20050903。
20100826。
さて、何の数字でしょう。
答え。
1番目の数字が、わたしが初めて、ここ、ひまわりで、日記を書いた日。
2番目の数字が、わたしがひまわりを辞める日です。
というわけで、今月26日、18時をもって、ひまわり生活(生活?)終了です。
29日には、日本を出国いたしまして、中国に行って参ります。
目的は、語学留学です。
・・・そんなわけで。
はじめましての方も、お会いしたことあるみなさまも、さよならですね、のヨーコです。
おはようございます。
トータル年数でいえば、およそ5年間。
とはいえ、たいがいわたしの出勤は土日のみ。さらに、そこそこ長期で海外(オーストラリアだのカンボジアだのベトナムだの)に行ったりと間があいているので、実質年数でいえば、まったく経験値はありません。
日々、ぽけーっとしては、まわりのみなさまのテキパキ具合に助けられております。
毎度有難うございます。
はじめて勤務してから、お客さまも、スタッフも、だいぶ顔ぶれが変わりました。
かつて1年間、オーストラリアに行き、帰国してから、ひまわりに戻ったとき。
いると思っていたスタッフの何人かが、いなかった。
お客さまも、知らない人が増えていた。
同じ笑顔で、同じように「よーこちゃん」って呼んでくれると思っていた人たちがいなかった。
そうか、こんなに簡単に、人は会えなくなってしまうんだと、少し驚いたものです。
でも、だからこそ、人との出会いはとても楽しく、とても面白い。
広大な大地で、出会い、別れ、もう2度と会わないと思っていた人と、まったく違う国で、町で、再会することがある。
比べれば、狭い日本。
同じ県に住みながら、同じ時差で動きながら、2度と会わない人たちもいる。
だからこそ、出会った人たち。言葉を交わした人たち。
名前を呼んでくれる人たち。
世界中の人たちの中で、人生の中で、どれだけ、そうできる人たちがいるのかと思うと。
そんな出会いのひとつひとつが、奇跡みたいなことだと思う。
・・・思うのですよ。
いつも私服の人が、たまにスーツだったり。
いつもスーツの人が、私服だったり。
珍しくメガネをかけていたり。
この後、デートなんだとうきうきしてる人や。
奥さんに怒られるって、嘆いている人も。
疲れたような顔をしている人。
いつも無口な人。
明るい人。
一回だけの人。
常連になる人。
この人は、当然この人の人生があって、その時間の中に、自分が、脇役ででも出ていると思うと、なんかわくわくするのです。
スタッフの人たち。
見渡せば、いつのまにかみな、若い。(・・・いや、わたしもまだ若いですよ。若いつもりですよ。てか若いです。うん。)
ともあれ、友達にひまわりのことをいうとき、いつも言ってます。
「うちの店、かわいい子ばっかだよ!」って。
みんないい子ばかりで、とても好き。
・・・なんてことを吹聴してると、「おまえは客引きか!」とか「おかんか!」とか言われたりもしますが。
そう、もう、気分はおかんです。
スタッフの子らがきゃっきゃしてるのを見ると、とてもかわいいなあと思うのです。
みんな、それぞれの歩んでいく道で、たくさん悩んで、たくさん笑っている。
こっそり、がんばれよって思うのです。
でも無理はするなよって。
思うだけです。
・・・シャイなので(自分で言う。
さて。
そんなわけで、最後の日記となります。
ご存じの方はご存じの通り、私の日記はながながと長いのですが、今回はスペシャル長いです。
見たくねえよ!な方は、まあドラッグ&クリックの練習だと思ってくださるとマッチベターな感じかと思います。
そんなわたしは、タイピング速度は、わりあい自慢できるほどに速いです。わたしが胸はって自慢できる、数少ないことです。
てわけで。
最後の回想日記など、いってみます。
今年の一月から二月にかけて、中国、ラオスを旅してきたときの、思い出し日記です。
この旅があったから、今のわたしがあります。
中国留学を決めた、わたしがいるのです。
************************
標高の高い大理という街を降り、昆明に戻った瞬間、最悪だったわたしの体調は、一気に改善した。
