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卵巣癌になったでござる (私の場合)

卵巣ガンになってから娘に背中を押され始めた日記(漿液性線癌3c)治療、暮らしなど思いつくままに。50代 三人の子の母

忘備録~私の昭和その3

2011-10-23 07:56:58 | 忘備録
父の話でござる


病院で眠れない夜、正確には眠れるんだけど、一度起きてしまい2時間位目が冴えてしまい暫く眠れない時、又うつらうつら寝てるから 寝てはいるんだけど、そんなぽっかりあいた時間 あえて昔の事思い出して時間潰してます


私の父は48歳で筋委縮性側索硬化症という筋肉がだんだんおとろえていく難病で亡くなりました
私が中2の3月3日でした

父は私が中1の時発病して、最初は当時流行っていたボーリングのしすぎで足が痛いのではないかと思っていたようです
はじめは左足をひいて歩くようになり、次に杖をつくようになり、そして足にギブスになり それでもなかなか立ち上げるのが難儀になり、一度 朝迎えにきてくれる後輩の人がおんぶして車に乗せてくれた事もありました、
丁度、父も仕事に脂が乗ってきた頃で確か助役として岩見沢に転勤になったころで 病状の悪化に伴い、札幌に戻り最後は小樽築港が職場となりました
話は飛びますが 父のお通夜の弔辞で職場のえらい方が 「 真綿で包むようにみんなで支えた。。。」みたいな事を話されてたのですが その後 布施明のシクラメンのかほりの「 真綿色したシクラメンほど。。」で真綿と言う言葉を聞くたびにあのおんぶのシーンを思い出すのです。。。変なこっちゃ

私と父は14年の付き合いでそのほとんどが子供時代だったので 私にとって父はただただ優しくて、何でもできて、休みの日にはいつも一緒にいる人でした、今は私と大体同じ年齢になってしまいましたが 父が家の外でどんな人だったのか、どうゆう考え方をする人だったのか、どうしたかったのか、考えてみるとよくわからないのです。。。

だから当然子供達もおじいちゃんを知らないのです

だから ちょっと思い出すまま書いてみます

○身長は170ちょい、スリムでかっこいい(と私は思っています)
○会社(国鉄マン)行く時 髪にチックをつけていた
○毎晩 晩酌する人
○タバコはエコー
○日曜日はよーくグリン麺を食べていた
○よく見てたTVは 兼高かおる世界の旅?プロレス、西部劇の映画
○ボーリング、スキー、水泳(暫く潜ると貝がたくさん海パンから出てきた)が得意
○写真、釣り、たけのことり、きのことりが趣味と実益。。。かな
○血液はAB型(母O型、兄B型、私A型 全員バラバラ)
○父の父も早く亡くなり裕福ではなかった
○戦争がもう少し長引けば行っていたかも、志願していて祖母がとめてたらしい


確か 36年前の9月20日(土)にちょっと風邪ぎみだったけど、お給料日なので(当時は手渡し)無理して出勤したようです、半ドンで帰宅してソファに横になっていました、私は友達とバトミントンする約束してたので出かけようとした時、父はちょっと笑って「 面倒見てくれないの 」と言いました、私は「 すぐ帰ってくるから 」と言ってでかけました
帰ってくると祖母が救急車呼んでバタバタしているところでした、それから半年入院して 元気でうちに帰る事はありませんでした
そのこと思い出すと私はチクッとします、うちにいてあげたらよかったなって、結果はかわらなかっただろうけど。。。

お通夜の時知らない男の人がお参りに来てくれて 母に昔、手だか足だか切断した時 父が火葬場にいって焼いて来てくれたと感謝してました、私の知らない父がいました

まだまだ私の知らない父がいるんだなーと思っています

これ書きながら自分でも不思議、なら母に聞いたらいいのに。。。

多分、私にとっての優しい父だけでいいって思ってもいるのかもしれません
 





忘備録~私の昭和その2

2011-09-28 11:35:21 | 忘備録
札幌オリンピック話でござる


ちょうど今日の道新に10/8から三日間 地下歩行空間で「 札幌オリンピックメモリアルフェスタ 」が開催されるって
お~何と私的にタイムリー、来年2月で40周年なんですって、早いな~
とっても行きたいけど ちょうど入院中なんだなー

