goo blog サービス終了のお知らせ 

hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

まじめは自然じゃない

2020-01-21 17:56:00 | お話

🍀🍀まじめは自然じゃない🍀🍀


2回目の練習は、翌週の週末だった。今回も湖山先生の部屋🚪で相対し、お茶🍵が出された。

お茶を出してきた男性は、西濱さんとは対照的で色白で背が高く痩せていた。

無表情だが、きらりと光る✨メガネと鋭い瞳👁は、彼がかなり切れ者⚡️であることを物語り、

細い顎に長い前髪が、繊細な人柄も感じさせた。

肩幅が狭く、それが余計に彼を細身🍀に見せていたが、

背筋のしっかりと伸びた隙のない佇まいが印象的🌸だ。

芯💓の強い人なのだとそれだけでわかる。

まるで浮ついたところのない落ち着いた様子も、西濱さんとは対照的🌟だった。

西浜濱さんには作業着👕が似合うけれど、
この人にはスーツ👔が似合いそうなだなと反射的に思った。

僕はなぜかふと芥川龍之介の写真を思い出したけれど、

芥川龍之介よりもその男性🍀の方がはるかに美男子🌸だった。

「ああ、斉藤君だよ。

西濱くんより後に入ってきた私の弟子で、

西濱くんともども今は教室🚪を任せている。

斉藤君、こちらはこの前話した青山くんだよ」

この人も先生クラス🌟の人なのだ。

斉藤さんは、何かの儀式のようにかしこまってこちらに座り、両手をついて頭を下げた。⤵️

「斉藤 湖栖(こせい)です。どうぞよろしくお願いします」

そう言って視線を上げると、鼻梁にかかる良くできた陰影のそばにある2つの目👀が、

レンズ越しに、こちらを眺めていた。

目を合わせれば吸い込まれそうな、静かな瞳だった。

僕を見ているはずなのだけれど、僕の何を見ているのかよくわからない。

怖くはないがすごく遠い、そんな気持ちを抱いてしまう。

この人はまるで水💧のようだ、と思った時に、

誰かにその印象🌸を感じたことなど一度もないことに気がついた。

この人も、西濱さんや湖山先生に通じる不思議🍀な雰囲気☁️のある人だと思った。

「斉藤君は、最年少で湖山賞👑を受賞した俊英🌸だよ。

若いが技術に関しては国内でも文句をつける人間🍀は誰もいないだろう。

青山くんも彼の水墨画から学ぶところが多いと思うよ」

そう言われると斉藤さんは、もう一度頭を下げた。

僕は慌てて、モゴモゴと名前🍀を名乗った。

斉藤さんは、僕の声🎵を聞き届けると、その後頭をきれいにあげた。

少しの間だけ、僕を見ていて、わずかに目を細めた。

それからすぐにお盆を持って出て行ってしまった。

湖山先生と目が合うと、先生🍀は少しだけ微笑んだ。😊

「斉藤君は、人付き合いはちょっと不器用だけれど、優しい人だから安心💓していいよ。

何か困ったことがあったら、西濱くんともども頼ってくれていいからね」

「あ、ありがとうございます。
花🌸がとても似合いそうな男性🍀ですね」

「はは。そうかもしれないね。
確かに彼は花卉画(かきが)が得意だ。

いつか機会🌸があれば彼の技法🖊を見てみるといいよ。

さて、では今日は、いよいよ基本💚をやってみようか。

やる気はあるかな?」

「大丈夫🍀です。がんばります」

そういうと湖山先生は笑った。

今日は、僕の前にだけ道具が置いてあった。

白い下敷きに、硯(すずり)に、水の入った容器、
棒状の墨、一本の筆に、内側に仕切りのついた丸みを持った花形の陶器のお皿、最後に布巾だ。

「下敷きは白いものを使う。

これは紙を敷いたときに墨の濃淡がはっきりとわかるからだ。

水墨画と言うのは、墨を水💧で薄めて使って様々🌸な変化⚡️を出していく。

その変化をなるべく見やすくするための工夫🍀だ。

次にその仕切りのついたお皿は梅皿(うめざら)という。

形も梅の花のようだろう?

