倉敷・大原美術館横「似顔絵・宏プロ」

倉敷・大原美術館横で長年・似顔絵を描き、お世話になっている者です。

倉敷にがおえエレジー 95回似顔絵の歴史⑤

2004-11-16 18:23:38 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
さて西洋に目を転じ、問題を肖像画に限らずジャンルとしての意味でたんなる人物画にまで広げれば、文明が芽生えるとたちまち太古より、それがどんな荒削りなものであれ、石に彫られ、形作られ、刻まれ、あるいは物の上に描かれた人物画が現れる。
 例えば最初の文明として知られるシュメール文明では紀元前四千年にシュメールの女人像が作られているが、我が日本の埴輪と同じく葬礼用であり、肖像画とは言えないだろう。後に古代社会に階級と権力が生じてきたとき、それらの象徴として形象が作られ、あるいは描かれてきたが、これらも個人の存在を表現するというよりは、それぞれの位階・身分を示す類型的形象であった。
 やはり個人的特徴が描かれる様になるのは、日本の雪舟の出現と同じく十五世紀のルネッサンスからであろう。
 この頃はブルジョア階級の勃興と、これに伴う個人の自我の確立にともなって性格を正確に示す細密なリアリスティックな肖像画が現れてきたのだ。
 十六世紀にはティツィアーノ、デューラー等、個人の内面を洞察し、象徴的にこれを表現しょうとする精神性の深い肖像画が描かれるようになったが、この発展途上に十七世紀のレンブラント、ベルニーニなど、光と影の助力を得て精神性と時間性を示す個人表現は頂点に達するのだ。
 また個人の精神性に価値を置く十八・九世紀にはいずれの国においても肖像画の全盛期であったが、十九世紀末の写真の登場が長い肖像の歴史を大きく変化させた事は絵に興味ある方ならご存知の事で、しかし、ここではここではあくまで似顔絵の歴史で肖像写真は黙殺する。



倉敷にがおえエレジー 90回似顔絵の歴史③

2004-11-14 19:37:48 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
 さて江戸から明治へ時代が変わると、日本人がそれまで知らなかった事物が無数に到来した。絵の世界も例外でなく明治政府が招聘したイタリア人画家キョソーネが描き出した肖像画には無視しえない程の大きな影響力があったといえる。
 それは彼のアカデミックな描法と緻密なコンテ画で明治天皇や元勲達を描いたモノだが、モデルの実在を超えてリアルな印象を見る者に与えるモノであったのだ。
 初代・五姓田芳柳などは西洋画の普及奨励を希念して、門人ともどもと描いた油絵を明治七年の夏、当時、浅草奥山一帯の興行師の取り締まりをしていた新門辰五郎の了解のもとに油絵興行の小屋かけを拵え開業した事だ。木戸番、口上言、囃子方等の陣容も整い、まず場内で、口上言が陳列画の詳しい説明に始まり「よくお目に止めてご覧下さい」巧みに述べれば、見物人は成る程と感激して「画がものを言いそうだ」「今にも動き出しそうだ」着物は本人の切地だろう」等と口々に驚嘆の目を見張ったという。
 もっともここでの油絵は、泥絵具にニスを引いただけの代用油絵であった。しかしこれを見た人々は描かれたものをリアルだと感じたのは、線的遠近法や陰影法を含めて、様々な描写法によって表現された世界を写実的だと感じる認識の方法を、彼等がすでに自然に身に付けていた事を意味する。と同時に彼らは今までの例の「引き目、釣り鼻」という様式化された権力肖像に飽き飽きしていたのであろう。

 あえて言えば大久保利通や伊藤博文等、明治の元勲や権力者をいくらテクニック上手に描いていても共感を得なかったであろう。それは、そういう肖像は国家体制の一環としての表現であり、そもそも「国家」とか「権力」という存在ほど実体のない、また曖昧なモノでない事を肌で嗅ぎ取っていたのだ。ヒットラーやスターリン、毛沢東の肖像画の様にである。
 反面、北沢楽天や岡本一平の風刺似顔絵は本質的には民衆の立場に立った絵画であり、反骨の矢を持っていたから民衆は喝采を送るのだ。

 それらの風潮に浅井忠、石井拍亭、坂本繁二郎、池部釣、川端龍子、東郷青児等有名画家も参加。
 変わった所では尾崎鍔堂の長子・彦麻呂。島崎藤村の息子・鴎助の胎頭により時の権力より弾圧。あの忌まわしい戦争に利用されていく。

 極論すれば何時の世も人は反骨精神を忘れたら駄目だと言うことだ。
 それは人々も濁るし、権力も腐敗するからだ!


