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遊び場は自分たちの手で

今から半世紀前、僕の通った高校は六甲山の中腹にあり、学校の横を小川が流れていた。見た目にはきれいな水なのだが、当時今のような集中した下水は無く、各家庭が浄化槽を持っており、その水が小川に流れ込んでいた。学校より上にはほとんど家が無かったのできれいに見えるが絶対に飲むなと言われていた。

この小川は上から真っ直ぐに下って来て、校舎直前で西に迂回し3m程の滝を落ちた後、主流の川に繋がっていた。ある日この滝が流れている岩を大きく浸食していることに気付いた。川筋を奥の方に替えれば、流れが緩やかになりこれ以上岩も削られずに済む。親友のNと二人でせっせと石を運び、作業を完成させた。

この滝は校舎から死角になっており、作業を見つかる恐れは無かったのだが、完成時の雄叫びがいけなかった。突如頭上から『君達、授業時間に何をしている』と生物担当のスペイン人神父から叱責を受ける。このまま浸食が続くと校舎崩壊の危機と訴えたが、尻を叩かれスゴスゴと教室に戻る。

これに懲りず、Nとは構内のあちこちに遊び場を作り有意義な?高校生活を送ることが出来た。卒業してから学校の遊び場を離れた生活を送っていたのだが、Nの執念が衰えることはなかった。2009年2月7日、高校時代の英語の恩師でありバスケのヘッドコーチだったR=Flynn神父が無くなった時、彼の私物としてダンボール2箱が残された。

遺品を引き取ったNはこれを母校に飾ろうと思い立ち、学校と交渉を重ねた末に承諾を得る。木工のマイスターとして我々の机を作ってくれたMersch修道士の工具を納めた部屋の片隅にFlynn氏の遺品も飾られた。年に一度の追悼ミサの折にこの部屋を掃除することがその後、我々の習わしとなった。

昨年のこと、この部屋を含む修道院全体を取り壊すという話が持ち上がり、どうするかと気をもんでいたのだが、その計画は中止になった。当時、石を投げれば神父に当たると言われていた母校に現在は一人も神父がいない。残された修道院はもはや不要になってしまった。

Nは再び学校と交渉し、一部屋をせしめる。色んなものが持ち込まれ手狭になった大部屋からFlynn師の遺品と師の制作した教科書・テープ等を引き上げ、再度この部屋に展示。Robert=Flynn神父メモリアル・ルームが完成した。

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