ある日の気づき

読書ノート:「なぜ経済予測は間違えるのか? 科学で問い直す経済学」(2)

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1. 主流経済学の方法論にある基本的な問題点
  架空の線
  グラフとユニコーン
  経済気象
  創発する経済
2. 主流経済学の概念的枠組みが非現実的で検証不能な「科学もどき」であること
3. 主流経済学エコノミストが「科学もどき」の仮定を放棄しない事の思想的背景
更新履歴とシリーズ記事 (←別記事に独立させた)

1. 主流経済学の方法論にある基本的な問題点^

表題書籍の前半、第1章から第5章までは、主流派(=新古典派)経済学の問題点 (a),(b) の
指摘と「代替案/修正方法」(c) の提案に当てられている。
(a) 「検証可能な事実」と対応しない概念構成に基づいている。
(b) 主要な結論と事実との食い違いが大きすぎ、多少の修正で対処できる見込みはない。
(c) 「経済は複雑系である」という事実を認めて方法論を根本的に見直すべき。
# 本ブログ「新古典派経済学の問題点」、「経済学とは何か、何であるべきか」と共通の論点。
# 他派(異端派)経済学との比較は「自然科学者と経済学者の「科学観」について」参照。

「第1章 「ニュートン力学」で読む経済法則----経済は数学で表せると思ってはいけない」で
「主な論点」に一通り言及されている。少々長くなるが、第1章での「主な論点」の言及箇所を
引用しておく。

「ニュートンは南海バブル事件で財産の大部分を失った後の1721年、「私は天体の動きを計算
することはできるが、人々の狂気は計算できない」と記している。(p.17)
...

架空の線 (p.22-24)^
ニュートンの万有引力の法則に相当するものが経済学にあるとすれば、それは需要と供給の
法則だ。
...
図には二本の曲線があって、価格が需要と供給とどう関係しているかを表している。
...
二つの曲線が交差するところが、需要と供給が完全に均衡して価格が一つに決まるところ
教える。
...

グラフとユニコーン (p.25-30)^
ある意味で、需要と供給の法則は、自明の真理をとらえている -- 何かの需要があれば、その
価格はたいてい上がる ... 問題が生じるのは、ニュートン力学的になって、この原理を数学的
に表し、それを使って最適状態であることを証明したり予測をしたりすることにした場合だ。
... 

人は原子ではない。場所ごとに違うし、時間がたてば意見や行動を変えることもある。
...

需要と供給の法則からすると、価格が「均衡」値より上がれば、需要が下がる。これはたいてい
の商品やサービスにまずまずあてはまる ... ところが、不動産や金の延べ棒など、投資としての
価値からも求められる資産を考えると、需要と供給の関係は完全に崩れてしまう。

需要と供給は、価格だけで決まるのではなく、価格が変化する速さや方向にもよる。
# 正確には、価格が変化する速さや方向についての、市場参加者全ての推測内容に依存する。

...
需要と供給は、基本的な商品についてさえ、細かい背景や歴史にも複雑に左右される。
...
経済物理学者ジョー・マコーリーが言うように、そのような曲線が実在することを示す経験的
証拠は何もない。それにもかかわらず、「新古典派が使う、交差する需要供給曲線は、相変わ

らず、標準的な経済学の教科書ほとんどすべての土台となっている」。需要と供給のグラフは、
ユニコーンと同じで、図解はされても実際に見られることはない、神話上の生き物なのだ。
... この原油価格の急騰は先の信用収縮を悪化させる一因だったが、専門家はまったく予測

しなかった。... 急騰に先立つ六ヶ月で見ると、世界の原油供給は実は上昇していて、需要は
下がっていた。... 典型的な投機バブルで、... 不動産バブルと同じ力学によって動いていた。
...

経済気象 (p.30-32)^
...
実は、そもそも基本法則があって、それは簡単な方程式で表せるという考え方が適用できるのは

重力のような、一定の、その法則専用の事例だけだ。天気予報では、大きく立ちはだかる難関の
一つに ... 雲ができたり消えたりする時間の予想がある。... 雲を表す法則も方程式もない。

実は、雲は大気の力学の「創発特性」とするのがいちばんよい。創発特性の定義は ... 一般的
には、複雑系に生じる、その系の構成要素に関する知識だけからは前もって予測できないような
姿を指す。雲の成分 --空気、水、微粒子-- については多くのことがわかっているが、それでも
計算機上で現実を再現する雲を作り出すこともできないし、ましてや実際の雲の振る舞いを予測
することもできない。
...