  次号 似顔絵の歴史 !)


倉敷にがおえエレジー 89回似顔絵の歴史②

2004-11-13 18:51:32 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
では「エカキ」という言葉は何時から使われたのか。「日本書記」の雄略記七年の件には、百済から多くの技術者が渡来した時、陶部高貴(すえつくりこうき)鞍作堅貴(くらつくりけんき)等の中に画部因鞍羅我(えかきいんくらが)といって画部を「エカキ」と読ませているのが最始であろう。
 ただし彼等は律令制化の権力組織に隷属的な部民集団で、あの高松塚古墳壁画に見られる様に全ての顔は「引き目釣り鼻」で個性は表現されていない。つまり顔は個性的に描くのではなく、いわば権力そのものを描くことが様式美と確立されていたのであろう。
ところが八百五年に唐から帰る空海が、当地の画家・李真に描かせた真言宗の祖師五人の肖像画は迫真的、写実的であったが為、日本の大和絵に受け入れられ「似絵」と呼ばれる肖像画が誕生する。
 鎌倉時代に入ると「似絵名人」と言われた藤原隆信、その子の藤原信実に到っては「似絵描き大名人」と尊称された人々が出るが、源頼朝像や平重盛像を描く延臣画家の手では面白くない。

 ところが面白い資料が見つかった。
 それは鎌倉時代の最末期、浄土真宗の仏光寺派では絵系図というものを作った。「現存の時よりその面像を写して、末の世までその形見を残さん」という事で、念仏を求めて入信した人達の絵姿を描き、絵による入信譜を作った。なにしろ自分の顔や姿、名前が書き残されるのだから、我も我もと入信し、そのため仏光寺は門前市をなすのだ。
 反面本願寺の方は閑古鳥が鳴いたというのも「似絵」の大勝利で、しかもこの絵系図の場合には入信者が庶民で、これは注目に値し「個」への関心が強まってくるのだ。
 十五世紀には後世から画聖と仰がれた雪舟のような人物が出てくるのだが、とくに石見の大名・益田兼堯の肖像は個性の追求として秀逸の一つである。と同時に画面に「雪舟筆」と署名した事だが、それは彼が独立した画人の行為と自己の作品である事を宣言したことだ。ちなみに彼は岡山総社の生まれであるが、その後、やはり岡山藩の儒者であった浦上玉堂、田原藩士渡辺崋山等、次々台頭してくるのだが、十五世紀という時期に日本絵画史に「近代」を予兆するような、これだけの重みを持つ画人の出現した事は大いに驚きに価する。他に「似顔絵」の言葉を始めて使った浮世絵師・東州斎写楽に言及したかったが、あえて走り抜ける。



倉敷にがおえエレジー 87回本出版3

2004-11-11 12:19:22 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
ここに玉川しんめい氏が興味を抱き「日本ルネッサンスの群像」わ「エコール・ド・パリ野朗」等々辻は勿論、その周辺の大正期に活動した人々を描き続けるのが解かるような気がするのだ。何故なら、大正期は戦争と戦争の谷間で色んな思想が百花繚乱の如く跋渉していた時期だったからである。
 反面、現在は私的な情念や感覚をまったく受け付けぬ無味乾燥な文化であり、一切の人間がもはや主役でない事を物語っている時代だからである。況や玉川氏の師は中国に造望深く、ルポ・ライターという造語を最初に作ったのは竹中労氏であり、なんと師の「狂疾」を救ったのは大道似顔絵師と言うのだ。

 そのメフィトフェレスは一九四七年秋、師を山谷の家に招き、己の女房に春をひさがせる生活を開陳し、それでも本人は酒飲んで乱れず、世故に長け、仁義をわきまえ、男の情操において欠ける事なきますらおを見るにおよんで師の思想が一変するのだ。
 ちなみに師の父親は江戸川乱歩、夢野久作、横溝正史らの作品にシュール・レアリズム風のユニークな挿絵を
描いた人であり、と同時に無産者同盟のボスであったのだ。そういう事を聞き及んでいた玉川氏は現在の大道似顔絵師に相通ずるものを見、食指を動かしたといえば少々付会しすぎるきらいがあるだろうか。


