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hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

兄弟の話

2016-02-05 11:41:43 | 物語
「兄弟の話」


この頃、読んだお経の中に、
つくづくなるほど~、と感心したものがある、

聞いてくれようか。

🌸☀️🌸☀️🌸☀️🌸

昔、ある国の長者が、うららかな天気の日に、二人の子を引き連れて、

香りのする花の咲き、柔らかな草の茂っている広野を、愉しげに遊行していた。

しばらくすると、

水は夏の初めのためにだいぶ涸れてはいたけれど、
なお清らかに流れて岸を洗っている大きな川に出逢った。

その川の中には、珠のような小石や銀のような砂でできている美しい洲があった。

それを見て、長者は嬉しくなり、

勢いに乗じて一尋(ひとひろ)ばかりの流れを無造作に飛び越えた。

そこで、あちこちを見廻せば、

洲の後面の方にも、また一尋(ひとひろ)ほどの流れで、陸と隔てられたる別世界がある。

まるで、浮世の生臭い土地とは、かけ離れた清浄の地であった。

そのまま一人、歓び喜んで踊躍していた。

しかし、後ろで、
渡ろうとしても渡り得ない二人の子供が、羨ましがって呼び叫ぶのを聴いた。

父は憐れに思い、

「おまえたちには、来ることのできない清浄の地であるが、

さほどに行きたくば渡らしてやる。

少し待っていよ。

見よ、見よ、

我が足下の小石は、一々蓮華の形をしている世にも珍しい小石だ。

我が眼の前のこの砂は、一々五金の光を持っている類(たぐい)まれなる砂だ」

と説き、示せば、

二人は遠目に、それを見て、いよいよ焦り渡ろうとする。

長者は、しずかに二人を制しながら、

洪水の時にでも根こそぎになった棕櫚(しゅろ)の樹の一尋(ひとひろ)余りを架け渡して、橋としてやった。

「我が先へ、おまえは後に」

と、兄弟争い鬩(せめ)いだ末、

兄は兄だけに力強く、弟をついに投げ伏せて、
自分が勝ったと誇り高ぶり、

急いでその橋を渡りかけた。

半ばまで、ようやくきたとき、
弟は起き上がり、悔しさに力を籠めて、すぐ橋を動かした。

すると、たちまち兄は水に落ちた。

苦しみもがいて洲に達したが、

このとき弟は、はや、その橋を難なく渡り超えようとしており、

それを見て、
兄もその橋の端を一揺り揺り動かした。

すると、もとより丸木の橋なので弟も堪らず水に落ち、

僅(わずか)に長者の立っいるところへ濡れ滴(したた)りて這(は)い上がった。

そのとき長者は嘆息して言った。

「おまえたちは、どう見る。

今、おまえたちが足を踏み入れた時より、

この洲は、たちまち前とは異なってしまった。

小石は黒く醜くなり、

砂は黄ばんだ普通の砂になった。

見よ見よ。如何に(どうだ)!」

と告げ知らせる父に、二人は驚き、

眼をみはって見れば、全く父の言葉通りの砂と小石。

「ああ、こんなものを取ろうとして可愛い弟を悩ませてしまった」

「ああ、こんなもののために尊き兄を溺れさせてしまった」

と、兄弟共に恥じ悲しみ、

弟の袂(たもと)を兄は絞り、兄の衣裾(もすそ)を弟は絞り、互いにいたわり慰めた。

父は、さきの橋をまた引っぱって来て、洲の後面の流れに打ちかけた。

「もはや、この洲には用はない。
さらに彼方に遊び歩く。

おまえたち、先にこれを渡れ」

と長者の言葉に、

兄弟は顔を見合いて、先刻には似ず、

「兄上、先にお渡りなされ」

「弟よ先に渡るがよい」

と譲り合い、

年順なればと兄が先づ渡る。

そのときに、
転びやすきを気遣い、弟は端を揺るがぬように確(しか)と抑える。

その次に、
弟渡れば、兄もまた揺るがぬように抑えてやった。

長者は苦なく飛び越えて、

