これも少し前の新書です。
リーマンショック以降、嫌われ続けている自由主義経済。
自由主義経済を主張していた中谷厳さんの自戒の書「資本主義はなぜ自壊したのか」もヒットしました。
本当に小泉・竹中時代の構造改革・自由主義経済の推進は間違っていたのでしょうか?
その後の日本経済の様子を見ると、どうもよく分かりません…
本書は、もう一度自由主義を見直すきっかけになります。
ご一読あれ!
書名:新自由主義の復権
著者:八代 尚宏
<日本における反市場主義>
日本における伝統的な「反市場主義」の思想としては、以下のふたつがある。
第一は「賢人政治」の思想であり、政府による資源配分や所得配分の規模拡大を重視するものである。
すなわち、「高福祉・高負担の名目で法人税や所得税の最高税率を引き上げ、大企業や高所得層の負担で所得再分配を強化する」ことが基本政策となる。
また、利益追求の企業に代わって、国が国民生活に関わる医療・介護・保育から職業紹介に至るまで、公共的なサービスの供給に全面的に責任を持つべきとする。
そこには、「非合理な規制や高負担を避けるため、企業が国内の経済活動を抑制し、海外へ工場を移転するという可能性は乏しい」という前提があるが、これはグローバル化が進む時代には希望的観測である。
また、「高福祉」への政策が先行する反面、政治的に「高負担」は受け入れられにくいため、赤字財政の慢性化や、後の世代に負担が先送りされる「大きな赤字政府」となりやすい。
第二は、伝統的な「共同体重視」の思想である。
たとえば、零細農家や中小企業、郵便局などを重視し、国内の大企業などとの市場競争から保護すべきとする。
そのため、貿易や資本の自由化には消極的で、外資の参入を極力抑制する。
また、「戦後の貿易や資本の自由化は、米国政府の圧力に屈したもの」などと主張し、ナショナリズムにも訴える。
中小都市や町村を守るためとして、地方分権よりも地方への税制移転を増やすことで、大きな政府につながる。
また、伝統的な家族を重視し、夫婦別姓選択制のような家族の多様性を否定する。
これらふたつの思想は、互いに対立する面も少なくないが、「反市場主義」と「大きな政府」という面では一致しており、日本の政界、財界、マスコミなどでも少なからぬ権力を維持している。
<日本の所得再分配>
日本では個人への所得再分配に加えて、公共事業を通じた地方への所得移転、農家への所得補償や中小企業だけを対象とした各種の低利融資などの支援が幅広く行われている。
これは個人は手厚く保護するが、企業はその規模の大小を問わず市場競争に徹底して晒す、スウェーデンの福祉国家との大きな違いである。
中小企業は、企業数の九割を占める大事な存在だからといわれるが、大部分の企業を政府が保護するならば、もはや市場経済とはいえない。
<皆保険制度>
そもそも年金や医療保険は、民間企業でも類似の商品が提供されているのになぜ政府が社会保険をあえて作らなければならないのだろうか。
国民全員が同一の仕組みの社会保険に加入する「国民皆年金・皆保険」制度で安心と平等が確保されるから、というのが通説のようである。
たしかに倒産しない政府の「保険会社」のほうが安心かもしれないが、それは旧社会保険庁に見るような運営の非効率と裏腹の関係にある。
これは新自由主義の観点で見ると、社会保険が必要とされる最大の根拠は、「加入の強制」にある。
老後の生活や疾病に備えた民間保険を購入したいり貯蓄したりせず、収入がなくなれば生活保護制度に依存するという「(個人にとっては)合意的な行動」を防ぐためには、所得のある勤労時に、社会保険料の形で「貯蓄の強制」を行う必要がある。
その意味では法的には強制でも、事実上支払いが任意に近く、未納付率の高い現行の国民年金や国民健康保険は、制度としても大きな欠陥がある。
つまり、自動車賠償責任保険のように、自動車の所有者に対して民間の保険会社に加入を強制できる仕組みがあれば、あえて独占的な官の保険会社を設ける必要はない。
オバマ大統領の公約を実現し、2011年に制定された米国の医療保険制度はこうした考え方に近く、全国民を対象とする公的保険を設立するのではなく、個人の民間への加入の強制と保険会社の受け入れ義務化により、実質的に国民の医療保障を実現する方式が用いられた。
<清盛の構造改革>
平安時代末期の1180年に、時の政権を担っていた平家は、平清盛の強いリーダーシップで、京都から福原への遷都を行った。
長い歴史のある平安京を離れることに、天皇や公家、および平家一門が強く反対したにもかかわらず、それを押し切って果敢に実行されたものであった。
この福原遷都には、公家に対する武家政権の確立を目指したとか、奈良や比叡山の寺院勢力からの圧力を回避するためとか、諸説がある。
しかし、遷都の地として、あえて瀬戸内海に面した良港を選択したことは、当時、日本との貿易拡大を目指して瀬戸内海に現れた宋の船の影響も大きかったと考えられる。
当時の宋にとって貿易の拡大のためには、瀬戸内海の海賊退治に必要な軍事力を持つ平家との連携が不可欠だった。
また、平清盛にも宋との貿易の拡大を通じて貿易国家の樹立を目指す壮大な構想があったと見られる。
源平の争いのように、もっぱら軍事力で領土を広げることが目的であった時代に、日本の限られた土地を奪い合う事は不毛であり、むしろ宋との自由貿易を通じたパイの拡大を目指すという平清盛の思想は画期的なものであった。
しかし、こうした「構造改革」は、当時の人々の理解を超えたもので、住み慣れた都の居心地のよさを懐かしむ平家一門の声と、源氏による侵略や自問の騒動などのよる混乱もあり、遷都から半年ほどで平安京への期間を余儀なくされることとなった。
