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イワシの頭も信心から

自称・浮遊人~碧田直のつれづれ日記

40年前の少年たち。

2005年02月06日 03時30分35秒 | つらつら日記
 先日、仕事先に向かう途中のスポーツショップで、ちょっとした人だかりができていた。駅構内にあるショップで、人の行き来は多いものの、こうして人だかりができるのは珍しい。どの人もスーツの上にコートを着込んだ50代中~後半頃のサラリーマンとおぼしき方々で、みないい笑顔で何かに見入っている。
 急いでいたので、立ち止まることはできなかったのだが、何だろうと目線をそちらに向けると、人だかりの隙間から、白黒の画面がのぞけた。よく見ると、それは力道山の試合だった。覆面を被っている対戦相手は、おそらく「白覆面の魔王」と異名をとったザ・デストロイヤーだったと思う。

 力道山対デストロイヤーといえば、力道山の晩年に名勝負を繰り広げたことで有名だ。力道山が刺された日に、実は呑みに誘われていたとデストロイヤーは述懐していて、翌日アメリカに帰国するために誘いを断ってしまったことを、今でも彼は後悔しているらしい。

 かつての映像を食い入るように見つめていた人々は、おそらくこの試合が行われた40年以上前に少年だったのだろう。日本国中が力道山の空手チョップに熱狂し、街頭テレビに黒山の人だかりができた時代を、直接は知らないけれど、プロレスが確実に人々の希望を背負っていた時代のスーパースターへの憧憬は、長い年月を経た今でも、心の奥にしっかりと息づいているのかもしれないと、彼らの笑顔を見て思った。

十数年ぶりに…

2005年02月02日 03時53分06秒 | つらつら日記
 さるいきさつで、某お絵かき掲示板にドラえもんを描いた。実に十数年ぶりにドラえもんを描いたことになるっけ。小学生の頃、コロコロコミックを愛読していて、表紙はほとんどドラえもんだったので、広告の裏の白い紙に、真似してしょっちゅう描いていた。二年生だったかの学年文集にも描いた記憶がある。たしか、ネズミに耳をかじられて真っ青になってしまうドラえもんを描いた(余談だけど、もともと黄色かったドラえもんが青くなってしまったのは、ネズミに耳をかじられ、好きだった彼女にその姿を大笑いされて、悲しくて悲しくて泣いていたら、青くなってしまった…とずっと思っていたのだけど、最近彼女に聞いたら、彼女は違うエピソードで覚えているらしい。彼女は二十代前半なので、世代別で違いがあるのだろうか)。ドラは描きやすくて好きだったなあ。

 さらに余談だけど、自分はジャイアン役の声優さんとお酒を酌み交わしたことがある。自分の人生で数少ない自慢だ。名前を呼ばれたときは、嬉しくて思わずほころんでしまった。優しい人だった。

馬場さんのこと

2005年02月01日 10時39分09秒 | つらつら日記
 昨日はジャイアント馬場さんの命日だった。
 馬場さんが亡くなってから六年がたった。訃報を聞いたときは「えっ」と言ったきり、しばらく言葉が出なかった。だってこの間まで試合していたのを観ていたから。翌日大きく掲載された新聞報道やニュース映像を見て、本当に亡くなったのだということを、少しずつ実感した。馬場さんが死ぬなんて考えてもいなかった。

 自分が馬場さんを知ったのは、たぶん現実の馬場さんよりも、アニメの「タイガーマスク」に出てくる馬場さんが最初だったと思う。まだプロレスファンではなかったけれど、このアニメは大好きで、毎日(再放送だったので、毎日だったと思う)観ていた。だから、現実の馬場さんを知るまでの間、馬場さんは若い頃、グレートゼブラというマスクマンをしていたと思い込んでいた。
 実際の馬場さんの試合を観たのは、もう少しあとで、十歳になる頃だった。その頃の馬場さんはまだ第一線で活躍していて、動きも溌剌としていた。十六文キックは相手の顎まで高く上がり、時には三十二文ロケット砲(めったに観られなかったけど)まで飛び出した。鶴田やファンクスと組んだりして、全盛期だったハンセンやブロディたちとガンガンやっていた。今思うとその頃の馬場さんは四十代そこそこではなかったかと思う。

 一番印象に残っている試合は、たしか中学生の頃だったかと思うが、ハンセンとのPWFを賭けた日本武道館(だったと思う)での選手権試合だ。この前の対決で、ハンセンのウエスタンラリアットをくらってピンフォールを奪われた前王者の馬場が、まさに絶好調のハンセンにリターンマッチを挑む、という構図で、正直衰えの隠せない馬場さんがタイトルを奪い返すなど、至難の業としか思えなかった。試合展開もまた、ほぼハンセンの一方的なペースで進み、実況アナウンサーも解説者も、悲鳴にも似た声をあげていた。もうダメだと思えた一瞬。
 馬場さんが、あの二メートルを越す身体を折り曲げ、ハンセンに鮮やかなスモールパッケージホールドを決め、ピンフォールを奪ったときの会場のどよめきと歓声は、今でも耳に焼き付いている。ハンセンを力で倒せないのなら、頭で勝つ。まさに意外性と説得力を併せ持った勝ちっぷりは、優れた体格と同様のスケールの大きなプロレスに隠れがちな、馬場さんのとんでもないプロレスセンスと、修羅場をいくつもくぐり抜けてきた経験を満天下のファンに知らしめた一戦だったと思う。