私が小学校4年生の時 札幌オリンピックは開催されました
先生が開会式を図書室で見せてくれて、クラスの飯田君(左利きのクリクリ坊主)は観に行っていたので 私は観客席に飯田君を探していました
何年か前にmikittyちゃんの演奏会に行った時、この時の入場行進曲を演奏してたんだけど一瞬にしてテンション
それとトワ・エ・モアの「 虹と雪のバラード 」を聞くとシビレルのれす、あの歌詞街が~できる~美しい街が~はもう未来は夢と希望だらけでそれが世界的規模で私の町にもやってくる感じで高揚したものです

何がそんなによかったかと言うと もちろんジャネット・リン
どれ位かと言うと 小学校の卒業文集に(ジャネット・リンのようになりたい)て書いたくらい
これは 幼稚園の卒業で男の子が「将来はウルトラマンになりたい」と言うのとおなじ位ピュア

本当に涙が出るくらい、心ゆすぶられたのです、転倒しても満点つけた日本人の審判のおじさんの気持ちわかるぅぅ
本当に絶対に妖精でした、金髪と笑顔と美しい踊りと曲がマッチして妖精になったのです

当時のフィギュアはコンパルソリーとフリーで一位の人(忘れた)は完ぺきなコンパルソリーでダントツ 二位がカナダのカレン・マグヌセン、三位がジャネット・リンでこの二人の衣装が赤でかぶっちゃったんですよ、でもうれしそうに表彰台に乗る二人は笑顔満開でした、三位でも笑顔の彼女は天使の心の持ち主に違いないと思ったのです
その当時10歳の人生で一番感動したし、そのフリーはバレエ的要素もかなりあって、それが私のバレエの原点、私はバレエにあこがれを持ち40歳にしてついに始めたんだと思うのです、そうジャネット・リンになりたかったのれす

私も彼女が踊った曲、モーニングで踊ってみたいのれーす、妄想では完成してるんですけどね
 
その後、学校で札幌オリンピックの記録映画を観に行ったんだけど、それがジャネット・リンの演技にかなり時間とっていて白鳥とダブらせて撮っていて すんごーく感動したのです、もう一度観たいなー

ついでに、プレオリンピックでは有名人来なかったのでフィギユアは山下一美さんが優勝したんですよ、この人が踊ると母は「パンツがいけないっ」てました、当時は日本人体型だからパンツはブルマーみたいな感じで外人選手のちょいハイレグはパンツとは大違い 仕方ないですね

あと覚えているのが スキーのスイスのナディヒ、すごくかわいかった、スケートでメダルたくさん獲得したアルト・シェンク、
何故か名前だけ忘れられないスキーのグスタボ・トエニ、リュージュのりんごちゃん、スケートの鈴木恵二、もちろんジャンプの
笠谷、今野、青地はてっぱんていうのかな

本当に札幌オリンピックはたくさんのものを与えてくれました

THANK YOU SAPPORO です




忘備録~私の昭和その1

2011-09-27 10:56:34 | 忘備録
思い出話でござる

その前に 忘備録がずっと正解だと思っていたけど、備忘録も正解なんですね
備忘録は昔の人の剣術とかの秘儀を記したものらしく 私のはそんなすごいものでもないので
やっぱり忘備録、大好きな昭和の思い出です

【仁木の思い出】
私の母は仁木のりんご、なし、ぶどうなどが主のわりと大きな農家の出です( 現在はメインみたい )
なので小さい頃忙繁期は手伝いに行く母についてよく行きました
今でもりんごの匂いや 畑にあるはしごの木や土の匂い、納屋のブタやうまなんかをよ~く覚えています

その中でも 井戸の隣にあったお風呂小屋は圧巻、洗う所が板場でお風呂は五右衛門風呂、丸い木の板が浮いていて母がその真ん中を足で沈めてその後に抱っこして入れてもらっていました、外からおばあちゃんが湯加減を聞く声
あー懐かしい、私は五右衛門風呂に入った事があるのが自慢のひとつです

後は結婚式、仁木の家では当時は髪結いさんがきて お嫁さんの支度をして家からお嫁に行くというスタイルでした
私はもう釘付けで お嫁さんになってゆく過程を傍で見ていました、首まで白くぬって本当にきれいになってゆくのです
最後には私も髪結いさんに口紅をぬってもらいました

時期には必ず家にはりんごがあったし、少しは農家の暮らしも知ってるつもりだし、台風時期はりんご大丈夫か大人の会話で私もなんとなく心配したり やっぱり私の中の1/4は仁木なんです
今は農家のでめんさんになりたいのです

