伊藤浩之の春夏秋冬

いわき市遠野町に住む元市議会議員。1960年生まれ。最近は遠野和紙に関わる話題が多し。気ままに更新中。

講演会を聞いてきた

2020年11月03日 | 政治
 開かれた講演会は、「市民と野党の共同の礎~「立憲主義」の根源に迫る~」と題され、日本共産党中央委員会付属社会科学研究所に所属していた市橋秀泰さんが講演した。

 チラシには、
1.マルクスエンゲルスと立憲主義
2.レーニンと立憲主義
3.市民と野党の共同と立憲主義
と講演内容が紹介されていた。

 これを読んで、市民と野党の共同に関する理論的な背景について話されるものと勝手に思い込んでいたが、その勘違いは講演開始とともに打ち砕かれた。講演の要は「共同の礎」の言葉にあり、市民と野党が共同しながら自民党政治と対決することがめざされるきっかけになった安保法制、その背景にある破壊される立憲主義が、マルクス・エンゲルスの時代から重視されてきたことを明らかにしようとする講演だったのだ。

 それを知って心の中で苦笑いをしたが、講演には学び新しく知ったことも多かった。

 まずは資本論の著者であるカール・マルクスが、新聞記者として生活の糧を得ていたということ。
 昨年4月まで数十年共産党に所属していたにもかかわらず、そんなことも知らなかったのかとの後ろ指を指されそうだ。これまで知っていたのは、マルクスの盟友であるフリードリッヒ・エンゲルスが実業家で、その資金的援助を受けながら資本論を記したという事のみだった。マルクスは何をして収入を得ていたのか。心の片隅に疑問がおきりのようにくすぶってはいた。その疑問が、きょう解消したわけだ。

 また、レーニンの誤りも知ることができた。これは後述する。

 市橋さんは、昨年暮れに「立憲主義をテーマにマルクスとエンゲルスを読む」(東銀座出版社)を出版している。この本を執筆したきっかけは、安保法制にあったという。



 現日本国憲法下で、個別的自衛権の発動のみ可能という憲法解釈が集団的自衛権行使が可能と変更され、国民的反対の声がわき上がる中で安保法制が強行可決された。これに対して共産党が「立憲主義の回復」を呼びかけた。これに対して夕刊フジが「そもそも立憲主義と共産主義は相容れない」とする論評を掲載した。ほぼ1ヶ月後のことだったという。

 市橋さんは、ではマルクスとエンゲルスはどうだったのかを、マルクス・エンゲルス全集を検索して調べてみたという。その結果、彼らは立憲主義を推し進めようと活動していたことを証拠づける記載ばかりが見つかった。これが出版のきっかけになったのだという。

 さて、マルクス達はどのような主張をしていたのか。
 1800年代に、ドイツで人々が要求する憲法制定と検閲廃止を国王が受け入れを表明し、感謝して集まった人々に国王軍が発砲したことをきっかけにしたドイツ3月革命を受け、ドイツ全体の憲法を立案する国民議会が開かれたものの、国王は武力でこれを解散させ欽定憲法を公布した。国王は不可侵、執行権、軍の最高指揮、議会に対する開閉・解散権など国王の権限を温存するための者だったが、市民左派と呼ばれる人々は評価し「革命を継続しない」と表明しながら、一方では望みは「真の民主的=立憲的な秩序」だとした。
 
 「民主制の機関紙」として新ライン新聞の発行を始めていたマルクスらは、この左派の動きを、「何らかの民主制、しかもまた何らかの立憲主義」など、「みなさんが望んでいる者ものはどれも、もう1回新しく革命を起こすことに寄ってしか手の届かないものばかりだ」と批判しているという。

 このようにマルクス・エンゲルスは、立憲主義の確立を大切な課題としていたことを説明した。

 ところが、マルクス・エンゲルスの考えを引き継いだレーニンは過ちを犯した。
 諸国で生まれた立憲主義は、権力を鎖につなぐとの考えのもと「代議制度と執行権力の制限」を内容とした。議会には立法権や予算承認権、主要人事承認等を与えた。

 一方、帝制を倒し共産党が権力を握っていたロシアでは、植民地の再分割を求めて第1次世界大戦が勃発するなどの情勢を受けて、戦争に熱狂する状況があった。召集した議会議員も同様だったために、平和を希求するレーニンは議会を解散してしまう。一方、ソヴィエト(話し合いのことだという。どんなものかは、中国の全人代を思い起こせば良いかもしれない)が組織され、議会は否定されソヴィエトが一般化されてしまった。

 こうした歴史が、先の夕刊フジの「立憲主義と共産主義は相容れない」の根拠となっているわけだ。

 この議会の否定が誤りであったことは、今や歴史的に検証されたていると説明する。

 たしかに今時、共産主義を標榜する勢力だって、議会制民主主義と立憲主義に基づく社会の仕組みの中で、資本主義における搾取の自由を乗り越えた新しい社会に向けて前進させていこうと言っている。夕刊フジの論評のように、この変化を踏まえずに古いレーニンの誤りを根拠にレッテルを貼ること事態が誤りだろう。そこは納得だ。