 その試合をピークにするように、徐々に馬場さんは第一線から退き、楽しいプロレスを展開するようになっていたが、時に三沢や小橋といった若い勢いのある弟子に胸を貸し、胸板を真っ赤にしながら、自分がまだ動けることを喜ぶように生き生きとプロレスをしていた姿が印象に残っている。

 馬場さんが生きていたらなあ、と思うことがたまにある。かつてUWFなどが台頭したころ、「みんなが格闘技に走るので、私プロレスを独占させてもらいます」というキャッチコピー(ターザン山本の作だったそうだが)で、葉巻を手に笑っていた馬場さんの姿を見たことがあった。プロレスが危機を迎えているといわれて久しい昨今、馬場さんはその持論どおり「プロレスはプロレスだ」と葉巻をくわえて笑ってくれていただろうか。

風邪が治らない~

2005年01月30日 13時08分18秒 | つらつら日記
なんかどうも風邪が治ってくれない。熱は平熱だし、食欲はいつもと同じようにあるし、だから始終動き回って、おとなしく横になっていないのがいけないのか、鼻づまりと軽い頭痛と倦怠感がおさまってくれない。
結局、片付けなければいけなかったことも、この風邪のせいで片付かなかったし(泣)、ブログの更新もなんだかんだと思うようにできない。まずは風邪を治したいのだけど、今日も夕方から出かける用事があって帰宅は深夜になってしまう。何とかしなければ。

昨日、新宿の紀伊国屋ホールで松尾貴史主演の舞台を観劇した。後藤ひろひとさんなども出演されていて、上質のコメディだった。観客は爆笑の連続で、やっているほうも楽しそうだった。二時間ちょっとの舞台だったけれど、あっという間に時間が過ぎた感じ。よかった。そのうち詳しい感想を「すぱっと観劇」で書くつもりだ。

外は快晴。けれど風が強いこと強いこと。ビュンビュン吹いている。出かけるまでにはおさまってほしいなあ…などと思いつつ、そろそろ昼飯でも作って食べるとしよう。何食おうかな。

あけましておめでとうございます

2005年01月04日 11時09分37秒 | つらつら日記
 31日の夜に実家へ帰郷。さっそくK-1を…と思ったら、一緒に連れてった彼女が「紅白観たい」と主張したので、やむなくK-1をビデオ録画し、紅白を観る。
 やっぱり全体的につまらなくなってるなあ、と感じる。会場で観るとどうなのかわからないけど、テレビで観るかぎりにおいては、広いステージに1人ポツンと歌手がいるという風に映る。バンドだとか、バックに人がいると気にならないんだけどな。昔(昭和50年代初め頃…古いなあ)は、もう少し狭いステージだったように思う。バックで紅白それぞれの楽団がいて、ちょうどいい臨場感だった。紅白旗上げのイベントも寒かったし、しきりにつまらん、を連発していて彼女に怒られるかと思ったら、先方も「つまらないね」と一言。だったら観るなよなー。唯一期待していたマツケンも満足度は50パーセント。やっぱり「暴れん坊将軍」の寸劇から入ってくれなきゃ。紅白のアナウンサー2人を襲う悪人たちを蹴散らし、誰何する連中に「余の顔を見忘れたか」という決めセリフをはき、そこで暗転。次の瞬間にキンキラキンの腰元が登場して「マツケンサンバⅡ」に突入、くらいやってくれなきゃなあ。
 視聴率も悪かったみたいだし、根本的に考え直した方がいいんじゃないかな。

 紅白終了のあと、さあK-1を…と思ったら、またも彼女が「ジャニーズ年越しライブ観たい」とのたまう。あのなあ…と抗議するも聞き入れられず、やむなく付き合うことにする。彼女は実は結構ジャニ好きだ。「今度の年末は観に行こうかな…」とか言う。歳考えてな。
 ほとんど興味なかったわりに、昔のヒットメドレーで、岡本健一だの佐藤アツヒロだの赤坂晃だの少年隊だの出てきたので、ちょっと楽しむ。連中も紅白で自分のファンでもないおっさんおばさんたち相手にするより、楽しいだろうなあ、と思う。

 で、それも終わり、彼女も寝に入ったので、のんびりとK-1を観る。ボビーとアビディは、結果としてどちらも傷つかずによかったかな、と思う。ボビーが勝ったとはいえ、KOでもないし、一週間前に参戦が決まったアビディがポジション取られても、しょうがないよなあと思えたし、K-1側は継続して参戦させたい意向らしいけど、ボビーが本当に格闘家として生きるつもりならともかく、そうでないのなら、こういうカードは謹んでほしいなあ…でも谷川さん、こういうの好きだからまた何か考えるんだろうな。
 魔裂斗とKIDは白熱した好勝負となった。こういうキビキビした動きの攻防は、観ていて楽しい。金的が入ってしまったアクシデントもあったけれど、観客も沸いていたし、よかったと思う。勝った魔裂斗、負けたKIDともに株が上がった試合だった。こういうのがあると興行が締まる。
 サップとバンナは予想通りかな。相変わらず気持ちの弱さをサップは見せる(打たれて背中を向ける)も、最後まで試合を捨てなかったのは評価できるかな。ただ、技術的には観るべきものは何もなかったし、バンナも総合は初心者レベルだった上、倒せなかったので、試合そのものはそう面白くもなかった。
 メインは…何も語りたくないなあ。あえて言うなら、曙は日常生活の半分でいいから頭使って戦ってほしい。ホイス相手に寝技勝負を挑んで勝てるわけないのは、誰だってわかってるのに、何で引き込もうとするホイスにつきあってグラウンドに突入すんのかな…踏みつけたっていいし、距離をとってしきり直したっていいのに。曙の勝利パターンなんて、スタンドで張り手かまして、サバ折りなり、意識が飛んだホイスをタコ殴りにするくらいしかないだろうに…勝ちたくないのかな、と思ってしまった。もはや商品価値はないに等しいけど、やるなら気持ちを入れ替えてやらないと。ナメてかかってるのがファンにも相手選手にもバレバレだから、いずれにせよ、次どうしようもない戦いしたら、さすがに試合組まれないと思う。だからといって、この状態でプロレス転向もやめてほしいけど(受身のできない曙が転向したら、結局パワー見せ付けて勝つ筋書きしか作れないし…そしたら真面目にプロレスしてるレスラーが気の毒なので)。
 楽しみにしてたわりには、文句タラタラで、でもやっぱりなんだかんだと楽しみつつ、新年を迎えた。

