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「杉原千畝とリトアニア」

2016-01-18 15:12:07 | 物語
「杉原千畝とリトアニア」


1940年7月、ポーランドを占領したナチスドイツ軍に追われ、

たくさんのユダヤ人がリトアニアへと逃げ込んだ。

当然、もう西へは引き返せない。

トルコ政府がビザの発給をストップしたことで、

トルコ経由でパレスチナへ向かうルートも遮断されてしまった。

唯一、助かる道があるとしたら、長い長い逃避行ではあるが、

シベリア鉄道で極東まで揺られ、
船で日本に渡ったのち
アメリカへ向かう方法しか残されていなかった。

しかも、すでにリトアニアを占領していたソ連軍は、

リトアニア国内の各国大使館・領事館を閉鎖するよう命じたが、

日本領事館はまだ業務を行っていた。

同年7月18日の杉原氏の手記には、次のように記されている。

「6時少し前。

表通りに面した領事公邸の寝室の窓際が、突然、

人だかりの喧しい話し声で騒がしくなり、

意味のわからぬわめき声は、
人だかりの人数が増えるためか、
次第に高く激しくなってゆく」。

杉原氏は、公邸の鉄柵に身を乗り出すようにして何か訴えている

数百人のユダヤ系の人々の声で目を覚ました。

さっそく避難民の通過ビザの発給について
本省に問い合わせた。

しかし本省からの回答は、

まず、最終的に向かう国の入国手続きを済ませた上で、

しかも十分な旅費と滞在費を持ち合わせている避難民だけに、
日本の通過ビザを発給するように

という、きわめて形式的な内容だった。

熟慮の末、杉原氏は

「ビザの発給を拒否するのは良心に反する」

と、
領事の権限ですべての避難民にビザを発給する決断を下す。

夫人も

「後で私たちはどうなるか分かりませんが、

そうしてあげて下さい」

と賛成し、

息子もユダヤ人の子供を助けて欲しいと懇願した。

杉原氏は本省を刺激しないよう配慮しながら、

一カ月余り寝食を忘れてビザを書き続けた。

万年筆はポッキリと折れて、腕は麻痺して動かなくなった。

すべて手書きでは効率が悪いので、ゴム印を作って手書き部分を少なくした。

記録に残っているだけでも、
2,139枚のビザを書き上げていた。

当時は、1枚のビザで家族が脱出できたため、
6,000人の命を救ったと言われているが、

実際には1万人ほどが助けられたという見方もある。


戦況が激しくなるにつれ、
ソ連政府や本国からも再三再四、退去命令が出た。

もはや命令を無視できなかった。


杉原氏はベルリン行きの列車が出発する間際までビザを書き続けた。

最後の1枚を書き上げると

「許してください。

私にはもう書けない。

みなさんのご無事を祈っています」

そういって頭を下げると、

列車は静かに動き出した。


このとき杉原氏に助けられた、
現在シカゴ・マーカンタイル取引所の名誉会長となって、

"金融先物も父"の異名を取るレオ・メラメド氏の証言によれば、

それから彼等はリトアニアから2週間かけてウラジオストクへたどり着き、
さらに船に3日乗って敦賀港へ到着したという。

当時少年だったメラメド氏は、
山々に囲まれた美しい日本の風景と親切で礼儀正しい日本人に心が癒された。

向かった先の神戸にはユダヤ人のコミュニティがあり、
難民支援のために義援金が募られた。

結局、4ヶ月間日本に滞在した
メラメド氏は、

「日本人の並外れたホスピタリティー、
言葉が通じないのに、
見知らぬ私たちに差し伸べてくれた

親切心を忘れることができない」

と思い出を語った。

その後、氏は渡航許可を得てアメリカへ向かった。


一方、

終戦を迎えて帰国した杉原氏は外務省に復帰したが、

訓令違反を犯してビザを発給したことから
省内でうとまれ、

依願退職に追い込まれた。

その後、

仕事を転々として、最終的にモスクワの貿易商の仕事についた。


それから28年が過ぎた
1968年8月のある日、

イスラエル大使館から杉原氏の下に
1本の電話が入った。

氏が大使館に出向くと、そこには新に赴任してきたニシュリ参事官が待っていた。

参事官は

「これを覚えていますか」

といって、

ボロボロになった手書きのピザを差し出した。

彼は杉原氏に助けられた避難民で、
杉原氏と最初に対談した5人の代表のひとりだった。

あれからリトアニアから逃れた避難民は、
感謝の気持ちを伝えたいと杉原氏を捜していた。

しかし、
杉原千畝を「センポ・スギハラ」と音読みしたことで、

外務省に問い合わせてもなかなか在所がつかめなかった。

杉原氏の処遇を知った元避難民は、人道的行為が正しく評価されなかったばかりか、

逆に外務省内で、
"反逆者"
のレッテルを貼られて職場を追われたことに憤慨した。

しかし、
翌年イスラエルに招かれた杉原氏は、

"正義の異邦人"

として国家から顕彰された。

ヤド・バシェム(ホロコースト記念館)での式典で
賞を授与したバルハフティック宗教大臣もまた、

杉原氏に命を助けられた当時の避難民で、5人の代表のうちのひとりだった。

しかし、

日本でようやく杉原千畝の名前が知られるようになったのは、

ユダヤ系アメリカ人のスティーブン・スピルバーグ監督の映画

『シンドラーのリスト』

が、アカデミー賞を受賞した1994年のことだった。

これ以後、

杉原は
"日本のシンドラー"
と呼ばれるようになり、

日本でも徐々に認知されるようになった。

しかし、
ドイツ人実業家のオスカー・シンドラー氏は、
経営上の理由もあって自社工場で働く1,200人のユダヤ系労働者を守ったのに対し、

自分の立場も顧みずに縁もゆかりもない避難民の命を救った

杉原氏の行動は、

それ以上に賞嘆されるべきだという声もある。

ちなみに
日本では、ミュージカル
『SENPO~日本のシンドラー 杉原千畝物語~』
(主演:吉川晃司、音楽:中島みゆき)
が上演され話題となった。

その後、日本の外務省でも

「外務省として、杉原副領事は勇気のある人道的行為を行ったと認識しています」

との見解に変わった。

これに対して杉原氏は、常々

「私のしたことは外交官としては間違ったことだったかもしれない。

しかし、

私に頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。

そして、それは正しい行為だった」

と語っていたという。


ところで東日本大震災の折、

米国にある
世界最大のユダヤ系の食品安全認定機関
「オーソドックス・ユニオン」
は、義援金を募るあたり次のような声明を出した。


「1940年、

杉原領事夫婦は身職を賭して通過ビザを発給し、

6,000人のユダヤ人の命を助けてくださった。

今こそ我々が、その恩義に報いるときである」

と。


(「日本人になりたいヨーロッパ人」片野優・須貝典子著より)


先輩に恥じない生き方をしないと、、、と、日本人として思います。

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