたからだ。そういう作業というのは面白いもので、やればやるほど出来てないところが目につく。人間の目を納得がいく形に彫り上げることが、どれだけ困難なことか想像がつくだろうか?キリストの両目を彫り上げるころには夕暮れが近付いていた。疲労を感じたが、作業を続けたかった。夜が来ることがもどかしかった。また枝を集めて焚火でもしようかと思ったが、マッチもライターも持ち合わせてはいなかった。俺は煙草を吸わないのだ。諦めて眠ることにした。慣れれば陽のあるうちに上手く彫り進めることが出来るだろう。


鼻、口を彫り終わるのは簡単だった。もちろん、目に比べればという程度のことだが。それから髪の毛に取り掛かった。これが一番手間だろうという予想はついていた。ただ、石の扱いに慣れてきたせいか、思ったよりも時間はかからなかった。二日と少しで髪の毛と冠が出来上がった。少し離れてイエスのご尊顔を仰いでみた。悪くない出来だった。初めてにしちゃ上出来だ。神経症的な集中力が、コインゲーム以外で初めて役に立った。一息つくととんでもなく腹が減っていることに気づいた。森に入り、木の実らしきものや草、それから食べられそうな茸を適当に引き抜いて食べた。水はいまのところ、時々降ってくる雨で足りていた。それから一度眠った。それが実質俺の最後の食事であり、眠りだった。夜中にフクロウの声で跳ね起きた。美しい月が出ていた。これまで見たこともないようなでかい月だった。高価な絵本の中でしか見たことがないような月だ。クレーターまではっきりと確認することが出来た。俺は頭がおかしくなっているのだろうか、と思った。もう昼も夜も判らないようになって、幻覚を見ているのだろうかと。でもそんなことはどうでもよかった。目が効くのなら、やることはひとつだけだった。


それからいくつかの朝と夜が入れ替わり、激しい雨が降って強い陽射しが照りつけた。けれど不思議と夜には狂ったように明るい月が出て、おかげで俺は手を止めることなくキリストを彫り続けることが出来た。疲れは感じなかった。とにかくこれを完成させたかった。キリスト教徒でもなんでもなかった。むしろそんなものは馬鹿にしていた。でも、キリストの馬鹿正直さにはどこか憎めないものを持っていた。教会も好きだった。子供のころ、住んでいた家の近くに朽ち果てた教会の廃墟があり、よくそこに忍び込んでは高い天井を眺めていた。神なんてものは正直理解出来なかったけれど、高い、ステンドグラスをはめ込んだ窓から差し込む陽の光や、荘厳とした雰囲気は俺の心を捕らえて離さなかった。その教会は俺が小学校の高学年になる頃に取り壊された。思えばそこから俺はどこにも行けなくなったのだ。ああ、あそこか、と俺は思った。あの教会が俺をここまで連れてきたのだ。あそこに住んでいたなにかが、俺をここで十字架のように倒れた木の枝に引き合わせたのだ。それはもう思い出ではなく示唆に満ちたなにかだった。俺はもう瞬きすらしていなかった。懸命にキリストを彫り続けた。もう自分がなにをしているのかすらよく判らなくなったころ、それは出来上がった。


朝だった。月が出たまま雨が降り続けた、なにもかもが光を弾く早い朝だった。しゃがみこんだ俺の目の前には磔にされ、打ち付けられた手のひらと足の甲と。唇から血を流しながらうっすらと微笑んでいるキリストが立っていた。俺の手によって生まれた神を眺めながら、俺は馬鹿みたいににやにやしていた。「天にまします我らの神よ」俺はそう呟いた。でも続きを知らなかった。どこかで鈍重な羽ばたきの音が聞こえて、一羽のフクロウがやってきた。キリストの顔と同じくらいの大きさだった。そいつはキリストの肩に止まり、まずまずだというように首を左右に回した。「朝だぜ」俺はそいつに話しかけた。「なにやってんだよ」信じてもらえるかどうか判らないが、そいつは嘴を左右に広げてにんまりと笑った。それで俺は話すことを諦めた。


キリストとフクロウがそうして俺を見下ろしていた。俺は自分のしたことに満足していた。もっとなにか、自分に出来ることがあるような気がした。けれどもう指先すら動かすことは出来なかった。





                            【了】