 元旦は特に何をするでもなく家族と過ごす。父親が定年になってから、時間の使い方がわからなかったようだけど、どうやら2人ともDVDを観ることを学んだらしい(笑)。父親は映画、母親は韓国ドラマ(笑)。特に母親は、世のおばさまたちと同様、ヨン様にはまってた…というか韓流スターにハマって本は何冊も買い込んでるし、サントラは何枚も持ってるし、DVDは何枚も借りるし…という韓流生活を送っているらしい。おせちにキムチ料理が出てこなかったのが不思議なくらいだ。まあ、熱中できるものがあるというのはいいことだと思うので、ほおっておくことにする(笑)。
 2日は箱根駅伝を見て(半分地元の東海大が往路優勝する時代がきたんだなあ…大学は平塚になるんだけど、最寄駅は地元にあるので、ほぼ地元)、それからデパートで買い物。母親と彼女がコンビとなって服を買う。それなりに仲がいいので一安心。ついでに自分もジーパンを買う。
 夜になって、実家を離れ、我が家へ帰り着く。

 昨日は、彼女が彼女のおかあさんと買い物に出かけたので、一日1人で過ごす。忘年会からずっと酒が抜けてなかったので、禁酒日にしてのんびり番組をザッピング。相変わらず細木数子さん偉そうだ。朝青龍がお化け屋敷みたいなドッキリに腰を抜かしてたのには思い切り笑わせてもらった。天下の横綱も土俵を離れたら愛嬌があっていい。
 9時からボクシングを観る。予想してたことだけど、またも日本人選手のテクニック不足が浮き彫りになる。現在のポイント傾向は、手数重視に趨勢が傾いているから、それに対応しないと勝ちにくくなっている。プロだから倒しに行くのは当たり前、と思っているのは日本人選手とファンだけで、海外の選手は勝つために最善の方法をシビアに選択するから、まずラウンドのポイントを取りにくる。ボクサータイプ、ファイタータイプと違いはあれど、ジャブないしリードブローで距離を測りつつ、ガードの上からでも積極的に手を出してくる選手が多い。日本人選手は、昨日のトラッシュ中沼も川嶋も、まずブロックあるいはかわしてから打とうとする。それはそれで構わないのだけど、手数が圧倒的に少ない。倒そうと考えるあまり、大振りになるし、ヒットしてもオープン気味に当たるので威力も見た目ほどにはない。これは技術が足りないから、そうした戦法をとらざるを得なくなるわけで、根本的に考え直さないと、日本ボクシング界はダメになっていくと思う。各ジムに選手育成を任せるだけでなく、日本ボクシング協会が、強化指定選手のような制度を作り、資金提供をして海外で経験を積ませるとかしないかぎり、全体レベルは上がっていかないと思う。個人競技とはいえ、底上げをしていかなければいけないのは、どの競技でも同じことだ。
 あと、テレビ局の対応も気になった。生中継でフルラウンド放送してくれたことはよかったけれど、負けたばかりの中沼に、リング上で進退について質問するのは、デリカシーがなさすぎると思う。結果はどうあれ、精一杯戦って敗れた選手には、何も聞かないであげてほしい。「敗者には何もくれてやるな」という格言には、いたわりの意味も含まれていると思うんだけどなあ。

 というわけで、これといって何もない三が日。正月気分も次第に抜けてきたし、また忙しい日々がはじまるわけで、エンジンをかけ直していこうと思う。ブログも頑張って更新していくのでよろしく。

年の瀬ですね

2004年12月31日 15時15分47秒 | つらつら日記
 29日に宴会を我が家でやって、一升飲んだせいで(笑)、昨日は二日酔いでした。正直まだ頭が痛い(笑)。書くつもりだった「格闘技とメディア」は年明けにアップ予定。相当に長くなりそうな予感。それでは、2日まで実家に帰るので、皆さんよいお年をお迎えください。

