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イワシの頭も信心から

自称・浮遊人~碧田直のつれづれ日記

祖父のこと。

2004年11月11日 19時27分05秒 | つらつら日記
 現在フジテレビで再放送されている『Drコトー診療所』を見た。末期ガンに侵されて、余命いくばくもない老人と、彼を取り巻く人々が、生命の終わりをいかにして迎え、そして受け止めるかを切々と描いた回だった。
 「命は神様に。病気は先生に。命のことは神様にしかわからん。だから、病気のことは先生にお願いします」と頭を下げる老人に、満足な設備がないことを承知で手術に踏み切るコトー。しかし、ガンの転移がコトーの予想を大きく外れて悪く、何もできないまま、コトーは老人が死を迎える瞬間まで、あたたかな日々を過ごせるようにとりはからう。老人は二ヶ月あまりを慣れ親しんだ自宅で過ごし、やがてろうそくが燃え尽きるように最期の時を迎える。老人がコトーに遺したものは、丹精こめて収穫したスイカと、丁寧にこしらえたわら草履…それは、彼の人生で胸を張って誇れるもの…彼の歩んできた人生そのものだった。

 ドラマを見ながら、二年前に亡くなった祖父のことを想った。祖父も、ドラマの老人と同じくガンで亡くなった。晩年は声を失い、わずかな筆談で意志を伝える他は、ずっと空を眺めていた。最後の二年をほとんど病室で過ごし、『人生の役目はもう済ませた』とよく紙に書いてよこした。
 父方の祖父は親父が三歳のときに亡くなっており、祖母は自分が一歳になる前に亡くなっている。母方の祖母も病気がちな人で、十歳のときに亡くなったため、自分にとって祖父母といえば、この祖父のことがまず思い浮かぶ。大正四年に生まれた祖父にとって、自分は初孫だった。名前は祖父と父で話し合ってつけてもらった。一緒に住むことはなかったけれど、車で二十分ほどの距離に住んでいたので、よく出かけては、いろいろな話をしてもらった。
 健康そのもので、足腰も丈夫だった。七十歳を過ぎてから、富士登山に挑み、楽々頂上にまで登った。読書が好きで、テーブルにはいつも読みかけの本が何冊か置いてあった。真面目で厳格な人で、食事のしつけには人一倍うるさかった。歴史に詳しく、尋ねれば何でも教えてくれた。そんな祖父が大好きだった。

 そんな祖父がガンに侵され、日に日に衰えていく姿を、見舞いのたびに見るのが、とてもつらかった。行かなければ、と思いつつ、忙しいことを口実にして、しばらく見舞いは両親にまかせた。余命いくばくもない、と聞かされて病室に赴いたときには、病室内のトイレに行くことにすら苦労するほど足腰が弱り、しゃんと伸びていた腰は曲がっていた。
 それでも、毎日櫛で髪をなでつけ、ヒゲをちゃんと剃っている、と聞かされ、祖父らしいと思った。折り目正しくすることを、何よりも大事にした人だった。
 亡くなったとき、親族それぞれは、一様に微笑んでいた。長い間の闘病生活は、さぞつらかったろうと。やっと楽になれた、という想いが、一人ひとりにあった。

 形見分けのとき、生前、祖父が自費出版した本があったことを思い出し、押入れの奥に入れてあったのを引っ張り出して、読んでみた。そこには、祖父が会社内で孤立し、同僚の金を盗んだなどと、あらぬ疑いをかけられて自殺まで考えたことや、それがもとで精神病院に入れられてしまったことなどが綴られていた。
 精神的に何の異常もないのに病院に入れられた祖父は、退院後、あからさまな配置換えで閑職に追いやられ、子供たちに満足な教育を受けさせてやらなかったことを悔やんでいた(母親は夜間高校に合格したが、結局行かせてもらえなかった)。定年後も、近所の人から疎外され、つらい思いを抱えていたことを、自分は初めて知った。