三人ともに、いと長閑(のどけ)く、そぞろ歩く。

そんな中、

兄が図らず拾った石を、弟が見れば、美しい蓮華の形をなせる石。

弟が摘(つ)み上げたる砂を、兄が覗けば、眼も眩(まばゆ)く五金の光を放ってていた。

兄弟ともども、歓喜(よろこ)び楽しみ、
互いに得たる幸福を互い深く讃嘆し合っていた。

そのとき長者は、懐中(ふところ)より、

真実(まこと)の璧(たま)の蓮華を取り出し、

兄に与え、

弟にも真実(まこと)の砂金を袖より出して

大切にせよ、と与えたという。


🌸☀️🌸☀️🌸☀️🌸

話してしまえば、

子供だましのようじゃが
仏説☀️に虚言はない、

小児欺(こどもだま)しでは決してない、

噛みしめて見よ、味💕のある話ではないか。😄


(「五重塔」幸田露伴著より)


これは、深い話ですね。🍀🍀🍀

三回は読みたいですね。😄🌟

王様のデザート

2016-01-30 15:27:11 | 物語
「王様のデザート」


ある王様が自分のシェフに命令しました。
「今まで食べたことがないおいしいデザートを作れ」と。

シェフは試行錯誤を繰り返してデザートを作り上げると、
それを王様に献上しました。

それは大変すばらしい味で、
王様は

「こんなもの食べたことがない!」

と大声で叫び、喜びました。

いい香りが当たり地面に広がり、
町中のネズミが、次から次に宮殿に集まってきました。

宮殿の中はネズミだらけになりました。

テーブルやカーテンの下からも出てくるし、
王様のヒゲに飛びついてくるネズミにもいました。

王様はたまらず議会を招集し、

将軍や大臣など、あらゆる家来に

「このネズミをなんとかしろ」

と命じました。

家来たちは1つの解決策を提案します。

「王様、国中のすべてのネコを集めて宮殿に放し、ネズミを駆除しましょう」

王様もその意見に賛同し、
すぐに国中のネコを集める命令を出しました。

ネコを見たネズミは宮殿から逃げていきました。

しかし今度は、
宮殿全体がネコで溢れました。

王様がたまらず言ました。

「議会を招集しろ!」

そこで家来たちは、再び王様に新たな解決策を提案しました。

「今度は国中のイヌを集めましょう。
ネコはイヌが嫌いですから」

王様は兵士たちに、
すぐに国中のイヌを集めるように命令しました。

ネコたちは逃げて行きましたが、

今度は犬だらけになり、

宮殿はまたまた大混乱になりました。

困った王様がまた議会を招集すると、家来たちがいました。

「国中のトラを集めましょう」
と。

イヌは逃げ、
宮殿中はトラだらけになりました。

とても危険な状況で、
誰も部屋から出ることができなくなりました。

王様は、また議会を招集しました。

家来たちは

「ゾウにしましょう!
ゾウはトラはどうを怖がりますから」

と提案しました。

その結果、
トラはいなくなりましたが、

ゾウだらけになった宮殿の至るところに
ゾウのフンが転がりました。

「ひどい匂いだ。なんとかしろ!」

王様は家来たちに命じ、
また議会が招集されました。

家来たちは王様にいました。

「ネズミを集めましょう。
ゾウはネズミを恐れますから」

こうして、
再び宮殿の中はたくさんのネズミで溢れ、
状況はまた振り出しに戻りました。

そのとき、
王様はようやく気づきます。

「私はデザートを食べたいと思う貪欲さを持ったせいで、
こんなことになってしまったのだ」

と。

デザートがなくなり、

いい香りがしなくなると、
宮殿にようやく平和が訪れました。


(おしまい)

この話からは、王様自身の問題を作り出しているにも関わらず、
その解決策に追われていると言うことを学べます。

実は今、
こんな事は世界中で起こっているのです。

問題が生じたとき、人はその場しのぎの対処をしがちです。

でも、本当にその方法で良くなるのでしょうか?

