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hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

「杉原千畝とリトアニア」

2016-01-18 15:12:07 | 物語
「杉原千畝とリトアニア」


1940年7月、ポーランドを占領したナチスドイツ軍に追われ、

たくさんのユダヤ人がリトアニアへと逃げ込んだ。

当然、もう西へは引き返せない。

トルコ政府がビザの発給をストップしたことで、

トルコ経由でパレスチナへ向かうルートも遮断されてしまった。

唯一、助かる道があるとしたら、長い長い逃避行ではあるが、

シベリア鉄道で極東まで揺られ、
船で日本に渡ったのち
アメリカへ向かう方法しか残されていなかった。

しかも、すでにリトアニアを占領していたソ連軍は、

リトアニア国内の各国大使館・領事館を閉鎖するよう命じたが、

日本領事館はまだ業務を行っていた。

同年7月18日の杉原氏の手記には、次のように記されている。

「6時少し前。

表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然、

人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、

意味のわからぬわめき声は、
人だかりの人数が増えるためか、
次第に高く激しくなってゆく」。

杉原氏は、公邸の鉄柵に身を乗り出すようにして何か訴えている

数百人のユダヤ系の人々の声で目を覚ました。

さっそく避難民の通過ビザの発給について
本省に問い合わせた。

しかし本省からの回答は、

まず、最終的に向かう国の入国手続きを済ませた上で、

しかも十分な旅費と滞在費を持ち合わせている避難民だけに、
日本の通過ビザを発給するように

という、きわめて形式的な内容だった。

熟慮の末、杉原氏は

「ビザの発給を拒否するのは良心に反する」

と、
領事の権限ですべての避難民にビザを発給する決断を下す。

夫人も

「後で私たちはどうなるか分かりませんが、

そうしてあげて下さい」

と賛成し、

息子もユダヤ人の子供を助けて欲しいと懇願した。

杉原氏は本省を刺激しないよう配慮しながら、

一カ月余り寝食を忘れてビザを書き続けた。

万年筆はポッキリと折れて、腕は麻痺して動かなくなった。

すべて手書きでは効率が悪いので、ゴム印を作って手書き部分を少なくした。

記録に残っているだけでも、
2,139枚のビザを書き上げていた。

当時は、1枚のビザで家族が脱出できたため、
6,000人の命を救ったと言われているが、

実際には1万人ほどが助けられたという見方もある。


戦況が激しくなるにつれ、
ソ連政府や本国からも再三再四、退去命令が出た。

もはや命令を無視できなかった。


杉原氏はベルリン行きの列車が出発する間際までビザを書き続けた。

最後の1枚を書き上げると

「許してください。

私にはもう書けない。

みなさんのご無事を祈っています」

そういって頭を下げると、

列車は静かに動き出した。


このとき杉原氏に助けられた、
現在シカゴ・マーカンタイル取引所の名誉会長となって、

"金融先物も父"の異名を取るレオ・メラメド氏の証言によれば、

それから彼等はリトアニアから2週間かけてウラジオストクへたどり着き、
さらに船に3日乗って敦賀港へ到着したという。

当時少年だったメラメド氏は、
山々に囲まれた美しい日本の風景と親切で礼儀正しい日本人に心が癒された。

向かった先の神戸にはユダヤ人のコミュニティがあり、
難民支援のために義援金が募られた。

結局、4ヶ月間日本に滞在した
メラメド氏は、

「日本人の並外れたホスピタリティー、
言葉が通じないのに、
見知らぬ私たちに差し伸べてくれた

親切心を忘れることができない」

と思い出を語った。

その後、氏は渡航許可を得てアメリカへ向かった。


一方、

終戦を迎えて帰国した杉原氏は外務省に復帰したが、

訓令違反を犯してビザを発給したことから
省内でうとまれ、

依願退職に追い込まれた。

その後、

仕事を転々として、最終的にモスクワの貿易商の仕事についた。


それから28年が過ぎた
1968年8月のある日、

イスラエル大使館から杉原氏の下に
1本の電話が入った。

氏が大使館に出向くと、そこには新に赴任してきたニシュリ参事官が待っていた。

参事官は

「これを覚えていますか」

といって、

ボロボロになった手書きのピザを差し出した。

彼は杉原氏に助けられた避難民で、
杉原氏と最初に対談した5人の代表のひとりだった。

あれからリトアニアから逃れた避難民は、
感謝の気持ちを伝えたいと杉原氏を捜していた。

しかし、
杉原千畝を「センポ・スギハラ」と音読みしたことで、

外務省に問い合わせてもなかなか在所がつかめなかった。

杉原氏の処遇を知った元避難民は、人道的行為が正しく評価されなかったばかりか、

逆に外務省内で、
"反逆者"
のレッテルを貼られて職場を追われたことに憤慨した。

しかし、
翌年イスラエルに招かれた杉原氏は、

"正義の異邦人"

