hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

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告白

2020-01-31 13:32:00 | お話

🌸🌸告白🌸🌸


翌日の6月10日には、以前から母と会う約束をしていた。

さおりちゃんの宿題が僕の脳裏に引っかかっていた。

本当は父と話なんてしたくなかった。

父に本当のことなんて言いたくなかった。

でも、入院したらそのまま退院できないかもしれない。

入院したらどうなるかわからない。

ゆっくり話なんてする機会は、もうないかもしれない。

言うしかない。

やるしかない。

やるなら明日しかない。

父にも来てもらおう。

僕は覚悟を決めた。

中野から帰った晩、僕は実家に電話を入れた。

「明日、お父さんにも来てほしいんだけど」

「ちょっと待ってね」

パタパタと足音が遠ざかり、しばらくすると足音が戻ってきた。

「うん、お父さんも行くって言ってる」

「ありがとう」

僕は長男も同行させることにした。

おそらく父親としての時間は少ないだろう。

ならば僕がボロボロになる姿を、僕の情けない姿を、ありのままの姿を見せることが、今の僕にできる最後のことだった。

6月10日、僕は長男と2人で、待ち合わせた喫茶店に向かった。

しばらくすると両親がやってきた。

「大丈夫?」母は心配のあまり白髪が多くなっていた。

「痩せたな」父も心配そうに僕を見ていた。

「今日は来てくれてありがと。今日はね、入院前にぜひ話しておきたいことがあるんだ。父さんに」

父は緊張気味にうなずいた。

「実はね、この前カウンセリングを受けて、自分の感情を外に出すことが必要だってアドバイスされたんだ。

僕の話を聞いていろいろ反応したり、それは違う、とか言いたくなることもあると思うけど、

最後まで黙って聞いてほしいんだ」

「わかった」

「実はね、僕は、父さんからずーっと認められてないって感じていたんだ。褒められてもらった記憶がない」

「……」

「いつもああしなさいとか、こうしなさいとか、ここがダメだ、これが足りない、

まだまだ、まだまだって言われ続けて、すごく苦しかったんだよ」

「そうなのか」

「でもね、父さんはそれがあなたにとっていいと思って…」

横にいた母さんが父を気遣うように言った。

「うん、それはわかっている。でも今日は僕の気持ちを外に出すことが大事なんだ。

だから最後まで黙って聞いてほしいんだ」

僕は話を続けた。

「僕は、いろいろ強制されて、本当にイヤだったんだ。

あれしろ、これしろ、あれするな、これするなって」

子どもの頃の記憶が鮮明に蘇ってきた。

「小学生のとき、父さんに通知表を見せるとは本当にイヤだった。

なんだこれは、ちゃんと勉強してんのかって言われることがわかってた。

こんな成績じゃぁちゃんとした職業につけないって言われたし、

これがダメ、あれがダメって…。

ま、確かに体育以外は3ばっかだったから仕方なかったかもしれないけど、

でも死刑台に向かう囚人の気分だった」

父は、無言で話を聞いている。横にいる母が、心配そうにうなずく。

「今でも覚えているけど、小学1年生の夏休み、宿題ができていないからって、『マジンガーZ』の最終回を見せてもらえなかった。

宿題を終わらせてからにしなさい、って。

説明したのに聞き入れてもらえなかった。

たった30分だよ、30分。

宿題、必死で頑張ったけど間に合わなかった。

ほんとに毎週楽しみにしていたのに、結局、最終回が見られなかった。

本当に悲しかった。

あの時は再放送なんてなかったから、見ることができなかった。

あれから40年以上経ってるけど、結局見てない。

これは一生忘れられない。絶対に忘れない」

「それは、すまなかった」

父は小さくつぶやいた。

「他にも小学6年生のとき、持っていたマンガを手塚治虫以外全部捨てられたこと。

小遣いを貯めて買い集めたマンガも全部捨てられた。

ある日家に帰ったらマンガがなくて、本棚がスッカラカンになっていた。

あの空っぽの本棚は一生忘れられない。

他にもテレビを押し入れに隠されたこと。

あの日学校から帰ってみたら、テレビ台しかなかった。

テレビが消えていた。ショックだった。

何が起こったんだと思った。おかげで見ていた番組の続きが全部見れなかった。

学校の成績でも、習った剣道でも、褒めてもらった記憶が1つも、一回もない」

僕の心の奥底に住んでいる小さな子どもが声をあげていた。


お父さんはどうして僕を愛してくれないの?

僕はそんなにダメな子なの?

テストの点が悪いから?

落ち着きがないから?

学校で叱られてばかりだから?

忘れ物が多いかな?