パレットだと思えばいい。

絵を描く人間ならお馴染み🌸の道具だが、
描かない人はあまり見たことがないだろう。

水💧を張った容器を筆洗という。

そして、あとは硯(すずり)に、筆に、墨。

墨は固形墨を使う」

「墨液(ぼくてき)ではないんですね。本格的🌟な感じがします」

「墨液を使って教えることもあるが、私はあまり好きではない。

それに良い硯に墨液を注ぐなんてもったいないよ」

「これは良い硯なのですか?」

「ああ、とても。

使いこなせれば、この世界🌏と同じほど微細な墨がすれる」


僕はびっくり😵して硯をまじまじと見た。👀

手のひらよりも少し大きいくらいの何てこともない長方形の硯に見えたが、

確かに立派🌸な木箱に入っていて蓋もついている。

良いものだと言われると、なんとなく良いものだという気がしてしまうから不思議☁️だ。

ただの石だが石以上のものに感じる。💓

「硯は、書家や水墨を描く絵師にとっては、刀🗡みたいなものだよ。

そこから、すべてが始まるんだからね」

「そんな大事なものを使わせていただいて、いいんですか?」

「大丈夫🍀。大丈夫🍀。

手に入るのなら道具🖊は良いものを使わないとね。

良い硯だから大事🍀にしてあげてね」

「わかりました。大事に使わせてもらいます」

うれしそうに湖山先生は微笑んだ。

湖山先生自身も道具にたくさんのこだわりがあるのだろう。

超一流🌟の絵師なら当然のことなのだろうけれど、

その当然の言葉🍀でも本人☀️から聞くと嬉しい。

「では、まず墨をするところから。

これがなければ始まらないからね。

おっと、水滴(すいてき)がなかったね」

湖山先生は立ち上がって、後の道具箱から、小さな急須(きゅうす)のような容器を取り出した。

そこに水💧が入っているらしい。

湖山先生のしわしわの手が、硯に水を注いで、硯の面を濡らした。

「さぁ、どうぞ」

と、湖山先生は墨をするように促した。

僕は恐る恐る墨を持って、硯の上でゴシゴシとすり始めた。

おもしろいくらいに墨はすれて、透明な水は真っ黒⚫️になっていた。

しばらくすっていると粘りが出てきて、

あとどれぐらいすればいいのだろう、と視線を上げると、湖山先生は居眠り💤をしていた。

確かに退屈だろうけれど、居眠りしなくても、

と思ったが、とりあえず湖山先生🍀を起こすと、

「もうできたかね?」

と、私はまるで居眠りなんかしていなかったぞというような顔で、起き上がった。

それから、僕の座っている席のほうへやってきた。

ぼくは背筋がぐっと伸びた。

着ている作務衣から漂う清潔そうな匂いは何なのだろう、と思っていると、

湖山先生は無造作に筆をとって、

目の前の紙に何かをバシャバシャと描き始めた。

この前と同じ、湖畔の風景が出来上がり、

次に紙をおくと、渓谷が出来上がり、

最後には、竹が出来上がった。

どれもまさしく神業⚡️(かみわざ)で、

一瞬⚡️の出来事🌟だった。

どうしてこんな速度で、こんなに高齢な老人が筆を操れるのだろう?

それを感じさせない若々しい動きだった。☀️

そして何より速い⚡️。

動きの細部についてはあまりに早すぎてわからない。😵

手に持った筆が、先日と同じく、硯と梅皿と布巾と筆洗の間を回転🔄するということしかわからなかった。😵

気づくと墨はなくなり、硯の中は空っぽになっていた。🌟

描かれた絵は床に広がっていた。

そして湖山先生は衝撃的⚡️な一言を、僕に告げた。

「もう一回。もう一回、墨をすって」

僕は唖然😵としながらも、
また一から墨をすり、湖山先生はうたた寝を始めた。

何が起こったのだろう?😀

何か、気に障ることをしてしまったのだろうか?😀

いろいろと思案しながら、惑いつつ墨をゴシゴシすり、
これでいいだろうというところで湖山先生を起こした。

特別に機嫌が悪そうでもなく、かといって良さそうでもなく、

また筆を取ると一気呵成⚡️にバサバサと描き上げて、硯の中身を空っぽにした。

それからまた、さっきと同じセリフが帰ってきた。

「もう一回🌟」

僕は眉をひそめて、一体何が起こっているのだろう?

と墨をすりながら考え続けた。🔄☁️

僕はとにかく墨をすり、湖山先生を呼んだ。

湖山先生は居眠りから目覚めて描いて、描いて、僕はまた同じ言葉🍀をもらい、

また墨をする…と、

そんなことを何度か繰り返した。🔄

もういい加減疲れてきたので、

いろいろ考えるのをやめて、

ただなんとなく手を動かし、
有り体(てい)に言えば適当🌸に墨をすって湖山先生を呼んだ。

すると湖山先生は最初の時とまったく同じく、

特に不機嫌でもなく不愉快でもなさそうな顔で、筆をとると、

「筆洗の水💧を換えてきて」

と、言った。

僕は言われたとおり廊下に出てすぐの場所にある流し場で、筆洗の水を新しいものに換えた。🔄

湖山先生の前に真新しい水を置いて席に行くと、

湖山先生は待ち構えていたように筆🖊をとって、

墨をつけて筆洗に浸した。

その瞬間⚡️、湖山先生は口👄を開いた。

「これでいい。描き始めよう」

僕は湖山先生が何を言っているのか、わからなかった。😵

どうして真面目にすった墨が悪くて、適当にすった墨がいいんだ?

