クラーク博士・「Be gentleman!」
明治9年(1876年)に札幌農学校(北海道大学の前身)の初代教頭として
アメリカからやってきた、ウィリアム・S・クラーク博士。
彼は、来日早々、あることに頭を悩ませていました。
本来、高い資質を持ち、勉学に燃えて入学した学生たちが、夜な夜な寮で仲間と酒を飲むことが習慣になっていたからです。
当時は未成年者の飲酒を禁止する法律はなかった
(未成年者保健所法が制定されたのは、大正11年(1922年)のことです)
ので、学生の飲酒が違法だったわけではありません。
ただ、限度を超えて飲んでしまう学生が大勢いたので、
クラーク博士は彼らの健康や勉学に弊害が出ることを憂えたのです。
「学生たちに、なんとかお酒をやめさせることはできないだろうか?」
クラーク博士は考えあぐねていましたが、ついに決意しました。
彼は学生たちの前に進み出ると、おもむろにワインのビンを次々に割ったのです。
実は、クラーク博士は、当時、札幌の飲料水の事情が悪いということを知り、米国から大量のワインを持参していました。
けれども、このままワインを飲み続けたら、学生に禁酒を勧めても、説得力に欠けると判断したのでしょう。
「学生に禁酒を勧めるなら、まずは自分から」
そう考えたクラーク博士は、米国から同伴してきた2名の助教授にも同意を求め、同じようにワインを廃棄させました。
このように、自分たち教師が酒を断ったことを明らかにした上で、
あらかじめ用意していた禁酒誓約書に自分が署名し、
下段には助教授の署名を求め、
これを学生の前に提示して、禁酒を呼びかけたのです。
「アメリカの学生の中には、飲酒のために身を誤る者のが、かなり多い。
日本の学生諸君の中にも、そういうものがないとはいえない。
諸君は、今日では、まだ飲酒の本当の楽しみを解しているとはいえないのだから、
この悪風に染まらなければ、禁酒は決して困難なことではない。
後日、禁を破るようなことがあるかもしれぬと、心配な方には強いて望まないが、
一生禁酒する決心の人は、この誓約書に署名してくれ。
よく熟慮した上で署名されたい」
クラーク博士の決意に、心を揺さぶられる若者たち。
一同は即座に署名しました。
さらに驚くべきことに、そのほとんどの学生が、
この誓いの通り、卒業後も一生禁酒を貫いたといいます。
もともとアメリカ合衆国マサチューセッツ農科大学の学長だった、クラーク博士。
当時、北海道開拓使の長官を務めていた黒田清隆が、
北海道の農業技術の向上を託し、ぜひ力を貸してほしいと、彼に来日を要請したのです。
クラーク博士の教頭就任披露演説は、学生たちの心を鷲掴みにしました。
「本校の学生諸君は紳士である。
紳士とは自分のこたは自分で始末するものである。
自分で自分を制する者に規則は不要である」
そう言い放ち、一切の規則の撤廃を宣言したからです。
代わりに、彼が定めた校則は、たった一言でした。
その一言とは…
「Be gentleman! 」
「紳士たれ」だったのです。
人間って、不思議ですよね。
いわれたことが
「正しいか、間違っているか」
よりも、
「誰から言われたのか」ということが、
後々まで大きく影響するのですから…。
どんなに正しく美しい言葉を並べてみても、
言うこととやることが一致していなければ、誰も信頼してくれません。
信頼関係がなければ、その内容がどんなに正しくても、
「あなたからは言われたくない」と、相手は心を閉ざしてしまうでしょう。
学生たちが、なぜ禁酒に同意して、その後もこの誓いを守り抜いたのかといえば、
クラーク博士と彼らの信頼関係が、すでに就任披露演説の時に築かれていたからです。
人間関係は、鏡の法則が当てはまるといわれます。
自分たちを信じ、すべての規則を撤廃したクラーク博士を、
学生も心から尊敬し、信頼したのです。
その信頼の証が、禁酒誓約だったのでしょう。
クラーク博士が札幌に滞在したのは、わずか8ヶ月。
けれども、人間の影響力は、時間の長さに比例するわけではないのです。
たとえ時間は短くとも、お互いを信頼し合い、
密度の濃い時間を過ごせれば、人間の影響力は絶大です。
Be gentleman!…
そこには、「自分のことは自分で処することのできる人間になってほしい」という学生たちへの想いが溢れています。
この自由・独立・人間尊重を基礎としたクラーク博士の人生哲学は、
学生たちの意識の底に眠る武士道を呼び覚まし、
その2つが混じり合うことで、凛とした独特な校風ができ上がっていったのでしょう。
明治時代は、政治家や官僚、教師が絡んだ汚職事件が多発しましたが、
クラーク博士の気高い生き方に触れた若者たちは、
卒業後も Be gentleman!の教えを守り、
自らを厳しく律したので、そうした事件とは無縁であり続けました。
クラーク博士に直接教えを受けたのは、1期生16名にすぎませんが、
彼の帰国後も、その校風を引き継いだ札幌農学校からは、
「武士道」を著した新渡戸稲造、
「代表的日本人」の著者・内村鑑三、
土木工学の広井勇、
植物学の宮部金吾ら、
多彩な人材が輩出され、「教育の奇跡」と呼ばれました。
(「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)