 玉川氏がこの倉敷にやって来たのは昭和六十年四月初めで、美観地区の柳が小雨打たれ緑が鮮やかな日であった。それから約半月間、俺の書いていた「似顔絵ロマン太平記」を元に、削ったり、書き加えたりの作業が始まるのである。それは俺にとっては陣痛の時期といっても良かった。
 反面、一刻も早くこの自分自身の内にあるモノを明るみに取り出して見届けかったのだ。
 あえていえば、人は誰でも一生のうち、これだけはしておかねばならぬという主題を持って生きているのだ。途中どんな脇道の仕事をしていても、長い間筆をとらなくとも、頭の中では何時も主題の事を考えているものなのだ。
 それは執念と言ってもよいし、人を憂うる気持ちに近いといっても良い。
 故にその年の十二月にパン・リサーチ社より出版された時は、ある程度の精神安定を得たが、それに懲りず又、こうして駄文を書いている所を見ると、人間それほど簡単に情念の放棄は許されないのだろう。

 俺はまだ脳病の魔王に睨みつけられているのだ。


 次回 似顔絵の歴史!) 





倉敷にがおえエレジー 86回本出版2

2004-11-10 18:00:18 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
所が「縁あれば千里」という如く、一寸した事で知り合っていた作家・玉川しんめい氏に原稿のコピーを送っていた所、返事が来たのだ。
「面白く読みました。貴君の書いたのは
面白半分や趣味的な発想からではない。一人の人間がある時期に何かひたむきに信じ、闇の中の灯かりの様なものを求めて旅して歩いたという過程の物語に感動したのです。四月初めにそちらにまいりますので、もう少し発酵させ陽の目を見せる事に致しましょう。」とおっしゃるのだ。
 人間と言うのは何処でどうなるか分かったものではないが氏と最初に出会ったのは十数年前の富山市で、早稲田大学演劇部のOBがやっている茶店「ボロ」であった。
 その頃の俺はドサ廻りの真最中で相方はオランダのヤン君と初枝ちゃんであり、「人間ウオッチング」だと言っては食堂や喫茶店に入る時は俺一人が先に入り、バカな真似を演じて皆から顰蹙を買う頃、ヤンと初枝ちゃんが入り人の顔を伺うみたいな事をして喜んでいたのだ。そんな客の中に作家・玉川しんめい氏が居たわけである。しかし、驚いたのは俺の方で氏が「評伝・辻潤」の著者であると共に、俺も又、ダダイズムにのめり込んでいた時期であったのだ。


 余談だがダダイズムとはトリスタン・ツアラーがスイスで始めた芸術運動だが、第一次大戦後、文学、美術、演劇に強烈なる影響を与え、各国に燃え広がり、日本では大正九年「ダダとは未来の放棄である」と「万朝報」に紹介された。
 ダダの先覚者・辻潤、小説家の竹林夢想庵、前衛詩人の高梁新吉。又、この岡山出身のダダ新聞を発行していた吉行エイスケ等々が有名であるが彼等はソシアリト、デカダン、ニヒリスト、アナーキスト、エゴイスト、コスモポリタン等と一般に呼ばれたように、あらゆるものを包容し、否定していたものと思う。
 とくに加えたいのは辻潤をもって全訳されたマックス・スチルナーの「唯一者とその所有」である。その所有とは自我教であり「汝は汝の汝に生きよ」とか「万物は俺にとって無だ」であり、辻にとって唯一者とは仏教でいう即心即仏であって白痴浄土と解し、あらゆる虚偽的な外片が皆剥奪され、一見何も身につけていないルンペン状態にならなければ駄目であって、刹那を最も充実した生命的欲求において虚無において、そこから生まれる創造を発露出きるのである。

 たしかに彼は強力な精神と反骨の精神を維持し、戦争中も一切の協力態度を示さず尺八を吹いて門付けをして歩き、終戦前シラミに喰われて死ぬという自我教という精神を具現した人だったのだ。


倉敷にがおえエレジー 85回本出版1

2004-11-09 20:36:57 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
35 「似顔絵漂流記出版さる」

 俺は考えた。ユートピアン? ポンや丸尾氏のように、強い意志を持つユートピアンであればそれなりに立派だ。しかし、俺はそうじゃない。酒でも飲まなければ他人と話す事が出来ぬ、弱い情けないユートピアンだ。羞恥の狂言、凄惨な擬態を繰り返すユートピアンだ。まったく筋道も思想もない不潔の一句に尽きる矛盾だらけの男だ。又、どんな甘い夢を持ってしても、酒や女でも、それを押し静める事が出来ないものであった。