僕はなんとも腑に落ちないという表情🌸をしていたのだろう。

湖山先生はにこやかに笑って答えた。

「粒子🌸だよ。墨の粒子🌸が違うんだ。

君の心💓の気分が墨に反映✨しているんだ。

見てみなさい」

湖山先生は、筆をもう一度取り上げて、いちばん最初に描いた風景🌸とまったく同じものを描いた。

木立🌲が前面にあり、背景に湖面が広がり、さらにその背後に山⛰が広がっているという絵で、レイアウトはまったく同じ🌟だ。

だが湖山先生が筆を置いた瞬間のすれの広がりや、きらめき✨が何もかも違った。

画素数✨の低い絵と、高い絵の違い⚡️と言ったらいいのだろうか。

実際に粒子🌸が違うというのなら、そういうことなのだろう。

小さなきらめき✨や広がりが積み重なり、

1枚の風景が出来上がったとき、

最初に見たときは、漠然と美しい🌸としか感じられなかったが、

二枚目になると、懐かしさ☁️や静けさ☁️やその場所🍀の温度や季節🌸までを感じ💓させるような気がした。😊🎵

細かい粒子🌸によって出来上がった湖面の反射✨は、夏☀️の光を思わせた。

薄墨で描れ枯れた線のかすれが、ごく繊細な場所まで見てとれるので、
眩(まぶ)しさや、色合いも思わせ、

波打つ様子は静けさ🍀までも感じさせた。🌟

その決定的な一線⚡️は、たった一筆によって引かれたものだった。

同じ人間🍀が同じ道具で、同じように絵を描いても、

墨のすり方一つで、これほどまでに違うものなのかと、僕は愕然(がくぜん)😵とした。

とたんに僕は恥ずかしくなった。😥

僕はとんでもない失敗をさっきまで繰り返していたのだ。😵

湖山先生は相変わらず、にこやかに笑っている。

私は何も言わなかったのが悪いが、と前置きした後に湖山先生🍀は言った。

「青山くん、力✊を抜きなさい」

静かな口調🌸だった。

「力✊を入れるのは誰にだってできる、

それこそ初めて筆を持った初心者🔰にだってできる。

それはどういうことかというと、

すごく真面目🍀だということだ。

本当は力✊を抜くことこそ技術⚡️なんだ」

力を抜くことが技術?😕

そんな言葉🍀は聞いたことがなかった。

僕はわからなくなって、

「真面目ということは、よくないことですか?」

と訊ねた。

湖山先生は面白い冗談🌸を聞いた時のように笑った。😁

「いや、真面目というのはね、

悪くないけど、

少なくとも、自然🍀じゃない」

「自然🍀じゃない」

「そう。自然🍀じゃない。

我々はいやしくも水墨🖊をこれから描こうとするものだ。

水墨は、墨の濃淡、潤渇(じゅんかつ)、肥痩(ひそう)、

階調(かいちょう)でもって森羅万象🌲🌏🌔(しんらばんしょう)を描き出そうとする試みのことだ。

その我々が自然🍀というものを理解🌟しようとしなくて、

どうやって絵を描けるだろう?

心💓は、まず指先☝️に表れるんだよ」


僕は自分の指先を見た。👀

心💓が指先☝️に現れるなんて考えたこともなかった。

それが墨に伝わって粒子🌸が変化したというのだろうか。

だが、確かにその心💓の変化🔄を墨のすり方だけで見せつけられた身としては、うなずくしかない。

「君はとても真面目な青年🍀なのだろう。

君は気づいていないかもしれないが、まっすぐな人間🍀でもある。

困難なことに立ち向かい✊、それを解決しようと努力🌸を重ねる人間🍀だろう。

その分、自分自身🌸の過ちにもたくさん傷つく⚡️のだろう。

私はそんな気がするよ。

そしていつの間にか、自分独りで何かを行おうとして心💓を深く閉ざしている。

そのこわばりや硬さが、所作に現れている。

そうなると、そのまっすぐさ⚡️は、君らしくなくなる。😊

まっすぐさ⚡️や強さが、それ以外を受け付けなくなってしまう。🚫

でもね、いいかい、青山くん。

水墨画は孤独な絵画ではない。

水墨画は自然🍀に心💓を重ねていく絵画🎨だ」


僕は視線👀を上げた。

言葉🍀の意味を理解🌸するには、湖山先生の声🎵があまりにも優しすぎて、

何を言ったのか、うまく聞き取れなかった。😵

不思議そうな顔で、僕は湖山先生を見ていたのだろう。

湖山先生は言葉🍀を繰り返した🔄。

「いいかい、水墨を描くということは、

独りであるということとは無縁🌸の場所にいるということなんだ。☀️

水墨を描くということは、

自然🍀との繋がり🍀を見つめ👀、学び✊、

その中に、分かちがたく結びついている自分を感じて💓いくことだ。

その繋がり🌸が与えてくれるものを感じる💓ことだ。

その繋がりと一緒🌸になって絵を描くことだ😊」


「繋がり🌸と一緒に描く」

僕は言葉🍀を繰り返した🔄。

僕にはその繋がり🌸を隔てているカラスの部屋の壁が見えていた。

その壁の向こう側の景色を、僕は眺めようとしていた。

その向こう側にいま、湖山先生🍀が立っていた。

「そのためには、まず、心💓を自然🍀にしなさいと」

そう言って、また湖山先生は微笑んだ。😊

湖山先生が優しく筆を置く音が、耳👂に残った。

その日の講義は、ただそれだけで終わった。


何か、とても重要⚠️なことを惜しみなく与えられているようで、

そのすぐ前を簡単🌸に通り過ぎてしまいそうになっている自分🍀を感じていた。

小さな部屋🚪に満たされた墨の香りと、

湖山先生の穏やかな印象🌸が、

カチコチに固まっていた水墨画のイメージ☁️をボロボロと打ち壊していくのが分かった。

父と母が亡くなって以来、誰かとこんなふうに長い時間、

穏やかな気持ち💓で向き合ったことがなかったのだと僕は気づいた。


(「線は、僕を描く」(講談社)砥上裕將さんより)