猫の会議

2004年12月22日 13時14分22秒 | つらつら日記
 格闘技コラムが続いたので、ちょっと休憩の意味を込めて(笑)。

 先日、深夜に最寄り駅から自宅まで彼女と歩いていたときに、前を猫が横切った。黒と白のブチで、茶色も混じっていたか。こちらをチラッと見て、ほんの少し歩を止めたので、自分と彼女もその猫を見た。
 自分も、そして彼女も猫が大好きだ。彼女の実家では猫を飼っているし、自分は猫を飼ったことがないけれど、あの気まぐれな性格が自分と波長が合うのか、猫を見るとホッとする。かまおうとすると、スルリと逃げていくのも、なんだかイイなあと思う。
 …話がそれたけど、とにかく、その猫はほんの少し自分たちと目を合わせて、プイッと歩いていった。よくあることなので、しかたなく二人が歩くと、通りの曲がり角で、その猫が立ち止まっている。声をあけたところ、こちらを振り向きはするのだけど、どうも自分たちの相手をしようというわけでもないらしい。
 何だろう、と思っていたときに、彼女が曲がり角の向こうの道に、もう一匹の猫がいるのを見つけた。道の真ん中にポツンと座っている。と、その猫を発見したと思ったら、塀を渡っている猫もいる。脇にも別の猫が。最初に自分たちが遭遇した猫がそちらをしきりに気にしている。自分は目が悪いのでよくわからなかったが、他にもたむろしている猫が数匹いたらしい。猫の会議に遭遇したのだ。
 最初に会った猫は、自分たちを気にするそぶりを多少見せたけれど、やがて足早に会議の場へ行ってしまった。街灯がついて明るくなっている場所があって、そこに何匹もの猫が集結している。彼らは寝そべったり、尻尾を上下に振ったりしながらのんびりしている。
 もう少し眺めていたかったのだけれど、深夜で眠かったのと、彼らの世界に踏み込むのが悪いように思えて、自分と彼女はその場をあとにした。

 帰り道、二人で猫の会議について話した。猫が会議をすることは、誰でも知っている。何かを話しているのか、あるいはお見合いしているのか、それとも別の意味があるのか、それはわからない。自分が不思議なのは、彼らが、どうやって会議の場所と時間を知るのか、ということだ。猫は時間がわかるというけれど、何月何日の何時にここで、といったような複雑な情報伝達はできないだろうし、それをふれて回るようなスポークスマンもいないはずだ。なのに、彼らは偶然集まったというわけでもなく、目的を定めてやってきている。
 作家の安部譲二氏によれば(氏は、世界でただ一人猫語のわかる男らしい)、猫は鳴き声だけではなく、全身を使って喋るそうだから、何もしないでゴロゴロしているように見えても、会話はしているのかもしれない。けれど、それでは会議の日時と場所を指定するのは無理だろう。それはどうやってやっているのだろうか。

 二人で不思議だ、不思議だと話し合っていたら、別の猫と遭遇した。低いコンクリートの塀の上で、じっと座っている。こちらが立ち止まると、気配を感じたのかその猫も自分たちを見た。この猫も会議に参加する予定なのかと思い、そっと近づこうとしたけれど、すぐに逃げられてしまった。会議している場所とはまったく別の方向だ。ほんの数十メートルしか離れていないというのに、彼(彼女)は会議の参加者ではないらしい。
 猫は個々に縄張りを持っている。さらにひょっとすると、町内会もあるのかもしれない。二度目に遭遇した猫は、別の町内会に所属しているのだろう。昔、『じゃりん子チエ』というマンガに、ヤクザもいれば方言もある猫の世界が描かれていたけれど、どこか彼らには神秘的なところがある。自分たちはその神秘さに惹かれているのかもしれない。また、猫の会議に遭遇したいものだと思う。

久々にテレビを見る

2004年12月12日 04時04分45秒 | つらつら日記
 久しぶりに夜のんびりできたので、こたつに入りつつテレビを見た。気軽に見られるものにしようと思っていたのだけど、番組をザッピングして選んだのは詐欺や悪徳商法などの被害者ルポだった。いわゆる「オレオレ詐欺」や、デート商法に引っかかった男性のエピソードなど、実体験にもとづいた再現VTRを交えて対処法を探っていく番組だった。

 独身男性なら一度は経験があるかと思うけど、実は自分にも、アダルトサイトを見たと架空請求のハガキが届いたことがあった。自分の場合は実家に届いたため、両親が大層びっくりして、すぐ連絡をしてきた。特に身に覚えもなかったので、言下に否定し、同様のハガキが届いても相手にしないようにと念を押した。後日、そのハガキとやらが両親から届いた。文面を見ると、自分がアダルトサイトを散々利用しておきながら、料金を踏み倒していること、度重なる催促も無視していることなどが書かれており、最後に、債権回収を引き受けたという会社の連絡先が記してあった。
 その連絡先は、個人の携帯電話の番号で(笑)、しかもご丁寧に六人ほどの名と番号が記されていた。その六人すべてが自分の担当なのか、自分も大物になったもんだと(笑)思い、そのハガキはビリビリに破って捨てた。

 番組で紹介された手口は、こんな稚拙なものではなく、もっと巧妙で、かつ大胆なものばかりだった。ターゲットの予定をあらかじめ調査して、その日の早朝ゴルフに出かけたことを熟知した上で、家族にターゲットが追突事故を起こした、と電話をかける。あるいは、純情な青年に恋愛感情を抱かせ、それを利用して何度も高い宝石を買わせる。まさに悪知恵としか言いようのない手法を、あの手この手と駆使してお金を巻き上げるのだ。

 こうした詐欺行為の魔の手が、両親に及ぶのを自分は危惧している。父親は慎重かつ疑り深い人だけれど、番組ではむしろ、疑り深い人のほうが危ないケースが多いように感じた。疑り深い人というのは、自分が納得する理由を提示されると、簡単に信じてしまうことがよくあるらしい。自分も多少そういうところがあるから分かる気もする。自分は催眠術にかからない、と思い込んでいる人にかぎって、あっさり催眠術にかかってしまうとの例もあるように、詐欺なんて引っかかるわけがない、と思い込んでいる人に限って、罠に落ち込んでしまうことがあるかもしれない。本人だけならまだしも、両親も巻き込むなど、出来心の範囲をあきらかに逸脱している。機会を見計らって連絡をとらなければ、と思う。