父はうつむきながら言った。

「そんなに褒めて欲しかったのか。でも、私も父親から褒めてもらった記憶はないけどな…」

父は言った。確かに祖父も厳しい人だった。

「まぁ、時代的なものもあるかもしれないけど、これは僕の気持ちの話。

まぁ、僕もカウンセリング受けて初めて気づいたんだけどね。僕はね… 」


熱いものが胸の奥からせり上がってきて、

言葉に詰まった。

「『大好きだよ』って言って欲しかったんだ」

口にしたとたん、涙があふれた。

父が驚いて顔を上げ、僕を見た。

「ひと言でいいから、お前は俺の自慢の息子だ、って言ってほしかったんだ。

それだけ、それだけだったんだよ」

もう声にならなかった。

頭をよしよしってほめてほしかったんだよ。

ぎゅっと抱きしめて欲しかったんだよ。

褒めてほしかったんだよ。

認めてほしかったんだよ。

なんでかって?

…そう、僕は、…。

父が…、お父さんが、大好きだったんだよ!

父を大好きだった無邪気なときの気持ちがよみがえってきた。

そう、小さな僕は、お父さんが大好きだったんだよ!

だから、だから、父さんに褒めてもらえなくて、認めてもらえなくて、悲しかったんだよ!


深い心の中に隠されていた気持ちが、渦を巻いて吹き出していた。

僕はぐちゃぐちゃになった。

嗚咽で肺が苦しくなった。

涙で父の顔が見えなくなった。

涙が喉に入り、むせて咳が止まらなくなった。

横から長男がティッシュを渡してくれた。

「ただ、ただ、愛してるよ、そのままでいいよって、ひと言でいいから、言って欲しかっただけなんだよ」

言葉に詰まりながら、やっとのことで僕は言った。

父は僕の目を見て言った。

「健のことはもちろん、愛してるに決まってるじゃないか。そんなこと聞かれるまでもない。今回だって…」

そこで父は、言葉を詰まらせた。

「私が身代わりになりたいって、何度思ったことか… 」

父の目が赤く染まった。

初めて見た父の涙だった。

母も横で泣いていた。

そっか、僕は、愛されていたんだ…。

暖かいものが胸に流れ込んできた。

父は目を赤く染めながら言った。

「認めていたんだよ。仕事だってなんだって、ほんとに認めていたんだ。

たいしたもんだ、っていつもお母さんと話してたんだよ」

「そうなんだ…、今日は話を聞いてくれてありがとう、本当にありがとう」

最後に僕は言った。

「僕は父さんを許します。僕が前に進むために」


父だって反論したこともあっただろう。

それは勘違いだよ、と言いたいこともあっただろう。

しかし、父は何も言わなかった。

最後までひと言も反論しなかった。

僕は全て受け止めてくれた。

帰っていく2人とも背中を見ながら感じた。

出ていた…。何かとてつもなく重く、苦しく、痛いものが体から出ていった。

そしてその空っぽになった空間に、暖かいものが流れ込んできた。

胸が、身体が、信じられないくらい軽かった。


(「僕は、死なない」(ソフトバンククリエイティブ)刀根健さんより)