もしかしたら、高山病だったんじゃないかと思ったほどだ。
さて、昆明。
戻ってきたのは、2月13日。
2月14日が春節(旧正月)なので、いわば、この日は大晦日だった。
中国の春節は、とにかく凄いと聞いていたが・・・なるほど。
ものすごい。
まず、宿内では、階段が危険地帯になるほどの爆竹の量が、ばらまかれていた。
耳の鼓膜が破れるかと思うほどの轟音と、あたり一面に広がる、火薬の臭いと煙。
宿のテラスからは、小さな布に炎をつけてふくらましてとばす簡易気球が次々と上がる。
あれ、布に燃え移ったり電線に引っかかったり、木にひっかかって燃え移ったりすると危険じゃないかなあと思っていたら、宿にポリスメン突入。
一緒に見物していたわたしは、彼らの姿を見た瞬間、「あ、捕獲されるー逮捕されるー」と、どこに逃げようかと思ったものだが、彼らはとりあえず気球を飛ばすのを眺め、危険がないことを確認すると、何事もなく去っていった。
道端では、次々とあがる花火。
日本でみるような、「線香花火、綺麗だね・・・」のような、風情のあるような光景は一変たりともなく、打ち上げ花火だ。
日本でいうならば、資格が絶対いるだろそれ、レベルの。
通常車が通る大通りのどまんなか、ビルの間に次々と上がる。
窓ガラスに映る花火もまた綺麗なものだが、下手したらわれるんじゃないかなあと思うほどの、ひたすら近く。
「あれ、職人さんがあげてるんですよね?」と、一緒に見ていた人に聞くと、何を馬鹿なことをといわんばかりに笑われた。
「そのへんの一般人にきまってんじゃん」
そうすか・・・。
爆竹に火炎気球。
あれだけテロに対して厳戒態勢な中国なのに、これはどう考えても、中国全土でテロってる。
などと思いつつも、なかなかエキセントリックな大晦日だった。
そんな昆明を出発し、北京に帰ってきたのは、15日。
旧正月の次の日。
寒さは予想したよりもきつくはなく、それでも朝はマイナス7度という気温だった。
旅に出る前は、あれほどごちゃごちゃしていた道路に車の影はなく、ここでも夜は、戦火の街中のようにあちらこちらで爆竹と花火の音がなり、石壁に赤く反射していた。
北京に戻ってから、帰国するまでの数日間は、ひたすらごろごろしていた。
開店時間が縮まった市場に買い物に行き、ネギチジミやら、カレーもどきの料理などをつくり、旅の相方であったIの同居人である中国人、shortyS氏につくったふろふき大根をあげてみた。
どんな感想かしらときくと、「甘い」とのこと。
ちなみに中国では「みりん」をみかけない。
そうして、2月19日。
わたしは日本に帰国したのだった。
長いかなと思った1ヶ月、でも今思えばあっという間だった。
帰りの飛行機は、韓国経由で、インチョン航空を出発したのは、夜。
飛行機の窓から見える夜景に、少し泣きそうになった。
今回の旅路。
日本
→北京
→昆明
→景洪
→南塔 (ラオス)
→ルアパパーン (ラオス)
→昆明
→大里
→北京
→日本
という道のり。
はじめに買った、日本⇔中国の往復チケットを除いて、この1ヶ月で使ったお金は7万円くらいだった。
宿はだいたい一泊200~500円くらい。
食事は一食100~500円。
一ヶ月。
いろいろなことがあった。
今まで海外を、いろいろな人と旅してきたけれど、そのどれもが、その人と一緒にいたからできた旅。
今回の相棒、Iは、Hiphopが好きで、DJをやっていて、いろいろな小物をもっていて、見るもの興味あるものに惹かれて積極的に関わろうとする人だった。
彼がいなければわたしは、中国がどんなところかまるで知らなかったし、彼らがどんなことを考えているのか知ることもなかった。
禁煙と大きく描かれたバスの中で当然のように煙草の煙で満たされるバス。あちこちでおじさんたちが痰を吐き、中国語わかんねっていってんのに、平気でしゃべりかけてくる中国人に辟易していたかもしれない。
扉とトイレットペーパーがない溝式トイレにうんざりして、やっぱり日本はいいなあと思っただろう。
Iから、中国の話を聞いた。
彼らは、こんなことを考えているんだよと聞いた。
もちろん彼なりの意見で、実際どうなのかはわからない。