道元⑦

2020-01-16 14:26:00 | お話
道元⑦

🔸境野、道元禅師と言えば、この歌も忘れることができません。

春は花 夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえて すずしかりけり

🔹大谷、ああ、これはいい歌ですね。

私もぜひ挙げたいと思いでいました。

川端康成氏がノーベル文学賞もらった時に「美しき私の日本」という講演の冒頭で紹介したことで有名になりました。
この歌は道元禅師が鎌倉の時頼のところに行かれた時、時頼夫人の求めでつくられたものですが、

日本古来の花や月、鳥といった風物が、言ってみたらただ並べられているだけの歌です。

しかし禅師はこれに「本来の面目(めんもく)」という題をつけられている。

「本来の面目」とは事々物々(じじぶつぶつ)、森羅万象(しんらばんしょう)、各人の本来備えている真実のありようで、

その真理をこれだけの短い言葉で見事に言い表わされています。

そこには道元禅師の透徹する清涼感が漂うばかりで、

世俗的な名門利養(みょうもんりよう)の陰など微塵もありません。

🔸境野、私は春になると何となく体がだるいんですよ。

おまけに夏は暑がり、冬は寒がりときいています。

早く季節が変わらないかなといつも思ってきました。

だけどこの歌を通して、それじゃいけないと気づかされました。

桜の花を眺めていたら何か楽しい気持ちが湧いてくる。

夏に聞くホトトギスの鳴き声は気持ちがいい。

秋の月を眺めて凛とした気持ちになる。

こんなふうに自然のいいところを見ることで、

自分の悩みが減っていくことを感じるようになったんです。

そして、それは対人関係も同じだと思いました。

人間はだれでも欠点があれば必ず長所もある、

いいところだけを見ていけば、どんな人とも和することができる。

そう考えると、道元禅師の歌を現実の世界の中で生活の中で活かすことができます。

いまの若い人たちの中には、こんなに恵まれた環境の中にありながら、

文句ばかり言っている人が少なくありません。

道元禅師が厳しい寒さの中で

「雪さえて すずしかりけり」

とおっしゃったように、

少しくらい厳しい環境でも「すずしかりけり」と捉えるような感性を磨いていったら、

もう少し楽に生きられる気がしています。


🔸境野、それと道元禅師の言葉で忘れてはいけないのは

「愛語(あいご)能(よ)く廻天(かいてん)の力あることを学すべきなり」

ですね。

🔹大谷、ええ。道元禅師は衆生(しゅじょう)は皆、赤子(せきし)であるとの思いを持って慈愛の言葉をかけてあげるのが愛語だとおっしゃっています。

🔸境野、「ありがとう」「ごめんなさい」「大変だね」と言うと、

いつの間にか不機嫌なかみさんのご機嫌が直っている。

これが廻天の力なんですよ(笑)。

愛語という禅の言葉は、生活から離れたものでも難しいものでもありません。

学校や職場に当てはめれば、欠点や失敗ばかりを責めるよりも、

「俺も昔こんな失敗をしたよ。だけど君ならこの失敗から何かを学べるよ」

と伝えれば、

言葉が相手の心に届いて元気になってくれる。

と同時に自分も嬉しく安らかな気持ちになる。

道元禅師は愛語は念仏やお経よりも強い力があるとおっしゃっていますね。

🔹大谷、道元禅師のいう愛語は、いまでいうその場しのぎ的な癒やしではありません。

いわば魂の安心(あんじん)の世界なんです。

私は道元禅師は日本人が確として矜恃(きょうじ)すべき心のかたち、日本人の魂の安心をデザインした一人と思っています。

🔸境野、「日本人の魂の安心をデザインした」という表現は、長年道元禅師を研究なさってきた大谷先生ならではの表現だと思います。

さて、もう一つ私が心の支えにしてきた道元禅師の歌があります。

水鳥の 遊(ゆ)くもかえるも 跡たえて
されども道は わすれざりけり

私は若い時、自分がこれからどう進んでいったらいいのか分からず自信を失った時期がありました。

そんな時に励ましてくれたのがこの歌です。

自由自在に飛んでいる水鳥のように、

まずはとにかく動いてみようじゃないかと。

人と比べるのではなく、自分が信じた道を歩んでいこうじゃないかと。

そして歩み続ける中で東洋思想家としての道が自然にひらけていったんです。


🔹大谷、道元禅師は「まことに一事をこととせざれば、一智に達することなし」とおっしゃっています。

要するに一つの道をしっかりと貫きなさいと言うことですね。

その意味では、道元禅師はまさにそういう方でした。

これは如浄禅師と出会って身心脱落された時、

「一生の参学ここに終わりぬ」

と宣言されています。

いままで参究したことが完結したというのですから、すごい言葉だと思います。

でも、そこで決して終わりではない。

道元禅師はその後も一貫して精進を続けられました。

建長4年(1253年) 54歳で亡くなる前に遺偈(ゆいげ、遺言)を残されるのですが、

如浄禅師の遺偈そのままの内容です。

如浄禅師がいかに道元禅師の中で生き続けたかということなんですね。

