「おちょやん」最終回。胸にこみ上げる場面が詰め込まれていた。
これまでも、そういいう場面はたくさんあったのだが、最終週は別格だったように思う。夫であった鶴亀新劇場の座長・天海一平(成田凌さん)の不倫と、そのショックから舞台でセリフが飛んだ苦い体験から立ち直り、出演したラジオドラマ「お父さんはお人好し」が好評博し、役どころの「お母ちゃん」で人々に親しまれるようになった竹井ちよ(杉崎花さん)。
そのもとに鶴亀新劇場の社員・熊田(西川忠志さん)が訪れ、鶴亀新劇場への出演を頼み込む。鶴亀の竹井ちよとみんなに知らしめたいからだという。鶴亀新劇場を去ってから2年、意を固め、足を向けることができないでいた道頓堀に岡福を訪ね、お茶子のちよを育て支えた岡田家の人々や劇場座員と再会。養女の春子(毎田暖乃さん)が看護婦を夢見るものの、勉強ができないからと最初からあきらめていることを知り、熊田の願いに応えることを決意し、舞台に立つことになった。
演目は、セリフが飛んでしまった演目『お家はんと直どん」。鶴亀新劇場の最後の舞台となった演目だった。お家はん(ちよ)と直どん(一平)の絡みのシーンのセリフを少し加えたいというちよ。
例えば「あのままいっしょだったなら、どのような人生だったろうか」とか・・というちよに一平はいいんじゃないかと答える。
離縁は一平にも陰を落とし、新作をかけなくなっていた。ちよと一平がいっしょに暮らした寛治(前田旺志郎さん)は、劇団を投げ出そうとする一平に、格好つけずに丸裸になって台本を書けと叱咤激励され、ちよとの関係など赤裸々に折り込んだ新作ができあがり、公表を博した。一平もまた、ちよとの別れの傷を乗り越えていた。だからちよの提案を受け入れることができたのだろう。
とすると、「そないなこと考えてもしょうがないやないか」・・一平の受け答えを、「そうだすな。今ある人生それが全てだすな」と受け止めるちよ。この2人のやりとりを聞いて、〝そうだよなー〟と個人的にも響くところがあった。
最終回の14分程、その半分は、ほぼこの舞台のシーン、劇中劇が描かれた。お家はんと直どんの再会、そして先のセリフが続く。
「あのままいっしょだったなら・・」
「そないなこと考えてもしょうがないやないか」
「そうだすな。今ある人生それが全てだすな。別れてなかったら大切な人に出会うことも、愛する子ともであうことができまへんでしたわな。」
おそらく舞台は、ちよにとっての人生の再々出発の舞台ともなった。これまでの全てを受け入れ、新たな人生に歩み出そうとした。だからちよは、目を潤ませ、客席に視線を向けながらこういったのではないか。
「生きるっちゅうのは、ほんまにしんどうて おもろいなあ」
舞台を袖から見守る座員、鶴亀元社長の肖像画を掲げて演技を凝視する熊田・・彼はちよが関心を持った舞台「人形の家」の台本をプレゼントし、女優への最初のきっかけを作り、また、ちよの転機に立ち会い、女優の成長を見守り続けた人だ・・そして一平の再婚相手となった
客席にはちよの母親サヨ(三戸なつめさん)、そして父のテルオ(トータス松本さん)、弟のヨシオ(倉悠貴さん)が立つ。みなさん既に鬼籍の方々だ。「ちよー」と大きな声をかけ拍手する。観客席にも拍手が広がる。そして、舞台袖には、それぞれの思いで舞台上を見つめる人々の姿。
シーンは変わり、「私、看護師になりたい。いや、看護師になる」と決意した春子。手をつけたことがなかった宿題をとにかくて解き登校する春子と一緒に出かけるちよに、通りかかる人たちが「おかあちゃん」と声をかけ明るい朝のシーンで、物語は終わった。
週6話から週5話に変更し、物語は足早に進むため、状況設定に説明不足を感じることがあった前作のエール。今作では、ここらの状況をうまく簡略に描かれ、そこらの違和感はなくなった。
また、前作同様、戦争と戦後の社会状況が描かれる場面があった。
前作は、作曲で戦争を鼓舞し、戦場に送り出された若者たちが犠牲になっていたことを知り、その罪の意識から作曲から遠ざかった作曲家・小山裕一の姿が描かれた。慰問に出かけた戦場で、戦闘に巻き込まれ、恩師の死に直面した裕一のエピソードで、朝ドラで戦場が描かれたのは初めてと話題になった。