 さて、講演は進み、第二次世界大戦から憲法九条の制定への経緯が説明された。
 「戦争の放棄」「戦力の不保持「交戦権の否認」を定めた憲法九条が、米軍統治の日本で立案され保守政権によって積極的に制定されていった。その後、保守勢力によって解釈改憲が重ねられ、事実上の戦力を保有するまでに至っている事態から、この事実を想像することは難しい。しかしそれは事実なのだ。

 憲法制定の帝国議会で、当時の吉田茂首相(自由党)は、憲法九条に関して次のような発言している。
 日本が、自衛権の名の下に戦争を進めたことによって好戦国で再軍備をしかねないとみられている誤解を解き、また、この疑惑が根も葉もないものとも言えないので、「我が国に於ては如何なる名義を以てしても交戦権は先ず第一自ら進んで放棄する。放棄することによって全世界の平和の確立の基礎を成す、全世界の平和愛好国の先頭に立って、世界の平和確立に貢献する決意を先ずこの憲法に於て表明したいと思うのであります」。

 この九条が盛りこまれた背景に「九条がなければ陛下が危ない」という理由があったという。なるほどの感があった。戦後の日本を占領し管理するための最高の政策決定機関は極東委員会だった。そのメンバーにはソヴィエトなどがいた。これらの国に天皇制の継続を納得させるために憲法に入れたというのだ。

 憲法九条の精神は、日本の自由民権運動以来の民間憲法草案にその萌芽が見られるなどから日本生まれだという。しかし、この間接的な立証にとどまらず、幣原喜重郎首相がマッカーサーに「戦争放棄」「軍備全廃」「交戦権放棄」を提案した結果、明文として日本国憲法に規定されたことが明らかになっている。この時、象徴天皇制も合意されたという。天皇制と憲法九条がセットで憲法に規定されることになったというのは、ソヴィエトなどを納得させるためという説に説得力を持たせるようだ。

 こうして生まれた日本国憲法も、1948年5月18日の米国の覚書「日本の限定的再軍備」によって骨抜きが狙われ、再軍備が進んだ。覚書には、「わが国(米国)の人的資源の利用における節約という効果」等を狙って、「米国によって組織され、初期の訓練を受け、厳格に監督」された「軍隊」が、「治安維持」「外部からの侵略に対する地域的な防衛行動」「国家的威信の回復への貢献」などを目的として活動することが明記されている。再軍備によって生まれた自衛隊は、イラク戦争に派遣され、さらに活動の幅を広げるため集団的自衛権行使の憲法解釈が閣議決定され、安保法制が制定されてきた。

 1980年にレーガン政権のもとで、新自由主義的経済政策が導入され、以後、ほぼ10年周期の経済循環に陥り、自国主義が台頭し、米中の対立が強まってきている。こうしたもとで日本に問われているのは「憲法と法治主義虫の暴走か、憲法が生きる日本か」だとして市橋さんは、日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国であるドイツが、戦後処理を着々と進めながらEUの発展に貢献していることをあげていることを紹介しながら、「日本もこの道を進むべき」として、北東アジアにEU等のような地域共同体を立ち上げるための日本の役割発揮を訴えた。

 たしかに、震災後、2013年5月にドイツで再生可能エネルギー導入の市民の取り組みを視察旅行した際、この旅行を企画した現地日本人ジャーナリストに、ドイツが資金面も含めてEUに多大な貢献をしていることを聞いていた。その時にドイツと日本の戦後の歩みの違いを痛感したが、今日のお話を聞きながら、その時の思いをあらためて思い出した。

 さて、今日の講演は、市民と野党あるいは野党間の共同の出発点になった安倍自公政権による立憲主義破壊に関する者だった。講演にもあったが、菅首相が、過去の法解釈から逸脱し、日本学術会議から推薦された会員のうち6人を任命しないという法治主義に反する暴走が続いている・・というか、拡大している状況だ。こうしたもとで、政治を変える力は、立憲主義に日本の政治を立ち返らせようといする、市民と野党、そして野党間の共同を広げるということにあるだろう。

 ただ、私の場合、複雑な思いもある。少なくとも、共産党地区委員会の代表となる者は、私が離党する原因の一つとなった、民間の事業に関わって共産党が住民の嘘の宣伝をして、その嘘を隠すために能動的に関わった者だからだ。率直に反省を出来る人間ならばともかく、まともな反省もしない。人として信頼できない者を、政治家として信用できるはずがない。政党には所属しない私ではあるが、野党共同がまともな人でまとまることを期待したいなぁ。


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