現在フジテレビで再放送されている『Drコトー診療所』を見た。末期ガンに侵されて、余命いくばくもない老人と、彼を取り巻く人々が、生命の終わりをいかにして迎え、そして受け止めるかを切々と描いた回だった。
「命は神様に。病気は先生に。命のことは神様にしかわからん。だから、病気のことは先生にお願いします」と頭を下げる老人に、満足な設備がないことを承知で手術に踏み切るコトー。しかし、ガンの転移がコトーの予想を大きく外れて悪く、何もできないまま、コトーは老人が死を迎える瞬間まで、あたたかな日々を過ごせるようにとりはからう。老人は二ヶ月あまりを慣れ親しんだ自宅で過ごし、やがてろうそくが燃え尽きるように最期の時を迎える。老人がコトーに遺したものは、丹精こめて収穫したスイカと、丁寧にこしらえたわら草履…それは、彼の人生で胸を張って誇れるもの…彼の歩んできた人生そのものだった。
ドラマを見ながら、二年前に亡くなった祖父のことを想った。祖父も、ドラマの老人と同じくガンで亡くなった。晩年は声を失い、わずかな筆談で意志を伝える他は、ずっと空を眺めていた。最後の二年をほとんど病室で過ごし、『人生の役目はもう済ませた』とよく紙に書いてよこした。
父方の祖父は親父が三歳のときに亡くなっており、祖母は自分が一歳になる前に亡くなっている。母方の祖母も病気がちな人で、十歳のときに亡くなったため、自分にとって祖父母といえば、この祖父のことがまず思い浮かぶ。大正四年に生まれた祖父にとって、自分は初孫だった。名前は祖父と父で話し合ってつけてもらった。一緒に住むことはなかったけれど、車で二十分ほどの距離に住んでいたので、よく出かけては、いろいろな話をしてもらった。
健康そのもので、足腰も丈夫だった。七十歳を過ぎてから、富士登山に挑み、楽々頂上にまで登った。読書が好きで、テーブルにはいつも読みかけの本が何冊か置いてあった。真面目で厳格な人で、食事のしつけには人一倍うるさかった。歴史に詳しく、尋ねれば何でも教えてくれた。そんな祖父が大好きだった。
そんな祖父がガンに侵され、日に日に衰えていく姿を、見舞いのたびに見るのが、とてもつらかった。行かなければ、と思いつつ、忙しいことを口実にして、しばらく見舞いは両親にまかせた。余命いくばくもない、と聞かされて病室に赴いたときには、病室内のトイレに行くことにすら苦労するほど足腰が弱り、しゃんと伸びていた腰は曲がっていた。
それでも、毎日櫛で髪をなでつけ、ヒゲをちゃんと剃っている、と聞かされ、祖父らしいと思った。折り目正しくすることを、何よりも大事にした人だった。
亡くなったとき、親族それぞれは、一様に微笑んでいた。長い間の闘病生活は、さぞつらかったろうと。やっと楽になれた、という想いが、一人ひとりにあった。
形見分けのとき、生前、祖父が自費出版した本があったことを思い出し、押入れの奥に入れてあったのを引っ張り出して、読んでみた。そこには、祖父が会社内で孤立し、同僚の金を盗んだなどと、あらぬ疑いをかけられて自殺まで考えたことや、それがもとで精神病院に入れられてしまったことなどが綴られていた。
精神的に何の異常もないのに病院に入れられた祖父は、退院後、あからさまな配置換えで閑職に追いやられ、子供たちに満足な教育を受けさせてやらなかったことを悔やんでいた(母親は夜間高校に合格したが、結局行かせてもらえなかった)。定年後も、近所の人から疎外され、つらい思いを抱えていたことを、自分は初めて知った。
祖父の人生は何だったのだろうと、時々思うことがある。生母に死に別れ、継母の連れ子に遠慮するカタチで奉公に出た少年時代、戦争に巻き込まれ、軍需工場で働きながら、空襲も経験した青年時代を含めて、祖父はずっと苦しみを抱えて生きてきたように思える。
疑いの目と謗りのなかで生きた年月を振り返って『人生の役目は果たした。思い残すことはない』と、どうして断言できたのか、自分にはわからない。わかるのは、祖父が、他人のものを盗むような、そんな人ではなかったということだ。これからの人生で自分は、祖父の言葉の意味を、少しずつわかっていきたいと思う。