でも彼は中国のよいところも悪いところも含めて、この国が好きで、この国に、人たちに興味を持っている。
きらきらとした目で、彼は中国のことを語る。
そうして、彼は言ったのだ。
ヨーコに、この国のことを知ってほしい、と。
「ヨーコがこの国をどうみて、どう思うのか、知りたい」と。
道中、何度も嬉しそうに話す彼を見て、わたしは中国に改めて興味を持ったのだろうと思う。
中国はとても広い。
十億人の人々。戸籍がない人を含めれば、きっとその倍はいるといわれている。
それだけの人がいる。どうしてそれで、中国の人々を語れるだろう。
知り合えば知り合うほど、見ればみるほど、中国という国はいくつもの面があることを知る。
わたしが今回の旅で気づいたのは、せいぜい、それくらいだ。
まだ何も、わたしは中国のことを知らない。
昆明の市場で、二胡を教えてくれたおじちゃん。
病院で、日本人とわかったら、首をふった医者。
道を尋ねたら、怒涛のごとく何かをべらべらとしゃべってきたおばちゃんたち。
ぶつかっても謝らず、平気で順番をとばす人。
宿でであった人々。
いろいろな人がいた。
これまで、わたしが思っていた「中国」の人々とは違う、見るものきくもの、会う人すべてが興味深い。
「ニーハオ」と言ったら、笑って応えてくれる。
「洋子(ヤンズー)」と呼んで、手をさしのばしてくれたとき、とても嬉しかった。
とある宿で、仲良くなった、英語が話せるマネージャー。
彼を通じて、仲間を紹介してもらって、会話の中に入るけれど、中国語の会話はわからない。
わたしが首を傾げていると、彼が通訳してくれる。
それからわたしは笑う。
彼らは優しかった。
だけど。
この国の言葉で会話がしたいと思った。
同じタイミングで、同じように笑えない自分が悔しかった。
彼らの話を理解したい。
一緒に話をしたい。
だから、そのとき、はじめて言ったのだ。
それまで、少しも考えていなかったこと。
「わたし、中国に留学するよ。今は、いったん日本に帰るけど。でも、お金をためて、今年・・・今年の9月に、留学するよ。そうして、話せるようになったら、中国語で会話できるでしょ。それは、すごく、楽しいと思うんだ」
言うと、彼らは笑った。
すばらしいね、と、大きく笑った。
「待っているよ」
って、言ってくれたんだ。
もう、彼らにとっては、ただの客の一人で、覚えていないかもしれない。
もう、あの宿にはいないかもしれない。
だけど、それでもいい。
彼らに会えたことが、とても嬉しいから。
名前を呼んでくれたことが、とても嬉しかったから。
だから、わたしは、今、ここにいる。
自分で、中国を知るために。
***************************
というわけで。
回想日記、終了です。
さて、ここまで読んでくださった奇特な方は、いかほどいるのでしょうか。
そんなこんなで、ながながしい日記も、ここで終わりです。
たまにね。
たまーに。
日記、おもしろいね、っていってくださる方がいてくださって。
とてもとてもうれしいのです。
本来、なれなれしく、たががはずれると、わーっとしゃべり倒す性質なので。
バイト先では、がんばってポーカーフェースでいるのですが。
ほめてくださると、にまにましちゃうのです。
その日1日、口元がゆるんでいるのです。
どんなほめ言葉より、その一言が、とてもうれしい。
実は、小学校の頃から、物書きになりたかったのです。
ていうか、なりたいのです(さらっと。
てわけで。
まだまだ暑い日が続きますが。
みなさま、ご自愛ください。
お客様、ご迷惑をかけたことも多々あるかと思いますが、お会いできて、お話できて、マージャンがうてて。
とても楽しゅうございました。
スタッフのみなさま。
体にはほんと、気をつけて。
ちゃんと食べて、ちゃんと寝て。
くれぐれも健康管理に気をつけてくださいませ。
いろいろ甘えさせていただいて、ありがとうございました。
お世話になりました。
と。
しめの挨拶を書いたにもかかわらず。
まだ出勤日が、数日ありますが。
残りの期間も、ひまわりともども、よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
