父の話でござる
病院で眠れない夜、正確には眠れるんだけど、一度起きてしまい2時間位目が冴えてしまい暫く眠れない時、又うつらうつら寝てるから 寝てはいるんだけど、そんなぽっかりあいた時間 あえて昔の事思い出して時間潰してます
私の父は48歳で筋委縮性側索硬化症という筋肉がだんだんおとろえていく難病で亡くなりました
私が中2の3月3日でした
父は私が中1の時発病して、最初は当時流行っていたボーリングのしすぎで足が痛いのではないかと思っていたようです
はじめは左足をひいて歩くようになり、次に杖をつくようになり、そして足にギブスになり それでもなかなか立ち上げるのが難儀になり、一度 朝迎えにきてくれる後輩の人がおんぶして車に乗せてくれた事もありました、
丁度、父も仕事に脂が乗ってきた頃で確か助役として岩見沢に転勤になったころで 病状の悪化に伴い、札幌に戻り最後は小樽築港が職場となりました
話は飛びますが 父のお通夜の弔辞で職場のえらい方が 「 真綿で包むようにみんなで支えた。。。」みたいな事を話されてたのですが その後 布施明のシクラメンのかほりの「 真綿色したシクラメンほど
。。」で真綿と言う言葉を聞くたびにあのおんぶのシーンを思い出すのです。。。変なこっちゃ
私と父は14年の付き合いでそのほとんどが子供時代だったので 私にとって父はただただ優しくて、何でもできて、休みの日にはいつも一緒にいる人でした、今は私と大体同じ年齢になってしまいましたが 父が家の外でどんな人だったのか、どうゆう考え方をする人だったのか、どうしたかったのか、考えてみるとよくわからないのです。。。
だから当然子供達もおじいちゃんを知らないのです
だから ちょっと思い出すまま書いてみます
○身長は170ちょい、スリムでかっこいい(と私は思っています)
○会社(国鉄マン)行く時 髪にチックをつけていた
○毎晩 晩酌する人
○タバコはエコー
○日曜日はよーくグリン麺を食べていた
○よく見てたTVは 兼高かおる世界の旅?プロレス、西部劇の映画
○ボーリング、スキー、水泳(暫く潜ると貝がたくさん海パンから出てきた)が得意
○写真、釣り、たけのことり、きのことりが趣味と実益。。。かな
○血液はAB型(母O型、兄B型、私A型 全員バラバラ)
○父の父も早く亡くなり裕福ではなかった
○戦争がもう少し長引けば行っていたかも、志願していて祖母がとめてたらしい
確か 36年前の9月20日(土)にちょっと風邪ぎみだったけど、お給料日なので(当時は手渡し)無理して出勤したようです、半ドンで帰宅してソファに横になっていました、私は友達とバトミントンする約束してたので出かけようとした時、父はちょっと笑って「 面倒見てくれないの 」と言いました、私は「 すぐ帰ってくるから 」と言ってでかけました
帰ってくると祖母が救急車呼んでバタバタしているところでした、それから半年入院して 元気でうちに帰る事はありませんでした
そのこと思い出すと私はチクッとします、うちにいてあげたらよかったなって、結果はかわらなかっただろうけど。。。
お通夜の時知らない男の人がお参りに来てくれて 母に昔、手だか足だか切断した時 父が火葬場にいって焼いて来てくれたと感謝してました、私の知らない父がいました
まだまだ私の知らない父がいるんだなーと思っています
これ書きながら自分でも不思議、なら母に聞いたらいいのに。。。
多分、私にとっての優しい父だけでいいって思ってもいるのかもしれません
病院で眠れない夜、正確には眠れるんだけど、一度起きてしまい2時間位目が冴えてしまい暫く眠れない時、又うつらうつら寝てるから 寝てはいるんだけど、そんなぽっかりあいた時間 あえて昔の事思い出して時間潰してます
私の父は48歳で筋委縮性側索硬化症という筋肉がだんだんおとろえていく難病で亡くなりました
私が中2の3月3日でした
父は私が中1の時発病して、最初は当時流行っていたボーリングのしすぎで足が痛いのではないかと思っていたようです
はじめは左足をひいて歩くようになり、次に杖をつくようになり、そして足にギブスになり それでもなかなか立ち上げるのが難儀になり、一度 朝迎えにきてくれる後輩の人がおんぶして車に乗せてくれた事もありました、
丁度、父も仕事に脂が乗ってきた頃で確か助役として岩見沢に転勤になったころで 病状の悪化に伴い、札幌に戻り最後は小樽築港が職場となりました
話は飛びますが 父のお通夜の弔辞で職場のえらい方が 「 真綿で包むようにみんなで支えた。。。」みたいな事を話されてたのですが その後 布施明のシクラメンのかほりの「 真綿色したシクラメンほど


私と父は14年の付き合いでそのほとんどが子供時代だったので 私にとって父はただただ優しくて、何でもできて、休みの日にはいつも一緒にいる人でした、今は私と大体同じ年齢になってしまいましたが 父が家の外でどんな人だったのか、どうゆう考え方をする人だったのか、どうしたかったのか、考えてみるとよくわからないのです。。。
だから当然子供達もおじいちゃんを知らないのです
だから ちょっと思い出すまま書いてみます
○身長は170ちょい、スリムでかっこいい(と私は思っています)
○会社(国鉄マン)行く時 髪にチックをつけていた
○毎晩 晩酌する人
○タバコはエコー
○日曜日はよーくグリン麺を食べていた
○よく見てたTVは 兼高かおる世界の旅?プロレス、西部劇の映画
○ボーリング、スキー、水泳(暫く潜ると貝がたくさん海パンから出てきた)が得意
○写真、釣り、たけのことり、きのことりが趣味と実益。。。かな
○血液はAB型(母O型、兄B型、私A型 全員バラバラ)
○父の父も早く亡くなり裕福ではなかった
○戦争がもう少し長引けば行っていたかも、志願していて祖母がとめてたらしい
確か 36年前の9月20日(土)にちょっと風邪ぎみだったけど、お給料日なので(当時は手渡し)無理して出勤したようです、半ドンで帰宅してソファに横になっていました、私は友達とバトミントンする約束してたので出かけようとした時、父はちょっと笑って「 面倒見てくれないの 」と言いました、私は「 すぐ帰ってくるから 」と言ってでかけました
帰ってくると祖母が救急車呼んでバタバタしているところでした、それから半年入院して 元気でうちに帰る事はありませんでした
そのこと思い出すと私はチクッとします、うちにいてあげたらよかったなって、結果はかわらなかっただろうけど。。。
お通夜の時知らない男の人がお参りに来てくれて 母に昔、手だか足だか切断した時 父が火葬場にいって焼いて来てくれたと感謝してました、私の知らない父がいました
まだまだ私の知らない父がいるんだなーと思っています
これ書きながら自分でも不思議、なら母に聞いたらいいのに。。。
多分、私にとっての優しい父だけでいいって思ってもいるのかもしれません