 祖父の人生は何だったのだろうと、時々思うことがある。生母に死に別れ、継母の連れ子に遠慮するカタチで奉公に出た少年時代、戦争に巻き込まれ、軍需工場で働きながら、空襲も経験した青年時代を含めて、祖父はずっと苦しみを抱えて生きてきたように思える。
 疑いの目と謗りのなかで生きた年月を振り返って『人生の役目は果たした。思い残すことはない』と、どうして断言できたのか、自分にはわからない。わかるのは、祖父が、他人のものを盗むような、そんな人ではなかったということだ。これからの人生で自分は、祖父の言葉の意味を、少しずつわかっていきたいと思う。
 

正義のありか

2004年11月10日 05時59分18秒 | つらつら日記
 イラクのファルージャで、武装勢力の掃討を目的とした米軍の作戦が展開しているらしい。
 もはや戦地と化したイラク(日本政府が何と言おうと、戦闘が行われ、旅行者やボランティアが捕らえられて殺されている現状は戦地以外の何者でもない)の情報を知るにつけ、この事態を招いたのは誰なのだろうかと考える。
 9・11同時多発テロを実行に移したビン・ラディン率いるアルカイーダか、長年独裁政治をやってきたフセインか、それとも、テロの撲滅と民主主義をイラクに根付かせることを旗印に、戦闘を続けるアメリカか…いずれにせよ、犠牲になるのは市民であることに変わりはない。ニュースによれば、12人が死亡し、子供を含む17人が負傷したらしい。あくまでネットの報道だから、正確な数字かどうか確認してはいないけれど、死亡者・負傷者とも、これより多いことは間違いがないだろう。

 誰もが自分の正義を主張している。何が真の正義なのか、自分には正直なところわからないが、声高に叫ばれる正義が、血塗られたものであることはわかる。自衛隊を送り出し、テロによる犠牲者も出してしまった当事国の人間として、間違いは間違いだと、政治家たちに自分の意志を示すことだけはしていこうと思う。自分なりのやり方で。

フィクションと真実の狭間で

2004年11月03日 12時57分46秒 | つらつら日記
 イラクでイスラム過激派に拉致され、殺害されてしまった香田さんの遺体が四日にも帰国するというニュースとともに、犯行グループから、声明と殺害の様子がおさめられた映像が、インターネットで配信された。あまりに残酷で、狂信的な犯行には、強い憤りを覚えるが、日本国内では、香田さんがイラクに赴いたことについて批判する声も多数あがっている。なぜ危険な地域とわかっていてイラク入りしたのか、本当の理由は香田さん自身にしかわからないので、推察するしかないが、自分はこの事件にも、やはり常に感じているのと同様の危険性を感じている。
 それは、フィクションで生きることの危険性だ。

 香田さんが拉致拘束されたときから指摘されていたことだけど、「自分探しの旅」と称して世界中を巡っていた彼が、何の防衛手段もなくイラクへ入国したことは、軽率を通り越して明らかに無謀だったと改めて思う。二度の日本人人質事件を例に挙げるまでもなく、イラクでは多数の武装グループが不穏な動きを見せており、アメリカの手先として、日本もターゲットのひとつになっていることは間違いがない。香田さんがイラクに入国しようとした際、危険性を指摘したホテルのスタッフに「何とかなるから」と言い残して旅立ったというが、なぜ香田さんはそう思い込んでいたのだろうか。

 自分はその原因を、彼自身のフィクションを抱えたまま、イラクに行ってしまったからではないかと思う。
 フィクションといっても、ドラマや映画のことを言っているのではもちろんない。言うなれば、彼自身の世界観のことだ。おそらく彼は、「何かあっても、話をすればきっとわかってもらえる」と思っていたと思う。それは、彼がこれまで生きてきた人生経験から形成された世界観だったのだろう。報道によれば、香田さんは誰とでも打ち解け、気さくに接する人物だったようで、おそらく人から拒絶されたり、嫌がられたりした経験には乏しかったのではないかと思う。
 それはある意味では幸福なことだ。けれども、もしそのことが「自分は誰からも受け入れられる」「自分はどうにかなる」という思い込みにつながっていたとしたら、それは時として後先も考えない行動に直結する。彼が抱えたフィクション=世界観は、日本や、政情が安定している地域でなら通用したかもしれないが、イラクでは通用しなかった。イラクには彼らのフィクションで世界を捉えている連中がいて、そこでは香田さんは悪魔の手先に等しい存在だったからだ。互いに相容れないフィクションが出逢ってしまったとき、悲劇が待っていた。