白いマフラー

2020-01-30 17:49:00 | お話

🏳️🏳️白いマフラー🏳️🏳️

 
2005年に『白きマフラー』(鉱脈社)という本を出しました。

戦時中、特攻兵だけが首に白いマフラーを着けることが許されていました。

私にとって忘れることのできない思い出がそのマフラーにあり、それで本のタイトルにしました。

私は特攻基地のあった宮崎の赤江海軍基地に勤務していました。

そこから385人の若者が飛び立っていきました。 

彼らが首に着けていた白いマフラーは軍から支給されたものではありません。

着けなくてもいいんです。

ただ、特攻兵は17歳から23歳くらいの若い方ですから、

死を飾るような想いからか、皆さん自然と着けるようになっていったのです。

~~~~

氏本成文さんという18歳の青年の方のお話です。

氏本さんは出撃の数日前、四国のお母様に「白いふんどし一枚と絹の白いマフラーを一本、送ってください」と手紙を書きました。  

その手紙を読んだお母様は思うところがあって、ふんどしとマフラーを持って宮崎の基地まで来られました。

当時は白い布なんて店にはありませんから、お母様はご自分が結婚した時に実家から持ってきた長襦袢(ながじゅばん)の糸をとき、

空襲警報下ですから、真っ黒な網をかぶせた電灯の下で、一晩中ふんどしとマフラーを縫ったそうです。

そして翌朝、あちこち空襲で鉄道が不通の中、乗り換え乗り換えしながら宮崎までやって来られたのです。


宮崎の基地に到着すると、基地の人が「今、練習中です。すぐ降りてきます」と言われました。

お母様は息子さんと会ってどれほど嬉しかったことでしょう。

そして、縫い上げた白いマフラーと白いふんどしを息子さんに渡しました。

でもその時、特攻機の飛行練習をしていたとは考えられない状況でした。

燃料もなく、空はもうアメリカ軍が支配していて、飛び立つとすぐに撃ち落とされてしまうほどの戦況になっていたからです。

きっとその時は天候が悪くて、出撃したけれども視界が悪くて何も見えず、
「無駄死にになるから引き返せ」と上官が命令したのだと思います。


マフラーとふんどしを受け取った氏本さんは、

「今日はもう練習はないので宿に帰って休んでいてください。今夜行きますから」

と言いました。

お母様は旅館に戻られました。

2時頃だったそうです。

これが親子で交わした最後の会話になりました。

氏本さんは、視界が晴れたその1時間後、

特攻機に乗って基地を飛び立って行かれたのでした。

氏本さんは、きっと飛び立つ姿をお母様に見せて悲しませたくなかったのだと思います。

だから「旅館で待っていてください。今夜行きますから」と言ったのだと思います。

そして氏本さんは、魂になって、その夜お母様のところに行かれたのだろうと私は思っています。

その後、お母様は95歳まで長生きされましたが、

「あの日のことが人生で一番つらかった」

とおっしゃっていたそうです。

私はお母様の気持ちが痛いほど分かります。

宮崎の基地で実際にあったお話です。


(「日本講演新聞(旧みやざき中央新聞)1/17 2821号 語り部 安田郁子さんより)


承認することの大切さ

2020-01-25 21:34:00 | お話

🌸🌸承認することの大切さ🌸🌸


一昨年、漫才日本一を競うM-1 グランプリに、かつてない芸風のコンビが登場した。

ボケ役のシュウヘイとツッコミ役の松陰寺太勇(たいゆう)のコンビ「ぺこぱ」である。

成績は3位に終わったが、

審査員から「新しい漫才」「平和的で気持ちよかった」とか高く評価されていた。

何が新しくて平和的なのかと言うと、

従来の漫才では、ボケ役のセリフに対して、ツッコミ役は

「何言うてんねん」とか「いい加減にせい」

など否定的に返していたが、

松陰寺は相方から何を言われても、何をされても、

肯定的に返していくのだ。

タクシー運転手役のシュウヘイが「ブーン」と言いながらやってくる。

松陰寺が「ヘイ、タクシー」と言うと、

タクシーは「ドーン」と松陰寺にぶつかる。

松陰寺は「どこ見て運転してんだよ」と言った後、

「そう言ってる俺は無事でよかった。無事が何より」

と喜ぶ。

二度目のシーン。

再びシュウヘイが「ブーン」と言いながらやってくる。

「ヘイ、タクシー」と手を挙げている松陰寺に「ドーン」とぶつかる。

松陰寺は言う。

「2度もぶつかったってことは、俺が車道側に立っていたのかもしれない。

誰かを責めるのはやめよう」

言ったことが否定されずに受け止めてもらえると気持ちがいい。

審査員が言った「平和的な漫才」とはこういうことなのだろう。

その逆はどうだろうか。

作家の寮美千子さんは、その日、明治時代に建てられたレンガ造りの施設で開催された展示会に出かけた。

そこで1枚の美しい水彩画に見せられた。

一つひとつの色が微妙に違う。

寮さんは思った。

「几帳面すぎる。こんなに細かい神経の持ち主だったら、世間にいた時、さぞかし苦しかったのではないか」

それは、奈良少年刑務所で開催されていた矯正展でのことだった。

「振り返りまた振り返る遠花火」

という俳句にも寮さんは胸が締めつけられた。