 その矛盾をどのように解決するか。それには先ず己の内に一杯詰まっているものを明るみに取り出し、ハッキリと自分の眼で見届ける事ではないか。
 全国を十数年ニガオエを描き跋渉した時の心情や見聞、色んな人達との出会い等、その一つ一つが俺との事項のつながり、互いの関係を明らかにする事によって、今までまったく混沌とした状態に置かれたまま出口もなく、迷路に嵌まり込んで己が打開できるのではないか。
己のなして来た行動をしっかり反芻し、それを正しく整理し、己の欲求が誤りなく発露する欲求が生まれてくるのは当然の事なのだ。キザにいえばその時は胸の内にあるものを全て吐き出してしまわなければ生きていけないと感じる瞬間であったのかも知れない。
 また俺の半生のあらゆる矛盾を燃焼せしめて一つの物語りを展開し、そこに俺の過去を埋没させ、そしてその物語の終わる頃を俺の後半生の出発点にしょうという、言わば絶望を切り捨て、絶望の墓を作り俺はそこから生まれ変わるつもりであったのだ。
  しかし、イザ書くだんになると一体何から手をつけてよいのか、まして文筆拙い門外漢がいくら気張っても原稿用紙はアクビをするばかりで、常に鼻先に「無謀」という字がチラつき、腰は砕け通しであった。
何回も挫折した末、ついには理想と能力は一致するものではない。俺は所詮ニガオエを描いて路上にひっくり返っておるしかないだと諦める矢先から、又「書け! 書け!」と一種の強迫観念に近いものに責めさいなまれるのである。それは実に激しいもので、どんな力を持ってしてもそれを押さえつける事は出来なく、又、どんな甘い夢を持ってしても、酒や女でも、それを押し静める事が出来ないものであった。




倉敷にがおえエレジー 84回縄文人・ポン3

2004-11-08 20:09:41 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
 とにかくこの人達にとっては、無我利に反対する右翼「松魂塾」の言う「政治結社」でも「宗教組織」でもなく、ポンの書いた「奄美革命論」を実践する所でもなく「自然と共に暮らす事、自然を破壊するような開発や人を不幸にする戦争に反対する共同体」を目指していたのだ。
 思うに彼等の共同生活は北欧で試みられている「福祉をテーマにした、羽田澄子監督の映画(安心して老いるために)で紹介された・・」に相通じるものがあるような気がする。

 それは複数の住居に、共用の保育施設や老人室、またフリースクールも設け、血縁関係に閉ざされる事のない人間家族を作ると言う事である。とくに驚くのは家賃が三軒合わせて月、数千円であり、九人の人間が月十万円程度の金で自給自足している事である。
 ある外国人が「今のの日本人は熱したフライパンの上で踊りまくっている様だ」と言ったがまさにその通りで、子供達は勉強に追われ、大人達は共稼ぎで夜遅くまで働いても「庭付きの一戸建て」はまず無理でその無理が家庭崩壊しつつあるのだ。それに引き換え弱い人達への配慮が行き渡っている無我利道場、この事だけでもユートピアの名に値すると思った。しかし残念ながら今はない。

 これからますます少年犯罪が増えるであろう。


 次号 丸尾氏よりユートピアを考える





倉敷にがおえエレジー 82回縄文人・ポン2

2004-11-07 23:35:27 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
山田ナオミさんの場合は、岡山・西大寺の出身で、東京において結婚に失敗。娘の万葉を抱かえて途方にくれていた所、ポンが現れ「俺と結婚して奄美でコミューンを作ろう」と彼女はその頃、丁度、アイヌの生き方や、エコロジカル方面、それと南の島への憧れとの波長があったのだ。

 坂本式子さんの場合は東京・下町の生まれで、大きくなるにつれ電力会社に勤める父親に批判的になるのは、それは父親が貴重な電力を供給して社会に貢献しているというより、核燃料をたれ流してはばからない悪徳企業に勤めていると思えてきたからだ。そこで和光大学を退学、奄美の住民運動を通して無我利道場の事を知り訪ねるのだが、そこでは人や物壊していかない有機農業の共同体の魅力に取り付かれるだ。

 この式子さんとカップルの北村真之さんは大坂生まれで、若い頃東京でロックコンサート等やっていたが、どうも大地に足が付いていない様な違和感を感じ旅に出る。彼が無我利にやって来たのは道場が誕生して二年目の七六年。その当時、枝手久闘争のまっただ中で、漁場権を盾に開発計画を阻止するという戦略に無我利の男達も加わっており、北村さんも加わったのだ。しかし、彼は言う「闘争とか政治的な意味より、奄美の自然に魅せられたのよ。最初の頃は漁の間でも海に見とれていたし、アブリ漁自体も面白かったよ」
 彼にとって無我利とは自然の中で生きる糧を得る厳しさ、緊張感、喜び、そして漁師としての
職業意識への目覚め、そんなかけがえのないものと出会う場であったのである。