 いま、フィクションが世界を覆っている。テレビやラジオは、編集されたフィクションを発信し続け、多くの人々は、それを世界そのものだと思って受け取っていく。香田さんのことを誰も笑えはしない。自分たちだって、フィクションから物事を見ているのだから。こんなことを書いている自分だって、フィクションから完全に逸脱できないだろう。それは、社会からの逸脱に等しいからだ。
 だからせめて、自分はフィクションを疑おうと思う。フィクションを抱えている自分自身をも疑おうと思う。常にここではないどこかを見つめること、それだけが、自分にできることなのだと思うから。
 
 

防災意識

2004年10月31日 12時23分15秒 | つらつら日記
 防災、とはよく使われる言葉だけど、実際に災害と直面したとき、どれだけ有効な防災手段を選択できるか、と問われると、正直自信がない。もちろん枕元に懐中電灯と携帯ラジオを常備しておくといったことや、包帯などを詰め込んだ薬箱を用意しておく、といったことはやっているし、備蓄食糧として、缶詰もいくつか保存してある。けれど、今回の新潟中越地震や、阪神淡路大震災のような突発的な自然災害に遭遇したときに、どれだけ冷静に対処して、それらの防災グッズを活用できるのか、と考えると、その自信はないというのが正直なところだ。

 もし災害が起こったら…とは、誰しもが考えることだろう。けれど、日々忙しく過ぎていく日常のなかで、そのことを常に意識して行動している人はまずいないだろう。小中学生のころ、防災の日に避難訓練をやった経験は誰もが持っているだろうけど、真剣に訓練している人はどれだけいるのだろうか。少なくとも、自分も自分の周囲も、真剣にはやっていなかった。ごっこ遊びのようで、おかしくて仕方なかったのを覚えている。

 だから防災とは、つまるところ自分自身の意識の持ちようのことなのだな、と思う。意識していれば助かる、というわけではもちろんないが、パニック状態にならず、とるべき行動を迅速に取る人が一人でも増えれば、被害はかなり抑えられるのではないだろうか。最近思うことだけど、何をするにも、最終的には自分自身が問われていく。日頃から、何が起こっても動じずあわてない自分を作っておかなければ、と思う。

マスコミの災害報道

2004年10月29日 11時22分13秒 | つらつら日記
 先だって、新潟中越地震によるがけ崩れで、車中に閉じ込められた親子三人の救出活動を、テレビで実況中継していた。用事があったので、ずっと見ていたわけではないが、テレビ東京を除く各局が、この救出劇を報道していたようだ。
 奇跡的に助かった男児の無事を喜び、そして不幸にもお亡くなりになった2人の親子の冥福を祈る気持ちは誰しも同じだろうし、自分も心からそう思うのだが、しかし報道のあり方については、大いに疑問が残っている。

 この報道を見ていた知り合いの話によると、かなりの長時間にわたって、各局はこの救出作業を実況生中継していたらしい。自分も短い時間ではあったが、現在行われている救出作業と平行して、男児が救出されるシーンを何度か繰り返し見た。そしてその間、他の被災者や被災地、避難場所の情報はいっさい報道されなかった。
 たしかに、あの救出作業には、多くの国民の目が注がれただろう。また、親族の方々は祈る思いで画面を見つめていたに違いない。だけども、報道とはドラマを仕立てていくことではない。あのとき、各局は『絶望的な状態からの救出劇』を、ドラマティックに編集して、見ていた人々に巻き起こるだろうある種の感動や、緊迫した感情を煽っていた。他にも報道すべき事柄はたくさんあるだろうに、そうした報道を待っている人々も数多くいるだろうに、NHKですら、この救出劇だけをクローズアップして報道した。そうした報道の姿勢を、自分はおかしいと思う。