私は一器の水を一器に移す師資相承(ししそうじょう)の姿をそこに見る思いがします。

きょうは道元禅師の残された言葉を中心に境野先生とお話しさせていただきましたが、

禅師の言葉の中には真実を衝いたものが無数といってよいほどあります。

よくぞこういう言葉が発せられるな、言葉の魔術師そのものだなと心から驚嘆します。

道元禅師の言葉は文章でも偈頌でも、

極めて慎重に整理された全く無駄なく彫琢(ちょうたく)されたもので、

それが文字となって示されると、

それがまた判然とした行動の基となり認識される。

それが道元禅師の言葉だと思います。

🔸境野、悟りというと日常生活から離れているように思いますが、

実は人の口から出てくる言葉が私たちの人生の疑問を解決してくれるんですね。

発言された音の力の中に実に不思議な解脱(げたつ)の力がある。

私自身、これからも道元禅師のお言葉に感応道交しながら、

もっともっと自分を磨いていきたいと思っています


(おわり)

(「致知」2月号 境野勝悟さん大谷哲夫さん対談より)

道元⑥

2020-01-15 17:58:00 | お話
道元⑥

🔸境野、道元禅師は如浄禅師と出会って以来、まさにギリギリのところで自らを追い込んで只管打坐の修行をされました。

普通の修行者はなかなかそこまで到達できないわけですが、

興味深いのは、実際にお書きになったり、お話になったりしたものを読むと、

仏教にあまり興味のない人でも心にすーっと入ってくる言葉が数多くあるんです。

🔹大谷、おっしゃる通りですね。

禅というものも詰まるところ人間としての生き方ですからね。

その意味でも道元禅師は至極真っ当な生き方をされた方ですよ。

嘘、ごまかしというものはない。

言葉が生きているのです。

私が好きな道元禅師のお言葉に、

大仏寺を永平寺に改称した時の上堂での説法の一節があります。

これも、『永平広録』に書かれていますが、

「天上天下当処永平(てんじょうてんげとうしよえいへい)」

(天上天下ありとあらゆるところが正伝の仏法嗣続の場所として永久に平穏である)

と述べられています。

要するに道元禅師は永平寺を建立することで世の中の永久(とこしえ)なる平和を祈っていらっしゃるわけです。

只管打坐の世界をそこで宣言されていると私は思っているんです。

🔸境野、天上天下唯我独尊にならって天上天下当処永平と言ったところに、道元禅師の気迫を感じますね。

今日のテーマは道元禅師の残した言葉です。

禅師の言葉はいいものが多すぎて選ぶのに苦労するのですが、

例えば、「心とは山河大地なり」という言葉もその一つです。

この場合の心とは命、山河大地とは大自然ということです。

若い頃、私は命とは頭の働きだと捉えていました。

「考えるからこそ命なんだ」と長いことを思っていたんです。

しかし、こうして呼吸をしているのも二本足で歩くのも、

物を食べて消化するのも山河大地、大自然の力なんですね。

頭で考えて動かしているわけではない。

坐禅を始めた頃、自分の呼吸を感じなさいとよく言われました。

呼吸というのは生まれてから今日まで一瞬も休むことがない。

今後も命が絶えるまで休むことがない。

そこに命の働きがあるわけです。

そして、そういうことを知ることによって私たちが抱える悩みや欲望は少しずつ減っていくのではないかと思います。

お弟子さん達によく話すんですけど、現代は競争社会でしょう。

しかもこの不況で、うかうかしていると勤めている会社が倒産しないとも限らない。

不安や恐怖、後悔など頭で考えていると疲れてしまうことばかりです。

そういう時に、この命そのものの働きに心を向けることは、とても意味があると思います思うんです。

🔹大谷、いまのお話につけ加えますと、私も道元禅師から何を学んだらよいのかと、よく質問を受けることがあります。

20世紀後半から21世紀は「心の時代」と言われるようになりましたが、

私は現代人が忘れてしまったのは、

この心だと思っていて、それを道元禅師道から学ぶべきだと思うんです。

人間は苦境に立たされると必ず悩みますよね。

苦悩し続けます。

道元禅師も求道を続ける中で何度も挫折しそうに挫折しそうになられたことがありました。

ただ、道元禅師が我々と違うところは、

くじけそうになりながらも決して姑息な解決策を求められないんです。

その姿勢は終生変わることがない。

例えば、道元禅師にとっての極楽浄土は西方の彼方にあるものではなく、

己の内にあるんです。

極楽浄土や阿弥陀仏に頼って、そちらに意識が向いてしまうと、

目の前にある現実がおろそかになってしまいます。

「他」すがれば、己がおろそかになる。

混迷の時代は極端な悲観論だとか、

根拠のない楽観論がどうしても生まれがちなのですが、

いかなる時代であっても確固たる自己の目で、ありのままを正しく見据える姿勢を、われわれは道元禅師に学ぶべきではないでしょうか。


(つづく)

(「致知」2月号 境野勝悟さん大谷哲夫さん対談より)

