高校生の時、隣のクラスの黒板がある壁上部に、その巾に合わせて「青年は荒野をめざす」と、大書した紙が貼ってあった。
なんか、その大書を見たとき、思わず小馬鹿にしてニヤッとしてしまった。
イイかっこしぃが、と思ったのである。
五木の『青年は荒野をめざす』は面白い作品で、あの時代を象徴していると思う。
かの小澤征爾も、バイクでロシアからウィーンを目指したというのだから。
それにしても、私にとって、本家の小説より、まずこの黒板の上に大書されていた「青年は荒野をめざす」を想起してしまうのだから悔しいことに、それほど印象的な大書だったということだ。
「青年は荒野をめざす」と大書を掲げたそのクラスの担任は、日本史の教師で、高2の時、必修教科で私は彼の授業を受けた。
私は、歴史教科が好きだったので、高3になって私大受験教科に日本史を選択し、その選択授業を受けた。
教師は、高2の日本史教科担任と同じ教師だった。
彼が語った授業中の雑談が、とても印象に残っている。
6月の中旬、札幌祭りがある。
このお祭りの日は、午前授業だった。
この日、その日本史教師は、教室を見渡して「顔のなかをお祭りが通っているぞ」と言ったのだ。
私は、やっぱりニヤッとして、この言葉をノートの欄外に記した。
『坊っちゃん』に「顔のなかをお祭りでも通りゃしまいし」というセンテンスがある。
私は生意気にもコヤツメ、やるのー! と思ったものだった。
今でも、その時のK先生の、顔を、鮮明に思い出す。
「てめーら、『坊っちゃん』なんぞ、読んだことがあるめぇ」てな、表情だった。
当時は、教師なんか、馬鹿にしくさっていた私だったが、
実は、このアホっぽさ加減というか、この人間加減というか、人の中に真実をみようとした加減とか、そんなことをこの教師に感じていた。
私が就職して、二年ほどが過ぎた頃、突然、この教師から電話があった。
正直、驚いた。
高校時代、殆ど、プライベートに会話をしたことがなかった。
この教師は、その後の世間話をしたあとに、「おまえも、先生と言われる馬鹿になったのか」と言った。
私は、言葉に窮した。
かなり間をおいてから、「……まぁ、そいうことかな」とか、そんなふうに応えたような気がする。
「おまえも、先生と言われる馬鹿になったのか」という、この言葉、いまだに、自戒の言葉である、と言ったらカッコ良すぎるが、
心にグサリと刺さった忘れられない言葉である。
以来、一人称で、私は自らを「先生」といわないと決めた。
退職してから数十年、すべてが過ぎ去ったことである。
K先生は、
風の噂に、亡くなったらしい。
彼が語った授業中の雑談。
彼は北海道教育大学の札幌分校で学んだという。
その時代、この大学から根本仁という新左翼革マル派の脅威のカリスマ的リーダーが出現した。
その根本仁と同じ頃に学生だった日本史の先生が、「階段ですれ違いざまに、ミンセイの学生に、ほっぺたに火の点いた煙草を押しつけられたことがあったよ」と、言った。
どのような経緯で、このような話しになったのか、その前後の話は覚えていないけれど、この言葉がずっと私の中に、なぜだか忘れずにある。
彼は教職として公立には就職できず、私立である私が通学していた学校の教師なったらしい。
当時、そういう真っ当じゃない経歴の教師が、私学には、結構、いた。
リベラルだったんだろうか。ある意味。
60年代から70年代は、まさにイデオロギーの時代であり、政治の時代であり、虚構に身を置く時代だった。
私は、その端くれで、大江健三郎流に言うと、『遅れてきた青年』である。
遅れてよかったかも、と思うこともしばしばだ。
私は、イデオロギーなんてものを、まっこと、信用しない。
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