その後、平家を滅ぼし、関東に勢力を築いた源頼朝政権は、中国との交易への関心は乏しく、日本が「東洋の英国」のような貿易国家への道を進むという清盛の夢は立ち消えとなってしまった。
<米国こそが野党>
「米国の生産者の利益を代表する米国政府の圧力によって、日本の新規事業者と消費者が利益を得る」という構図が繰り返されてきた。
こうした米国政府の「貢献」について、当時の日本の国会を念頭に「健全野党」という表現が用いられたことがあった。
これは、自民党が万年与党だった当時、野党の社会党は観念論を振りかざすだけで本来の野党としての役割を果たしておらず、生産者保護一辺倒の与党自民党に対して、消費者利益を主張する米国政府こそが実質的な野党の役割を担っているという意味であった。
<競争促進の規制緩和に利権はない>
自由化を支持した規制改革会議に対しては、既得権を守る立場から多くの批判が浴びせられたが、その極端な例として「改革利権」という不思議な表現があった。
たとえば、「タクシーの規制緩和で車両が増えれば、自動車のリース会社が儲かる」というような論理を真面目に唱えた評論家もいた(これは当時の規制改革会議議長がリース会社の経営者であることを念頭に置いてのものだろう)。
しかし、リース業に参入規制はなく、またタクシー会社が車両を購入するか、リースするかの選択は自由である。
競争を促進させる規制緩和では、新規参入の抑制により特定の企業に超過利潤が発生するような状況はありえない。
<もっと競争原理を>
中国やインドの人口大国が本格的な市場経済化を進め、豊かな日本への急速なキャッチアップを始める。
日本の企業は、米国などの先進国への市場に参入して製品を売りまくる「攻め」には強いが、逆に自国の市場に攻め込まれる、「逆キャッチアップ」には弱い。
これは、攻撃側の大企業と守備側の中小企業との間に大きな生産性の格差がある「二重構造」のためである。
日本の産業別の生産性格差は大きく、労働生産性の高い製造業と生産性の低いサービス業・農業との格差は、同じ国の労働者が支える産業とはいえないほどである。
これは産業間に目に見える壁こそないものの、旧東西ドイツと似た状況といえる。
世界市場での競争に勝ち残ってきた製造業の多くは市場経済の西ドイツに相当するが、長年政府の庇護下にある農業や規制に守られた大部分のサービス産業は、東ドイツに近い状況にある。
つまり、日本の産業の半分以上が社会主義に類似した体制となっている。
こうした歪んだ産業構造が、1990年代以降の、輸出にもっぱら依存した経済成長パターンから脱却できない大きな要素である。
<所得格差は高齢者の方が大きい>
夫と妻がともに働くか、あるいは定年後も働き続けるかなど、それぞれの家族の自主的な判断に基づく面が大きく、そこから生じる所得格差は社会的に是正すべき問題とはいえない。
さらに、子供と別居する高齢者の増加は、年金水準の高まりなどによる、高齢者自身の経済的水準の向上による面も大きい。
このように、世帯ベースで見た所得格差の高まりには、家族の多様性に基づく面もあることが重要である。
他方で、一般に所得格差を縮小させると考えられている社会保障制度が逆の影響を及ぼすことがある。
サラリーマンが加入する厚生年金は、勤労時に高賃金であった者ほど高い保険料を負担し、給付額もそれだけ多い。
つまり、勤労時の所得格差を引退時にも持ちこむ制度である。
高年齢ほど所得格差が大きい現状では、高齢者を一律に「弱者」と見なして優遇し、年金に賃金より大幅な所得控除を適用することで、実質的に低い所得税率としている現行の税制は改善されなければならない。
<日本に海外企業を誘致>
経済活動の国際化の影響は、直接投資の動向にも反映されている。
現代の国際社会では、企業が工場や営業所の立地を考える際、国境の制約が小さくなっており、「企業が国を選ぶ」時代となっている。
日本企業が国内で生産活動を続ける必然性は乏しく、海外で生産したせ遺品を輸入することは日常化している。
これらを補う為には、日本国内における外国企業の生産活動が盛んになることが必要だが、日本独自の制度や商慣行が、外国企業の対内直接投資を妨げている。
たとえば、外国企業が既存の日本企業を買収することに対しては、雇用慣行が変わることを恐れる労働組合などの反対が大きく、円滑に進まない。
80年代に、米国の雇用問題が深刻となった時期、米国の各州が日本に事務所を設け、日本企業の誘致合戦を繰り広げたこととは大きな違いである。
<非正社員と正社員の所得格差>
「派遣社員も含めた非正社員が増えたために、賃金格差が拡大した」という論理の誤りは、労働市場のなかだけで考えていることになる。
この論理によれば、低賃金の非正社員が失業者になって労働市場の外に排除されれば、残るのは正社員だけになり、見かけの賃金格差は縮小するが、それが果たして望ましいといえるだろうか。
賃金ゼロの失業者も含めた広義のジニ係数を試算すると、そうでない場合よりも格差が拡大することは明らかである。
<市場主義と地域主権>
市場主義と地域主権の共通点は、負担と給付の結びつきが明確なことである。
国民負担率の高い「大きな政府」である北欧諸国が徹底した地方分権を採用していることは、「他人の負担で自らが受益する」行動を抑制するためである。
<埋蔵金>
日本の財政状況の深刻さは、財政収支の結果である「政府の負債の累計額」を見た場合により、明瞭に示される。
ほかのOECD諸国が一定の財政規律を維持しているなかで、日本の政府債務残高のGDPに対する比率は90年代を通じて一貫して高まり、2010年にはGDPの二倍の規模に達した。
