雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

ヤクルトとつばめとななつ星

2013年11月28日 | エッセイ

 ヤクルトとつばめとななつ星


 プロ野球球団の東京ヤクルト・スワローズのチーム名は、現在九州新幹線を走っている「つばめ」号と起源は同じ列車名から派生したものである。球団の前身である国鉄スワローズというチーム名は、戦前戦後を通じて国鉄を代表する特急「つばめ」という列車名から付けられたと聞いている。
 1930年に登場し、超特急「燕」に始まり、戦後の1950年に展望車を連結していた客車列車で東京神戸間を走った「つばめ」、そして電車時代の幕開けを告げ1964年の東海道新幹線開業まで東京大阪間を走った151系電車こだま型「つばめ」は、常に少年達のあこがれの存在だった。この特急「つばめ」は、東海道新幹線の開通で大阪博多間に、山陽新幹線の岡山開業の際には、481系交直両用電車で名古屋熊本間、最後は寝台電車581系も使用され鹿児島まで足を伸ばしたが、1985年の山陽新幹線博多開業で定期運用から廃止となっていた。
 戦後の客車列車を牽引したSLの1台、C622号機には、煙突の左右にある排煙板につばめのマークが残されたまま、永久保存されていて、「スワローエンジェル」の愛称で呼ばれている。また国鉄バス、分割民営化後のJRバスの車体にもツバメをデザインしたマークが残っていることにも、「つばめ」という名前が国鉄にとって特別な名称であったかを物語っている。
 その日本を代表する栄光の列車名を九州内に走るローカル特急にちゃっかり復活させてしまったJR九州は、「本当に鉄道を愛しているのだ」とかねてより思ってきた。1992年に登場した785系電車で復活したつばめには、「つばめ」の全盛期に使用されていた151系電車にあったパーラーカーを思わせる個室や時代を逆行するようなビュッフェが連結されていたからだ。私の家族はこの785系にあった普通車のセミコンパートメントが大のお気に入りで、博多に行く際は必ず利用した。残念ながらビュッフェは、廃止され普通車に改造された。
 この785系には、JR九州の「鉄道を移動手段としてだけでなく、鉄道の旅そのものを楽しんでもらおうという姿勢」が多いに表現されていた。JR九州内の都市間を結ぶインターシティーは、785系に続いて、「白いかもめ」や「ソニックにちりん」とユニークな車両を作って行く。「ゆふいんの森」、「SL人吉」、「あそぼーい!」、「はやとの風」、「いさぶろう しんぺい」、「海幸山幸」、「指宿のたまて箱」、「A列車で行こう」など、九州各地を走る観光列車は、確かに移動手段から旅の目的の一つとなりつつある。その実績を積み重ねたハードとソフト両面の集大成がクルーズトレイン、「ななつ星in九州」ではないだろうか。
 その企画の原点の一つに、横浜の原鉄道模型博物館に展示されている「ある列車」というタイトルの5両の豪華列車の模型があったそうだ。1906年に九州鉄道がアメリカの車両会社に作らせた実物は、引き渡された直後に九州鉄道が国有化されたために、活躍しないまま幻の豪華列車となった。去年の夏に、同館を訪ねた際は、そんな車両の存在も知らなかった。
 「ななつ星in九州」の車両形式を知った時、多くの鉄道ファンが、「おお」とうなったに違いない。JR九州は、国鉄時代の車両の形式番号の決まりをほぼ踏襲していて、ななつ星のマイ77という形式名のマは、車両の重量の区別、イは、客室の等級を表している。この「イ」は、1等客室のことで、2等を「ロ」、3等を「ハ」と表しているが、1960年に1等と2等の2等級制となった時点で、イが廃止され、1等のロと2等のハが残った。さらに1969年には1等がグリーン車、1等寝台車はA寝台、2等を普通車、2等寝台車はB寝台車という呼び方に変更されている。今でもJR九州の新幹線以外の車両を見ると、グリーン車は「ロ」、普通車は「ハ」という形式番号がついている。ちなみにマイの後にネと表記されている車両は寝台車、マシのシは食堂車のことだ。今回「ななつ星」の形式番号では、制度上、廃止された「イ」が復活して使用されている。鉄道ファンには、戦前戦後の特急「つばめ」で使用された豪華展望車のマイテ39を連想させられる。ななつ星がグリーン車やA寝台よりさらに豪華な車両というJR九州の自負がそこには感じられる。(2013.11.27)

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