として国家から顕彰された。

ヤド・バシェム(ホロコースト記念館)での式典で
賞を授与したバルハフティック宗教大臣もまた、

杉原氏に命を助けられた当時の避難民で、5人の代表のうちのひとりだった。

しかし、

日本でようやく杉原千畝の名前が知られるようになったのは、

ユダヤ系アメリカ人のスティーブン・スピルバーグ監督の映画

『シンドラーのリスト』

が、アカデミー賞を受賞した1994年のことだった。

これ以後、

杉原は
"日本のシンドラー"
と呼ばれるようになり、

日本でも徐々に認知されるようになった。

しかし、
ドイツ人実業家のオスカー・シンドラー氏は、
経営上の理由もあって自社工場で働く1,200人のユダヤ系労働者を守ったのに対し、

自分の立場も顧みずに縁もゆかりもない避難民の命を救った

杉原氏の行動は、

それ以上に賞嘆されるべきだという声もある。

ちなみに
日本では、ミュージカル
『SENPO~日本のシンドラー 杉原千畝物語~』
(主演:吉川晃司、音楽:中島みゆき)
が上演され話題となった。

その後、日本の外務省でも

「外務省として、杉原副領事は勇気のある人道的行為を行ったと認識しています」

との見解に変わった。

これに対して杉原氏は、常々

「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。

しかし、

私に頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。

そして、それは正しい行為だった」

と語っていたという。


ところで東日本大震災の折、

米国にある
世界最大のユダヤ系の食品安全認定機関
「オーソドックス・ユニオン」
は、義援金を募るあたり次のような声明を出した。


「1940年、

杉原領事夫婦は身職を賭して通過ビザを発給し、

6,000人のユダヤ人の命を助けてくださった。

今こそ我々が、その恩義に報いるときである」

と。


(「日本人になりたいヨーロッパ人」片野優・須貝典子著より)


先輩に恥じない生き方をしないと、、、と、日本人として思います。

「トルコと日本」

2016-01-17 16:17:59 | 物語
「トルコと日本」


トルコ人が日本人を大好きなのは、いくつかの理由がある。

そのうちの1つは、
トルコの天敵のロシアを

日本が日露戦争で打ち破ったことに対する感謝と尊敬の念からだ。

ロシア帝国とオスマン帝国の両雄は、

16世紀半ばから第一次世界大戦に至るまでの

350年間に計12回も交戦。

とりわけ1878年の露土戦争では、
バルカン半島のスラブ人の同胞を

トルコから解放するという大義名分を掲げた

ロシアがトルコに戦いを挑んで勝利した。

その結果、

セルビア、モンテネグロ、ルーマニアが独立したほか、

トルコは多くの領土を失った。

そのにっくきロシアを

極東の小さな島国の日本がやっつけたのだから、

トルコは大いに溜飲を下げたに違いない。

特にバルチック艦隊を撃破した

連合艦隊司令長官の東郷平八郎や

乃木希典の名前はトルコ全土に響き渡った。

そんなことから、
当時のイスタンブールには「トーゴー通り」や「ノギ通り」があったほか、

英雄にあやかろうと自分の息子に
「トーゴー」「ノギ」と命名したトルコ人の父親は少なくなかった。

いくらアメリカ贔屓の日本人がいたとしても、
子供に「ケネディー」「ジェファーソン」などと名づける親は見かけない。


また第一次世界大戦の敗戦後にトルコ革命を指揮し、

今も

"新生トルコの父"