創発する経済 (p.32-35)^
では、従来の還元論のやり方がうまく行かないとしたら、代替案は何か。

創発的現象は、セル・オートマトンエージェント・ベースモデルなどの手法を用いた複雑系の
科学者によって、広く調べられている。....」

以下では、ここで提示されている論点について、先に「経済学とは何か、何であるべきか」で
示した筆者の視点とも合わせて説明する。

2. 主流経済学の概念的枠組みが非現実的で検証不能な「科学もどき」であること^

「架空の線」と「グラフとユニコーン」の項でミクロ経済学の「需要曲線と供給曲線の交点が
実現する価格である」という命題に、「そもそも、「需要曲線」や「供給曲線」の存在自体が、
疑わしい」という根本的な問題点からの異議が提示されている(引用されている経済物理学者の
見解の詳細を確認するまでなく、下記の「少し考えれば明らかな事実」から、すぐ分かる話)。
- 需要と供給のいずれも、価格だけでは決まらないし、価格も含め連続量ですらなく、とりうる
 値の範囲は、さまざまな具体的条件に複雑に依存する。
- 一般に「需要」は「測定可能な量」ではなく、未実現の「供給」は客観的な数量を持ち得ない。
 + どちらも商品と取引条件の(時間、空間指定を含めた)全てを具体的に指定/想定した上で、
  推測しかできない。確かに存在し、観測ないし測定が(あくまで*原理的には*)可能な量は
 「実現した取引と、それらの取引での価格」しかない。
 + 「*他の条件指定なしで単に価格を指定すれば定まる量*としての「需要」と「供給」」は、
 「ユニコーン」と同様の空想上の存在であり、「連続量として任意の値を取る価格」も含めて、
 「経済学とは何か、何であるべきか」で「現実との接点や対応関係すらあやふや」と指摘した
  概念的枠組み(=「科学もどき」)の典型例。
 + 自然科学で考察対象とする系を少数の変数で指定する議論は「(指定された条件の下で実行
  される再現実験または精密な観測のいずれかによる)定量的検証または反証が可能な命題」
  の形て述べることで、空想であることを逃れている。なお、反証された場合、議論の前提が
  (少なくとも一つは)「誤った仮説」として放棄されることは、言うまでもない。
 + 「人は原子ではない」ので、さまざま個性があり、その振る舞いは時間、場所、周囲の人の
  意見などによっても変化するため、ミクロ経済学の「数量的関係についての基本的命題群」は
  全て「意味不明で検証不能」か「事実に反する」ため、科学的考察の基礎になり得ない。

仮に「想定される需要や供給の数量的モデル」が作れたとして、価格以外の独立変数が含まれる
場合は、「取引成立」が「3次元以上の空間で「需要図形」と「供給図形」が重なっている所」
に対応する事になる。すると、2つの図形の重なり=共通部分の存在すら自明とは言えないし、
共通部分があったとして、その中での「価格という変数」が取りうる値が一つとは限らない。
例えば、価格が変化する速さや方向を考慮するために「時間」を変数に加えた場合、「変数に
単なる数値が入る方程式」ではなく、微分方程式や差分方程式の解となる「時間を独立変数に
含む関数」を考える必要が出てきてしまうことだけ考えても、主流経済学が使用するモデルと
事実との不一致は、「多少の修正で対処できる見込みはない」。

そもそも日常的な経験での「価格」は、売り手が一方的に決める場合(例えば、多くの日用品の
「定価販売」)や買い手が一方的に決める場合(例えば古書や使用済IT機器 の「査定価格」や
貴金属の「店頭買取価格」)も多い。「情報の非対称性」を云々する以前に、*現実に各取引で
価格が付けられる手続き*を無視して「価格の決まり方」を議論する事自体の妥当性も怪しい。
ちなみに、セル・オートマトンやエージェント・ベースモデルなどの手法では、こうした「個別
取引事象の特性」という観点も、考慮に入れることができる。