 ちなみに、詐欺師や呼び屋など、ひと癖もふた癖もある人々を書いた、安部譲二著「欺してごめん」という本がある。なかなか面白い。よろしければ一読あれ。
 

鎌倉へいく・その二

2004年12月09日 16時09分02秒 | つらつら日記
 ビビンバに舌鼓をうち、残り滞在時間四時間を切ったところで、ようやく紅葉散策へと出かけることにする。今年は例年よりあたたかいせいか、木々が色づくペースが遅いようで、鮮やかな紅葉を見ることは難しそうだけれど、いろいろな寺を回るだけでも楽しいものだ。

 鶴岡八幡宮を素通りし、宝戒寺や鎌倉宮を目指す。鎌倉というと、源頼朝や北条氏をすぐに思い起こすけれど、実は足利関連の寺も数多くある。宝戒寺は北条氏の霊を弔うために、後醍醐天皇が足利尊氏に命じて建立させた寺で、九月中旬あたりになると、白萩で本堂に続く石畳が埋めつくされることで有名だ。
 百円払うと、庭園だけでなく本堂の中も拝めるので、入ってみる。地蔵菩薩像が安置されていて、その前には、太いろうそくが何本も置かれていた。拝観に訪れた人が、ここに願い事を書き、それに火をつけることで願いが叶うというものらしい。二人で協議した結果、とりあえず拝むだけにする(笑)。ノートが置いてあったので、書き込みをして宝戒寺をあとにした。

 次の目的地は鎌倉宮だ。鎌倉宮は、明治に入ってから建設された、比較的新しい建物で、護良親王が祀られている。ここは鎌倉アルプスと呼ばれる山道を歩くハイキングコースの入り口になっている。
 鳥居をくぐって、敷地内をまっすぐ進むと、途中に杯と二つの石がある。これは、杯に息を吹きかけて、体内の厄を移し、それを石に投げつけて割ることで厄を払う、というものだ。二人ともこういうのは大好きなので、さっそくお金を払ってやってみる。普通は一息を長く吹きかけて厄を出すのだけど、彼女は欲張りだからか、何度も何度も吹きかける。厄も出るだろうけど、幸も出てしまいそうだ(笑)。
 気の済むまで吹きかけたら、杯を石に投げて割る。よく見ると、石の周りに砕けた杯が散乱している。肌色の杯が綺麗に敷き詰められているようだ。
 鎌倉宮は、厄払いがメインなのか、やたら厄を払う売り物が目についた。なかでも、身代わりお守りは、かえるの絵が書き込まれていて、何かあったときに、身代わりとなってくれるらしい。「買う?」と彼女に尋ねられたけれど、実はかえるがちょっと苦手なので、断固拒否して鎌倉宮をあとにする。

 そろそろ時間は二時間を切ろうとしていたので、見られるお寺もあと一箇所だな、と決めて、次の瑞泉寺に向かう。瑞泉寺は、1327年に建てられたというから、ざっと計算しても七百年近くの歴史あるお寺だ。ハイキングコースにさしかかっているので、家々の周りを木々や草花が生い茂っている。
 拝観料を払い、まさに自然いっぱいの砂利道を歩いて、本堂につながる石階段を登ると、見事な梅の木が何本も植えられた庭園に出る。四季折々の木々が植わっているとのことだけど、ここで目をひくのはやはり梅の木だ。吉田松陰の留跡碑や、高浜虚子の句碑などを見て回る。ここは、水戸光圀も仕事場に使ったそうで、さまざまな時代の偉人たちの足跡が、そこかしこに感じられておもしろい。
 休憩用のベンチが設けられている場所から遠くを眺めると、うっそうとした木々と美しい空が目に飛び込んでくる。ほんの数分歩けば人里になるというのに、それをまるで感じさせない。天界にいるような気にさえさせる不思議な場所だ。彼女も同じことを考えていたのか、二人で何も言わずに景色を眺めていた。

 瑞泉寺をあとにし、やってkたルートとは別の道を通って、鶴岡八幡宮にまでたどり着く。残り時間は一時間を切っていて、余裕をもって東京に戻ることを考えたら、そろそろ鎌倉を発ってもいい時間帯だ。けれど、若宮大路を駅へ向かって歩いていく途中で『むらさきいもソフトクリーム』の文字が目に飛び込んできたので、やっぱりシメはこれを食べなければ、と即決して店内へ。彼女はむらさきいもソフト、自分は抹茶といものミックスを注文する。濃厚ないもの風味と、さっぱりした抹茶の組み合わせがおいしい一品だった。満足。

 時間もちょうどよかったので、横須賀線に乗り、鎌倉をあとにする。二人とも大満足の鎌倉行きだった。次は春に訪れてみたい。四季によって様々な表情を見せる鎌倉が、だから自分は大好きなのだ。

鎌倉へいく・その一

2004年12月07日 14時39分01秒 | つらつら日記
 先週、彼女と二人で鎌倉へいってきた。現在住んでいるところからは、直通で行けるということもあり、ずっと行きたいと思っていたのだけど、なかなか機会がなく、訪れるのは一年半ぶりだ。
 自分は神奈川で生まれ育ってきたせいか、鎌倉は特別な土地だ。祖父が生きている頃は、親戚一同で元日の初詣に鶴岡八幡宮に詣でしたし、大学生となってからは、友人や後輩たちとたびたび訪れた。仏教系大学だったために、寺の跡取りや仏教に興味を持っている人間が多く、彼らと一緒に仏像を拝んだり寺を回っているうちに、何度も来て知っているはずの鎌倉に、まだまだ気づいていなかった魅力がたくさんあるということに気づいた。正直、子供の頃はあまり好きとはいえなかった鎌倉が、いまでは大好きな土地になっている。