今作は、戦争前夜に舞台芸術まで民意統制に利用され、ちよが女優になるきっかけの1人となった女優と演出家のソ連亡命が描かれ、また、座員の出征と空襲に襲われた大阪の町、そして、関係者の戦死の悲しみ、寛治の満州への渡航と帰国という形で戦争が描かれた。
座員の戦死に自責の念にさいなまされ、一平が酒におぼれた。自らが戦争を主導したわけでも、戦場に出たわけでもない。しかし、愛国芝居を創作・上演することで戦争に荷担した。その思いが市井の者を苦しめた。そのことがが描かれたわけだ。
近現代に題をとった長編ドラマは、どうしても戦争と、その戦争との関わりを避けて通れない。2作続いてほぼ同時代を描いた朝ドラだったが、それぞれが、市井の人々が戦争で受け取ったダメージと、そのダメージから人々がいかに立ち直り、戦後の時代を歩み始めたかが描かれた。そこに共通した物は、戦争は、その戦争の時代に付き従った者も傷つけるということ、戦争の犠牲も含め、このような悲惨な体験を繰り返してはならないというメッセージだったと思う。
このドラマは、子のちよが新しい暮らしを手に入れようとするたびに登場し、ちよを食い物にするテルオの悪逆非道の父親ぶりに、2度、3度を胸を掻きむしりたくなる程やるせなさを感じ、しかし、その思いを乗り越える、周囲の人々の思いやりに溢れたストーリー、何よりもたぶん杉崎花さんの演技に見せられた思いがある。
よく連ドラが終了すると、○○ロスという言葉が聞かれる。しかし、今回、視聴率が振るわない(といっても17%以上程度はあったので、そんなことはないと思うのだが)ためなのか、おちょやんロスという言葉は聞かれない。しかし、私自身はおちょやんロス。ちよとちよをめぐる人々の物語、もっと見続けていたい。終わらないで・・そんな思いだ。
これまでも、そういいう場面はたくさんあったのだが、最終週は別格だったように思う。夫であった鶴亀新劇場の座長・天海一平(成田凌さん)の不倫と、そのショックから舞台でセリフが飛んだ苦い体験から立ち直り、出演したラジオドラマ「お父さんはお人好し」が好評博し、役どころの「お母ちゃん」で人々に親しまれるようになった竹井ちよ(杉崎花さん)。
そのもとに鶴亀新劇場の社員・熊田(西川忠志さん)が訪れ、鶴亀新劇場への出演を頼み込む。鶴亀の竹井ちよとみんなに知らしめたいからだという。鶴亀新劇場を去ってから2年、意を固め、足を向けることができないでいた道頓堀に岡福を訪ね、お茶子のちよを育て支えた岡田家の人々や劇場座員と再会。養女の春子(毎田暖乃さん)が看護婦を夢見るものの、勉強ができないからと最初からあきらめていることを知り、熊田の願いに応えることを決意し、舞台に立つことになった。
演目は、セリフが飛んでしまった演目『お家はんと直どん」。鶴亀新劇場の最後の舞台となった演目だった。お家はん(ちよ)と直どん(一平)の絡みのシーンのセリフを少し加えたいというちよ。
例えば「あのままいっしょだったなら、どのような人生だったろうか」とか・・というちよに一平はいいんじゃないかと答える。
離縁は一平にも陰を落とし、新作をかけなくなっていた。ちよと一平がいっしょに暮らした寛治(前田旺志郎さん)は、劇団を投げ出そうとする一平に、格好つけずに丸裸になって台本を書けと叱咤激励され、ちよとの関係など赤裸々に折り込んだ新作ができあがり、公表を博した。一平もまた、ちよとの別れの傷を乗り越えていた。だからちよの提案を受け入れることができたのだろう。
とすると、「そないなこと考えてもしょうがないやないか」・・一平の受け答えを、「そうだすな。今ある人生それが全てだすな」と受け止めるちよ。この2人のやりとりを聞いて、〝そうだよなー〟と個人的にも響くところがあった。
最終回の14分程、その半分は、ほぼこの舞台のシーン、劇中劇が描かれた。お家はんと直どんの再会、そして先のセリフが続く。
「あのままいっしょだったなら・・」
