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わが立つそま

2017-03-19 19:08:04 | お話
🌁🌁我が立つ杣🌁🌁


私には、50年来、手元に置いてある書があります。

「わが立つそま」

文学の上で、この言葉は、自分が立ちうる場所、自分が立っている場所を意味します。

「そま」は漢字で「杣」と書き、

滑り落ちそうな山の斜面にある、ほんの少し平らになった場所を指します。

修行僧や登山に入る人たちが、ほんのひととき安心して休める所で、

昔は木こりを杣人とも言っていました。

この「杣」という言葉を用いて、最澄は比叡山に延暦寺を建立したとき、歌を詠みました。

阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)の仏たち 我が立つ杣に 冥加あらせ給え
(新古今和歌集)


自らが立つ杣に、仏の恵みをお願いします、

と最澄は祈ったのです。

山の斜面に見つけた、つかのま安心できる小さな場所を、

自分が立ちうる場所という意味に重ねたのです。


人生は長く、平坦ではありません。

それこそ山あり谷ありです。

そのなかで、やっと、つかのま安心できる小さな場所を見つけた。

そのことに感謝し、神仏のお恵みがありますようにと、

いつの時代も、祈る心は変わらないのでしょう。


そして、最澄に継いで、のちに4回、延暦寺の座主(ざす)(僧侶の最高職)に就いた前大僧正慈円も、わが立つ杣をを歌に込めました。

おほけなく 憂き世の民に おほふかな
我が立つ杣に 墨染の袖
(千歳和歌集)


小倉百人一首にも選ばれている歌なので、馴染みがあると思います。

「おほけなく」は、「我が身に過ぎることですが」という意味で、

「憂き世の民におほふかな」は、「この世の人々を思う」。

墨染の袖は僧侶の衣ですから、

慈円は出家することで、自分の立ちうる場所を見つけた、

と歌ったのです。

人生のなかで、自分が立ちうる場所は、そうどこにもあるわけではありません。

それだから、ようやく得たときは、感謝の思いを歌に込めています。


私が今の場所に引っ越したとき、

「わが立つそま」

を書き、書斎にかけました。

ある日、どうしても、と所望する若い友人に譲りましたが、

100歳を過ぎて、私の手元に戻ってきました。

自分の「わが立つそま」、

これは私の手元にあるべきものだなと、今は手放さず大事にしています。


(「103歳になってわかったこと」篠田桃紅さんより)

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