政府の保有する金融資産を除いた純債務ベースでも、GDPと同じ規模であり、いずれも先進国ではトップレベルにある。
こうしたなか、歳出は削減できないが増税もできず、赤字公債の増発もみっともないとして、特別会計の積立金を取り崩して財源とすることが長らく行われている。
こうたした手法を、いつごろからか「埋蔵金の利用」と呼ぶことが定着している。
しかし家計でも政府でも、余分の貯金があれば借金の返済に充てるのが筋である。
積立金のような政府の資産を取り崩す時には、国債の償還に充て資産・債務の両建ての引き下げとすることが財政の基本原則とされている。
これに反して、取り崩した資産を歳出に充てることは、純債務(債務から資産を引いたもの)の増加と同じ意味であり、赤字公債の発行と何ら違いはない。
大幅な住宅ローンを抱えている家計が銀行預金を引き出し、飲食費に充て「借金を増やさずに済んだ」といっているようなものである。
<専業主婦の保険料>
専業主婦の保険料は世帯主が負担しているという建前であるが、実際には世帯主の保険料は専業主婦の有無にかかわらず、同じ賃金水準の単身者や共働きと同一である。
これは、配偶者の保険料を追加的に負担しているとはいえない。
こうした家族単位の仕組みは、専業主婦世帯が大多数を占めていたじきにはともかく、夫婦がともに働く世帯(2010年で1012万世帯)が専業主婦世帯(797万世帯)を大きく上回っている現在では、平均して所得水準の高い専業主婦世帯を著しく優遇するものとなっている。
<専業主婦の保険料2>
女性が働くことが当たり前の時代では、専業主婦も自営業と同様に個人として保険料を払い、個人として受給する制度のほうがはるかに公平であり、かつ効率的となる。
その場合、専業主婦を持つ会社員の夫は、自営業の夫と同様にいままで免除されていた妻の国民年金保険料を負担することになる。
世帯主が自営業か会社員化の違いにかかわらず、その無業の配偶者はすべて第一号被保険者としておけば、資格変更の手続きは必要なく、こうした問題は生じなかったはずである。
これに対して、専業主婦の家事労働は社会に貢献している「無償労働」であり、国民年金保険料の免除はその対価である、という奇妙な論理がある。
しかし、妻の家事労働の恩恵を受けているのはその夫であり、ほかの世帯には関係ない。
妻の国民年金保険料を夫が負担することは、万一の際の生命保険料と同様に、老後の安定のために必要な婚姻費用の一部である。
専業主婦は自ら所得がないため保険料を負担できないという現行制度の弁護論もあるが、20歳以上の学生の国民年金保険料は、その扶養義務者である親の負担としていることと、完全に矛盾している。
現行の破綻している年金の論理を整合的にするためには完全な個人単位の年金制度とし、独自の所得がない場合には代わりに扶養義務者が負担するか、それができなければ免除制度を活用するかを選択すればよい。
<無年金者と生活保護>
社会保険料の世代間格差の問題をさらに拡大される要因が、年々高まる国民年金保険料の未納付率である。
税金と一緒に給与から天引きされる大部分の会社員の保険料は確実に納付されるが、自ら支払いを求められる自営業や20歳以上の学生は、事実上の任意納付である。
保険料は、期限までに納付しなくとも所得税のような加算税(年7.3%)は課されず、しかも二年間納付しなければ自動的に時効となる鷹揚な仕組みである。
これは、年金保険料納めなければ将来、年金を受け取れないだけで、年金収支には無関係という暗黙の論理のためである。
しかし、これは厚生労働省内の典型的な縦割り行政の弊害である。
現在の生活保護受給者の2/3が(過去に保険料を払わなかったことによる)無年金者であり、国民年金保険料の未納付が社会保障全体では後の世代の負担になることを無視している。
<年金を消費税で>
未納付問題の抜本的な解決策は、誰もが逃げられない年金目的消費税の形で「保険料」を徴収することである。
もともと現行の国民年金保険料は、所得水準にかかわらず定額の保険料を負担する、税制のうちでは最悪の「人頭税」である。
これは消費額に比例した消費税に置き換えることで、より公平な制度となる。
また現行制度のように個人の働き方が、変わるごとに必要とされる被保険者資格変更の届け出が不要になることで、年金行政や被保険者の事務負担が大幅に軽減される。
理由のいかんに問わず、手続きをしなかった者には年金の受給権を与えないという「お上の論理」もなくなる。
年金目的消費税方式であれば、単に満額受給資格に必要な40年間、国内に在住していたことを示すだけで「保険料」を負担していたといなされ、はるかに簡素化される。
<労働組合の怠慢?>
日本の雇用問題についての多くの誤解は、欧米と同様に資本家と労働者の間の「労使対立」の枠組みで考えてしまうことによる。
しかし、企業別に分断された日本の「労働市場」では、大企業の経営者のほとんどは大株主ではなく、自社生え抜きの「成功した労働者」である。
長期的に企業が存続し雇用を安定化させることが労使共通の目的となる点で、経営者と労働組合との間には基本的な利害の対立はない。
本来の資本主義経済では、企業の所有者は株主であるはずだが、日本の企業は利益のうちから株主には最低限の配当しか提供せず、利益の多くは経営者と労働者の雇用安定のための内部留保の蓄積に向ける。
日本の大企業では「労使対立」が深刻でない代わりに、「労・労対立」がある。
これは正社員とその雇用を不況期にも保障するための調整弁となる非正社員との利害対立である。
また、大企業とその下請けの中小企業、男性と女性の正社員との間にも大きな資金格差がある。