 友人を亡くした女子中学生に、「そのときどう思った?」と質問して号泣させた民放のレポーターがいたらしいが、もう何年もずっと、報道が揺らいでいる。今回の災害にかかわらず、自分たちは事件・事故などほとんど全てのの情報を、テレビあるいはラジオといった放送媒体から受け取っている。それは自分たちに届く前に、人の手を介在し、編集されて、わかりやすい形となって報道されることがほとんどだ。それは、伝わりやすいという利点を持つ一方で、物事の複雑な側面をそぎ落とし、一面的なものにしてしまいかねない危険をも併せ持っている。
 もちろん、誰かの手を介在することなしに、報道が成立することはない。最終的には、誰もが主観でしかものを見られないのだから、そもそも客観的報道などありえないのだ。けれど、それを自覚して報道しているのか、また自覚して見ているのかで、報道はだいぶ変わってくる。今回の報道は、あまりにも一面的に報道されてはいないか。こんなときこそ、受け取る自分たちは報道というものの根本を、自覚しなければいけないと思う。

 無自覚に主張される正義を、これまた無自覚に受け取ることの危険を、自分たちは何度も見てきた。オウム真理教が起こした地下鉄サリンがまさにそうだったし、アメリカがやったイラク侵攻もそうだ。一面だけしか見えない一方的な情報は、個人個人に勝手な物語を植え付けてしまう。物語は一人歩きし、やがて大きな渦となって、自分たちではどうしようもないことになっていくことがある。杞憂かもしれないが、自分は今回の報道にそんな危険の前兆というか、匂いを感じた。こんなときだからこそ、心は熱く、頭は冷静に対応しなければと思う。

 いま、被災者たちは新たな問題を抱えているという。避難所生活が長引き、見知らぬ他人と壁も何もへだてない状態で暮らさざるを得ないことから生じるストレスの問題や、揺れへの恐怖からくる精神的な問題など、長い時間をかけてどうにかしていくしかない問題が山積している。もちろん、トイレや食糧の問題も解決してはいないだろう。すべての問題が、一刻も早く解決すると同時に、いま現在の状況や、本当に必要なものは何であるのか、被災者たちの視点から、心で伝える主観的な報道を望みたい。

同棲と結婚。

2004年10月26日 14時46分20秒 | つらつら日記
 テーマサロンで見つけて興味を引かれたので、このテーマについて書いてみることにした。
 同棲と結婚についてということだけど、自分はこの二つは基本的には別物だと思う。同棲は当事者である2人の問題で、結婚には親族など他の人も絡んでくるからだ。法事や慶事などには、一家として当然出席あるいはお金を出さなければならないし、町内会に入っていれば、近所付き合いもあるだろう。好きで一緒に生活している点では同じでも(違う人もいるとかいないとかだけど)、『やらなければならないこと』がより生じるのは、結婚だと思う。

 ただ、同棲だから責任がないということではないだろう。仮に近所付き合いなどをまったくしないとしても、少なくとも同棲相手への責任はある。男だから食事、掃除、洗濯はやってもらえるだろう、というような一方的な考えでいたら、いずれ破綻するに決まっている。よりお互いがリラックスできる空間を作るためには、双方の努力が必要不可欠だ。まあ、ここまで固く考えなくてもいいかもしれないが、洗濯物を2人で干すとか、掃除を手分けてやるとか、ちょっとした共同作業が大切なのは、同棲も結婚も同じだろう。

 同棲の延長が結婚とは思わない。けれど、互いを思いやる心が必要なのは、同じだと思う。 

 

回転寿司の魅力

2004年10月26日 13時40分58秒 | つらつら日記
 先日は給料日だったので、久しぶりに豪勢な食事をしようと思い立った。とはいっても薄給の哀しさで、ウン万円もするような豪勢な食事を本当にしてしまうと、今月のどこかでブログも人生も終えなければいけなくなってしまいかねない。なので、できるだけ一般的で、リーズナブルで、かつ豪勢な気分が味わえるものをと考えた結果、寿司がいいんじゃないかということになり、駅前の某回転寿司屋に行くことにした。