20100826。
さて、何の数字でしょう。
答え。
1番目の数字が、わたしが初めて、ここ、ひまわりで、日記を書いた日。
2番目の数字が、わたしがひまわりを辞める日です。
というわけで、今月26日、18時をもって、ひまわり生活(生活?)終了です。
29日には、日本を出国いたしまして、中国に行って参ります。
目的は、語学留学です。
・・・そんなわけで。
はじめましての方も、お会いしたことあるみなさまも、さよならですね、のヨーコです。
おはようございます。
トータル年数でいえば、およそ5年間。
とはいえ、たいがいわたしの出勤は土日のみ。さらに、そこそこ長期で海外(オーストラリアだのカンボジアだのベトナムだの)に行ったりと間があいているので、実質年数でいえば、まったく経験値はありません。
日々、ぽけーっとしては、まわりのみなさまのテキパキ具合に助けられております。
毎度有難うございます。
はじめて勤務してから、お客さまも、スタッフも、だいぶ顔ぶれが変わりました。
かつて1年間、オーストラリアに行き、帰国してから、ひまわりに戻ったとき。
いると思っていたスタッフの何人かが、いなかった。
お客さまも、知らない人が増えていた。
同じ笑顔で、同じように「よーこちゃん」って呼んでくれると思っていた人たちがいなかった。
そうか、こんなに簡単に、人は会えなくなってしまうんだと、少し驚いたものです。
でも、だからこそ、人との出会いはとても楽しく、とても面白い。
広大な大地で、出会い、別れ、もう2度と会わないと思っていた人と、まったく違う国で、町で、再会することがある。
比べれば、狭い日本。
同じ県に住みながら、同じ時差で動きながら、2度と会わない人たちもいる。
だからこそ、出会った人たち。言葉を交わした人たち。
名前を呼んでくれる人たち。
世界中の人たちの中で、人生の中で、どれだけ、そうできる人たちがいるのかと思うと。
そんな出会いのひとつひとつが、奇跡みたいなことだと思う。
・・・思うのですよ。
いつも私服の人が、たまにスーツだったり。
いつもスーツの人が、私服だったり。
珍しくメガネをかけていたり。
この後、デートなんだとうきうきしてる人や。
奥さんに怒られるって、嘆いている人も。
疲れたような顔をしている人。
いつも無口な人。
明るい人。
一回だけの人。
常連になる人。
この人は、当然この人の人生があって、その時間の中に、自分が、脇役ででも出ていると思うと、なんかわくわくするのです。
スタッフの人たち。
見渡せば、いつのまにかみな、若い。(・・・いや、わたしもまだ若いですよ。若いつもりですよ。てか若いです。うん。)
ともあれ、友達にひまわりのことをいうとき、いつも言ってます。
「うちの店、かわいい子ばっかだよ!」って。
みんないい子ばかりで、とても好き。
・・・なんてことを吹聴してると、「おまえは客引きか!」とか「おかんか!」とか言われたりもしますが。
そう、もう、気分はおかんです。
スタッフの子らがきゃっきゃしてるのを見ると、とてもかわいいなあと思うのです。
みんな、それぞれの歩んでいく道で、たくさん悩んで、たくさん笑っている。
こっそり、がんばれよって思うのです。
でも無理はするなよって。
思うだけです。
・・・シャイなので(自分で言う。
さて。
そんなわけで、最後の日記となります。
ご存じの方はご存じの通り、私の日記はながながと長いのですが、今回はスペシャル長いです。
見たくねえよ!な方は、まあドラッグ&クリックの練習だと思ってくださるとマッチベターな感じかと思います。
そんなわたしは、タイピング速度は、わりあい自慢できるほどに速いです。わたしが胸はって自慢できる、数少ないことです。
てわけで。
最後の回想日記など、いってみます。
今年の一月から二月にかけて、中国、ラオスを旅してきたときの、思い出し日記です。
この旅があったから、今のわたしがあります。
中国留学を決めた、わたしがいるのです。
************************
標高の高い大理という街を降り、昆明に戻った瞬間、最悪だったわたしの体調は、一気に改善した。