これらが、ごく最近まで社会問題として認識されなかった理由は、5500万人もの働き方の異なる労働者の利益を、王同組合の中央組織である連合が代表しているという壮大なフィクションが通用していたためである。
<労働格差>
景気変動の特に大きな製造業では、臨時工・期間工や下請け企業の従業員に不況期の雇用削減のリスクを押し付ける、「労働市場の二重構造」が古くから存在していた。
これが90年代以降、長期経済停滞に突入すると、製造業以外でも過去の短期間の不況時のように正社員の雇用を保障することは困難となった。
しかし、労使がともに過去の雇用慣行をそのままの形で維持しようとした結果、雇用を保障できる「正社員」の数を徐々に減らし、調整弁となる「非正社員」を持続的に増やさざるをえなかった。
そうして雇用の不安定な非正社員の比率が全体の1/3に高まったことで、労働市場における「格差」が大きな社会問題となった。
こうした経済環境の変化を考慮せず、「非正社員の増加は、もっぱら企業の利益追求によるもの」という誤解が蔓延している。
この論理は、企業は過去にも利益を追求してきたはずであり、賃金の低い非正社員を雇用することが利益になるなら、なぜ昔からそうしなかったのか、という素朴な疑問に答えられない。
派遣労働の規制緩和で、非正社員を雇うことが容易になったからという説明も、非正社員に占める派遣社員の数は2010年で1割にも満たないことから説得的ではない。
<労働管理企業>
「同一労働・同一賃金」は、連合など労働運動の大きな柱のひとつである。
しかし、同時に毎年の春闘では、「(不況期にベースアップは無理でも)定期昇給は確保」という主張もなされる。
定期昇給とは年功賃金の維持と同じ意味であるとすれば、それは「同一労働・同一賃金」と基本的に矛盾しているはずだが、そのことへの説明はまったくない。
新自由主義の立場で考える「合理的な賃金」のひとつの基準は、労働者の(限界)生産性(企業の生産活動への貢献度)に見合ったものである。
この生産性は、同じ仕事をしていれば同じであり、職種別に定められた賃金と原則として一致するはずである。
もちろん、同じ仕事でも長年勤務している熟練者と入社したばかりの新人とでは仕事の質が異なるが、それは質の差に応じた別の仕事と考えればよい。
「同一労働・同一賃金」は、労働組合の「建前の主張」だけでなく、経済学の基本的な論理でもある。
実際には、企業別に分断された日本の労働市場では、賃金は「企業利益の配分」であり、利益水準に差のある大企業と中小企業とでは、同じ仕事内容でも賃金は異なって当然という「常識」がある。
これは、企業の所有者は株主であり、労働者に賃金を、経営者に報酬を払った後の利益を株主がすべて受け取るという、資本主義企業の論理と異なるものである。
日本の企業は、資本の提供者である株主に世間並みの配当金を支払った後は、利益を(内部留保の形での貯蓄も含め)経営者と労働者とで分け合うが「労働者管理企業」に近いといえる。
<採用を考える>
所定の技能を持つ労働者を、欠員が生じることに採用するのが一般的な欧米企業に比べて、日本の大企業では定期的な配置転換を通じて、企業内で熟練労働者を育成する。
これに合わせて、未熟練でも潜在能力の高い新卒者を、一括採用する方式がとられる。
しかし、学生の潜在能力を面接だけで判断することは困難なため、学歴や性別などの客観的な情報が、補完的な選別手段として用いられる。
在学中に内定を取れなかったという第二新卒の「実績」も、選別のひとつの基準とされている。
企業が採用差Hをあらかじめ厳格に選別するのは、長期雇用保障の裏返しでもある。
一度採用すると、仕事に必要な能力が不足していても解雇が困難である。
また、頻繁な配置転換に対応するため、人事部はどんな仕事でもこなせる万能型社員を選ぶ必要がある。
企業組織が年々拡大していた高度経済成長期に成立した雇用慣行が、90年代以降の低成長期にもそのまま維持されていることに根本的な問題がある。
<シャッター街を出来る理由>
消費者の選択を無視し、地元商店の利益を主体に考える保護政策は、農業保護と共通点が多い。
お客が減り、採算が合わないからと店を閉めるのは自由だが、立地の良い場所の店舗をほかの事業者に売ることも貸すこともしないのは、農業の耕作放棄地と同じ「商売放棄地」に等しい。
借り手がいないのは賃貸料が高すぎる為で、「安い値段なら貸さないほうがマシ」といっていられるのは、土地の固定資産税が低すぎるためでもある。
<通勤ラッシュ解消法>
ラッシュ時の鉄道では、プリペイドカードが普及した現在では、自動改札機での引き落とす料金を混雑度に応じて調整することは、技術的には可能である。
この場合、ラッシュのピーク時を中心に、その前後の時間に分散するほど料金を10分単位で値引きする仕組みとする。
出勤時間を30分も調整することは困難でも、10分程度なら可能とすれば、それでラッシュのピーク時の乗客数の山はなだらかとなる。
通勤定期の費用が会社持ちだから節約しても仕方がないという見当も当らない。
大きな会社ほどラッシュ時通勤しないことによるコストの節約分が大きくなれば、率先してフレックスタイムが導入されるであろう。
<新自由主義の考え方>
新自由主義の考え方は、単なる「自由放任主義」ではない。
「賢人」政治や伝統的な共同体に依存するのではなく、不特定多数の人々の利益を最もよく調整できる市場を最大限に活用するための、政府の役割を重視するものである。
リーマンショック以降、嫌われ続けている自由主義経済。
自由主義経済を主張していた中谷厳さんの自戒の書「資本主義はなぜ自壊したのか」もヒットしました。
本当に小泉・竹中時代の構造改革・自由主義経済の推進は間違っていたのでしょうか?