 今回の目的は、まず紅葉を楽しむためだった。鎌倉の紅葉は寺などの風情あるたたずまいと相まって芸術的ですらあり、見るたびに新しい発見がある。彼女のほうはというと、紅葉はもちろんだけど、有名なむらさきいものソフトクリームを食べることを楽しみにしていた。ここだけの話だけど、彼女は花より団子の人だ。
 駅に着き、小町通りに入る。ここは、道の両側に個性的な店が連なる鎌倉ショッピングのメインストリートだ。彼女がジブリのキャラクターグッズを売っている店に入っていったので、付き合って入る。トトロの動くオルゴールやら、スケジュール手帳やらを見たのち、店を出る。
 そのまま小町通りを直進していると、わき道からアイスを売っている店が覘いているのを彼女が発見した。「アイスが食べたい」と、昼食も食べていないのに主張するので、たしなめようかと思ったときには、本人はもう店の方に向かっていた。やむなくついていく。

 そこは、いくつかの小さい店が軒を連ねる広場のようになっていて、それぞれコーヒーやアイスやクレープを売っていた。やむなくとはいえ、自分もキライじゃないから、せっかく入ったのだからと真剣にどの店にしようか協議した末に、イタリアンジェラートを売っている店に決める。
 店には、人の良さそうな店主と、笑顔のかわいい女の子がいて、「日本で初めて本格ジェラートを出す店なんです」と説明してくれる。ジェラートというのは、イタリアのアイスだと単純に思っていたのだけど、そこでは、シチリア方式とかで、あったかいパンにアイスをはさんだものをいただくらしい。そのパンも三種類にわけられていて、好みによって決めることができる。彼女は少しパン生地が固く噛み応えがあるものに、チョコレートアイスをはさんだものを注文。自分は一番柔らかい生地に、イタリアンバニラをはさんだスタンダードなものを注文した。
 ジェラートを受け取り、近くに設けられたベンチに座って、パンと一緒にアイスをほおばる。熱々のパンに冷たいアイスの組み合わせが、何とも不思議なおいしさだ。生地もとても柔らかくて、ふっくらしている。彼女の方はというと、歯ごたえ抜群の生地と、チョコレートの渋みが、深みのあるおいしさを作り出しているようで、やはり目を輝かせてほおばっている。結局、花より団子の二人なのだ。

 大満足でジェラートを食べ終えて、ふたたび小町通りを歩く。実は、鎌倉に来ると必ず寄る店が自分にはある。煎餅の店一番館がそれだ。自分は煎餅が大好きで、これは祖父にしっかり躾けられた。一緒に住んだことはなかったけれど、祖父の家にいくと、必ずといっていいほど煎餅があり、それをバリバリと食べるのが何よりの楽しみだった。ごまの入ったやつが特に好きで、子供の頃、あるだけのごま煎餅を全部たいらげたら、めったに怒らない祖父にひどく怒られた。どうやら祖父の大好物だったらしい。そういえば、祖父は初詣に鎌倉に来ると、何より昼ごはんにそばを食べることを楽しみにしていた。祖父も花より団子の人だったようだ。
 一番館は小町通りにあるので、さっそく訪れる。お土産用の煎餅を買うことがほとんどなのだけど、この日は夜に別の場所を訪れる予定もあり、軽装ですませようと思っていたため、一枚五十円で売っている焼きたての煎餅を二枚注文する。熱々の煎餅をバリバリ食べる。

 軽く腹に食べ物を入れ、かえって胃が刺激されたのか、二人ともお腹が空く。時間も昼時だったので、昼ごはんを食べようということになり、手ごろな値段の食べ物屋を探す。鎌倉は、下手をすると一食ウン千円もするような店しかない地域があったりするけど、小町通りと、隣接する若宮大路は、割とリーズナブルな値段で食べさせてくれる店が多い。
 八幡宮からぐるっと回って、駅方面に少し歩く。途中、むらさきいもソフトクリームを売る店の前を通過する。彼女が食べたそうなそぶりをしたけど、まずは昼を食べないことには始まらないので、多少の未練を残して通過…しようと思ったら、彼女がふと足を止めた。どうしたのかと思って、その視線の先に目を向けると、そこには『石焼きビビンバ』の文字が。例のソフトクリームを売っている店がどうやら、石焼きビビンバの店もやっているらしい。
 鎌倉に来て石焼きビビンバか…と思う向きもあるだろうけど、二人ともミスマッチが大好きなので、喜び勇んで店内へ。うきうきしながら注文する。彼女は石焼きビビンバユッケ盛りを、自分はスタンダードなビビンバをそれぞれ頼む。ややあって運ばれてきた料理をいただく。おいしい。彼女は石焼きビビンバを食べるのが初めてらしく、焼き飯のように食べる風味豊かな味が気にいったようだ。自分は焼き飯が少し苦手なのでスタンダードなものにしたのだけど、それでも満足できる味だった。

 食べ終えて店を出ると、二時を回っている。六時には東京に戻っていなければいけないので、残り時間はあと四時間。果たして紅葉は無事に見られるのか。むらさきいもソフトクリームにはたどり着けるのか。煩悩と希望の行き着く先に待っているものは? それは次回をお楽しみに。