と慕われているトルコ共和国の初代大統領に就いた

ケマル・アタチュルクは
明治天皇を敬愛し、その写真を机の上に飾っていたと言う。

政教分離、トルコ語の改革(アラビア文字からラテン文字)、女性の権利拡大、

苗字法の施行、農業改革など、

西欧化・近代化を急いだアタチュルクの口癖は、

「日本を見習え!」だった。


しかし、

トルコ人が日本人をこよなく愛する理由はほかにもある。

1890年9月16日、皇族の小松宮夫婦がトルコを訪問した返礼として、

トルコ政府は約50人の将校を含む609名の特使を乗せた
軍艦「エルトゥールル号」を派遣した。

その帰途、

船は和歌山県大島村(今の串本町)沖合で嵐に遭遇して沈没し、

587名の死者・行方不明者を出す大惨事となった。

このとき、村人が自分の食料や飼っていたニワトリをつぶして

必死に介護したことで、69名の命が救われた。

これを知った明治天皇は、

現地に医者や看護婦を送って看病に当たらせたのち、

二隻の軍艦で生存者をトルコまで送り届けさせた。


また、

トルコ人のために何かしたいと義援金を募ったのが
茶道の家元の山田寅次郎で、

事故から2年後には5,000円(現在の約1億円)を届けにトルコへと旅立った。

トルコ皇帝は寅次郎の真心をことのほか喜び、
そのままトルコに残るよう提案。

その後、

寅次郎は日本語教育や日本文化の普及に努め、
トルコで、計20年近くも暮らしたという。

このとき彼が士官学校で

日本語を教えていた生徒の中には、
ケマル・アタチュルクの姿もあった。

なお、

寅次郎が皇帝に献上した先祖代々の家宝の甲冑は、現在もトプカプ宮殿に大事に保管されている。

この話には、後日談がある。


イラン・イラク戦争のさなか、

突然、フセイン大統領は

「今から48時間以内に、

敵国のイラン上空を飛行する飛行機は

すべて撃ち落とす」

と宣言。

そのとき、イラン国内にいた215人の邦人はパニックに陥った。

当時は、JALもANAもテヘランには乗り入れていない。

邦人は外国機を使って必死の脱出を試みたが、

どの国の旅客機も自国民を優先して助けてくれない。

一方、

すぐにでも救援機を飛ばしたい日本政府だったが、

イラクから航行の安全を保証してもらえず身動きが取れなかった。

そんなとき

タイムリミット1時間15分前に、
スーパーマンのように日本人を作って救出してくれたのは

トルコ政府だった。

トルコの特別機を

テヘランに向かわせた当時のオザル首相は、

「なぜそんな危険を犯すのですか?」

とマスコミから質問されたとき


「それは日本人だからです…」

と答えた。


救出劇の舞台裏では、

在イラン日本大使が窮状を訴えたことに加え、

オザル首相と個人的に長い付き合いがあった日本人商社マンの友情に応えたものだった。


しかも

トルコ航空内で救出に向かうパイロットを募ったところ、

パイロット全員🌸が志願✊したという。


「エルトゥールル号の事故について、

大島の人たちや日本人🇯🇵がしてくださった献身的の救援活動を

今でもトルコ国民は忘れていません。

私も子供のころ歴史の教科書で習いました」

と語った、

ネジアティ・ウトカン在日大使の言葉が忘れられない。


(「日本人になりたいヨーロッパ人」片野優・須貝典子著より)


日本を見習う外国が多いことを誇りに思います。(^_^)