その後の日本経済の様子を見ると、どうもよく分かりません…
本書は、もう一度自由主義を見直すきっかけになります。
ご一読あれ!
書名:新自由主義の復権
著者:八代 尚宏
<日本における反市場主義>
日本における伝統的な「反市場主義」の思想としては、以下のふたつがある。
第一は「賢人政治」の思想であり、政府による資源配分や所得配分の規模拡大を重視するものである。
すなわち、「高福祉・高負担の名目で法人税や所得税の最高税率を引き上げ、大企業や高所得層の負担で所得再分配を強化する」ことが基本政策となる。
また、利益追求の企業に代わって、国が国民生活に関わる医療・介護・保育から職業紹介に至るまで、公共的なサービスの供給に全面的に責任を持つべきとする。
そこには、「非合理な規制や高負担を避けるため、企業が国内の経済活動を抑制し、海外へ工場を移転するという可能性は乏しい」という前提があるが、これはグローバル化が進む時代には希望的観測である。
また、「高福祉」への政策が先行する反面、政治的に「高負担」は受け入れられにくいため、赤字財政の慢性化や、後の世代に負担が先送りされる「大きな赤字政府」となりやすい。
第二は、伝統的な「共同体重視」の思想である。
たとえば、零細農家や中小企業、郵便局などを重視し、国内の大企業などとの市場競争から保護すべきとする。
そのため、貿易や資本の自由化には消極的で、外資の参入を極力抑制する。
また、「戦後の貿易や資本の自由化は、米国政府の圧力に屈したもの」などと主張し、ナショナリズムにも訴える。
中小都市や町村を守るためとして、地方分権よりも地方への税制移転を増やすことで、大きな政府につながる。
また、伝統的な家族を重視し、夫婦別姓選択制のような家族の多様性を否定する。
これらふたつの思想は、互いに対立する面も少なくないが、「反市場主義」と「大きな政府」という面では一致しており、日本の政界、財界、マスコミなどでも少なからぬ権力を維持している。
<日本の所得再分配>
日本では個人への所得再分配に加えて、公共事業を通じた地方への所得移転、農家への所得補償や中小企業だけを対象とした各種の低利融資などの支援が幅広く行われている。
これは個人は手厚く保護するが、企業はその規模の大小を問わず市場競争に徹底して晒す、スウェーデンの福祉国家との大きな違いである。
中小企業は、企業数の九割を占める大事な存在だからといわれるが、大部分の企業を政府が保護するならば、もはや市場経済とはいえない。
<皆保険制度>
そもそも年金や医療保険は、民間企業でも類似の商品が提供されているのになぜ政府が社会保険をあえて作らなければならないのだろうか。
国民全員が同一の仕組みの社会保険に加入する「国民皆年金・皆保険」制度で安心と平等が確保されるから、というのが通説のようである。
たしかに倒産しない政府の「保険会社」のほうが安心かもしれないが、それは旧社会保険庁に見るような運営の非効率と裏腹の関係にある。
これは新自由主義の観点で見ると、社会保険が必要とされる最大の根拠は、「加入の強制」にある。
老後の生活や疾病に備えた民間保険を購入したいり貯蓄したりせず、収入がなくなれば生活保護制度に依存するという「(個人にとっては)合意的な行動」を防ぐためには、所得のある勤労時に、社会保険料の形で「貯蓄の強制」を行う必要がある。
その意味では法的には強制でも、事実上支払いが任意に近く、未納付率の高い現行の国民年金や国民健康保険は、制度としても大きな欠陥がある。
つまり、自動車賠償責任保険のように、自動車の所有者に対して民間の保険会社に加入を強制できる仕組みがあれば、あえて独占的な官の保険会社を設ける必要はない。
オバマ大統領の公約を実現し、2011年に制定された米国の医療保険制度はこうした考え方に近く、全国民を対象とする公的保険を設立するのではなく、個人の民間への加入の強制と保険会社の受け入れ義務化により、実質的に国民の医療保障を実現する方式が用いられた。
<清盛の構造改革>
平安時代末期の1180年に、時の政権を担っていた平家は、平清盛の強いリーダーシップで、京都から福原への遷都を行った。
長い歴史のある平安京を離れることに、天皇や公家、および平家一門が強く反対したにもかかわらず、それを押し切って果敢に実行されたものであった。
この福原遷都には、公家に対する武家政権の確立を目指したとか、奈良や比叡山の寺院勢力からの圧力を回避するためとか、諸説がある。
しかし、遷都の地として、あえて瀬戸内海に面した良港を選択したことは、当時、日本との貿易拡大を目指して瀬戸内海に現れた宋の船の影響も大きかったと考えられる。
当時の宋にとって貿易の拡大のためには、瀬戸内海の海賊退治に必要な軍事力を持つ平家との連携が不可欠だった。
また、平清盛にも宋との貿易の拡大を通じて貿易国家の樹立を目指す壮大な構想があったと見られる。
源平の争いのように、もっぱら軍事力で領土を広げることが目的であった時代に、日本の限られた土地を奪い合う事は不毛であり、むしろ宋との自由貿易を通じたパイの拡大を目指すという平清盛の思想は画期的なものであった。
しかし、こうした「構造改革」は、当時の人々の理解を超えたもので、住み慣れた都の居心地のよさを懐かしむ平家一門の声と、源氏による侵略や自問の騒動などのよる混乱もあり、遷都から半年ほどで平安京への期間を余儀なくされることとなった。
その後、平家を滅ぼし、関東に勢力を築いた源頼朝政権は、中国との交易への関心は乏しく、日本が「東洋の英国」のような貿易国家への道を進むという清盛の夢は立ち消えとなってしまった。
