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Story of your life and others

卒業

2009年02月05日 09時22分54秒 | diary
ここ1年間の、人生の大きな仕事を「卒業」することにしました。

いろいろ頑張ってはきたけど、家庭をもつタイミングではなかったのです。
一生懸命大切にしてきたけど、「愛」とは違ったのかもしれない。
お互い最初から、ちょっとズレちゃってたってだけなのかもしれません。

執着やこだわりから抜け出すと、不思議と
「本当に愛されていたんだな~」
と素直に感じれました。

もっとリラックスして二人でいられる時間を大切にすれば良かっただけなんですね。

今日から、「卒業式」までは沢山思い出をつくってゆこうと思います。
そして、春からはまた新しいスタートです。

そして、心からの愛を捧げられる人との出会いに向けて、今日できることから初めてゆこうと思います。

いろいろな事情で愛を感じにくい、即物的な人生を送ってきた僕は
最近、コリント人への手紙 13章をよく読みます。

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。

そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。

なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。

わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。

わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られるように、完全に知るであろう。
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。