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【異文化交流クイズ】【3-5問題】龍吉の晩年と驚くべき最後の決断

2021-02-21 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第5回は、川田龍吉の晩年から出題です。
完全にドックの仕事から足を洗った龍吉は北海道の地に本格的な農場を確立すべく邁進します。彼は次男の吉雄をオックスフォードに留学させて欧米スタイルの機械化酪農を学ばせ、その帰国後は親子で力を合わせて働きますが、吉雄は僅か二十八歳で病死してしまいます。
この頃から龍吉は徐々に癇癪を起こすようになりますが以下のようなエピソードが残っているそうです。
農場で忙しく働く農民のために、龍吉自ら茶を沸かし振る舞おうとします。ですが、誰もそのお茶を受け取るものはいませんでした。彼らにとって龍吉は「殿様」であり(実際にそのように呼んでいた)、殿様の入れたお茶など畏れ多くて飲めない、と。
龍吉は暫く黙って立っていたものの、やがて「そうかい。誰も飲まんのかい」と呟くとも手に持っていた薬缶を放り投げ、無言で立ち去っていった、というエピソードが残っています。
年を経る毎に龍吉の感情は荒れていき、農夫達はただ殿様殿様と奉るだけで接触を避け、妻の春猪に当たり散らし、酪農の責任者とも衝突して辞められ、ついには酪農部門を全て売却してしまいます。
妻をはじめ息子や娘達にも不幸が続きますが、それでも龍吉は生き続けました。
太平洋戦争が勃発すると自室に籠もり、かつてグラスゴーで買い求めたディケンズやドイルを読み耽り、現実から逃避していきます。
太平洋戦争終結時に龍吉は89歳に達していましたが、それでも農業への情熱だけは持ち続け、杖に縋り、農夫に籠で自らを担がせてまで、畑へと出たそうです。
さて、ここで今回のクエスチョン。
昭和23年、龍吉92歳の夏。彼は突然「ある行動」に出て周囲を驚かせます。その理由を誰にも告げずに龍吉が突然とったこの「ある行動」とは一体なんだったのでしょうか? 
ヒントとしては周囲の人々がその理由を悟ったのは、龍吉の死の26年後、彼の蔵書の中から出てきたジニーとの分厚い手紙の束だったでしょう。。。

【異文化交流クイズ】【3-4回答】川田龍吉が最初に輸入し、現在では北海道を代表するようになったある野菜類とは?

2021-02-20 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ、サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第4回の問題は「川田龍吉が最初に輸入し、現在では北海道を代表するようになった『ある野菜類』とは一体なんでしょう?」という問題でした。
今回の解答の前提条件として龍吉の父、小一郎の人生が深く関わってきます。
小一郎は三菱の創設者、岩崎弥太郎の死後、それに殉じるように三菱を退社するのですが、明治22年、当時の大蔵大臣松方正義から富田鉄之助の跡を継いで第三代日本銀行総裁に是非、という要請が届きます。
この要請を受諾した小一郎は明治29年に死去するまでその職を勤め、その死の一年前には日清戦争の戦費調達への功績により「男爵」の爵位を授けられました。
純然たる民間出身者で爵位を得たのは小一郎が最初で、その死後は龍吉が「男爵」となります。
と云うことで、もうお分かりのことと思いますが、今回の正解は・・・『男爵芋』でした。
かつて過ごしたスコットランドと北海道の気候が似ていることに気が付いた龍吉が、持ち込んだ品種は元々「アイリッシュ・コブラー」と呼ばれ、世界的にも有名な品種だったのですが、産地の農会が日本国内の産地としてのブランドを確立すべく「男爵芋」と名付けることを提案し、龍吉に了解を求めます。
『私が持ってきた芋がこのように全国に普及するとは夢にも思わなかった。あのジャガイモを男爵芋と命名することに異議のある筈はない。喜んで了承しましょう』
と云うことで、男爵芋という名前が龍吉公認の下に付けられ、今日まで伝わっているわけです。
横浜の造船ドックは恐らく龍吉がいなくとも完成したでしょうが、もし龍吉がジニーとの結婚を強行していたならば、少なくとも「男爵芋」と名付けられた品種が北海道の名産品となることはなかったわけで一つの恋の顛末が日本の農業史を左右することになった、というわけです。
さて、次回は川田龍吉とジニーに関するお話の最終回。その悲しい晩年を……。