<米国こそが野党>
「米国の生産者の利益を代表する米国政府の圧力によって、日本の新規事業者と消費者が利益を得る」という構図が繰り返されてきた。
こうした米国政府の「貢献」について、当時の日本の国会を念頭に「健全野党」という表現が用いられたことがあった。
これは、自民党が万年与党だった当時、野党の社会党は観念論を振りかざすだけで本来の野党としての役割を果たしておらず、生産者保護一辺倒の与党自民党に対して、消費者利益を主張する米国政府こそが実質的な野党の役割を担っているという意味であった。
<競争促進の規制緩和に利権はない>
自由化を支持した規制改革会議に対しては、既得権を守る立場から多くの批判が浴びせられたが、その極端な例として「改革利権」という不思議な表現があった。
たとえば、「タクシーの規制緩和で車両が増えれば、自動車のリース会社が儲かる」というような論理を真面目に唱えた評論家もいた(これは当時の規制改革会議議長がリース会社の経営者であることを念頭に置いてのものだろう)。
しかし、リース業に参入規制はなく、またタクシー会社が車両を購入するか、リースするかの選択は自由である。
競争を促進させる規制緩和では、新規参入の抑制により特定の企業に超過利潤が発生するような状況はありえない。
<もっと競争原理を>
中国やインドの人口大国が本格的な市場経済化を進め、豊かな日本への急速なキャッチアップを始める。
日本の企業は、米国などの先進国への市場に参入して製品を売りまくる「攻め」には強いが、逆に自国の市場に攻め込まれる、「逆キャッチアップ」には弱い。
これは、攻撃側の大企業と守備側の中小企業との間に大きな生産性の格差がある「二重構造」のためである。
日本の産業別の生産性格差は大きく、労働生産性の高い製造業と生産性の低いサービス業・農業との格差は、同じ国の労働者が支える産業とはいえないほどである。
これは産業間に目に見える壁こそないものの、旧東西ドイツと似た状況といえる。
世界市場での競争に勝ち残ってきた製造業の多くは市場経済の西ドイツに相当するが、長年政府の庇護下にある農業や規制に守られた大部分のサービス産業は、東ドイツに近い状況にある。
つまり、日本の産業の半分以上が社会主義に類似した体制となっている。
こうした歪んだ産業構造が、1990年代以降の、輸出にもっぱら依存した経済成長パターンから脱却できない大きな要素である。
<所得格差は高齢者の方が大きい>
夫と妻がともに働くか、あるいは定年後も働き続けるかなど、それぞれの家族の自主的な判断に基づく面が大きく、そこから生じる所得格差は社会的に是正すべき問題とはいえない。
さらに、子供と別居する高齢者の増加は、年金水準の高まりなどによる、高齢者自身の経済的水準の向上による面も大きい。
このように、世帯ベースで見た所得格差の高まりには、家族の多様性に基づく面もあることが重要である。
他方で、一般に所得格差を縮小させると考えられている社会保障制度が逆の影響を及ぼすことがある。
サラリーマンが加入する厚生年金は、勤労時に高賃金であった者ほど高い保険料を負担し、給付額もそれだけ多い。
つまり、勤労時の所得格差を引退時にも持ちこむ制度である。
高年齢ほど所得格差が大きい現状では、高齢者を一律に「弱者」と見なして優遇し、年金に賃金より大幅な所得控除を適用することで、実質的に低い所得税率としている現行の税制は改善されなければならない。
<日本に海外企業を誘致>
経済活動の国際化の影響は、直接投資の動向にも反映されている。
現代の国際社会では、企業が工場や営業所の立地を考える際、国境の制約が小さくなっており、「企業が国を選ぶ」時代となっている。
日本企業が国内で生産活動を続ける必然性は乏しく、海外で生産したせ遺品を輸入することは日常化している。
これらを補う為には、日本国内における外国企業の生産活動が盛んになることが必要だが、日本独自の制度や商慣行が、外国企業の対内直接投資を妨げている。
たとえば、外国企業が既存の日本企業を買収することに対しては、雇用慣行が変わることを恐れる労働組合などの反対が大きく、円滑に進まない。
80年代に、米国の雇用問題が深刻となった時期、米国の各州が日本に事務所を設け、日本企業の誘致合戦を繰り広げたこととは大きな違いである。
<非正社員と正社員の所得格差>
「派遣社員も含めた非正社員が増えたために、賃金格差が拡大した」という論理の誤りは、労働市場のなかだけで考えていることになる。
この論理によれば、低賃金の非正社員が失業者になって労働市場の外に排除されれば、残るのは正社員だけになり、見かけの賃金格差は縮小するが、それが果たして望ましいといえるだろうか。
賃金ゼロの失業者も含めた広義のジニ係数を試算すると、そうでない場合よりも格差が拡大することは明らかである。
<市場主義と地域主権>
市場主義と地域主権の共通点は、負担と給付の結びつきが明確なことである。
国民負担率の高い「大きな政府」である北欧諸国が徹底した地方分権を採用していることは、「他人の負担で自らが受益する」行動を抑制するためである。
<埋蔵金>
日本の財政状況の深刻さは、財政収支の結果である「政府の負債の累計額」を見た場合により、明瞭に示される。
ほかのOECD諸国が一定の財政規律を維持しているなかで、日本の政府債務残高のGDPに対する比率は90年代を通じて一貫して高まり、2010年にはGDPの二倍の規模に達した。