道元⑤

2020-01-14 15:08:00 | お話
道元⑤

🔸境野、道元禅師が宋で何を悟られたかということについては、28歳で日本に帰ってこられた時、

「何を悟ってきたのか」

と質問を受けて、

「悟ったものは何もない。しばらく柔軟心(じゅうなんしん)を得たり」

と答えられた話が有名ですね。

🔹大谷、『永平公録』には、宋で得たものは

「眼横鼻直(がんのうびちょう)」、
眼は横に付いている、鼻は縦についてる。

それが分かっただけだ。

それ以外は何も持たずに帰ってきた(空手遷郷(くうしゅげんきょう))と書かれています。

ありのままの姿の中にこそ、仏法はあるということでしょう。

🔸境野、日本に帰られた道元禅師は、京都の深草に興聖寺(こうしょうじ)を開いて本格的な坐禅修行を始め、

弟子が増え名声も高まってくると、そこから逃れるように越前の山中に大仏寺を建立されます。

これが後の永平寺ですが、私はつくづく感心するんですね。

高貴な身分をお持ちなのに、よくぞ雪の越前に行って只管打坐やられたものだと。

🔹大谷、全く同感です。だから最初から食うや食わずで、ものすごく苦労されたと思います。

が、他宗の寺のように焼き討ちに遭うこともなく、

道元禅師はいわゆる鎌倉新仏教の祖師方のように流罪にも遭っていません。

当時の権力者たちも道元禅師には迂闊に手を出せなかったのではないかと思います。

先ほど道元禅師は権力に近づかれなかったと申し上げましたが、

宝治元年(1247年)、執権・北条時頼(ときより)の求めに応じて鎌倉に出向いて人々の教化に当たられたことがあります。

弟子であり、時頼の1番の家臣でもあった波多野義重端の頼みということもあったのでしょう。

半年後、時頼から

「もう少し鎌倉に残り新寺を建立してはどうか」

と頼まれますが、それは断って半年で永平寺に帰られます。

🔸境野、道元禅師は永平寺でいつもどのようなことをなさったとお考えですか。

🔹大谷、よく誤解されることなのですが、道元禅師は『正法眼蔵』を一生かけて描かれたわけではありません。

越前で大仏寺を建立するまでの最初の2年間でほぼ書き終えられているんです。

最終の巻「八大人覚(はちだいにんがく)」だけは最晩年、54歳で亡くなる前に書かれている。

それはおそらく口宣(くせん)であったと思われますが、

それでは永平寺での晩年は何をやっておられたかと言えば、

五参上堂(じょうどう)(5日ごとの上堂)、四節上堂、

降誕会(こうたんえ)、成道会(じょうどうえ)、

涅槃会(ねはんえ)、達磨忌(だるまき)、

先師忌(せんじき)、亡僧忌(ぼうそうき)、

拝請(はいしょう)など禅宗特有の「上堂」という説法をしているんです。

ちなみに道元禅師の後半生、11年間にわたる上堂(説法)回数は実に501回に及びます。

『永平広録』 (十巻)最初の上堂には次の文章があります。

「上堂に、云く。

依草(えそう)の家風、附木(ふぼく)の心、道場の最好(さいこう)は叢林(そうりん)なるべし。

床一撃(しょういちげき)、鼓三下(くさんげ)、

伝説す、如来微妙(みみょう)の音(おん)。

正当恁ちの時、興聖門下、

且(しばら)く道(い)え、如何(いかん)。

良久して云く、湘の南、潭の北、黄金国、限り無き平人(へいじん)、陸沈(りくちん)を被(こうむ)る。

(道元は上堂し、次のように言った。

いたずらに文字にとらわれず、草々にも真実の仏を見る正伝の仏法の家風を、

また木々にも真実の仏の心を知る、

そのようなことを体認しうる修行の場として最好なのは、我がこの道場である。

この道場では、禅牀(ぜんしょう)を打つ音、太鼓の音の中にさえも釈尊の微妙な真実のみ教えが伝え説かれている。

さあそれでは、まさにこの時、そこのところを興聖の門下である諸君はどのように表現しうるか。

道元は、しばらく無言の間をおいてから次のように言った。

洛南の深草の地にある我が道場は、
譬えてみれば中国湖南省の嶺南(れいなん)地方、

湘江(しょうこう)の南、潭水(たんすい)の北の黄金の国にも匹敵する絶好の場である。

ゆえにこの叢林に一度入れば、人は誰でも真実の仏法に浸り切るのだ)

