チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

神田・神保町古本屋街のストラヴィンスキー(1959)

2014-08-26 20:29:35 | 来日した作曲家

また「音楽芸術」昭和34年7月号からドナルド・リチーによる記事です。

1959年に来日したストラヴィンスキーは、リチーと共に歌舞伎(勧進帳)を見物したり、東京のフランク・コーン夫妻(有名な人なんでしょうか?)の賓客として下落合のコーン邸を訪れたり、さまざまなレストランに招かれたりしたそうです。

その日は、リチーはストラヴィンスキー夫妻を神田・神保町の古本屋街と湯島聖堂に案内しました。

(↑ 苦学生が多く、「ビンボウ町」と言われた頃の神保町の古本屋街。「東京下町の昭和史」毎日新聞社より)


「ストラヴィンスキー夫妻は、書物と版画を探すために買い物に行きたがった。それでぼくは二人を神田に案内した。

神田で、ストラヴィンスキーは、たまたま自著「音楽の詩学」(Poétique musicale)の日本語訳を見つけた。『あっ―あっ』と彼は、本に近づこうとして跳び上がりながら、逆上したような面持ちで、ぼくのほうに向きながら叫んだ。『これ、これ、この本。どこで出したのだっけ。そうそう、ダヴィッド=シャ。あーは、ダヴィッド社。これは有名だ。これについてわしはみんな知っている。これは1セントも貰ってない。1セントも。何にも払ってもらわなかった』。

ぼくが、ストラヴィンスキーの有名な癇癪をみたのは、これが最初で最後だった。【ストラヴィンスキーは日本では格別に愛想がよかったようです。】 彼は激昂して、本を握り続けた。『手のうちようがなかった、全くなんとも』。ぼくは、ダヴィッド社が破産したので、それが多分払わなかった理由なのだろうと彼に言うと『でも、約束したのに。それでいて全然払わないんだ。ああ、わしの弁護士はこの事件についてみんな知っている』。けれども、しばらくして、彼はダヴィッド社のことを忘れてしまって、古本あさりを愉しんだ。彼は昔のヨーロッパの旅行記を五冊求めたり、五巻物のロシア語の百科事典を見つけて喜び、すぐそれを買った。

そのあと、ストラヴィンスキーはうれしそうに、山と積まれた明治時代の版画をめくっていた。『おお、ごらん』と、彼は明治時代の街の景をめくりながら、夫人に声をかけるのだった。『おかしくない?―ひどいキッチュ(がらくた)だが、面白いね』。それから、もっと見てから『値段はどこに付いているの?』すぐ彼は値段を見つけ、もう一つのストラヴィンスキーの性癖、ケチを発揮した。値段はみな裏についていたので、ストラヴィンスキーは積み重なった絵や版画を、全部ひっくり返して、値段を読んだのだ。彼が気に入ったものを見つけると、ということは、値段の安いものを見つけたことなのだが、その版画をひっくり返して見るのだった。こうやって、彼は二枚買い求めた。どちらも、日露戦争の場面を描いたものだった。ストラヴィンスキー夫人は、明治時代の、子供のための版画を何枚か求めた。

次に夫妻は、「春画」を見たがったので、ぼくが取り次いだ。夫妻は黙って見ていたが、マダム・ストラヴィンスキーが言った。『おお、でも、もちろん、日本人は本当は、こんなに大きいんじゃないでしょうね?』ぼくは、多分そんなことはないと思うと答えた。ストラヴィンスキーは言った。『とても面白いが、何だか、ちっともセクシーではないね、医学の図のようだね』。ぼくたちはその残りを見ていると、ストラヴィンスキーが言った。『どれもこれも一枚一万八千円もするようだね。値段が違ってもよさそうなもんだが。』


。。。ストラヴィンスキーのケチ伝説は本物だった!

N響との練習風景。真ん中は「花火」の楽譜。「芸術新潮」1991年9月号より