 今野英樹さんも無我利にやってきてアブリ漁に加わった。彼もまた政治とか開発反対運動には興味はなかった。生まれ育ったのは北海道で調理師の免許を取った彼は日本とアメリカを往復する船に乗るのだが、単調な日々の中、先輩が持っていた山田魁也氏の機関紙「オーム」とか「人間関係」を見て感動するのだ。そして来てみると予想通り、毎日毎日が子供達と騒いだり、ユニークな人々がおりカーニバルの様に楽しかったという。

 無我利道場閉鎖のきっかけとなった右翼「松魂塾」のダンプカーが道場へ突っ込むのを身を挺して阻止した新井孝雄さんの場合も政治的には無関心だった。埼玉生まれの彼は都会に絶望し、たまたま立ち寄った無我利に心の生きがいを見出すのは久志の人達、無我利の人達、生活、自然が気にいったからだと言う。

 また典型的なジャパニーズビジネスマンの父親を持ち、慌ただしく、人が人を利用して押しのけ、本音も押し隠して生きる都会生活に疲れた伊藤貴子さんは無我利で元気を取り戻して住みつくのである。

 とにかくこの人達にとっては、無我利に反対する右翼「松魂塾」の言う「政治結社」でも「宗教組織」でもなく、ポンの書いた「奄美革命論」を実践する所でもなく「自然と共に暮らす事、自然を破壊するような開発や人を不幸にする戦争に反対する共同体」を目指していたのだ。
 思うに彼等の共同生活は北欧で試みられている「福祉をテーマにした、羽田澄子監督の映画(安心して老いるために)で紹介された・・」に相通じるものがあるような気がする。





倉敷にがおえエレジー 82回 無我利道場1

2004-11-06 17:28:21 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
その無我利道場には「来る者は拒まず、去る者は追わず」の気風のごとくヨソ者ヒッピーが大勢住みついたのだ。ところが若者の少ない「反公害宇検村村民会議」の老人達から大歓迎を受けるのは、それは枝久手闘争が若者不足で漁場権放棄の事態にまで追い込まれる可能性があり、ヒッピー達は利用されたというか直ぐ「アブリ漁」出るのである。
 反対派の老人やポンの考えでは枝久手闘争の最大の争点は、石油基地の埋め立てを阻止する為に、漁場権を確保する事であり「漁民が強い地区は闘争に勝てる」と言われている様に、奄美の戦いも海を守る闘いだたのである。またフーテンやヒッピー達もここに住み着いたのは、新宿のフーテン狩りからの脱出にもよるが、サラリーマンがヒッピーに対する興味を失い、自分達だけの関係性に閉じこもり、精神まで管理されてしまったからだ。それに金なしのヒッピー達の旅を可能ならしめ、その運動を蔭で支えていてくれていた長距離の運ちゃん達がマイカーの増加によってヒステリックになり、ヒッチハイカーを乗せる心のゆとりが無くなり、故に文無しでは旅も出来なくなり、腰掛け程度に無我利に住んでいたが、所詮思想のない者は長続きしなかった。
 ではここに長く住み着いた者はどんな人達で、どんな思いを秘めていたのだろうか・・・


倉敷にがおえエレジー 81回縄文人・ポン4

2004-11-05 20:18:35 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
32 平成の縄文人ポン?

 日本のヒッピーの聖地・諏訪瀬島はヤマハが金持ち専用の高級レジャーランド建設中で、建設省の許可も下りてないのにダイナマイトで多くのサンゴ礁を爆破するのを見かねてヒッピー達が立ち上がったのだ。
 音楽がメジャーであるヤマハに対して、ヤマハボイコット運動をフリー・コンサート。つまり目には目の形で各地で展開するのである。
 アメリカでもナナオ・サカキ。ゲリー・スナイダー。アレン・ギンズバーク等が中心になってヤマハボイコット運動が行われるのだ。