「オランダと日本」②

2016-01-08 16:56:42 | 物語
「オランダと日本」②


さて、日本とオランダの関係を俯瞰したとき、最初の340年は概ね良好だった。

しかし、

1942年、太平洋戦争で旧日本軍がインドネシアに侵攻したことで、
約350年続いたオランダの植民地支配に終止符が打たれた。

そのため

天然資源やコーヒー・茶の栽培で潤っていたオランダは、
自国の36倍もある領土を失って九州ほどの小国に転じてしまった。

しかも、

旧日本軍に敗れたことで、オランダ軍人4万人と民間人9万人が不衛生な抑留所に収容されてしまった。

元はといえば、その抑留所はオランダ人が現地人のために建てた粗末な宿舎だったのではあるが。

しかし民間人が強制労働させられたり、
オランダ人女性が慰安婦にされた思い出がオランダ人の記憶からぬぐいされなかった。

事実、
1971年に昭和天皇がオランダを訪問した折り、
市民から車に生卵を投げつけられるなどの手荒な歓迎を受けたこともあった。

また、
86年にはオランダ国民の反発でベアトリクス女王の訪日が見送られたり、

91年に海部首相がオランダを訪問した際に
戦没者慰霊碑に献花した花束が池に投げ捨てられるといった事件が起こり、

オランダ人の怒りはいつまでも静まりそうになかった。


そんな人々が変わったのは、

2000年にベアトリクス女王に招かれて
天皇皇后両陛下がオランダを訪問したときのことだ。

王宮前のダム広場に建つ戦没者記念式の前で献花した天皇皇后両陛下は、
真摯な面持ちで黙祷を捧げた。

静寂の中で身じろぎもせず、1分間にもわたってずっと立ち尽くした。

そのニュースを見て、胸を熱くし涙を浮かべたオランダ人は少なくなかったと言う。

ビクトリア女王もそのひとりだった。

その夜、アムステルダムの王宮で表敬晩餐会が催された。

ここには大戦中インドネシアで旧日本軍から抑留された経験を持つ8人のオランダ人も、女王から直接招待されていた。

その中には17歳のときに3年半抑留生活を強いられた、P.J.Hヨンクマン氏の姿もあった。

氏は在英オランダ大使を退任後、
デンハーグにある国際司法裁判所において常設調停裁判所の事務次官や、
ビクトリア女王の枢密院顧問をしていたこともある。

当初からビクトリア女王は天皇皇后両陛下にかつての抑留者を引き合わせようとしたが、

日本の外務省は慎重だった。

もし会見の場で事件が起こってはと心配するのは、むしろ当然のことだった。

だが、元抑留者の人物をよく知る女王はその心配はないこた、

また彼らとの面会を望まれるだろうと確信した女王は、

この件で天皇皇后両陛下に直接お話しされた。

そして女王は、まっ先に両陛下を広い晩餐会場の8人のグループのもとに案内した。

熱心に耳を傾ける姿を間近にし、

ヨンクマン氏は

「天皇皇后両陛下は、私たちが得てして想像しがちな、近づきがたい君主と言うようには全然お見受けいたしませんでした。

それどころか、

彼らは戦時中に

インドネシアで何がオランダ人に起こったかという事を

よくご存知であられるばかりでなく、

そのことについて自由にお話しされました」

と綴っている。

さらにヨンクマン氏が驚いたのは、

皇后陛下はまったくご自分の意思で自由に抑留者全員の中に入って話したうえ、

戦時中の辛い経験を話す女性の手を長い間ずっと優しく握って

慰めの言葉をかけたことだった。

ヨンクマン氏は

「このようにして陛下はこの公式訪問によりインドネシアからの帰国者グループ内にある多くの批判をお和らげくださいました」

と述べている。

その翌日、
天皇皇后両陛下はアムステルダムの児童養護学校「ミチルスクール」を訪問。

ここでおふたりは脳障害や筋ジストロフィーなどの障害のある200人ほどの子供たちのお出迎えを受け、なごやかな時を過ごした。

この中にひとり金色の王冠をかぶった女の子が机に伏せたまま眠っていた。

この日の出会いを楽しみにするあまり、はしゃぎすぎて疲れて眠り込んでしまったのだった。

女の子に気づいた皇后陛下はあえて起こすのも気の毒だと気遣い、そのまま立ち去った。

まもなくハッと目を覚ました女の子は、
すべてが終わってしまったことがわかると泣きながら
後を追って走ってきた。

すると、身をかがめてしっかりと胸で抱きとめられた皇后陛下に、女の子は無心でしがみついた。

このニュースと写真が大々的に報じられると、

オランダ人の心はようやく氷解し、
ネガティブな批判がピタリとやんだ。

「皇室は1,000人の外交官に匹敵する」と言われるが、

皇室を尊敬する伝統があるこの国では皇室外交がオランダ人の心をとらえたのだった。


その2年後の2002年に外務省がオランダ人の624人を対象にした対日世論調査では、

75%が日本を「豊かな伝統・文化を持つ国」と称し讃え、

89%までが日本人を「勤勉」と評価するまでになった。

また、2005年の米国「ピュー・リサーチセンター」の調査では、

68%もオランダ人が日本にポジティブな印象をもっていることがわかった。

事実、
東日本大震災後にオランダのビッディングハイゼンで開催された国内最大のイベントでは、

5万人の参加者が

「私たちはあなたがた、日本を愛しています(We love you.Japan!」

「私たちはあなたのために祈っています(We pray for you.)」

という赤と白のポスターを手に、

ハートの人文字(マーク)をつくって激励してくれたのだった。


(「日本人になりヨーロッパ人」片野優 須貝典子著より)