【昔の家とちっちゃい頃】

私が二十歳まで住んだ家は木の家で部屋数は多いけど寒~い家でした
小学校1年生頃までは二階を二世帯に貸していました
脱水の所が手まわしで洗濯物がぺっちゃんこになって出てくる洗濯機、四足のテレビ、冷凍部分は氷だけのちっこい冷蔵庫、でれきがあった石炭ストーブ、たくぎんのくまの貯金箱がかざってある壁の棚、このくま達がぐらぐら揺れると 地震だっといって外に避難していたっけな。
たくぎんのくま達はスキー、スケート、ジャンプといった形をしてるのが多く 今では貴重なんだけど、もう捨てたんだろーなー

そんな電化製品が小学生の頃からどんどん進化していきました、多分高度成長期の頃だからかな

で、札幌オリンピックの時にサンヨーのズバコンというリモコンのついたテレビになりました
私と父がサンヨーの展示会に行って買ったのでよく覚えてます
聖火台ライターがプレゼントでついていました、ついでにこのズバコンはリモコンがテレビ本体にはめ込み型であんまりリモコンの意味がない気もするけれど、当時ははりきって ズバコーンといってチャンネル変えてました
もっとついでにいうと このリモコンで消すとこれじゃなきゃテレビはつけられません
うちのお兄ちゃんは理由は忘れたけど ふてくされて、リモコンでテレビを消して そのリモコンを隠してテレビを見れない事がありました、ほんと悪い奴でした

父は国鉄に勤めていました
お給料日は二十日、この日は必ず角の店でおみやげを買ってきてくれました、必ず南部せんべいとくしだんごが入っていてました
時々私はバス停まで迎えにいってお店で一緒にに買ってもらったり 二十日はとても楽しみな日でした
お給料袋は母が神棚にあげてパンパンとして 大切にあつかわれていました
話の順番が逆ですが
家は父母、兄、おばあちゃんと五人家族でした
おばあちゃんは山で畑をしてました、漬物のため沢山の大根を作ってて大根抜きの日は父が三輪トラック借りてきて親戚のおばちゃんもきてみんなで抜いて 小川まで運んで洗ってと大変でした、私は運ぶ係でお手伝いしました
当時は三輪トラックですよ すごいでしょ
で、そんな日はうちのお兄ちゃんは何故か風邪をひいてうちでお休み、母にもも缶やみかん缶やら食べさせてもらって一人寝ていました、大根抜きが終わってうちに帰ってきて、玄関あけたら ダダダダダバサっと音がします
熱のあったはずの兄はテレビを見てたんです、あわてて寝たふり。。。ずるいんだっ

ダダダダについていうと まだあるんです
私と兄は3歳違いなので受験が一緒、母は夜9時にお夜食( 定番はあんまんとミルクコーヒー)持ってきてくれるんですけど、
トントンと階段上る音したら バサッダダダダっドンと兄の部屋から音がするんです
そうです、寝ててあわてて机にむかってるんです、勉強してましぇん。。。ずるいんだっ
私は兄が勉強しての見たことない、家では寝てばっかり、なのに私より成績よかった、性格悪いのに、このことがトラウマになり
私は頭がよくない、努力しなきゃならないタイプだと思い込んだと今になって思うのです
高校も兄は地元じゃ一番とこ行ったけど、塾の先生に私もそこ行けると思うよとか言ってくれたけど、頭いい人行く所だから 自信なくてその次のとこ受けたし、お兄ちゃんのせいなんだよ。。。
 
なーんてね本当は自分のせいです、手に届く範囲の所でしかトライしてこなかった、短大も就職も、もう少し頑張ってたらなーとか思うけれど、結局は頑張れないのです、臆病だったのかな、英語にかかわる仕事がしたいと思っていたけど、挑戦しなかった
それが自分の選んだ道なのです、でもその中で誠実に努力したから今はいいんだって思えるけど、ずっとコンプレックスでした

話は戻りあとは銭湯、家の石炭小屋がお風呂になるまで通っていました、私はお風呂が嫌いでした
それは あかこすり、おいなりさんみたい袋にタオルいれて ごしごしこすられるのが痛くてきらいでした
でもお風呂上がりのコーヒー牛乳、ピュアジュース、フルーツ牛乳がだ~い好きでした
冬は家につくまで髪の毛が凍ったりしたけど 本当によく通ったと思うな、今なら絶対車で行く距離


それと大国屋デパート、今じゃ小樽にデパートなくなったけど、当時は他に丸井さん、ニューギンもありました
大国屋は母が注文服の仕事をしていたので よく行きました、社員専用通路も通ったしね、で注文服の階には食堂があって
ソフトクリームを食べながら一人で待ってたけど心細かったな


思いつくまま書いたのでぐだぐだだし、わかる人にしかわからない話だけど 私の昭和です