 そこは全皿税込み126円であり、自分が行ったときにはタイムサービスで牡蠣が半額の63円ということだった。牡蠣はクセのある食材なので、好き嫌いが分かれるだろうとは思うが、自分は生牡蠣もフライにしたのも好きだ。多大な期待をするつもりはなかったが、親指くらいのささやかな期待はしっかり抱いて、自分は回転寿司屋へと足を踏み入れた。

 店内は、ちょうどお昼どきということもあり、そこそこ混んでいた。ちょうど目の前の椅子が空いていたので、そこに座って、コンベアーでくるくると廻る寿司に目を向けた。
「……」
 ポツンポツンと間隔を置いて、寿司が廻っている。少し寂しいな、という感じだ。回転寿司屋のイメージというと、隙間のないくらいにビッシリと並べられた、豊富な種類の寿司たちが廻り、客がとる間ももどかしいと言わんばかりに、次の皿を板前さんが置いていく、というものがあるので、ちょっと拍子抜けしたという感じだ。
 とはいえ、寿司は寿司に違いない。何といっても食べるのは一ヶ月ぶりなのだ。腹も空いている。しぼみかけていた期待ではあったが、空腹を何とかすることのほうが先決だと、さっそく自分は牡蠣に手を伸ばした。牡蠣は軍艦巻きになっていて、上に軽く酢と、明太子が乗っている。醤油をつけて、一口で放り込んだ。
「……」
 微妙だ。おそらくそのとき自分の表情は、とてつもなく微妙な表情をしていたに違いない。生まれつき味にはそうこだわらない性格ではあるが、うまければうまいと思うし、まずければまずいと思うくらいの舌は持ち合わせているつもりだ。この牡蠣の味は、そのどちらでもない。牡蠣には違いないのだけど、これぞ牡蠣だ、と言えるほどのインパクトがないのだ。
 何皿か別のネタを食べてみたが、どれもこれも同じような食感だった。なぜだろうと思い、もう一皿牡蠣を食べてみることにした。今度はゆっくり噛んでみる。何度も噛んで噛んで、1カン食べたあと、自分は結論をくだした。前の牡蠣もこの牡蠣も、みずみずしさがない。ひからびているとまではいわないが、新鮮さが決定的に欠けていた。
 要は回転率が悪いために、握られてからしばらくたっていたのだ。結構混んでいるはずなのにどうして、と思ったのだが、その理由もわかった。客のほとんどは、自分がほしいネタを板前に注文して握ってもらっていた。そのため、回転している寿司のほとんどには手がつけられないまま、くるくると廻っていただけだったのだ。
 中央では、ひょろっとした板前さんが、一人で注文を一手に引き受けていた。が、材料がないのか手が遅いのか、注文してからこしらえるまでにしばらくかかっている。注文をこなすのに手一杯で、コンベアーの寿司を補充するまで手がまわらない。気にしているそぶりもない。ある程度回転させて捌けなかったものはコンベアーからどけるのが、客に対する礼儀というものだろう。ネタが命の料理であるはずの寿司屋が、ここまで無神経だと、注文したところでロクなものが出てこないだろうと思い、自分は勘定を払って店を出ることにした。

 帰り道に、回転寿司屋で回転している寿司について考えた。あれは店の顔ではないのか。あそこが充実してこそ、回転寿司屋じゃないのか。注文して握ってもらうだけなら、別に回転寿司屋でなくてもいい。もちろん安さは魅力のひとつだけど、豊富なネタが次から次へと目の前へやってきて、何をとればいいか迷うのが回転寿司最大の魅力だと思うのだ。今度は、その魅力を満たしてくれている回転寿司屋に入りたいと思う。

 最後に、テーマサロンで寿司ネタについての項目があったので投稿を。好きなネタはイカ。もちもちっとした食感が何ともいえない。あとはアジ。それと、あまり東京では見かけないけど、生しらすの軍艦巻きが好み。

