このサガンの『悲しみよ こんにちは』の日本での初版は1955年。
今更のごとく、驚く。
そんな昔から、翻訳されていたんですね。
私が、初めて読んだのは1970年代初頭だったんだけど、それでも、チョー昔のほぼ46年前っていうことになんるんだよね~。(実はその昔に読んだ時の、その衝撃が忘れられられず、この度、再読したわけです。)
高校生ぐらいの年齢の少女セシルが、父の再婚話しとその相手にムカつき、その相手の女性に対し、かつての父の愛人をいいように利用して、徹底的に意地悪く排撃し、その父の再婚相手の、完全無欠に見えたその大人の女性が、セシルの意地の悪い排撃行為に、深く傷ついていく。
と、いう展開だ。
タイトルのセンスの良さに感心する。
原題は『Bonjour Tristesse』まさに、直訳で、『悲しみよ こんにちは』。
セシルが為したこと、そのもの、ズバリ、言い得ている。
私は、この『悲しみよ こんにちは』で、朝吹登美子という素晴らしい翻訳者を知った。
今の日本の出版界でのジャンルでいえば、YAという内容になるかと思う。
翻訳の1955年以前に執筆したサガンの問題意識は、現代の日本の、女子高校生が読んでも、なんら違和感なく共感できるものなのだろう。
それを証明するが如く、新潮文庫は装丁も新しく替えながら、ずっと版を重ねている。
小説(文学でもいいけれど)を読んでいると、山ほど"繊細な少女"が描かれる。
サガンの描いたセシルはその元祖"繊細な少女"である。
その繊細さとは、なにかと、考える。
人は、傷つけたゆえに傷つき、その傷口に塩を塗ろうが、カットバンを貼ろうが、それでもやっちゃったことは、悲しいかな、仕方がないんだ、アホにつける薬はないんだよね、むごいことをやっちゃったってことだよ、そんな思いを抱えて生きて行くしかないんだよね、ということを自覚してしまったっていうのが、サガンのセシルだ。
そして、それが、セシルの繊細さだ。
つまり諦観というのかな、そんな境地。
ついでに言えば、ドイツ文学の『波紋』(ルィーゼ・リンザー)と、フランス文学の『悲しみよ こんにちは』に見る少女の繊細さの根底には、まったく異なる潮流がながれている。
まぁ、極論ではあるのだが、ドイツの戒律或いは規律ありきの社会であり、フランスの愛を支柱に置きたがるリベラルというかそんな社会を、それぞれ深く考察しなくては、単に"繊細な少女"については、語れない。
"繊細少女"という概念が、まったく異なるのだから。
では、日本は、どうか。
日本の風土は、おおよそ歴史的に、繊細さを醸成する風土ではないからなぁ~と思うのである。
実は、ほんと、おおらか、だったんですよね。日本の女性は。
そこが、現代の児童文学に於ける、"繊細少女"を描くにあたって、極めて困難を呈していると言える。
現代日本では、せいぜい、世間とか、教育制度あたりからしか、アプローチできないんだよね。
いっそ、"繊細少女"の概念をドイツ風やフランス風っぽいところからではなく、日本の古代とか、江戸時代でもいいし明治でも良いです。
そのあたりから、アプローチした方がいいように思う。
何と言っても、ほら、一葉の『たけくらべ』の美登利をみてごらんなさいませ。
繊細というカテゴリーからあふれんばかりの感性を持って、イヤダイヤダと言ってしまえる、まったく負けない少女です。
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