「そないなこと考えてもしょうがないやないか」
「そうだすな。今ある人生それが全てだすな。別れてなかったら大切な人に出会うことも、愛する子ともであうことができまへんでしたわな。」
おそらく舞台は、ちよにとっての人生の再々出発の舞台ともなった。これまでの全てを受け入れ、新たな人生に歩み出そうとした。だからちよは、目を潤ませ、客席に視線を向けながらこういったのではないか。
「生きるっちゅうのは、ほんまにしんどうて おもろいなあ」
舞台を袖から見守る座員、鶴亀元社長の肖像画を掲げて演技を凝視する熊田・・彼はちよが関心を持った舞台「人形の家」の台本をプレゼントし、女優への最初のきっかけを作り、また、ちよの転機に立ち会い、女優の成長を見守り続けた人だ・・そして一平の再婚相手となった
客席にはちよの母親サヨ(三戸なつめさん)、そして父のテルオ(トータス松本さん)、弟のヨシオ(倉悠貴さん)が立つ。みなさん既に鬼籍の方々だ。「ちよー」と大きな声をかけ拍手する。観客席にも拍手が広がる。そして、舞台袖には、それぞれの思いで舞台上を見つめる人々の姿。
シーンは変わり、「私、看護師になりたい。いや、看護師になる」と決意した春子。手をつけたことがなかった宿題をとにかくて解き登校する春子と一緒に出かけるちよに、通りかかる人たちが「おかあちゃん」と声をかけ明るい朝のシーンで、物語は終わった。
週6話から週5話に変更し、物語は足早に進むため、状況設定に説明不足を感じることがあった前作のエール。今作では、ここらの状況をうまく簡略に描かれ、そこらの違和感はなくなった。
また、前作同様、戦争と戦後の社会状況が描かれる場面があった。
前作は、作曲で戦争を鼓舞し、戦場に送り出された若者たちが犠牲になっていたことを知り、その罪の意識から作曲から遠ざかった作曲家・小山裕一の姿が描かれた。慰問に出かけた戦場で、戦闘に巻き込まれ、恩師の死に直面した裕一のエピソードで、朝ドラで戦場が描かれたのは初めてと話題になった。
今作は、戦争前夜に舞台芸術まで民意統制に利用され、ちよが女優になるきっかけの1人となった女優と演出家のソ連亡命が描かれ、また、座員の出征と空襲に襲われた大阪の町、そして、関係者の戦死の悲しみ、寛治の満州への渡航と帰国という形で戦争が描かれた。
座員の戦死に自責の念にさいなまされ、一平が酒におぼれた。自らが戦争を主導したわけでも、戦場に出たわけでもない。しかし、愛国芝居を創作・上演することで戦争に荷担した。その思いが市井の者を苦しめた。そのことがが描かれたわけだ。
近現代に題をとった長編ドラマは、どうしても戦争と、その戦争との関わりを避けて通れない。2作続いてほぼ同時代を描いた朝ドラだったが、それぞれが、市井の人々が戦争で受け取ったダメージと、そのダメージから人々がいかに立ち直り、戦後の時代を歩み始めたかが描かれた。そこに共通した物は、戦争は、その戦争の時代に付き従った者も傷つけるということ、戦争の犠牲も含め、このような悲惨な体験を繰り返してはならないというメッセージだったと思う。
このドラマは、子のちよが新しい暮らしを手に入れようとするたびに登場し、ちよを食い物にするテルオの悪逆非道の父親ぶりに、2度、3度を胸を掻きむしりたくなる程やるせなさを感じ、しかし、その思いを乗り越える、周囲の人々の思いやりに溢れたストーリー、何よりもたぶん杉崎花さんの演技に見せられた思いがある。
よく連ドラが終了すると、○○ロスという言葉が聞かれる。しかし、今回、視聴率が振るわない(といっても17%以上程度はあったので、そんなことはないと思うのだが)ためなのか、おちょやんロスという言葉は聞かれない。しかし、私自身はおちょやんロス。ちよとちよをめぐる人々の物語、もっと見続けていたい。終わらないで・・そんな思いだ。
※写真は全てNHK連続テレビ小説「おちょやん」のテレビ画面を撮影させていただきました。
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