問題の本質を理解せずに対処すると、
かえって一層の混乱と、

たくさんの時間や資源の浪費につながってしまうことに、

私たちは気づかなければなりません。


(「みやざき中央新聞」プレム・ラワットさんより)

根本解決に向かうのは、少し時間がかかりますが、
必ず解決する方向に向かっているので、大丈夫!だと私は思ってます。

北の大地の水族館物語

2016-01-28 18:54:02 | 物語
「北の大地の水族館」


車中でラジオを聴いていたら、「NPO法人伊勢志摩バリアフリーツアーセンター」
理事長、中村大さんが出演していた。

あまり面白さに、耳をそばだてた。

中村さんは、観光業だけでなく
日本初の
「水族館プロデューサー業界」も手がけている。

特に興味深いのが
「北の大地水族館」(北海道北見市)の激的改革のエピソード。

2010年5月、北海道北見市役所留辺蘂総合支所主幹の若林さんからメールが届いた。

「町にある水族館をリニューアルしたいのですが…」

空港から1時間半の距離。

巨大な道の駅の敷地内にあるその水族館は、ほとんど存在感をしなっていた。

1人も来館者がいない日がありますと若林さん。

飼育員はたった1人、工業高校出たばかりの佐藤君。

彼が「リニューアルはこの人に」と中村さんを指名したのだった。

中村さんは北見市を訪れた。

町の商店街を通ったとき、絶句した。

どこまでも続くシャッター街。

まるで西部劇に出てくるゴーストタウンのようだった。

中村さんは若林さんに言った。

「無理です。やめたほうがいい。
2億5000万円予算なんて、
いくらなんでも安すぎる」

「しかし、もうやる事は決定済みなんです。
水族館のリニューアルを町の活性化につなげたいんです」

と若林さん。

町は寂れている。

その街から半ば見捨てられたような水族館。

しかも、その水族館にスターになるような生き物はいない。

リニューアルをやろうにも予算が少な過ぎる。

まったく素人の若林さんと、たった1人の飼育員・佐藤くんのこれからの日々は思いやられた。

だが、若林さんの最後の言葉が中村さんの心に突き刺さった。

「水族館のリニューアルを町の活性化につなげたいんです」ー。

まちづくりは中村さんのライフワークだった。

受けるべきか断るべきか、中村さんの心は揺れに揺れた。

しかし、もう乗り掛かった船、見捨てる事は出来なかった。

最後は「自分しかいない」という、根拠のない使命感だけが
中村さんを動かした。

お金はない、
スターになる生き物はいない、

街に人がいない、
街に観光の目玉がない、

そして寒い…

まさに弱点だらけの崖っぷちからの出発だった。

必死にもがく中、やっと強みが見つかった。

それは豊富な地下水だった。

そこから安い費用で大水槽の建設と、

「ここで1メートル超のイトウを何十匹も泳がせたら、
壮観で見応えのある水塊になる」

という具体的なイメージが見えてきた。

屋外に穴を掘り、水槽を作った。

スタッフや住民参加の手作りだった。

そこにはこの水族館の1番の弱点である

「貧乏」

を武器にして
マスコミにアピールする

「貧乏水族館奮闘記」

のドラマ作りをしようという中村さんの狙いがあった。

北海道の強烈な冬の寒さで、水槽にも分厚い氷が張った。

すると

「氷の下の魚はどうしているのか。それを見たい」

という

大人の好奇心をくすぐる世界初の「凍る水槽」

ができた。

その珍しい光景見たさに、
毎年いくつかのテレビ局が取材に来た。

「凍った」というニュースが流れるたびに来場者が増えた。

「弱点を克服するには、

お金と時間、大変な努力がいる。

だから逆に、

楽な方法でカバーしたり、武器にすることを考えていく。