【異文化交流クイズ】【3-4問題】スコットランド人女性との結婚が許されなかった川田龍吉のその後

2021-02-19 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第4回は、愛しあいながらも結局日本とスコットランドに離ればなれとなった川田龍吉とジニーのその後から出題です。
明治18年8月末、帰国した龍吉でしたが、遂にジニーとの結婚については父親の許しが得られませんでした。父小一郎は「財産を手に入れた次は家格を」と名家から嫁を選び、龍吉に結婚を強います。
この妻、春猪との間に龍吉は八人の子供を儲けますが、彼女は「嫁しては夫に従え」を地でいっていたようで、明治の夫婦の在り方としては決して珍しくはないものの、二人の関係は殆ど主従関係のようだったようです。
ジニーと対等の立場で自由に互いの考え方を率直にぶつけ合った龍吉としては、そのような関係は苛立ちを招くものでしかなかったようで、龍吉はたびたび癇癪を起こしたそうです。
その苛立ちを仕事にぶつけた龍吉は「日本郵船機関監督」となると、横浜に巨大なドックを建設します。このドックこそ、現在横浜のランドマークタワーの隣に繋留されている大型帆船「日本丸」を収めているドックです。
一方、届く筈のない龍吉からの返事を待っていたジニーはと云えば、龍吉と別れて約一年後の明治19年6月、同じスコットランド出身で16歳も年上の裕福な服地商人と結婚したという記録が残されています。
もっとも二人の結婚生活は長くは続かず明治29年、彼らの十年目の結婚記念日を前に夫は亡くなってしまいます。
二人の間に子供が生まれた形跡もなく、何故かその一家の墓にはジニーの母親と夫しか埋葬されておらず、その後のジニーの行方は、生まれ故郷の記録や結婚後の住所地などの記録を追っても、杳として知れません。何処か遠くで再婚して幸せになったのか、それとも。。。
龍吉の人生も順風満帆とは言い難く、横浜の巨大ドックは完成したものの、財務状況が悪化。龍吉は自ら辞任し、その後は少年時代からの夢だった農業に打ち込みます。軽井沢で本格的な欧米人向けの野菜を育て始めたのは龍吉だと考えられています。
後に渋沢栄一に乞われ函館ドックの再建も依頼されますが、その地でも龍吉は農業に励みます。アメリカやイギリスから様々な西洋野菜の種を注文し、どの苗が北海道の大地に根付くのかの精細な観察記録を残し、遂に「ある野菜の苗」が非常にこの地に適していることを発見します。
さて、ここで今回のクエスチョン。龍吉が輸入し、現在では北海道を代表するようになった「ある野菜類」とは一体なんでしょう? 
ヒントとしては現代の日本人で「それ」を食べたことがない人は殆どいないと思いますし「その名前」は「龍吉の身分」に由来するものだったりします。

【異文化交流クイズ】【3-3回答】恋人と会えない寂しさを紛らわすために日本人留学生が熱中した器具は?