道元禅師の「上堂」の形式は、まず仏法のありようを述べ

「仏道とはこういうものであると知っているか」

と問い掛け、弟子たちにそれを喚起させ、

その答えを模索させ良久して、

仏道とはこういうものである、と最後に偈頌(げじゅ)を持って結ぶという、

その師・天童如浄禅師の上堂のやり方の踏襲(とうしゅう)です。

私はこの文章を声に出して読んでいと、

道元禅師が目の前に現れるような感覚を抱きます。

『正法眼蔵』よりも、むしろ上堂の説法を読む方が、禅師を身近に感じることができるんです。

🔸境野、『永平広録』を読むと、確かにそれがよく分かりますね。

🔹大谷、こういう話もあります。

6月の梅雨時期に雨がたくさん降って作物に大きな被害が出そうになった時、

村人が困って道元禅師のところにやってきて

「お祈りをしてください」

とお願いをする。

その時に道元禅師は

「いま雨が降っているけれども」と述べた後で、

いきなり「ハクション」と大きなクシャミをするんです。

皆がシーン浸透したところで

「私がいまクシャミをしたように天がクシャミをしているんだ。

だからいずれやむ。

安心してよろしい」と。

これは如浄禅師の上堂のやり方そのものなのですが、

私はそこに道元禅師の身体動作が見えるし、

言葉が聞こえるし、息吹を感じるんです。

道元禅師は『正法眼蔵』で漢語と和文を交えた日本語によって、

「悟り」というそれまで日本には曖昧(あいまい)でしかなかった大悟の世界を明確に示された。

と同時に、上堂という現場でそれを大衆に示された。

だから『眼蔵』と『広録』の両方を見ていかないと、

道元禅師の正確な仏法は掴み得ません。

🔸境野、いま大谷先生がおっしゃったように上堂の言葉を自分が発音することで道元禅師の姿が見えてくる。

そこはとても大切なところでしょうね。

以心伝心、感応道交というのか、同じ言葉を声で発することで魂が通じ合う。

言葉の力は不思議でもあるし、素晴らしいと感じます。


(つづく)

(「致知」2月号 境野勝悟さん大谷哲夫さん対談より)