極め付きの弱点は、

他では真似できない

個性や魅力、

面白さにつながる」

と中村さん。


1連のドラマ作りとPR作戦が功を奏し、
2012年7月のリニューアルオープン後1年間で、以前の15倍の集客を実現した。

3年目からは旅行業者の団体ツアーも生まれるようになり、

地元経済への波及効果は43億円になった。

ギリギリの状況に自分を追い込み、常識を疑いながら、

「お客さんが本当に求めているもの」

を探り続ける中村さん。

今まで
「弱み」だったものを
一気に
「強み」に変えていく逆転の発想の物語が面白い。

また1人、じっくり直に話を聴いてみたい人が見つかった。


(「みやざき中央新聞」西さん社説より)


弱点は、個性!
これからは、そんな時代。(^_^)

料理人の道

2016-01-21 13:11:47 | 物語
「料理人の道」


庖丁(ほうてい)が、文恵君のために牛を料理したことがあった。

手で触り、肩を寄せ、足を踏ん張り、

膝立をする彼のしぐさのたびに、

サクサクバリバリと音がたち、

牛刀の動きにつれて、ざくりざくりと響き渡る。

それがみな音律にかなって快く、
桑林(そうりん)の舞楽にも調和すれば、
また、経首(けいしゅ)の音節にもかなっていた。


文恵君は

「ああ、見事なものだ。

技もなんと、ここまでゆきつけるものか」

と言った。


庖丁(ほうてい)は牛刀を手から離すと、それに答えた。

「私めの求めておりますものは、道でございまして、

手先の技より以上のものでございます。

私めが始めて牛の料理をいたしましたころは、
目に映るものは、ただもう牛ばかりでしたが、

3年経ってからは、もう牛の全体は目につかなくなりました。

このごろでは、私めは精神で牛に対していて、目で見ているのではありません。

感覚器官にもとづく知覚は働きをやめて、

精神の自然な活動だけが働いているのです。

天理に従って、大きな隙間に刀刃をふるい、

大きな空洞に沿って走らせ、

牛の体の本来の仕組みにそのまま従ってゆきます。

支脈と経脈がいりくみ、
肉と骨とがかたまったような微妙なことろでさえ、

試し切りをするようなことはありません。

まして、大きな肉のかたまりではなおさらです。

腕のよい料理人は一年ぐらいで牛刀をとりかえいて刃(は)こぼれがくるのですが、

たいていの料理人は、一月ごとにとりかえながら、牛刀を折ってしまうのです。

ところで、

私めの牛刀は、十九年も使っていて数千もの牛を料理してきましたが、

その刃さきは、

まるでたった今砥石で仕上げたばかりのようです。


あの骨節と言うものには隙間があり、

牛刀の刃さきというものには、

ほとんど厚みがありません。

その厚みのないもので、隙間のあるところに入ってゆくのですから、

まことに広々としたもので、

刃さきを動かすにも、必ずゆとりがございます。


だからこそ、

十九年も使っているのに、
牛刀の刃先が、

たった今砥石で仕上げたばかりのようなのです。

けれども、

それにしても、筋や骨のかたまったところに来るたびに、

私はその仕事の難しさを見てとって、

心を引き締めて緊張し、

そのために視線は一点に集中し、

手のはこびも遅くして、

牛刀の動かしかたは、極めて微妙にいたします。

やがてバサリと音がして肉が離れてしまうと、

まるで、土くれが、もとの大地に落ちたときのようなのです。

牛刀を手にひっさげて立ち上がり、

四方を見回して、しばらく去りがたくたたずんだうえで、

心中に満足し、牛刀をぬぐってそれを鞘におさめるのです」


文恵君は言った。

「素晴らしいことだ。

わしは庖丁の話を聞いて、養生の道を会得した」


(「荘子」より)