3. 主流経済学エコノミストが「科学もどき」の仮定を放棄しない事の思想的背景^

「事実との不一致」あるいは「未検証ないし検証不能な仮定に過ぎない事」を明白な根拠と共に
指摘されても「自らの主張が真理/真実/事実である」という態度を変えないため、「宗教」の
信者か「イデオロギー」の信奉者、あるいは「プロパガンダ」の実行者に過ぎないようにも思わ
れるのだが、主流経済学エコノミスト(の相当部分)は「学者」だと自負し、一般社会からも、
そのように認識されている。また、大学や研究機関で「主流経済学」の「研究」もされている。
つまり、主流経済学も「学問」の一種ではあると解釈せざるを得ない文脈も存在する。しかし、
これまで述べてきた通り、主流経済学は「科学」ではあり得ない。だとすれば、主流経済学は、
どんな種類の「学問」で{あるか、ありうるか}考察しておくべきだろう。「太陽の下に新しき
ものなし
」で、歴史を振り返れば、下記のような「同じ特徴を持つ「学問」の例」が存在する。
(x) (アリストテレス以来の)形而上学
(y) スコラ(哲)学
(z) (キリスト教の)神学
つまり、主流経済学エコノミストは、これらの「学問」の研究者たちと同様の心性の持ち主と
いうことは、十分に考えられる。

(x),(y),(z) いずれも、程度の差はあれ、ルネサンス以後の思想的潮流、特に、イタリア発の
「自然科学」とイギリス発の「経験論哲学」の影響により打撃を受けた。中でも (y) は早々に
影響力を失った(近代以降「針の上で天使は何人踊れるか」といった類の疑問を提起する人は、
いなくなった)。
(z) は宗教改革から30年戦争とウェストフェリア条約に至る、カトリック教会の世俗権力失墜に
よって、教会組織外への影響力を失った。

(x) は、19世紀末から20世紀初めにかけての「反形而上学」思想(例えば「論理実証主義」)の
台頭により哲学における影響力を失った。なお、19世紀を通じての「数学の厳密化」やフレーゲ
による「数理論理学」、カントールの「集合論」により、「論理」そのものについての理解が、
「アリストテレスを超えた」事が、「論理実証主義」や「分析哲学」の出現の背景である。

主流(=新古典派)経済学の創設者たちは「論理」自体の見直しを契機とする「形而上学」の
権威失墜を認識しておらず、「不用意な概念構成は、実質的意味に乏しい議論の原因になる」
リスクを理解していなかったように思われる。
表題書籍「第9章 「比較の心理」で読む豊かさと幸福----お金と幸せの奇妙な関係」p.240 
からの孫引きになるが、同時代の著名な数学者の言葉を引用しておこう

「フランスの数学者アンリ・ポアンカレは、ワルラスからの手紙に応えて、理論の前提が
非現実的だと、「まったく中身のない」結論になってしまうことを警告した。
後に数学者のノーバート・ウィーナーは、「経済学者は、非常に不正確なアイデアを無限小
解析の言語で飾り立てる習慣を育てている。... このように基本的に漠然とした量に、正確な
値と言われるものを割り当てることは、役にも立たないし、誠実でもなく、そのように曖昧に
定義された量に式をあてはめるというのは、ごまかしであり、時間の無駄だ」と書いている」。

さらに言えば、数理論理学/記号論理学で「矛盾を含む理論では任意の命題が証明される」と
明らかにされた事は「経済学とは何か、何であるべきか」でも触れた。この事からは、例えば
フリードマンの「事実に反する仮定に基づく理論の実証研究」の無意味さが明らかなはずだが、
経済学会では無意味だと認識されていないらしいフシがある 。

もう一つ、主流(=新古典派)経済学の創設者たちは、20世紀初頭の物理学の大変革=相対論と
量子論が、いずれも「既存理論が事実に反する事の検出」を契機に誕生する過程を見損ねたため、
*物理学における実験/観測による検証の決定的役割を、素人ながらも理解する機会*を逃した
という見方も可能かも知れない。

例えば、原子の存在は、アインシュタインのブラウン運動の理論ペランの実験で検証されて、
ようやく「物理的な事実」として広く認められたわけで、それ以前は「作業仮説」扱いだった。
ところが、主流経済学は、個人を(存在すら確定していなかった)原子であるかのように個性が
ないとして扱えると仮定し、しかも*その仮定の妥当性を検証しようとはしていない*わけだ。

言って見れば、主流(=新古典派)経済学の創設者たちは、SF作家が作品中で描くのと同レベル
での「物理学への理解」を理論の土台にしてしまったわけで、しかもタイミングが悪かったので
相対論と量子論という*知れば「物の見方が変わる」*理論から発想を得る機会がなかった。
この痛恨事が尾を引いて、主流経済学は、いまだ「科学もどき」を金科玉条とする「形而上学」
であり続けていると考えられる。

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