 しかし、何時の世も権力と金力の前には、負け犬の遠吠えみたいなもので、村の区長になったナンダとナーガ以外は野に散るしかなかったのだが天は許さなかった。
 巨大な自然破壊の上にヤマハが建設したレジャーランドは、オープン後僅か二年足らずで閉鎖し、空港の滑走路にはペンペン草が生え、宿舎は潮風でボロボロになり、植物園は再び竹藪
に占領されたという訳だ。
 この主人公・山田魁也氏は新たなヒッピー運動の展望を切り拓くため、諏訪瀬島の延長線上にある「南西諸島」の現状を彼の目で確かめる為のキャラバンを組織する。鹿児島から奄美大島の名瀬に渡った時、町には「技手久島石油基地反対」のポスターやステッカーがいたるところ張られていた。そこで反対運動の若手リーダー新元博文氏や橋口富秀氏に勧められ,久志に住み着くことになる。それは時、七五年八月のことでその家を無我利道場と名付けるのだが、無我利とは奄美の島言葉で、屁理屈、イチャモンの事だそうだ。何と適宜を得た言葉ではないか。




倉敷にがおえエレジー 80回縄文人・ポン4

2004-11-04 19:53:22 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
 止まれ! この事はまた重複するきらいがあるので、革命論を多く著作されている大田竜氏の言葉を借りる。
 「(奄美革命論)の中に詳しく書かれている様に、山田魁也氏は一九六0年代半ば頃から、日本における反文明的ヒッピーコミューン運動、部族運動、対抗文化運動の前衛の位置に居り、次にトカラ列島の諏訪瀬島にヒッピー道場を作り、またインドを放浪してインドに惚れ込み、さらにこの島の観光化を企図したヤマハ資本運動ボイコット運動をえて、一九七五年に奄美の宇検村久志に無我利道場を作り、反対派宇検村民と共に東燃
技手久島石油基地化反対運動を推進してきた。
 彼自身の言葉を借りれば、彼の軌跡はアメリカ起源の白人対抗文化、脱文明のヒッピーとして出発し、インド思想を経由して「奄美ナロードニキ」に脱皮したという訳だ」
 ところが度かさなる右翼「松魂塾」の襲撃等によって解体、彼は故郷の飛騨高山にボロを飾るのだが、屈することなく縄文人の発想からの「ヒダマ道場」のコミューンを作るのだ。
 思うに本来の共同体である村落共同体とか家族共同体というのは現在崩壊した。だけど人間は本来共同体的な存在であるという意味で共同体を作ろうと云う動きその物は、非常に人間的で本能的だと思う。しかし、今はその事も考えるのは止そう。

 踊るアホに見るアホゥ。同じアホなら踊らにゃソンソン・・・だからだ。


 次号 平成の縄文人ポン事・山田魁也氏 !)


倉敷にがおえエレジー 79回縄文人・ポン③

2004-11-03 19:23:17 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
さてこの仕掛け人・山田魁也氏の故郷は飛騨高山で高校中退後、京都で友禅染めの画工を五年続けていたが、ある日、京都河原町で大きな衝撃を受けるのだ。
 それは睦ちゃんという両腕のない絵描きが口に鉛筆を加え似顔絵を描いていたのを目撃したからだが、それは山田氏自身「せむし」という障害の劣等感を秘めていたからだと思う。
 しかし、この時より彼は自分の肉体的なマイナスを、精神的なブラスに逆転出来るはずだという信念と、自分は特別に選ばれた天才なのだという自負心と、使命感が湧き上がるのだ。丁度哲人キルケゴールが「せむし」であった様に・・・

 そこで彼は友禅染めを即刻止め、昼は天王寺美術館に通って石膏デッサンをやり、夜は京都で似顔絵を描き始めるのである。
 もう一つの衝撃は似顔絵にも馴れ、日本一周旅行も終え、新宿歌舞伎町に立った時である。
 彼自身フリークスを認識し、アウトロウと自覚していたから酔っ払いやチンピラヤクザ等の人間にはビクともしなかったが、ただ一群の若者達だけが彼を苛立たというのだ。それは髪を伸ばし、ヒゲを生やし、ズタ袋を肩にした彼等は高度経済成長と繁栄を否定し、その拝金主義と物質文明に反抗し、自然との共存共生と、意識の進化を目指して生きていこうとする流れであり、混沌の一九六0年代に端を発する、我国のニューエイジの覚醒と行動の発端であったのだ。
 「ヒゲの殿下」とアダナされていたナンダ。「新宿のランボー」と言われたナーガ。東京芸大出のクボゾノ等に洗礼を受け、東京・国分寺に「エメラルド色のそよ風族」長野・富士見に「雷赤烏族」鹿児島・諏訪瀬島に「がじゅまるの夢族」のコミューンを建設していくのだ。