2021-02-18 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ、サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第3回の問題は、龍吉がジニーと会えない日に夢中になっていた、現代の我々ならば理科の授業で一度は使ったことがある「器具」とは一体何だったでしょうか? という問題でした。
『今夜は何をしているのですか? 顕微鏡を覗き込んでいるのかしら? それとも実験の準備で蝿の頭をちょん切るのに忙しいのかしら? ねえリオ、良心が重荷を背負っているのに、どうして安らかに眠ることができまして? 死んだ蝿の霊が夜中、自分に取り憑いたりしないかと怖くなったりしませんか? 冗談ではなく、可哀想な蝿に心から同情しますわ』
と云うことで、今回の正解は・・・『顕微鏡』でした。
しかし「顕微鏡を見るのが、最近の趣味です」と恋人に書き送ってみせる龍吉の神経というのは、意外と図太いのか、それとも既に鬱が入ってきていたのか、微妙な所があります。
さて、話を本筋に戻しまして。
当初の予定より一ヶ月早く、龍吉が「横浜丸」で6月には帰国するということで、ジニーは慌てて勤務先から一週間の休みを貰い、二人は半年ぶりの再会を果たします。
この日を忘れない為に二人は互いの写真を撮ったようですが……手紙はかなりの数が保存されているにもかかわらず、ジニーの写真だけは龍吉の遺品の中からただの一枚も発見されていません。
二人が最後にあった翌日、横浜丸はドックを出航し倫敦に向かいました。ジニーは埠頭に立ち、龍吉を見送ります。
『ああ、愛しい貴方。貴方がそんなに遠くにいるのかと思うと、とても寂しくなります。でも夕方になって静かに貴方のことを考える時間が出来た時、私は神様に貴方を祝福して下さるように、貴方を導いて下さるようにお願いするのです。すると、まるで私が貴方からさほど遠くないところにいるような気持ちになります。
もし嵐が来るようなものなら私は惨めな思いをするでしょう。だった私の「水平ラディー」は海にいるのですもの。貴方の航海が順調な天候に恵まれるよう心から希望します。貴方のために心を込めて祈っています。
私の愛しい人。私はいつまでもあなたのものです。』
そして龍吉が倫敦に向かった後も二人は結婚に向けての相談、東京や横浜の川田家への連絡先など打ち合わせを続けます。……その別れが永久のものなると気付かぬままに。
ジニーからの最後の手紙の末尾には次のように書き記されています。
『私を思い出して下さるものを何か差し上げようと考えたのですが、貴方は何でもお持ちのようなので何が良いのか分かりません。それに気の利いたものを作る時間もありませんでした。ですから小さな日課の聖句集を送ります。私のためにこれをいつも傍に置いて下さい。貴方への私の願いが全て叶えられたら、貴方はいつも幸せで祝福されることでしょう。
では、さようなら、貴方。そしてもう一度お休みなさい。私の心は、いつも貴方の許にあります。愛をこめて、ジニー』
・・・龍吉が帰国した後、ジニーから受け取った書簡はただの一通も残されていません。恐らく二人の結婚に強硬に反対した父、小一郎によって、龍吉の手に入る前に処分されたものだと考えられています。
次回、その後の二人の人生についてを。

【異文化交流クイズ】【3-2回答】スコットランド人女性と恋に落ちた日本人留学生が結婚の際に欲しがったものは?

2021-02-16 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ、サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第2回の問題は、龍吉がジニーと結婚するに当たって特に欲しいと願った、極めて高額で維持費もかかる「あるもの」とは一体何だったでしょうか? という問題でした。
『ねえリョウ、あなたが馬車のことで頭を悩ませないようにと思っています。私はあなたが馬車を持っていない方が良いと思っています。私が結婚するのは馬車じゃなくて、リョウキチさんなのですよ。馬車が無くても私は幸せでしょう。』
ということで、今回の正解は・・・『馬車』でした。
さて前回の最後で紹介したとおり、この年から18年後。東京牛込の屋敷に住んでいた龍吉は勤務先の横浜にまで通うのに人力車と汽車を乗り継いでいたのですが、明治34年の初夏。新橋近くで「米国ロココモビル会社日本代理店」という看板を眼にします。
ロココモゴルとは、ロコモティブ・モービル、即ち蒸気自動車のことであり、同社は本格的な蒸気自動車の輸入販売店でした。
龍吉は2500円(現在の価格だと約900万円)で自動車を購入、通勤に使うことにします。
かくして龍吉は日本人オートドライバー第一号となったのでした……と参考文献にはあるのですが、これに関しては多少不分明なところがあるようで。別の文献によると実際にはこの数年前に蒸気自動車は輸入されているのですが、それを購入した日本人のオーナーがいたのかは不明です。ヨーロッパで自動車が登場して間もなく自動車が複数日本に輸入された為、資料によって「第一号」がバラバラな状態だったようです。
さて、龍吉的には「結婚の引き出物」的意味合いだったであろう馬車の購入は断念したものの、二人は結婚の準備を着実に進めていくのですが……その悲しい顛末はまた次回のこのコーナーで。