戦後のシベリア抑留や、たくさんの領国を取られたことなど、

戦争時代、日本も他国に同じようなことをしていたのですね。

それでは、うらみも残りますね。
知らないって無責任でいやですね。

少しでも、事実を知って謙虚に。

反省すべきことは、反省したいですね。


そして、いつの時代でも、

愛が、うらみを溶かし、すべてを赦すのですね。

「オランダと日本」①

2016-01-07 16:33:43 | 物語
「オランダと日本」


かつてオランダは日本に最も近い国だった。

何しろ鎖国中の200年間、お隣の中国は別として、お付き合いしていた唯一の外国だったのだから。

オルゴール、カバン、ランドセル、ビール、コーヒー、ポン酢から、はては、おてんば(「負けん気の強い」の意味)やアスベストまで、

普段日本語として使っている言葉の中には、実はオランダ語から借用した言葉が少なくない。

そもそもオランダ人(当時の呼び名では紅毛人)が日本に最初にやってきたのは、今から400年以上も前の慶長5年(1600年)のこと。

商船「フリーデ」号が豊後(大分県)の臼杵に漂着したのを始まりとする。

当初112人いた乗組員は、その時に14人になっていた。

ここにはイギリス人のウィリアム・アダム(三浦按針)とともに、オランダ人のヤン・ヨーステン(耶揚子)がいた。

徳川家康に気にいられたこの2人は、帰国したくても返してもらえず日本に居つくことになった。

通訳や外交顧問として朱印船貿易に活躍したヤン・ヨーステンは、日本人女性と結婚し、今の八重洲あたりに屋敷を構えていた。

八重洲はヤン・ヨーステンの名前が訛って、
「やようす(耶揚子)」
→「やよす(八代洲)」
→「やえす(八重洲)」
に変化したものといわれる。

その後、キリスト教の布教を行ったポルトガル人は出島から追い出され、

代わりに布教はせずに商売一筋を誓ったオランダ人が平戸からここに移って商館を構えた。

オランダ人は日本の貿易を独占したものの、アムステルダム中心部にあるダム広場ほどの狭い人工の島に押し込められてしまった。

オランダ人には、出島に出入りを許されていた丸山遊女との逢瀬や、将軍に目通りするために江戸に上がる「江戸参府」くらいしか楽しみはなかった。

ちなみに、将軍家の献上品には望遠鏡・地球儀・シャンデリアなどのほか、ラクダやシマウマといった珍しい動物まであったと言うから、さぞかし将軍は目を丸くしたことだろう。

しかし江戸時代末期になるとオランダは力を失い、変わってイギリスとアメリカが制海権を握る。

そういいながらも嘉永6年(1853年)、黒船に乗って浦賀にやってきたぺリーは英語ではなくオランダ語の通訳を介して日本に開国を迫ったという。

一方、巻き返しを図りたいオランダ国王は、幕府から艦船の受注を見込んで軍船「スンビン」号(観光丸と改名)を将軍に献上。

この船を使って砲術、航海術、造船技術を教える海軍伝習場が長崎にできると、後に江戸無血開場に貢献した勝海舟が教頭に収まった。

次に幕府がオランダに発注した「ヤパン」号(咸臨丸と改名)を指揮し、勝海舟はアメリカに渡ったのだった。

そのほか、オランダは日本に治水・灌漑技術も提供してくれた。

国土の4分の1が海抜0メートル以下にあるこの国は、
「世界は神が創りたもうたが、オランダはオランダ人が造った」
と自負するように、

古くから海水をくみ出したりする水に関する技術に長けていた。

この時期、オランダから12人の土木技術者が来日しているが、
そのうち、デ・レイケは木曽三川に堤防を築いたり護岸工事を施して、住民を洪水から守ってくれたことで知られる。

また、ファン・ドールンは雨が降らない不毛な福島県安積原野に猪苗代湖から水を引いて灌漑用水路(安積疎水)を作ったことで、

やがて、この一帯は日本有数の米の産地となった。

その功績が称えられ、猪苗代湖畔に彼の銅像が建てられた。

銅像は第二次世界大戦中の金属回収令で徴収されそうになるが、
恩を忘れる地元住民の反対で守られたという逸話がある。


(つづく)