もしかしたら、高山病だったんじゃないかと思ったほどだ。
さて、昆明。
戻ってきたのは、2月13日。
2月14日が春節(旧正月)なので、いわば、この日は大晦日だった。
中国の春節は、とにかく凄いと聞いていたが・・・なるほど。
ものすごい。
まず、宿内では、階段が危険地帯になるほどの爆竹の量が、ばらまかれていた。
耳の鼓膜が破れるかと思うほどの轟音と、あたり一面に広がる、火薬の臭いと煙。
宿のテラスからは、小さな布に炎をつけてふくらましてとばす簡易気球が次々と上がる。
あれ、布に燃え移ったり電線に引っかかったり、木にひっかかって燃え移ったりすると危険じゃないかなあと思っていたら、宿にポリスメン突入。
一緒に見物していたわたしは、彼らの姿を見た瞬間、「あ、捕獲されるー逮捕されるー」と、どこに逃げようかと思ったものだが、彼らはとりあえず気球を飛ばすのを眺め、危険がないことを確認すると、何事もなく去っていった。
道端では、次々とあがる花火。
日本でみるような、「線香花火、綺麗だね・・・」のような、風情のあるような光景は一変たりともなく、打ち上げ花火だ。
日本でいうならば、資格が絶対いるだろそれ、レベルの。
通常車が通る大通りのどまんなか、ビルの間に次々と上がる。
窓ガラスに映る花火もまた綺麗なものだが、下手したらわれるんじゃないかなあと思うほどの、ひたすら近く。
「あれ、職人さんがあげてるんですよね?」と、一緒に見ていた人に聞くと、何を馬鹿なことをといわんばかりに笑われた。
「そのへんの一般人にきまってんじゃん」
そうすか・・・。
爆竹に火炎気球。
あれだけテロに対して厳戒態勢な中国なのに、これはどう考えても、中国全土でテロってる。
などと思いつつも、なかなかエキセントリックな大晦日だった。
そんな昆明を出発し、北京に帰ってきたのは、15日。
旧正月の次の日。
寒さは予想したよりもきつくはなく、それでも朝はマイナス7度という気温だった。
旅に出る前は、あれほどごちゃごちゃしていた道路に車の影はなく、ここでも夜は、戦火の街中のようにあちらこちらで爆竹と花火の音がなり、石壁に赤く反射していた。
北京に戻ってから、帰国するまでの数日間は、ひたすらごろごろしていた。
開店時間が縮まった市場に買い物に行き、ネギチジミやら、カレーもどきの料理などをつくり、旅の相方であったIの同居人である中国人、shortyS氏につくったふろふき大根をあげてみた。
どんな感想かしらときくと、「甘い」とのこと。
ちなみに中国では「みりん」をみかけない。
そうして、2月19日。
わたしは日本に帰国したのだった。
長いかなと思った1ヶ月、でも今思えばあっという間だった。
帰りの飛行機は、韓国経由で、インチョン航空を出発したのは、夜。
飛行機の窓から見える夜景に、少し泣きそうになった。
今回の旅路。
日本
→北京
→昆明
→景洪
→南塔 (ラオス)
→ルアパパーン (ラオス)
→昆明
→大里
→北京
→日本
という道のり。
はじめに買った、日本⇔中国の往復チケットを除いて、この1ヶ月で使ったお金は7万円くらいだった。
宿はだいたい一泊200~500円くらい。
食事は一食100~500円。
一ヶ月。
いろいろなことがあった。
今まで海外を、いろいろな人と旅してきたけれど、そのどれもが、その人と一緒にいたからできた旅。
今回の相棒、Iは、Hiphopが好きで、DJをやっていて、いろいろな小物をもっていて、見るもの興味あるものに惹かれて積極的に関わろうとする人だった。
彼がいなければわたしは、中国がどんなところかまるで知らなかったし、彼らがどんなことを考えているのか知ることもなかった。
禁煙と大きく描かれたバスの中で当然のように煙草の煙で満たされるバス。あちこちでおじさんたちが痰を吐き、中国語わかんねっていってんのに、平気でしゃべりかけてくる中国人に辟易していたかもしれない。
扉とトイレットペーパーがない溝式トイレにうんざりして、やっぱり日本はいいなあと思っただろう。
Iから、中国の話を聞いた。
彼らは、こんなことを考えているんだよと聞いた。
もちろん彼なりの意見で、実際どうなのかはわからない。