【異文化交流クイズ】【3-2問題】日本人留学生とスコットランド人女性との恋

2021-02-15 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第2回。
明治16年スコットランドに造船留学中、本屋の店員の少女ジニー・イーディー(当時18歳)と知り合った川田龍吉。この二人の付き合いが如何なものだったか、からの出題です。
ジニーをエスコートして自宅まで送った龍吉は、彼女に先日付き合ってくれたことへの感謝の手紙を送ります。これが本格的な彼と彼女の一年半に及ぶ手紙のやりとりの始まりでした。
龍吉の死後発見された分だけでも89通。これは当然龍吉の手元に残されたジニーからの手紙だけであって、龍吉が彼女に送った手紙は数百通にも及んだ模様です。
お約束と云えばお約束ですが、夏目漱石の例を挙げるまでもなく、日本から英国への留学生達は不順な気候と孤独に悩まされ、心身共に病む者が多く、半年も保たずに帰国する者も多数いる中、龍吉の滞在期間は既に6年。不眠症と偏頭痛で悩まされ始めていました。
彼女はそんな龍吉にとって唯一人の相談相手になったわけです。
そして丁度ピッタリと云うべくか、ジニーは熱心なスコットランド自由教会に属する熱心なクリスチャンでした。
『木曜の夜、貴方は私があなたを導く天使だと手紙に書いて下さいましたね。でもリョウ、私はとうてい天使に値しません。だって、私はとても弱くて愚かで簡単に道を誤ってしまいそうなのですもの。でも私は正しく導かれるように、あなたのためになれるように祈ります。私たちの天のお父様はきっとこれを聞いて下さっているし、これからも聞いて下さるだろうと信じます』
ジニーは教会での活動と信仰の力を記すと同時に、龍吉の支えとしての責任を感じ、龍吉は感謝の気持ちを込めてジニーを守護天使とする願望を抱くようになっていきます。
彼らは週に二回、火曜と土曜の夜にデートをするようになりましたが、お互いの休日である日曜日には会うことが出来ませんでした。
理由は言わずもがな、日曜は安息日であり、教会に行かねばならない日だったからです。
ジニーは何度も教会に行くように勧めましたが、龍吉は遂に首を縦に振らず……その50年後、龍吉は彼の四男に次のような言葉を残したそうです。「耶蘇に入ったら、陛下に申し訳ない」と。
『惑わされないでね、リョウ。私を信じて下さい。キリスト教は神話ではなく真実なのです。楽しむべき人生であり、幸福なのです。どのような世界を与えるとか、奪うとか、そういうものではないのです』
そんな宗教観の違いはあっても、二人の間には結婚プランが徐々に形になっていきます。
ジニーがグラスゴー郊外の保養地へと龍吉を誘い、そこで短いながらも夏の休暇を共に過ごし、二人の気持ちはますます堅い物となります。
この直後のジニーの手紙には、キスマークさえ記されています。そして龍吉も「ジニーのことをより深く知る手助けとなるならば」と聖書を読むことには同意します。
さて、そんな風に結婚へと歩み出した二人ですが「その為にも」と龍吉は「あるもの」が欲しいとジニーに告げます。
それは購入するのは勿論、維持するにも大変な金額を要する物であり、ジニーも「二人に不可欠な物じゃない」と龍吉に諦めるように告げるのですが……さて、ここで今回のクエスチョン。
この購入するのにも、維持するのにも大変な金額を要する「あるもの」とは一体なんでしょう? 
ヒントとしてはこの18年後、龍吉は東京で手に入れることになります。その「あるもの」そのものではなく、その進化型であり、日本に上陸したばかりの「それ」を。

【異文化交流クイズ】【3-1回答】スコットランド留学中の青年が現地で知り合った女性に頼み込んで貰ったものは?