明治9年(1876年)に札幌農学校(北海道大学の前身)の初代教頭として
アメリカからやってきた、ウィリアム・S・クラーク博士。
彼は、来日早々、あることに頭を悩ませていました。
本来、高い資質を持ち、勉学に燃えて入学した学生たちが、夜な夜な寮で仲間と酒を飲むことが習慣になっていたからです。
当時は未成年者の飲酒を禁止する法律はなかった
(未成年者保健所法が制定されたのは、大正11年(1922年)のことです)
ので、学生の飲酒が違法だったわけではありません。
ただ、限度を超えて飲んでしまう学生が大勢いたので、
クラーク博士は彼らの健康や勉学に弊害が出ることを憂えたのです。
「学生たちに、なんとかお酒をやめさせることはできないだろうか?」
クラーク博士は考えあぐねていましたが、ついに決意しました。
彼は学生たちの前に進み出ると、おもむろにワインのビンを次々に割ったのです。
実は、クラーク博士は、当時、札幌の飲料水の事情が悪いということを知り、米国から大量のワインを持参していました。
けれども、このままワインを飲み続けたら、学生に禁酒を勧めても、説得力に欠けると判断したのでしょう。
「学生に禁酒を勧めるなら、まずは自分から」
そう考えたクラーク博士は、米国から同伴してきた2名の助教授にも同意を求め、同じようにワインを廃棄させました。
このように、自分たち教師が酒を断ったことを明らかにした上で、
あらかじめ用意していた禁酒誓約書に自分が署名し、
下段には助教授の署名を求め、
これを学生の前に提示して、禁酒を呼びかけたのです。
「アメリカの学生の中には、飲酒のために身を誤る者のが、かなり多い。
日本の学生諸君の中にも、そういうものがないとはいえない。
諸君は、今日では、まだ飲酒の本当の楽しみを解しているとはいえないのだから、
この悪風に染まらなければ、禁酒は決して困難なことではない。
後日、禁を破るようなことがあるかもしれぬと、心配な方には強いて望まないが、
一生禁酒する決心の人は、この誓約書に署名してくれ。
よく熟慮した上で署名されたい」
クラーク博士の決意に、心を揺さぶられる若者たち。
一同は即座に署名しました。
さらに驚くべきことに、そのほとんどの学生が、
この誓いの通り、卒業後も一生禁酒を貫いたといいます。
もともとアメリカ合衆国マサチューセッツ農科大学の学長だった、クラーク博士。
当時、北海道開拓使の長官を務めていた黒田清隆が、
北海道の農業技術の向上を託し、ぜひ力を貸してほしいと、彼に来日を要請したのです。
クラーク博士の教頭就任披露演説は、学生たちの心を鷲掴みにしました。
「本校の学生諸君は紳士である。
紳士とは自分のこたは自分で始末するものである。
自分で自分を制する者に規則は不要である」
そう言い放ち、一切の規則の撤廃を宣言したからです。
代わりに、彼が定めた校則は、たった一言でした。
その一言とは…
「Be gentleman! 」
「紳士たれ」だったのです。
人間って、不思議ですよね。
いわれたことが
「正しいか、間違っているか」
よりも、
「誰から言われたのか」ということが、
後々まで大きく影響するのですから…。
どんなに正しく美しい言葉を並べてみても、
言うこととやることが一致していなければ、誰も信頼してくれません。
信頼関係がなければ、その内容がどんなに正しくても、
「あなたからは言われたくない」と、相手は心を閉ざしてしまうでしょう。
学生たちが、なぜ禁酒に同意して、その後もこの誓いを守り抜いたのかといえば、
クラーク博士と彼らの信頼関係が、すでに就任披露演説の時に築かれていたからです。
人間関係は、鏡の法則が当てはまるといわれます。
自分たちを信じ、すべての規則を撤廃したクラーク博士を、
学生も心から尊敬し、信頼したのです。
その信頼の証が、禁酒誓約だったのでしょう。
クラーク博士が札幌に滞在したのは、わずか8ヶ月。
けれども、人間の影響力は、時間の長さに比例するわけではないのです。
たとえ時間は短くとも、お互いを信頼し合い、
密度の濃い時間を過ごせれば、人間の影響力は絶大です。
Be gentleman!…
そこには、「自分のことは自分で処することのできる人間になってほしい」という学生たちへの想いが溢れています。
この自由・独立・人間尊重を基礎としたクラーク博士の人生哲学は、
学生たちの意識の底に眠る武士道を呼び覚まし、
その2つが混じり合うことで、凛とした独特な校風ができ上がっていったのでしょう。
明治時代は、政治家や官僚、教師が絡んだ汚職事件が多発しましたが、
クラーク博士の気高い生き方に触れた若者たちは、
卒業後も Be gentleman!の教えを守り、
自らを厳しく律したので、そうした事件とは無縁であり続けました。
クラーク博士に直接教えを受けたのは、1期生16名にすぎませんが、
彼の帰国後も、その校風を引き継いだ札幌農学校からは、
「武士道」を著した新渡戸稲造、
「代表的日本人」の著者・内村鑑三、
土木工学の広井勇、
植物学の宮部金吾ら、
多彩な人材が輩出され、「教育の奇跡」と呼ばれました。
(「感動する!日本史」白駒妃登美さんより)
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