好きな漢字

2004年12月05日 04時49分44秒 | つらつら日記
 トラックバック練習版のお題は「好きな漢字は何ですか?」だそう。たしか『ダーリンは外国人』のトニーは「華」だった。では自分は…といろいろ考えを巡らせてみたところ、「凛」という言葉が頭に浮かんだ。三島由紀夫もこの字が好きだと言っていたような記憶があるけど、何かこの言葉には「意志」を感じて好きだ。

 さだまさしの唄で「風に立つライオン」というのがある。遠くアフリカの地で、現地の人々への治療を続ける日本人医師が、かつて付き合っていた女性に宛てた手紙という形で歌われている名曲で、そのなかで「僕はいまを生きることに思い上がりたくないのです」「僕は風に向かって立つライオンでありたい」という歌詞があって、そこが大好きだ。向かい風にあえて立つ姿勢には「凛」とした意志を感じる。困難に対して、いや困難だからこそ立ち向かおうとする姿こそ、人間の美しさかもしれない。「凛」という漢字には、人が人としてある素晴らしさがあるように思う。

…お題にはまるで関係ないけど、自分の高校時代の古文の先生は、自分の本名をしょっちゅう別の読み方で呼んでいた。何度訂正しても「そういう読み方もある」といって聞いてくれなかった。そのことを父親に話したら、なんと父親が中学時代に教わった人らしく(地域がまるで違うのに)、その先生が、かの金田一京助の一番弟子だったと豪語していたことを教えてくれた(授業中にチョークをぶつけられたことも教えてくれた)。
 先生に父親のことを尋ねたところ、案の定とでも言うべきか、父親のことを覚えてはいなかったけれど、代わりに、当時学校をシメていた伯父のことはハッキリ覚えていた(苦笑)。伯父にはずいぶんいじめられたらしく、先生は一度大学に戻り、勉強しなおして再度教師として赴任したらしい。伯父に確認したところ、キレイさっぱり忘れていた。やった方よりやられた方がよく覚えているものだ。きっと先生も、自分のことは覚えていないだろうけど、自分は名前を間違えられ続けた記憶とともに、先生のことを懐かしく覚えている。

幸せだ、と感じるとき

2004年11月28日 11時00分36秒 | つらつら日記
 久々にブログ練習版に書き込みしてみようと思う(というか…お気に入りと言えるほどのサイトもなかったし、思い出の海外旅行って言われても、海外に行ったことないし…というか飛行機も一回しか乗ったことないや)。ざっと箇条書きにしてみようかな。

・おいしい料理を食べたとき(自分が作ったものなら、なお嬉しい)
・すっきりした目覚めができたとき(意外と難しい)
・柔軟運動で以前より柔らかくなっている自分を発見したとき(まだ発見できてないけど)
・好きな芝居に携わっているとき(楽しさが勝っているかも)
・格闘技をはじめとしたスポーツを観ているとき(大相撲が終わるとK-1が待っている)
・ウクレレを弾いているとき(はじめたばかりで下手だけど)
・音楽、読書や映画を鑑賞しているとき(のんびりできる)

 …何か「いい人」を演じてるようで、すわりが悪いけど(笑)、こんなところかな。彼女のことは恥ずかしくて書けない。とりあえず感謝はしてます。

 幸せって何だろうと、時々思う。一〇〇人いれば一〇〇通りの感じる幸せがあるのだろうし、誰かの幸せが誰かの不幸につながることもある。先日、とある番組で内戦の続くコンゴのストリートチルドレンの現状を観た。目の前で両親を殺され、自身はレイプされた少女や、「処女と交わるとエイズが治る」という迷信に乗せられた男達に襲われ、尿道のコントロールができなくなってしまった三歳の少女など、およそ日本の常識では考えられない目に遭った人々がそこには映っていた。
 彼女たちを襲った男達が味わったであろう(こう呼ぶことに抵抗はあるけれど)幸せは、彼女たちにとっては地獄だったに違いない。誰もが幸福に生きる権利があるとは、よく言われることだけれど、現実でそれを達成することは、とても難しい。だからといってあきらめたりせずに、自分にできることを頑張りつつ、人も自分も幸せになれたらいいと思う。

紅白歌合戦のこと。

2004年11月26日 11時36分43秒 | つらつら日記
 先日、紅白歌合戦出場歌手のラインナップが発表された。SMAPの辞退やら松平健の初出場やらで紙面を賑わせているなか、韓流ブームの火付け役となったペ・ヨンジョンの何度目かの出演交渉に臨むのではないか、という記事があった。彼には「紅白はバラエティショー」と出演を断られており、現在来日中ということもあって、一縷の望みをかけての再交渉をする腹づもりのようだ。それもこれも、視聴率のためだという。

 子供の頃、紅白は自分の家族が行う年末行事の一環だった。レコード大賞から紅白への流れで見ていたのだけど、日頃音楽に興味がない父親が、紅白だけは何も言わずに見た。当時、他の局で何の番組をやっていたのかまるで覚えていないほど、紅白は一年納めの大事な行事だった。
 中学から高校生になる頃、ロックバンドやアーティスト系のシンガーなどの紅白辞退が相次いだことがあった。「紅白なんてダサい」という感覚で、出ないことがステータスであるかのような言動がカッコよく映り、自分も「そうだ、紅白はダサい」と思っていた。