2021-02-14 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。サードシーズン「異文化間に芽生えた愛情とすれ違い」第1回の問題は『スコットランドに造船留学経験のあった川田龍吉の息子が父の留学の40年後、その専用金庫の中に小さな小箱を見つけたものとは一体何だったでしょうか?』という問題でした。
今週の正解は・・・『髪』、しかも『金髪』でした。
全く龍吉からそんなことを聞かされていなかった彼の子供は、金庫を開け初めてその金髪を目撃した際にはさぞ驚いたことでしょう。
龍吉がその金髪の主と出会ったのはグラスゴー中央駅のすぐ側にあるマクギーチ書店。
読書好きだった龍吉が、若い女性店員に欲しい資料を告げたところ、残念ながら店には在庫はありませんでした。龍吉としては注文するとハッキリ告げたわけではなかったのですが、その店員は出版社に直接問い合わせ、結果を伝えるべく、わざわざ龍吉の下宿に手紙を出します。
これが川田龍吉とスコットランド人ジニー・イーディーとの出会いでした。
翌週末、龍吉は再び書店を訪れ、その本の注文を済ませると、ジニーと遅くまで話し込みます。そして龍吉は大胆にも彼女に家までエスコートしたいと申し入れ、ジニーは素直にその申し入れを受け入れます。つまるところ……この二人はお互いに殆ど一目惚れ状態だったわけですね。
そんな二人の熱愛振りは龍吉の死後、その蔵書の中に隠されるように保存してあったジニーからの手紙の束によって赤裸々に伝わってきますが……それは次回以降の御紹介で。

【異文化交流クイズ】【2-10回答】英米の『絵画主義写真』への日本美術の影響を定着させることに貢献した日系美術評論家の父親の国籍は?

2021-02-12 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ジャポニズム特集第10回は「英米の『絵画主義写真』への日本美術の影響を定着させることに貢献した美術評論家サダキチ・ハートマン。彼の父親は何処の国籍の持ち主だったでしようか?」という問題でした。
サダキチの父親の名前は『カール・ヘルマン・オスカー・ハルトマン(1840-1929)』ということで、今回の正解は・・・『ドイツ人』でした。
長崎で生まれ、ドイツのハンブルグで育ったサダキチ・ハルトマン(ハートマン)は、アメリカでの写真評論や美術評論も有名ですが、戯曲作家に俳優と、かなりマルチな活動をされていた人物だそうです。今日の日本ではほとんど知られていない人物ですが。
さて、これにて10週にわたったジャポニスム特集は終了ということで最後の総括の記述を。
まずジャポニスムが驚くほど素早く拡がった背景として、ルネッサンス期に誕生した近代西欧的な物の見方・考え方が、19世紀も半ばになってようやく脱構築しようと云う動きがあったことが挙げられます。
その際に利用されたのが、非西欧的な物の見方・考え方であり、ジャポニスムはその一角を占めたわけです。
この動きは「視覚芸術」においてより顕著であり「印象派絵画」という非常に分かりやすい実例があったため、芸術運動として表面上は映るわけですが、その実態としては、もっと日常生活に密着し、かつ生活の在り方・考え方にまで影響を及ぼすものであったわけです。
以下の評論は、日本美術と写実主義を代表するクールベに関する文章ですが、よく読むと日本美術の影響が、単純に絵画に留まらないことを示唆しています。