倉敷にがおえエレジー 78回縄文人・ポン2

2004-11-02 20:29:14 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
       縄文人・ポン2                                                                                      俺はそれらの行為を見ているうちに、段々と背骨の隋までゆり動かされる様な衝動を感じてきた。
 孔子は「バクチでも良いから手足を使え」といったが確かに現代人は頭ばかりで生きる事を強いられ、それだけに執して暮らしているが、これでは発狂するか、自殺するか、また例えそうでなくとも、それに近い状態で暮らすしかないのではないか。そんな小賢しい知識人という奴ほどバカげて見え、乞食やそれに近いヒッピーの奴らに会うと羨ましく思うのは俺一人だけであろうか。
 イヤ、もう孔子等はどうでも良いであろう。いずれ人間は歴史上の聖人やキリストなんかよりゴリラに学ばにゃならん時がくる。「人間として」より『エテ公として」だ。俺は上着を脱ぎ捨て彼等の仲間入りして踊りまくった。それはあらゆる呪縛から自己を解放する為の意識であったか知らないが、フト、きずくと見物客も全員踊りの輪の中にあった。

 これは意識するしないに係わらず地球的な危機に目覚めた人々にとって、既製のイデオロギーや宗教は信じるに足りず、民族主義や国家主義はとっくに破産している事を感じ初めているのであろう。それらは余りにも人間中心主義だったが為に、自ら招いた危機に対処するだけの知恵も能力もない。それに対してヒッビー達の意識の進化を目指して生きてきたカウンター・カルチャの流れにこそ、サバイバルの可能性を読んでいるのかも知れない。



倉敷にがおえエレジー 77回縄文人・ポン

2004-11-01 19:55:40 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
32 平成の縄文人ポン?

 たしか昭和六十三年二月の初め頃、岡山の須藤君から電話がかかってきた。実はこの男,ヤマギシ会の賛助会員で、その創設者・山岸巳代蔵の終焉地がこの岡山の興除村と教えてくれたのも彼であり、又、美観地区の川に飛びこんだ男、何時もフラフラしているから「時計」という東京のフーテンを俺が助けてやった所、この男とも友達で彼とは安保闘争の時、火炎ビンを投げあった仲だというのだ。それに社民連代表の江田五月氏会わせてくれたのも彼の家だったという風に実に面白い奴なのだ。
 ・・・・で今回は明日、倉敷のキリスト教会館でローリング・ドラゴン・キャラバンがやって来るという。彼等は青森・下北半島での反核燃闘争を終え、高松で行われる「原発サラバ記念日」になだれ込む途中で、俺はその首謀者のポンこと山田塊也氏にどうしても会いたかったのだ。何故なら彼はニガオエ師の先輩であり、彼の全行動に興味を持っていたからだ。

 翌日、早々ニガオエ商売を終えキリスト教会館に行って見ると、中にはロングヘアー、ヒゲ、ビーズ等々で着飾った若い男女で一杯だ。美観地区でアクセサリーをやっているロク、ヒロ、ハニー、ガラス諸君の顔も見える。受付では第十一回で紹介した「国際ヒッピー協会倉敷支部長」のアーチ君も実に楽しいそうだ。
 舞台では南正人とリバーの演奏に、山田魁也の「お祭りポン太」が目をさまし、すり足でスネークダンスをして見せ、その両脇で彼の娘の宇摩ちゃんと唯摩ちゃんがロングヘアーに。ピアスにネックレス、腕輪、足輪もしっかり付けてフリーソングとフリーダンスの乱舞をしめすのだ。
 フリーとは自由、それは「勝って」ともいい、だからそいつは他人に教わるものではなく自分で編み出していくものだそうだ。ポンもそうだが二人の娘も統帥境に浸っているようで、見ている者をどうしてもジェラシーに誘うのだ。ちなみに宇摩ちゃんとはシバァ神の妃パールバティの別名ウマより、唯摩ちゃんは「世界が病むから、わしも病む」と宣言した唯摩居士にちなんで名付けられたという。




倉敷にがおえエレジー 76回清原天皇の生涯②

2004-10-31 17:13:43 | 掲示版(感想、批評何でもよろしく)
事実、彼は求道者である。
「異説・日本創世記」「最上原朝史」等の著作に全てを賭けているのだ。水戸日報には求名隠士の名において「明治天一坊、天津教教祖、竹内巨麿伝」を掲載していたのもこの頃である。そんな眼で眺めると彼の行動、容姿全てが絵になるのだ。芸らしい芸は何もしなくても、いわば存在そのものが作品だといいたくなる役者が減少の一途をたどっているように、ニガオエ描きもそういう人が少なくなった。況や、その人を見てカッコが良いとか、悪いとか言っているうちは必死に生きていない証拠で、必死と言うのはもっと不様なものではないか。
 自画自賛になるがその清原天皇の俺は・・・
「弊衣破帽、ちびた下駄に汚れ手ぬぐいをぶら下げ、絵を描こうとも、ゲーテに泣き、ハイネに酔う。まさに多情多感なアルトハイデルベルグだ!」
 こういう矛盾だらけの事を言ってくれるのだから、あまり他人の事を言えた義理ではない。