でも彼は中国のよいところも悪いところも含めて、この国が好きで、この国に、人たちに興味を持っている。
きらきらとした目で、彼は中国のことを語る。
そうして、彼は言ったのだ。
ヨーコに、この国のことを知ってほしい、と。
「ヨーコがこの国をどうみて、どう思うのか、知りたい」と。
道中、何度も嬉しそうに話す彼を見て、わたしは中国に改めて興味を持ったのだろうと思う。
中国はとても広い。
十億人の人々。戸籍がない人を含めれば、きっとその倍はいるといわれている。
それだけの人がいる。どうしてそれで、中国の人々を語れるだろう。
知り合えば知り合うほど、見ればみるほど、中国という国はいくつもの面があることを知る。
わたしが今回の旅で気づいたのは、せいぜい、それくらいだ。
まだ何も、わたしは中国のことを知らない。
昆明の市場で、二胡を教えてくれたおじちゃん。
病院で、日本人とわかったら、首をふった医者。
道を尋ねたら、怒涛のごとく何かをべらべらとしゃべってきたおばちゃんたち。
ぶつかっても謝らず、平気で順番をとばす人。
宿でであった人々。
いろいろな人がいた。
これまで、わたしが思っていた「中国」の人々とは違う、見るものきくもの、会う人すべてが興味深い。
「ニーハオ」と言ったら、笑って応えてくれる。
「洋子(ヤンズー)」と呼んで、手をさしのばしてくれたとき、とても嬉しかった。
とある宿で、仲良くなった、英語が話せるマネージャー。
彼を通じて、仲間を紹介してもらって、会話の中に入るけれど、中国語の会話はわからない。
わたしが首を傾げていると、彼が通訳してくれる。
それからわたしは笑う。
彼らは優しかった。
だけど。
この国の言葉で会話がしたいと思った。
同じタイミングで、同じように笑えない自分が悔しかった。
彼らの話を理解したい。
一緒に話をしたい。
だから、そのとき、はじめて言ったのだ。
それまで、少しも考えていなかったこと。
「わたし、中国に留学するよ。今は、いったん日本に帰るけど。でも、お金をためて、今年・・・今年の9月に、留学するよ。そうして、話せるようになったら、中国語で会話できるでしょ。それは、すごく、楽しいと思うんだ」
言うと、彼らは笑った。
すばらしいね、と、大きく笑った。
「待っているよ」
って、言ってくれたんだ。
もう、彼らにとっては、ただの客の一人で、覚えていないかもしれない。
もう、あの宿にはいないかもしれない。
だけど、それでもいい。
彼らに会えたことが、とても嬉しいから。
名前を呼んでくれたことが、とても嬉しかったから。
だから、わたしは、今、ここにいる。
自分で、中国を知るために。
***************************
というわけで。
回想日記、終了です。
さて、ここまで読んでくださった奇特な方は、いかほどいるのでしょうか。
そんなこんなで、ながながしい日記も、ここで終わりです。
たまにね。
たまーに。
日記、おもしろいね、っていってくださる方がいてくださって。
とてもとてもうれしいのです。
本来、なれなれしく、たががはずれると、わーっとしゃべり倒す性質なので。
バイト先では、がんばってポーカーフェースでいるのですが。
ほめてくださると、にまにましちゃうのです。
その日1日、口元がゆるんでいるのです。
どんなほめ言葉より、その一言が、とてもうれしい。
実は、小学校の頃から、物書きになりたかったのです。
ていうか、なりたいのです(さらっと。
てわけで。
まだまだ暑い日が続きますが。
みなさま、ご自愛ください。
お客様、ご迷惑をかけたことも多々あるかと思いますが、お会いできて、お話できて、マージャンがうてて。
とても楽しゅうございました。
スタッフのみなさま。
体にはほんと、気をつけて。
ちゃんと食べて、ちゃんと寝て。
くれぐれも健康管理に気をつけてくださいませ。
いろいろ甘えさせていただいて、ありがとうございました。
お世話になりました。
と。
しめの挨拶を書いたにもかかわらず。
まだ出勤日が、数日ありますが。
残りの期間も、ひまわりともども、よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。