『日本美術の発見は同時にクールベの写実主義の平凡で生気のない側面を暴露した。決して空虚な物語という暗礁に乗り上げることのないこの才気あふれた国民は、絵画において、現実の断片の散文的な複写を拒否していた。
彼らのおかげで物質の重みから開放されたヨーロッパ絵画は、敏感で繊細になった。彼らは我々に、絶妙な省略の術や簡漸なデッサンの手法、線の特別な動きによる遠景描写の秘密、タッチの素早さ、モチーフを完成せず部分によって全体を喚起して見る人を驚かせ引き込む才能といったものを教えてくれた。彼らは芸術家たちに肉付けをデッサンし表現するための新しい方法を示唆した。必ずしも物の全体を表現せずとも、その物の印象を与える方法………。
彼らは我々に本質的なものにとどめられた簡潔な素描に対する嗜好を与え、単純な輪郭線に尽きることのない豊かさを発見させてくれた。さらに鳥瞰的な眺望に加えて、密集した集まりやグループや群衆を遠景に追いやって前景におかれた細部がそれを活気づけるという傾向(この配置はそう思えるほど有り得ないものではなく、写真によって確認されてさえいる)もまた、日本人に由来するのである。
日本の影響は、彩色においても構図やデッサンにおけるのと同じようにはっきりと現れる。職人たちを描いているクールベの絵はポローニャ派の法則である褐色の横溢と赤色の影が戸外の主題には向いていないことを証明していた。近代的な主題にはどんな油の痕跡もない新しいパレットが必要であった。ところで日本からやってきた作品は褐色が画家を作るのではないことを良い時期に示してくれた。それらはこれまで捉えられていなかった無限に変容する移ろいやすい光の現象を新しい見方で提示していた。それらの明るいハーモニーの甘美さは、研究され写し取られずにはいなかった。
これらすべての領域において、日本美術はヨーロッパ美術に真の革命を引き起こしている。』

少々ベタ褒め過ぎの感がないではありませんが、浮世絵に代表される日本の絵画が、絵の対象のみならず、絵を描く前提としての物の考え方にまで影響を及ぼしていることが読み取れます。もっとも更に穿って読んでみると、これって、殆どそのまんま「現在の漫画」の技法にも通じるんですよね。
「漫画こそ浮世絵の系譜を継ぐものなのかもしれない」と考えると、現在ヨーロッパでも漫画が親しく読まれることになったのは感慨深いことかと。
ただ最後にこれだけは確認ですが、かくして日本美術を取り込んだ西洋絵画ですが、浮世絵の技法に学びつつも、単純な模倣で終わるのではなく、それを更に新たな芸術に高め昇華していきます。それだからこそ後世に残る、後世の我々が見ても感動できる絵画が完成が出来上がったわけです(ちなみにこの動きをまさに体現しているのが、ゴッホですね)。果たして日本の漫画は、新しい芸術を生み出す母体たりえるのでしょうか?
以上、ジャポニスム特集でした。次回から新シリーズが開幕します。