政府の保有する金融資産を除いた純債務ベースでも、GDPと同じ規模であり、いずれも先進国ではトップレベルにある。
こうしたなか、歳出は削減できないが増税もできず、赤字公債の増発もみっともないとして、特別会計の積立金を取り崩して財源とすることが長らく行われている。
こうたした手法を、いつごろからか「埋蔵金の利用」と呼ぶことが定着している。
しかし家計でも政府でも、余分の貯金があれば借金の返済に充てるのが筋である。
積立金のような政府の資産を取り崩す時には、国債の償還に充て資産・債務の両建ての引き下げとすることが財政の基本原則とされている。
これに反して、取り崩した資産を歳出に充てることは、純債務(債務から資産を引いたもの)の増加と同じ意味であり、赤字公債の発行と何ら違いはない。
大幅な住宅ローンを抱えている家計が銀行預金を引き出し、飲食費に充て「借金を増やさずに済んだ」といっているようなものである。
<専業主婦の保険料>
専業主婦の保険料は世帯主が負担しているという建前であるが、実際には世帯主の保険料は専業主婦の有無にかかわらず、同じ賃金水準の単身者や共働きと同一である。
これは、配偶者の保険料を追加的に負担しているとはいえない。
こうした家族単位の仕組みは、専業主婦世帯が大多数を占めていたじきにはともかく、夫婦がともに働く世帯(2010年で1012万世帯)が専業主婦世帯(797万世帯)を大きく上回っている現在では、平均して所得水準の高い専業主婦世帯を著しく優遇するものとなっている。
<専業主婦の保険料2>
女性が働くことが当たり前の時代では、専業主婦も自営業と同様に個人として保険料を払い、個人として受給する制度のほうがはるかに公平であり、かつ効率的となる。
その場合、専業主婦を持つ会社員の夫は、自営業の夫と同様にいままで免除されていた妻の国民年金保険料を負担することになる。
世帯主が自営業か会社員化の違いにかかわらず、その無業の配偶者はすべて第一号被保険者としておけば、資格変更の手続きは必要なく、こうした問題は生じなかったはずである。
これに対して、専業主婦の家事労働は社会に貢献している「無償労働」であり、国民年金保険料の免除はその対価である、という奇妙な論理がある。
しかし、妻の家事労働の恩恵を受けているのはその夫であり、ほかの世帯には関係ない。
妻の国民年金保険料を夫が負担することは、万一の際の生命保険料と同様に、老後の安定のために必要な婚姻費用の一部である。
専業主婦は自ら所得がないため保険料を負担できないという現行制度の弁護論もあるが、20歳以上の学生の国民年金保険料は、その扶養義務者である親の負担としていることと、完全に矛盾している。
現行の破綻している年金の論理を整合的にするためには完全な個人単位の年金制度とし、独自の所得がない場合には代わりに扶養義務者が負担するか、それができなければ免除制度を活用するかを選択すればよい。
<無年金者と生活保護>
社会保険料の世代間格差の問題をさらに拡大される要因が、年々高まる国民年金保険料の未納付率である。
税金と一緒に給与から天引きされる大部分の会社員の保険料は確実に納付されるが、自ら支払いを求められる自営業や20歳以上の学生は、事実上の任意納付である。
保険料は、期限までに納付しなくとも所得税のような加算税(年7.3%)は課されず、しかも二年間納付しなければ自動的に時効となる鷹揚な仕組みである。
これは、年金保険料納めなければ将来、年金を受け取れないだけで、年金収支には無関係という暗黙の論理のためである。
しかし、これは厚生労働省内の典型的な縦割り行政の弊害である。
現在の生活保護受給者の2/3が(過去に保険料を払わなかったことによる)無年金者であり、国民年金保険料の未納付が社会保障全体では後の世代の負担になることを無視している。
<年金を消費税で>
未納付問題の抜本的な解決策は、誰もが逃げられない年金目的消費税の形で「保険料」を徴収することである。
もともと現行の国民年金保険料は、所得水準にかかわらず定額の保険料を負担する、税制のうちでは最悪の「人頭税」である。
これは消費額に比例した消費税に置き換えることで、より公平な制度となる。
また現行制度のように個人の働き方が、変わるごとに必要とされる被保険者資格変更の届け出が不要になることで、年金行政や被保険者の事務負担が大幅に軽減される。
理由のいかんに問わず、手続きをしなかった者には年金の受給権を与えないという「お上の論理」もなくなる。
年金目的消費税方式であれば、単に満額受給資格に必要な40年間、国内に在住していたことを示すだけで「保険料」を負担していたといなされ、はるかに簡素化される。
<労働組合の怠慢?>
日本の雇用問題についての多くの誤解は、欧米と同様に資本家と労働者の間の「労使対立」の枠組みで考えてしまうことによる。
しかし、企業別に分断された日本の「労働市場」では、大企業の経営者のほとんどは大株主ではなく、自社生え抜きの「成功した労働者」である。
長期的に企業が存続し雇用を安定化させることが労使共通の目的となる点で、経営者と労働組合との間には基本的な利害の対立はない。
本来の資本主義経済では、企業の所有者は株主であるはずだが、日本の企業は利益のうちから株主には最低限の配当しか提供せず、利益の多くは経営者と労働者の雇用安定のための内部留保の蓄積に向ける。
日本の大企業では「労使対立」が深刻でない代わりに、「労・労対立」がある。
これは正社員とその雇用を不況期にも保障するための調整弁となる非正社員との利害対立である。