即席ラーメンと大食漢とタイムマシン

2004年10月25日 11時12分32秒 | つらつら日記
 先日、料理が結構好きだ、などと書き込んでおいて、こんなことを書くのもいささか気が引けるが、自分は即席ラーメンが好きである。充分に熱して、ぐつぐつと煮立っているお湯に刻んだ野菜(キャベツ、にんじん、ねぎなど)を入れて茹で、さらにそこにメンを入れる。最後に粉末タレと生卵を落とし、付属の七味をパラパラっと振りかければ完成。

 個人的にはどのメーカーのものでも、味噌ラーメンが好きだ。塩も悪くないが、なんってったって味噌である。野菜との相性もいいし、メンに適度にからんで味に深みがある。あえて好みのやつを1つあげるとすれば、『サッポロ一番』の味噌ラーメンを長年愛好している。
 親元にいた学生の頃、特に高校生の頃は、両親が共働きしていたこともあって、帰宅すると即席ラーメンをこしらえて食べていた。何せ食欲が人生で一番旺盛な頃である。一人前のラーメンでは足りずに、二人前を作って食べていた。それで2~3時間後には家族と夕食を普通に食べていたのだから、どういう胃袋をしていたのだろうかと、自分でも思う。

 と、ここまで書いてさらに思い出したのだが、高校時代の自分の食欲は、ある種異常だった。運動部でもないくせに、いつも腹が減っていた。土曜は母親が休みで家にいたので、学校から帰ったときの第一声は必ず「ただいま。腹減った。メシ」だった。まるで亭主関白を気取っている鼻持ちならない男である。そのときも帰宅途中に友人達と立ち食いソバ屋に立ち寄っていたのだから、まさに食べるそばから消化していたようなものだった。自分が修学旅行に行った折は、我が家のごはん消費量は一日3合で余ったらしい。ちなみに家族は父、母、自分、弟の4人だった。普段は7合炊いても足らなかった。
 自分に限らず、そうした大食漢にとっては味もさることながら、量が問題である。とにかく量を食べられればそれでいい。即席ラーメンは、そういう点でも合格点だった。これがカップラーメンだと、食べたそばから腹が減る。その点、即席ラーメン一人前あれば、とりあえず小腹はどうにかなった。料理の技術もさしていらない。食べ盛りの高校時代、自分にとって即席ラーメンは、手軽に食べられる携帯食のようなものだった。

 親元を離れ、自分で料理をするようになってから、正直出来合いのものはあまり食べてない。コンビニ弁当も買わないし、冷凍食品もまず口にしなくなった。ハンバーグを食べるにも、ひき肉を買ってきてこねるようになったのだから、この事実を母親が知ったら卒倒するかもしれない。
 そんな具合に変貌した自分だが、即席ラーメンが好きなところだけは未だに変わっていない。以前ほど頻繁に食べなくなったし(一ヶ月に2~3度)、量も一人前だけで済ませるようになったが、ふと食べたくなると、迷わず買ってきて食べてしまう。軽く豆板醤を入れたり、ダシ汁を加えたり、メンとスープを別の鍋で作るようになったりと、料理好きになってからの変化はあるが、出来上がったときに鼻腔をつく匂いと、メンを啜ったときに口中に広がる味わいは、あの頃のままだ。目を閉じながら食べると、過ぎ去った高校時代の景色と空気が蘇るような錯覚を覚える。昔ながらのものが、変わることなくそこにあることの喜びを知る歳に、自分もいつの間にかなってしまった。

 即席ラーメンは現在進行形の思い出の味である。また何十年かたって、ラーメンを作って食べたときに、この日記のことを思い出させてくれるかもしれない。懐かしい時代に戻してくれるタイムマシンのように。
 

 

あー・みー・まー!