「命は神様に。病気は先生に。命のことは神様にしかわからん。だから、病気のことは先生にお願いします」と頭を下げる老人に、満足な設備がないことを承知で手術に踏み切るコトー。しかし、ガンの転移がコトーの予想を大きく外れて悪く、何もできないまま、コトーは老人が死を迎える瞬間まで、あたたかな日々を過ごせるようにとりはからう。老人は二ヶ月あまりを慣れ親しんだ自宅で過ごし、やがてろうそくが燃え尽きるように最期の時を迎える。老人がコトーに遺したものは、丹精こめて収穫したスイカと、丁寧にこしらえたわら草履…それは、彼の人生で胸を張って誇れるもの…彼の歩んできた人生そのものだった。
ドラマを見ながら、二年前に亡くなった祖父のことを想った。祖父も、ドラマの老人と同じくガンで亡くなった。晩年は声を失い、わずかな筆談で意志を伝える他は、ずっと空を眺めていた。最後の二年をほとんど病室で過ごし、『人生の役目はもう済ませた』とよく紙に書いてよこした。
父方の祖父は親父が三歳のときに亡くなっており、祖母は自分が一歳になる前に亡くなっている。母方の祖母も病気がちな人で、十歳のときに亡くなったため、自分にとって祖父母といえば、この祖父のことがまず思い浮かぶ。大正四年に生まれた祖父にとって、自分は初孫だった。名前は祖父と父で話し合ってつけてもらった。一緒に住むことはなかったけれど、車で二十分ほどの距離に住んでいたので、よく出かけては、いろいろな話をしてもらった。
健康そのもので、足腰も丈夫だった。七十歳を過ぎてから、富士登山に挑み、楽々頂上にまで登った。読書が好きで、テーブルにはいつも読みかけの本が何冊か置いてあった。真面目で厳格な人で、食事のしつけには人一倍うるさかった。歴史に詳しく、尋ねれば何でも教えてくれた。そんな祖父が大好きだった。
そんな祖父がガンに侵され、日に日に衰えていく姿を、見舞いのたびに見るのが、とてもつらかった。行かなければ、と思いつつ、忙しいことを口実にして、しばらく見舞いは両親にまかせた。余命いくばくもない、と聞かされて病室に赴いたときには、病室内のトイレに行くことにすら苦労するほど足腰が弱り、しゃんと伸びていた腰は曲がっていた。
それでも、毎日櫛で髪をなでつけ、ヒゲをちゃんと剃っている、と聞かされ、祖父らしいと思った。折り目正しくすることを、何よりも大事にした人だった。
亡くなったとき、親族それぞれは、一様に微笑んでいた。長い間の闘病生活は、さぞつらかったろうと。やっと楽になれた、という想いが、一人ひとりにあった。
形見分けのとき、生前、祖父が自費出版した本があったことを思い出し、押入れの奥に入れてあったのを引っ張り出して、読んでみた。そこには、祖父が会社内で孤立し、同僚の金を盗んだなどと、あらぬ疑いをかけられて自殺まで考えたことや、それがもとで精神病院に入れられてしまったことなどが綴られていた。
精神的に何の異常もないのに病院に入れられた祖父は、退院後、あからさまな配置換えで閑職に追いやられ、子供たちに満足な教育を受けさせてやらなかったことを悔やんでいた(母親は夜間高校に合格したが、結局行かせてもらえなかった)。定年後も、近所の人から疎外され、つらい思いを抱えていたことを、自分は初めて知った。
祖父の人生は何だったのだろうと、時々思うことがある。生母に死に別れ、継母の連れ子に遠慮するカタチで奉公に出た少年時代、戦争に巻き込まれ、軍需工場で働きながら、空襲も経験した青年時代を含めて、祖父はずっと苦しみを抱えて生きてきたように思える。
疑いの目と謗りのなかで生きた年月を振り返って『人生の役目は果たした。思い残すことはない』と、どうして断言できたのか、自分にはわからない。わかるのは、祖父が、他人のものを盗むような、そんな人ではなかったということだ。これからの人生で自分は、祖父の言葉の意味を、少しずつわかっていきたいと思う。