人は最後の最後まで、

2015-12-18 15:09:16 | 物語
🍀🍀「人は最後の最後まで成長し続ける」🍀🍀


葛飾北斎は、日本🇯🇵で唯一🗻、
アメリカの雑誌「LIFE」が特集した

「この1000年💕で最も偉大🌄な業績🌸を残した世界の人物100人」

の中に、シェイクスピア、ガンジー、エジソンなどと並んで、選ばれました。😄

「偉大な業績🌸」とは、
北斎の絵筆🎨の技法がヨーロッパの印象派を代表する

モネやゴッホに多大な影響🌸与えたことだろう。

北斎と言えば、様々な角度から富士山🗻を描いた「富嶽三十六景」が有名である。

その素晴らしさはだれもが認めるところだが、
北斎の「人となり」は意外と知られていない。😵

実は、あの「富嶽三十六景」を含め、

彼の代表作のほとんどは
70歳を過ぎてからかかれたものだというから驚きです。😵

なにせ、
北斎が生きた江戸時代🌸は人生50年といわれた時代である。

その時代に北斎は、90歳まで筆を握ったのです。😄

描きたい絵を描くためなら、どこにでも行った。🏃💨

当時の庶民の交通手段は自分の足👣しかない。

北斎は、80歳を過ぎてから
江戸ー小布施(今の長野県小布施町)間の
往復500キロの道を、4度も往復している。🌸🌸🌸

6歳から絵を描き始め、

19歳のときに浮世絵師・勝川春章の弟子になり「勝川春郎」という名で、
歌舞伎役者🌸の絵を描くようになった。

今でいうアイドルスター🌟のブロマイド📷である。

その役者絵に飽きると、勝川一門を離れ、☁️☁️

二代目「俵屋宗理」の名を継いで、江戸庶民の女たちを描き始めた。💕

やがて老中・松平定信の「寛政の改革」で、

風紀を乱す🌀絵の売買の禁止✋されると、

今度は「葛飾北斎」という名で小説📖の挿絵を描くようになった。

これが大ヒットした。🎵🎵🎵

すると北斎はさっさと名を「戴斗(たいと)」と改め、
絵の教科書📖になるようなイラストを描き始めた。🎵

そんなわけで、彼は30回以上も改名を繰り返し、

その度に、全く異なる絵の世界に興じている。😍

そして、
70歳過ぎで初めて絵🌸の境地に辿り着いた。

こんな言葉🍀を残している。

「70歳以前の絵は取るにたらないものだった。😊

73歳になったころ、鳥獣虫魚🐓🐃🐝🐟の骨格や草木🌲の生れ出る様子をいくらかは悟ことができた。⚡️

だから80歳になればより向上し、⤴️

90歳になればさらにその奥義を極め、☀️

100歳で神☀️の技を超えることができのではないか。😄

そして、110歳で、やっと点や線のすべてが、生きている💓かの如く描けるだろう😍」


人生50年と言われた時代に90歳まで生き抜き、

その年まで、生業に勤しめた秘訣は、この言葉🍀に表れている気がする。

よく
「若さの秘訣は年齢を気にせず生きること🎵」

「長生きの秘訣はバランスのとれた食事🍜とストレス⚡️のない日々」

という話を聞くが、

北斎という男は、

次の目標🌸に向かうための目安💕として年齢をいつも意識🎵していた。

特に80歳を過ぎた頃から描いた絵には必ず年齢🎵を書き添えた。

食事も毎日、出前のそば🍜で済ませていた。

幕府の財政💰引き締め政策として
芝居や絵を禁じた「天保の改革」の時は、

路上で絵を売って生活していた。😄

たまたま通りかかった小布施の豪商🌸・高井鴻山が、
北斎の絵に心を奪われ💕、鴻山は高値💰💰で絵を買い上げた。🎵

そして小布施にあるお寺の天井絵を依頼する。

北斎、83歳の時である。🎵

90歳で息を引き取るときにつぶやいた言葉が残っている。

「あと10年、いやせめて5年、生かしてくれ。

そうすれば、まことの絵師☀️になってみせる!⚡️」


わかったことがある。🌸

「人は死ぬまで成長し続ける🍀」

「LIFE」📖に選ばれた「偉大な業績🌸を残した100人」は、

みんな死ぬ直前まで、自分の人生🍀を生き抜いた人だった。✊

「あと10年若かかったら…」

ではなく、

「あと10年、いやせめて5年いきられたら、そうすれば…☁️☁️」

という人生🍀は、いかがだろうか。😄🎵


(「みやざき中央新聞」社説より)


こんな生き方したいですね。(^_^)