 しかし、世は多情多感であった。新幹線開通、東京オリンピック、ベトナム戦争拡大戦略に反対する小田実等のべ平連結成、全共闘では山本清隆
(東大)や秋田明大(日大)議長が学園否定を自己主張。そして自由、平等、友愛がもっとも優れた形で表現しょうというモルガンの言葉をスローガンにヒッピーが台頭してきて、美術研究所で大の男がマスターベーションみたいな絵画等描いている時ではなかったのだ。この清原天皇と京大・熊野寮を足場に、西の風月堂と言われた六曜社、あるいはフォーク歌手の岡林信康らが作った反戦喫茶「ほんやら洞」で口角泡を飛ばし、まさに梁山泊の趣を呈していたのである。

ところで先ほどから天皇、天皇と言っているのに読者は奇異感じられていると思うので、脱線気味だが説明する。
 彼が常に言っているのは「君らは東北人をバカにするが、東北こそ日本の先進地帯であったのだ」
 ちょっと難しいが続ける・・・
 「大和の首長であった安日彦(やすひこ)長髄彦
(ながすねひこ)兄弟が九州に突然現れた神武の東征によって、北に追われるのだが、結局彼等は東北にアラハバキ王朝を形成する。そこは天然の良港十三港に恵まれ、朝鮮半島や大陸との交易を盛んに行い、異文化に彩られた大きな都市だった訳だ。又、食料も稲は植物派農法を知悉しており、サケ、マス等も豊富で富を貯蓄する必要もなく、自然との共存の中、信仰もアニニズムでのち神道でいう八百万神(やおろずのかみ)につながるのだ。
 また社会は完全な原始共産制で「吾が一族の血肉は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」を福沢諭吉より何千年前に実行していたのである。エセ学者ども「大和朝廷の歴史教育」汚染されているから高天原が九州とか、大和とか、つまらぬ議論をしているが、東北にはそれより上等の最上原があったのだ・・・・云々」と何度もいうものだから、我々似顔絵かきは「又、彼の天皇論が始まった。とソッポを向き、あるものは「戦後出た南朝第二十二代の直系と称した熊沢信彦天皇の再来だ! 」という奴もいる。

 たしかに彼の書いているのは「古史古伝」(古事記や日本書記等の様な御用学者を経緯したものではなく非公認の超古代関係の資料をいう)を元にした本である。だが古史古伝と云うのはとうしても誇大妄想体系に傾きがちで、例えば分裂病者が現実の両親を認めず、神の子であるとか、皇帝の落胤であるとか称する血統妄想と同じように己自身の神話こそ真実でなければならなかった。傍からどれほどおかしな不合理なものに見えようとも、妄想体系が維持されるのは、内的自己の独自性を支える為に必要だからである。故にこの世界はどのように足掻いても、文化の起源について、どのような理論を立てようとも実証も反証も出来ないのがこの世界の弱点ではないだろうか。
 しかし、何はともあれ出口にしろ、南方にしろ肥大した自我を燃焼し続け偉業を成し遂げたのである。清原にしろだそれを続行中なのだ。俺はこういう人間には文句なしに頭を下げるのだ。

 翌日、清原天皇がやって来た。相変わらず怪異な風貌に買い物車を引っ張り、さすがに寒いのか蚊帳ごとき着物の上にドテラを着ておった。
 開口一番「ミョーケンへ行っていてね」と言う。
 「ミョーケン?」俺は余り突飛な言葉でミミズが腹痛を起こした様な哀れな声で聞き返した。
 「君は倉敷に住んでいて妙見さんも知らないのか。妙見とは阿智神社の事だ。浅原安養寺を毘沙門天、帯江不洗を観音さん、日間寺をお薬師と言うのだ」
 たしかに彼は八宗兼学でも気がすまぬ。ニガオエ商売をなしつつ諸国の風俗、伝説口碑を聞き「日本創生記」に書き加えつつあるのだ。

 ただ頭が下がる・・・


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