 いま自分が思っているのは、「紅白は大丈夫か?」ということだ。まず威厳がなくなった。韓流のスターが出るのは別に構わないと思うけど、一度はっきり断られたものを、再度頭を下げる必要がどこにあるというのだろう。まして相手は歌手ではなく、俳優だ。せいぜいが審査員か、ステージ上での挨拶がいいところなのに、それでも出て欲しいというのは、浅ましさだけが見え隠れする。
 「紅白はダサい」と思っていた頃、それでも紅白は対立概念として、はっきりあった。16、7の生意気盛りだった自分には、体制におもねったように喜ぶ出場歌手(彼らが本当にそうだったわけではなく、自分の目にはそう見えていた)より、あえて反体制を貫こうとするアーティストたちの方が、よほど自分たちと向き合っていると感じられた。それは裏を返せば、それだけのステータスを紅白がまだ持っていた、ということの証明に他ならなかったわけで、紅白は、厳然として、紅白だった。

 今回出場を辞退したアーティストの誰一人として、そういう視点で紅白に出なかった人はいないように、自分には映る。スケジュールが合わなかった、新曲がない等々、理由は様々だろうけど、共通しているのは、紅白を特別視していないという点だ。数ある音楽番組のひとつとして紅白があり、スケジュールやその他の事情と照らし合わせて、出場を見送った、という印象がある。紅白に出ることが名誉だった時代とも、出ないことがカッコよかった時代とも違う、スケールダウンした紅白の実情が浮き彫りになっている。

 かくいう自分も、紅白は見ないだろう。いや、松平健だけは何があっても見るつもりだけど、かつてのように一年納め、という意識で見ることは多分ない。同時間帯で行われる格闘技イベントや多局の番組と同じように、NHKという局でやっている歌番組、として見るだろうと思う。それはどこか親の背中を見失ったようで寂しい気分にもなるけれど、紅白歌合戦はその役目を静かに終えようとしているのかもしれない。

 …ちなみに格闘技番組はPRIDEをビデオ録画し、K-1をちらちらと観るつもり。彼女が格闘技嫌いなので、案外紅白をずっと観てるかも(泣)。

せめて年相応に

2004年11月12日 13時55分56秒 | つらつら日記
 最近、定期的に体を動かしている。週二回ではあるけれど、柔軟をはじめとして、腕立て伏せ、腹筋、背筋などの筋力トレーニング、それにプラスしてランニングをするときもある。学生でなくなってから十数年、どうして再び体を動かしはじめたのかというのは、一言では説明しづらいので割愛するが、一応「老後の健康のため」と人には答えることにしている。

 実際に動かしてみて閉口したのは、想像以上に体が硬くなっていることだった。もともととんでもなく体が柔らかいわけではなかったとはいえ、開脚もしっかり出来たし、後ろにだって体がしなった。それが、開脚して上体を倒すつもりが、ほんの少しだけしか倒れなくなっている。後ろに体を曲げているつもりが、まるで曲がっていない。しかも腰に激痛が走る。まだ三十代にさしかかったばかりだというのに、この硬さは一体どういうことだろうと、首をひねってしまった。

 これまで、自分は肉体年齢が若い方だと思っていた。いや、若いことは若いつもりだ。自分の故郷は盆地で、駅から実家までのんびり歩いたら三十分はゆうにかかる距離がある。しかも上り下りのめまぐるしい起伏の激しい道を、ほとんど毎日通っていたのだ。歩くことには自信があったし、それは今でもある。腕立てや腹筋に関しては、最初の一~二回目こそキツかったが、現在では楽々と種類の異なる運動を合計百回くらいはこなせるようになった。
 筋力は鍛えればある程度は女性でもつく。歩くこともそうだ。筋力と心肺機能は、明日すぐにとまではいかなくても、定期的にやってさえいれば、一ヵ月後には目に見えて良くなっている。しかし(そう、しかしなのだ)、体の柔軟性だけはそうはいかない。少なくとも自分の場合は。

 意識もしないのに口からもれる呻き。開脚して、パートナーから背中を押してもらうと、口をついて出る罵詈雑言。誰に、というわけではなく、硬い自分へのもどかしさと、柔軟特有の息苦しさ+じわじわとした痛みに、何か言わずにはいられない。筋力トレではなんともないのに、柔軟でぐったりとして息が切れているのはどうしたことだろう。一緒に練習している何人かのうち、一番柔らかい子にいたっては、180度開脚して、上体をぴったり床につけることができるので、悔しさを通り越してあきれることしかできないが、その子は例外としても、あきらかに自分は劣っている。いや、衰えているのだ。

 人それぞれ「年を取ったなあ」と感じる瞬間があると思う。流行の歌がどれもこれも同じように聞こえた瞬間、昨日のことをさっぱり思い出せないのを自覚した瞬間、階段の昇り降りで息が切れた瞬間、おなか回りの脂肪がつまめるようになった瞬間。そのどれもこれも切り抜けてきていたのに、柔軟で自分は引っかかった。年を取っていた。
 けれど、あきらめたくはない。もう一度十代の頃の柔軟性を、などと高望みはしないけれど、せめて年相応の柔らかさは持っていたい。遅々として進まない現実に、投げ出したくなる時もあるけれど、ほんの少しでも柔らかくなっていると信じたい。信じなければやっていけない。

 衰えを実感させられる絶望と、柔らかくなるかもしれないというわずかばかりの希望を持って、自分は今日も体を動かす。わずか一ミリでも柔らかくなれたときは、飛び上がるほど嬉しい。この嬉しさで年を取ったことを実感させられるのだけど(十代の頃は、そんなことで嬉しいなどとは思わなかった。当たり前だったから)、それでもいいじゃないか。嬉しい。それだけでいい。