道を求めるということは、形ではなく、心なんですね。


無用の用

2016-01-20 14:03:00 | 物語
「無用の用」


大工の棟梁の石が、斉の国を旅行して曲轅(きょくえん)という土地に行ったとき、

櫟社(れきしゃ)の神木である櫟(くぬぎ)の大木をみた。

その大きさは数千頭の牛を覆い隠すほどで、

幹の太さは100かかえもあり、
その高さは山を見おろしくいて、

地上から七、ハ十尺もあるところから始めて枝が出ている。

それも船を作れるほどに大きい枝が幾十本とはり出しているのだ。

見物人が集まって市場のような賑やかさであったが、

棟梁は見かえりもせず、そのまま足を運んで通りすぎた。

弟子たちはつくづく見とれていたから、
走って棟梁の石に追いつくと、
尋ねた。

「我々が斧やマサカリを手にして師匠のところに弟子入りしてから、

こんな立派な材木はまだ見たことがありません。

師匠がよく見ようともせずに足を運んで通りすぎたのは、どういう訳でしょうか」

石は答えた、

「やめろ。つまらないことを言うでない。

あれは役立たずの木だ。

あれ舟を作ると沈むし、
棺桶を作るじきに腐るし、

道具を作るとすぐに壊れるし、

門や戸にすると樹脂(やに)が流れだすし、

柱にすると虫がわく。

まったく使いようのない木だよ。

まったく使いようがないからこそ、あんな大木になるまで長生きができたのだ」


棟梁の石が旅を終えて帰ると、

櫟社の神木が夢にあらわれて、こう告げた、

「お前は、いったいこのわしを、何に比べているのかね。

お前は、おそらくこのわしを、役にたつ木と比べているのだろう。

いったい、コボケや梨や橘や柚などの木の実や草の実の類は、

その実が熟するとむしり取られ、
もぎ取られて、大きな枝は折られて、

小さい枝は引きちぎられることになる。

これは、人の役にたつとりえがあることによって、
かえって自分の生涯を苦しめているのだ。

だから、

その自然の寿命を全うしないで途中で若死にすることにもなるわけで、

自分から世俗に打ちのめされているものたのだ。

世の中の物ごとは、すべてこうしたものである。

それに、わしは長い間、

役に立たないものになろうと願ってきたのだが、

死に近づいた今になってやっとそれが叶えられて、

そのことが、わしにとって大いに役立つことになっている。

もし、わしが役にたつ木であったとしたら、

いったいここまでの大きさになれたろうか。

それに、お前もわしも、物であることは同じだ。

どうして相手を物あつかいして批判することができよう。

今にも死にそうな役立たずの人物に、
どうして、まだ役立たずの木のことがわかろうか」


棟梁の石が目を覚ますと、
その夢のことを話して聞かせた。

すると弟子がたすねた。

「自分から無用でありたいと求めていながら、

社の神木などになったのは、どうしてでしょうか」

石は答えた。

「静かに。
お前、つまらんないことを言うでない。

あの木は、ただ神木の形を借りているだけだ。

わからずやどもが悪口を言うのがうるさいと思ったのさ。

神木とならなくても、

まず人間に伐り倒されるような心配は無い。

それに、あの木が大切にしていることは、世間一般とは違っている。

それなのに、

きまった道理でそれを論ずるとは、いかにも見当はずれである」


(「荘子」より)


無用の用とは、

役に立たないと思われているものが、
実際は大きな役割を果たしているということ。

役に立たないように見えるものでも、かえって役に立つこともある。

この世に無用なものは存在しないという教え。

『老子』には

「埴をうちて以て器を為る。
その無に当たりて器の用有り

(粘土をこねて器を作る。

器の中にある空間は、一見、無用に見えるが、

その空間があるから器が作れるのだ)」

とあり、

『荘子』には

「人は皆有用の用を知るも、
無用の用を知る莫きなり

(人はみんな明らかに役立つものの価値は知っているが、

無用に見えるものが、人生において、真に役立つものだとは知らない)」

とある。



この世に存在しているものには、必ず価値がある。

ムダなものは何もない。

意味があって存在する。

その人のとらえ方しだい。
考え方しだい。

私は、そういう考え方が好きです。