また、大企業とその下請けの中小企業、男性と女性の正社員との間にも大きな資金格差がある。
これらが、ごく最近まで社会問題として認識されなかった理由は、5500万人もの働き方の異なる労働者の利益を、王同組合の中央組織である連合が代表しているという壮大なフィクションが通用していたためである。
<労働格差>
景気変動の特に大きな製造業では、臨時工・期間工や下請け企業の従業員に不況期の雇用削減のリスクを押し付ける、「労働市場の二重構造」が古くから存在していた。
これが90年代以降、長期経済停滞に突入すると、製造業以外でも過去の短期間の不況時のように正社員の雇用を保障することは困難となった。
しかし、労使がともに過去の雇用慣行をそのままの形で維持しようとした結果、雇用を保障できる「正社員」の数を徐々に減らし、調整弁となる「非正社員」を持続的に増やさざるをえなかった。
そうして雇用の不安定な非正社員の比率が全体の1/3に高まったことで、労働市場における「格差」が大きな社会問題となった。
こうした経済環境の変化を考慮せず、「非正社員の増加は、もっぱら企業の利益追求によるもの」という誤解が蔓延している。
この論理は、企業は過去にも利益を追求してきたはずであり、賃金の低い非正社員を雇用することが利益になるなら、なぜ昔からそうしなかったのか、という素朴な疑問に答えられない。
派遣労働の規制緩和で、非正社員を雇うことが容易になったからという説明も、非正社員に占める派遣社員の数は2010年で1割にも満たないことから説得的ではない。
<労働管理企業>
「同一労働・同一賃金」は、連合など労働運動の大きな柱のひとつである。
しかし、同時に毎年の春闘では、「(不況期にベースアップは無理でも)定期昇給は確保」という主張もなされる。
定期昇給とは年功賃金の維持と同じ意味であるとすれば、それは「同一労働・同一賃金」と基本的に矛盾しているはずだが、そのことへの説明はまったくない。
新自由主義の立場で考える「合理的な賃金」のひとつの基準は、労働者の(限界)生産性(企業の生産活動への貢献度)に見合ったものである。
この生産性は、同じ仕事をしていれば同じであり、職種別に定められた賃金と原則として一致するはずである。
もちろん、同じ仕事でも長年勤務している熟練者と入社したばかりの新人とでは仕事の質が異なるが、それは質の差に応じた別の仕事と考えればよい。
「同一労働・同一賃金」は、労働組合の「建前の主張」だけでなく、経済学の基本的な論理でもある。
実際には、企業別に分断された日本の労働市場では、賃金は「企業利益の配分」であり、利益水準に差のある大企業と中小企業とでは、同じ仕事内容でも賃金は異なって当然という「常識」がある。
これは、企業の所有者は株主であり、労働者に賃金を、経営者に報酬を払った後の利益を株主がすべて受け取るという、資本主義企業の論理と異なるものである。
日本の企業は、資本の提供者である株主に世間並みの配当金を支払った後は、利益を(内部留保の形での貯蓄も含め)経営者と労働者とで分け合うが「労働者管理企業」に近いといえる。
<採用を考える>
所定の技能を持つ労働者を、欠員が生じることに採用するのが一般的な欧米企業に比べて、日本の大企業では定期的な配置転換を通じて、企業内で熟練労働者を育成する。
これに合わせて、未熟練でも潜在能力の高い新卒者を、一括採用する方式がとられる。
しかし、学生の潜在能力を面接だけで判断することは困難なため、学歴や性別などの客観的な情報が、補完的な選別手段として用いられる。
在学中に内定を取れなかったという第二新卒の「実績」も、選別のひとつの基準とされている。
企業が採用差Hをあらかじめ厳格に選別するのは、長期雇用保障の裏返しでもある。
一度採用すると、仕事に必要な能力が不足していても解雇が困難である。
また、頻繁な配置転換に対応するため、人事部はどんな仕事でもこなせる万能型社員を選ぶ必要がある。
企業組織が年々拡大していた高度経済成長期に成立した雇用慣行が、90年代以降の低成長期にもそのまま維持されていることに根本的な問題がある。
<シャッター街を出来る理由>
消費者の選択を無視し、地元商店の利益を主体に考える保護政策は、農業保護と共通点が多い。
お客が減り、採算が合わないからと店を閉めるのは自由だが、立地の良い場所の店舗をほかの事業者に売ることも貸すこともしないのは、農業の耕作放棄地と同じ「商売放棄地」に等しい。
借り手がいないのは賃貸料が高すぎる為で、「安い値段なら貸さないほうがマシ」といっていられるのは、土地の固定資産税が低すぎるためでもある。
<通勤ラッシュ解消法>
ラッシュ時の鉄道では、プリペイドカードが普及した現在では、自動改札機での引き落とす料金を混雑度に応じて調整することは、技術的には可能である。
この場合、ラッシュのピーク時を中心に、その前後の時間に分散するほど料金を10分単位で値引きする仕組みとする。
出勤時間を30分も調整することは困難でも、10分程度なら可能とすれば、それでラッシュのピーク時の乗客数の山はなだらかとなる。
通勤定期の費用が会社持ちだから節約しても仕方がないという見当も当らない。
大きな会社ほどラッシュ時通勤しないことによるコストの節約分が大きくなれば、率先してフレックスタイムが導入されるであろう。
<新自由主義の考え方>
新自由主義の考え方は、単なる「自由放任主義」ではない。
「賢人」政治や伝統的な共同体に依存するのではなく、不特定多数の人々の利益を最もよく調整できる市場を最大限に活用するための、政府の役割を重視するものである。