道元④

2020-01-13 21:24:00 | お話
道元④

🔸境野、ここで少し道元禅師の人生を振り返ってみたいと思います。

禅師は14歳の頃、比叡山で剃髪(ていはつ)し得度、出家なさるわけですが、

天台教学を中心とし諸宗にも伝わる

「本来本法性(ほんらいほんぼっしょう)・天然自性身(てんねんじしょうしん)」

という文言に疑問を抱かれるんですね。

人間は生まれながらに仏性を持っている。

なのになぜ修行しなくてはいけないのか、と。

ゲスな喩(たと)えで恐縮ですが、言って見れば人間は皆一億円を持っているのに、

なぜ働かなくてはいけないんだ、というようなことですよね。

🔹大谷、そういうことです。「本来、仏である」ということと「修行して仏になる」とでは根本的に矛盾します。

宗教的な大疑団といえます。

禅師は14歳にしてその天台仏教の根幹にぶつかって、悩み続けられるんです。

そこでご自身の親戚筋にあたる圓成寺(おんじょうじ)(三井寺)の公胤(こういん)僧正にそのことを尋ねられる。

すると公胤僧正は

「わが宗教に訓訣(くんけつ)ありといえども、未だその義を尽くさず」

つまり、その問いには誰も答えることはできないと答えるわけです。

納得できないでいると、

公胤僧正は、宋に仏の正法を伝える禅宗が存在すると入宋を示唆(しさ)し、

宋帰りの建仁寺(けんにんじ)の栄西(えいさい)禅師を紹介します。

道元禅師は早速会いに行って、その疑問をぶつけられる。

すると栄西禅師は

「三世の諸仏は、悟りなどにとらわれていないのだ。

そんな疑問は通り過ぎている。

狐や狸に等しい凡夫がそんな理論的な悟りを論じているにすぎない」

と唐代の禅僧・南泉普願(なんせんふがん)の語をもって一蹴してしまうんです。

栄西禅師は、仏道は高邁(こうまい)な仏教理論や人間を単なる分別智(ぶんべつち)の世界のみでは把握しきれないことを南泉の語を借りて教示したのです。

これにはショックを受けられたと思います。

だって天台の緻密な学問仏教をやってきたプライドが崩壊してしまうわけでしょう。

ただ、道元禅師はその時に禅という、頭の学問ではなく体認する世界があることを強烈に知るんです。

栄西禅師から明全(みょうぜん)という和尚を紹介され、

24歳の時に和尚と共に海を渡り、宋の地を踏まれる。

🔸境野、それだけでも道元禅師の志がいかに強固なものだったかが分かりますね。

🔹大谷、ところが、宋に渡ったのはいいが、

見る人、聞く人、皆日本と同じ。

努力もせずに悟りを求めようとする修行者ばかりだった。

がっかりして日本に帰ろうと考えていた時、

老しんという僧から

「日本の若い坊さんよ。天童山には如浄という古来希なる禅師が住職された。

とにかく会ってみなさい」

と言われて、宋の元号で宝慶元年(1225年) 5月1日に如浄禅師と相見(しょうけん)される。

少し話が横道に逸れますが、よく道元禅師が宋の国で尋師訪道(じんしほうどう)されたということが言われます。

いろいろな師を訪ね歩くことですが、

道元禅師は栄西禅師の拠点を中心として回られているんです。

このことはほとんど指摘されていませんが、

栄西禅師が日本に移入された臨済禅をその師 明全和尚を通して道元禅師もまた、しっかり学ばれていたことが分かります。

🔸境野、いや、私もそのことは存じ上げませんでした。

🔹大谷、道元禅師が初めて如浄禅師に会われた5月1日は、天童山は新緑がとても美しい時でした。

如浄禅師は道元禅師を見るなりこうおっしゃるんです。

「仏仏祖祖(ぶつぶつそそ)の面授(めんじゅ)の法門現成(げんじょう)せり」と。


「面授」とは、フェイス・トゥ・フェイス、師と弟子が相対して師から弟子へ直接仏祖正伝の正法が伝えられることを意味します。

言って見れば仏法を己の体の中に浸透させることが叶ったな、

と突然そう言われて道元禅師はいたく感激されたに違いありません。

🔸境野、如浄禅師はひと目見て、道元禅師がどれだけの人物かを見抜いたでしょうね。

🔹大谷、そう思います。それには師であった明全和尚の確たる慫慂(しょうよう)があったと思いますが、

如浄禅師は300年に1人出るかでないかというほど稀代(きだい)なる禅師であると、

道元禅師は『正法眼蔵』で述べられています。

また道元禅師ご自身も不世出の若き求道者でした。

65歳の如浄禅師と26歳の道元禅師。

このお二人が天童山で出会ったことの意味はとても大きい。

道元禅師にとって、まさに人生最大の転換期でもあったわけです。


🔹大谷、それ以来、道元禅師は如浄禅師に就いて修行をされるのですが、

その修行ぶりがまた凄まじい。

道元禅師の弟子の懐奘(えじょう)禅師がまとめた『正法眼蔵随聞記(ずいもんき)』には次のように書かれています。

我れ大宋天童先師の会下(えげ)にして、この道理を聞いて後、

昼夜定坐して極熱(ごくねつ)極寒には発熱しつべしとて諸僧暫(しばら)く放下(ほうげ)しき。

我れその時、自ら思はく、たとい発病して死ぬべくとも、なほただ是れを修すべし。

(私は宋で天童如浄禅師の門下にあって、この道理を聞いてからは昼夜座禅をした。

極暑や極寒の時は病気になりそうだったと言って、

僧の多くはしばらく座禅をやめてしまった。

しかし、私はその時考えた。たとえ発病して死のうとも修行を続けよう)

生命を懸けて決死の覚悟でやり抜くという決意が伝わってきます。

如浄禅師は夜中の2時半まで座禅をし、朝6時には起きて座禅をしていましたから、

寝ている姿を誰も見たことがなかったと言われています。

道元禅師もそんな如浄禅師に全身全霊で追随される。

🔸境野、道元禅師の言葉に

「正師(しょうし)を得るざれば学ばざるに如かず」

とありますが、正師に出会って感応道交(かんのうどうこう)してこそ本当の修行ができ、

自分の中にある仏の姿も見つけることができる。

一方で道元禅師は邪師のもとではいくら修行してもダメだと言う言い方もしています。

だから草の根を分けてでも正師を探しなさいと。

🔹大谷、それだけ正師に巡り合うのは難しいということですね。

道元禅師と如浄禅師が会われたのは宝慶元年5月1日。

その月の27日には9年間師事し修行を共にした明全和尚が亡くなります。

それからというもの、西方の仏法を極め帰らなくてはいけ正伝の仏法を究め帰らなくてはいけないという大きな使命が道元禅師の肩に掛かってくるんです。

道元禅師はその状態を手紙に書いて如浄禅師に伝えます。

すると如浄禅師もやはり名僧ですね。

「君は衣を着けようが着けまいが、いつでも質問に行きなさい」

と返事を寄こす。

そこで道元禅師はほとんど毎日のように如浄禅師のもにはせ参じては教えを乞うのですが、

『寶慶記』に記されているのは、まさにその時のやりとりなんです。

それからの約2カ月間、仏の家に自分を投げ出し懸命に修行を続けた道元禅師はついに身心脱落の境地に至られる。

🔸境野、ある修行者が座禅中に居眠りをしていて、

それを見た如浄禅師が修行者を木靴で殴りつけた。

その瞬間に道元禅師は悟られた、と言われていますね。

🔹大谷、はい、道元禅師が「身心脱落しました」と伝えると、

如浄禅師はさらに、「脱落、脱落」と、

身心脱落したことさえ忘れてしまえと、そう言うんです。

それが悟りの境地であり、無所得(むしょとく)、無所悟(むしょご)の不染汚(ふぜんな)の修証(しゅしょう)の只管打坐の究極です。

それが師から弟子へと仏法が正しく伝授されていく。

🔸境野、師資相承(ししそうじょう)がこの時成ったということでしょうね。

🔹大谷、そして印可を得、帰国する道元禅師に如浄禅師は

「君は国に帰って教化に努めなさい。

ただし、町に住んで国王大臣に近づいてはいけない。

深山幽谷(しんざんゆうこく)に居して修行を続け、弟子たちを育てなさい」

と伝えるんです。

当時、日本の仏教者は皆、権力者に近寄ろうとしました。

ところが道元禅師は父親が内大臣の久我家、母が摂政関白の藤原家という家柄にありながら、

権力を一切利用しようとはされなかった。

雪深い越前の永平寺を建立して只管打坐の厳しい修行に励み、

如浄禅師の戒めを守り続けられるんです。

それには幼い頃から権力争いを目のあたりにし、

母の死に極度の無常を感じ、

多くの親族を失うという経験も大きかったと思います。

🔸境野、権力者たちのドロドロした一面を見抜いていらっしゃったのでしょうね。


(つづく)

(「致知」2月号 境野勝悟さん大谷哲夫さん対談より)