【異文化交流クイズ】【2-10問題】欧米の美術・工芸にジャポニズムが与えた影響まとめ

2021-02-11 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ、ジャポニズムシリーズ最終回の第10回です。
最終回ですので改めて19世紀後半、日本の絵画、版画および工芸などが欧米の美術に与えた影響を纏めてみたいと思います。
ルネッサンス以来の理知主義に基づく、カメラ・オブスキュラにより得られるような透視画法や、遠近法的な空間表現はこの時代、行き詰まりを迎えていました。
まさにそんな時に、欧米の画家達は日本画や浮世絵と出会ったわけです。その出会いが如何に劇的なものであったのかは、1878年のパリ万博に際してエルネスト・シェノーが発表した「パリにおける日本」という評論の中で語られた、当時の画家達の反応で分かります。
『その熱狂は火薬の導火線の上を走る炎のような素早さで、すべてのアトリエに広がった。人々は、構図の思いがけなさやフォルムの知識、色調の豊かさ、絵画的効果の独創性と同時に、そうした成果を得るために用いられている手段の簡潔さを賛美して飽きることがなかった』。
この「構図の思いがけなさ」とは、シンメトリーを無視した構成、中心をわざとはずした枠取り、部分の大胆な強調、上から見下ろしたような俯瞰構図による画面の平面化など、いずれも西欧の伝統的な遠近法表現による構成では見られない種類のものであり、「フォルムの知識」については、西欧絵画の伝統的な肉付けを否定して輪郭線を強調した日本的なデッサン法が、クロワゾニスムや綜合主義、アール・ヌーヴォーなど、世紀末の絵画に広い影響を与えていきました。
さて、ここで大前提に戻って「何故」この時期になって絵画に新しい動きが生まれてきたかと云えば、勿論近代市民社会の成立などが背景にありますけれど、もっと直接的には「写真」の普及があるのかと(そんなことを直接書いている本はありませんが)。
その写真についても初期から理論書などが生まれますが、その最初期のものは「ルネッサンス期からの画像を作る効果を美学の観点から説き、主題や構図を模倣する」というものなのは皮肉な話かもしれません。
で、その歴史の繰り返しとしてからは必然なのか、写真についてもジャポニスムの影響が見られます。
ただ風景を切り取るのではなく「個」の表現を追求した「絵画主義写真」の中にその動きは見られるわけですが、この「写真におけるジャポニスム」の、アメリカでの中心人物の一人が美術評論家サダキチ・ハートマン。名前で分かる通り、日系人です。
彼はイギリスとアメリカを主に活躍の舞台として、ジャポニスムと西洋美術や写真との関係についての論文を発表。
当時のヨーロッパやアメリカで流行していた日本美による芸術的影響を「簡潔さ、装飾的抽象性、非対象性への好みによって、また空白に対する偏愛」と表現し、とりわけ英米の「絵画主義写真」への日本美術の影響を定着させることに貢献しました。
さてここで今回のクエスチョン。
このサダキチ・ハートマン、維新前夜の1867年、長崎で日本人を母親に生まれ、父親の生国である某国で育ち、その活躍の場をイギリスとアメリカに求め、1922年にはフィラデルフィアに居住。1944年にその地で波乱に富んだ生涯を終えていますが、彼の父親は何処の国籍の持ち主だったでしようか? 

【異文化交流クイズ】【2-9回答】ティファニーの勃興期と時を同じくする産業化の時代をアメリカ史では俗に『何時代』と呼ぶ?

2021-02-10 12:00:00 | クイズ
異文化交流クイズ。ジャポニズム特集第9回は「日本美術の影響を多大に受けたティファニーの勃興期と丁度重なる、南北戦争後の復興と産業化、資本主義の発達と富裕層が登場したこの時代を、アメリカ史では俗に『何時代』と呼んでいるのでしょう?」という問題でした。
今回の正解・・・『金ピカ時代』でした。別名は「金メッキ時代」とも云うわけで、要するに「金ピカ時代」というのは、あまり肯定的な表現ではないわけですね。
ちなみに原語だと“The gilded age ”。元々は「マーク・トウェインの小説のタイトルから」と云われているそうです。
実際この時代のティファニーの銀器は実際に使用すると云うよりも「観賞用」という側面が強かったようです。そういう意味では、モデルとなった日本の美術工芸品とは懸け離れてしまっていたわけですが、後にこの路線を方向転換させるのもまたこの「ティファニー」なのです。
その中心となったのが、ティファニー商会創始者チャールズの息子で、皮肉なことに「家業から離れ」フランスに留学し、画家としてステンドグラス作家として大成したルイス・ティファニーでした。云い方は悪いですが、日本のデザインの模倣でしかなかったティファニーの製品は、彼が開発したファブリル・グラス――表面が虹色に反映する古代ガラスの模倣であると同時に、藤、桜、芍薬、睡蓮、菖蒲などのモチーフと自然愛好、文様の構図、輪郭線、色彩感を日本美術から着想を―――によって、新たな芸術作品として昇華されることになります。
このことは彼が日本美術への敬意として、日本の帝室博物館(現在の国立博物館)にこのファブリル・グラスを寄贈していることからも分かります。
次回「ジャポニズム」特集最終回となります。