2004年10月23日 03時01分16秒 | つらつら日記
 トラックバック練習版のお題が「好きなテレビ番組」ということなので、ちょこっと考えてみた。
 パッと頭に思い浮かんだのが、タイトルにもした「あー・みー・まー!」である。
 といっても、こんなタイトルの番組があったわけではもちろんない。これは、いかりや長介率いるザ・ドリフターズが声で出演した人形劇『飛べ!孫悟空』(オープニングテーマはピンクレディー!!!)で、志村けん演じる孫悟空が、術をかけるときに発する呪文がこの「あー・みー・まー!」だったのだ。

 ドリフで志村、とくれば「東村山音頭」だの「カラスの勝手でしょー」だの「ヒゲダンス」だのが思い出されるが、放送当時(S52~54)あたりに小学生だった世代には、この呪文を番組とともに覚えている人も多いと思う。『全員集合』にもヒケをとらない、ギャグ連発の楽しい番組だった。山口百恵や西田敏行など、豪華ゲストとのやりとりも面白かった。番組がはじまる7時には、家族そろって見て、大爆笑していた記憶がある。お笑い好きというわけではない親父も、ドリフだけは例外だった。職人あがりでおっかなかった親父の笑い声が、「あー・みー・まー!」の呪文とだぶって、耳の奥に残っている。

 ちなみにキャストは、三蔵法師をいかりや長介、猪八戒を高木ブー、沙悟浄を仲本工事がそれぞれ演じていた。残る加藤茶は何を演じたかというと…加藤茶が演じたのは、波平カットのカトちゃんだった(笑)。にんにきにきにき…で始まるドリフが歌う挿入歌『ゴーウエスト』を試しに歌ってみた。今でもソラで歌えたことが、何となく嬉しかった。

猫のヒタイにデコピン

2004年10月21日 02時50分32秒 | つらつら日記
 ブログにて日記を公開することにした。
 とはいえ、日記など生まれてから一度も書いたことがない。第一そういう「書かなければいけないもの」は昔からキライだった。夏休みの絵日記だの、読書感想文だのは、キライもキライ、大キライだった。
 中でも自由研究ってやつにいたっては、生来手先が不器用だったこともあって、キライを通り越して怒りさえ覚えた。今思えば、題材は自由なのだから、好きなマンガでもとりあげて、好きに書き連ねればよかったのにと思うが、小学生の頃は何となく「自由研究=何か作ってくる」と思い込んで、勝手に苦悩していた。

 思えば小学生の頃が、一番人生に苦悩していた。

 まあ、苦悩するなら思いっきり苦悩して、たとえ拙いものでも、頑張って製作したものを提出すればいいじゃないかと、これまた今なら思いもするが、自分はそうはいかなかった。だいたい、買いたいものがあると、五歳年下の弟をダシにして「こいつも欲しがってるんだから」と言って親に買わせているような、姑息な策略家でもあったのだ。

 思えば小学生の頃が、一番人生で知恵を使っていた。

 で、知恵を絞りに絞って思いついたのが、「親父にやってもらおう」という、誰でも思いつくような愚にもつかないアイデアだったのだから、自分は戦国の世に生まれていなくて、本当によかったと思う。
 親父はサラリーマンだったが、もとは鉄工所に勤めていた職人で、何だかの一級免許を持っていた。嘘か本当か知らないが、そのとき県知事賞も貰ったことがあるらしい。代役には適任だ。

 自分は親父を「夏休みだから、親子が共同で製作するんだ」とか何とか言いくるめて、手伝ってもらうことにした。いや、手伝ってもらったというのは言葉のアヤで、実際のところは親父が一人でやっていた。親父が作ったのはろうそく立てで、炎天下の中、木材所からもらってきた木切れを使って、今思い返しても、それは見事なろうそく立てを作った。自分は部屋でジュースを飲みながら「こいつは使えるなあ」と、ただ眺めていたのだから、子供の風上にも置けないやつだ。

 思えば小学生の頃が、一番人生で子供らしくなかった。

 結局、自信満々で提出したろうそく立ては、あまりにうまく出来すぎていたので、図工の時間にヒイヒイ言ってる不器用な自分に作れるわけがないと一目で見破られ、先生にこっぴどく叱られた。先生から電話を受けて事実を知った両親、とりわけ親父が激怒したことは言うまでもない。あの一件以来、親父は自分のことを「橋の下で拾ったんだ」と主張している。少なくとも半年前まではしていた。

 あれから20年くらい経っている。さすがに今は大人なので、他力本願はやめて、日記くらい自分で書かなければと思う。というわけで、書いたのだが…日記だろうか、これ。