「なんと端正な、抒情的な句なんだろう。

この子は鉄格子の窓から花火を見たのだろうか」

と寮さんは思った。

教官が声をかけてきた。

「ここにいる子たちは、おとなしかったり、引っ込み思案な子たちがほとんどです」

寮さんは、自分は作家であり、詩を作ったり朗読をする教室をやってきたことを話し、

「お手伝いできることがあればやります」

と言って教官に名刺を渡した。

この出会いが寮さんの人生を変えた。

翌年の2007年7月、「絵本や詩を使った教室を開きたい。ぜひ講師に」

と、奈良少年刑務所から電話があったのだ。

実はその年の6月、100年ぶりに監獄法が改正された。

それはそれまでは社会復帰後のために実習でいろいろな技術を教えてきたが、

法改正により職業訓練が困難な軽度知的障害者や精神疾患がある受刑者のために情緒的な教育を施すことができるようになった。

その講師を依頼されたのだった。

少年刑務所は、保護施設の少年院と違い、殺人や性犯罪など、刑事事件で実刑判決を受けた未成年の子どもたちが収監されている。

詳細は寮さんの著書『あふれでたのはやさしさだった』(西日本出版社)に譲るとして、

寮さんは最初の授業でアイヌ民族の親子を題材にした絵本『おおかみのこがはしってきて』(ロクリン社)を使った。

受講生の片方が父親役、片方が子ども役になって朗読劇をする。

子どもは父親に質問する。

父親はどんなことを聞かれてもちゃんと優しく答えてくれる。

全員これをやった。

全員が最後まで読めた喜びを味わった。

「たったこれだけのこと」で、少年たちは自信を獲得したようだった。

寮さんは「かすかな自己肯定感が芽生えた」と確信した。

彼らは幼少期から、何を言っても受け止めてもらえない家庭で育った。

常に大人から否定され、叱責され、攻撃されてきたという。

だから教官たちは、「否定しない」「注意しない」「指導しない」「ひたすら待つ」など、全承認の場を作っていた。

否定されない環境の中で初めて心を開き、少年たちは自ら成長していくというのだ。

「マスコミで目にする凶悪な少年犯罪は社会に表出した最悪の結果だけ」

と寮さんは言う。

かつては被害者だった少年たち。

今日も壁の向こう側で彼らの心に寄り添っている大人がいることに敬意を表したい。


(「日本講演新聞」(みやざき中央新聞)1/20 2820号 水谷もりひとさんより)

蕎麦の食べ方

2020-01-24 19:13:00 | お話

🍜🍜そばの食べ方🍜🍜


大学生の頃、浅草の「弁天山美家古(べんてんやま みやこ)寿司」の4代目の親方と、そば屋さんに行ったときのことです。

「やまちゃん(山本さんのこと)な、そばっていうのは『食う』とか『すする』とは言わねえんだ。

『たぐる』っつうんだぞ」

「たぐる」とは、綱をたぐり寄せるように「両の手を互い違いに使う」という意味だそうです。

お店に入ると、親方はせいろそばを頼みました。

出てきたそばは、ざるの網み目が見えるくらい少量でした。

そこにそば猪口と徳利、小皿の中にはおろしたてのわさびと刻みたてのネギが添えられていました。

私はいつものように徳利からおつゆを全部注ぎ入れ、

薬味を入れようと手を伸ばした時、

親方がいました。

「やまちゃん、何すんだい」

「えっ、何って、薬味を入れておそばをいただくところです」

親方は言ました。

「あのな、お猪口と徳利とか別々に出てきてるってことをよく考えないといけないよ。

戻しな戻しな」

って。

そして、

「そばつゆってぇのはこんなもんでいいんだ」

と見せられたのは、お猪口の底が見えるくらいのおつゆでした。

「全部注いじまうんだったら徳利なんていらねぇんだ。

これは継ぎ足し継ぎ足し注ぐもんだ」

って。

つまり、おつゆを全部入れてしまったらそばを「だくれない」のです。

「たぐる」ために、そば4、5本じゃないといけないわけです。

「薬味はそば湯の時に使うんだ。

おそばは香りを楽しむんだ」って。

「なるほど」と思いました。

そしてそばを食べ、「ごちそうさまでした」と言うと、今度は「きれっぱしが残ってるじゃねぇか」

と言われました。

「でもこれ、網目に入っているので取れません」

と言うと、

「箸をまっつぐ立ててみろ」

と言われました。

「まっつぐ」とは江戸弁で「垂直」という意味です。

親方に言われた通り垂直に箸を立て網目に挟まっている切れっ端のそばも食べ、

最後におつゆにそば湯を入れていただきました。

私はこの時初めて、

「料理をいただくというのは、作る人の気持ちを考えながら食べるものなんだ。

『美味しい物を食べる』んじゃない、『美味しく食べる』んだ」

と教わりました。

料理人は師匠がいいますが、食べ方を教えてくれる師匠はいません。

みんな「勝手に」食べています。

でも実は、「食べ方」というのがあるんです。

以来私は、「料理を作った人の気持ちを考えながら食べる」ということを何よりも大事に考えるようになりました。


(「日本講演新聞」(みやざき中央新聞)1/20 2820号 山本益博さんより)

描こうとすれば遠ざかる

2020-01-22 23:47:00 | お話

🌸🌸描こうとすれば、遠ざかる🌸🌸


そのことだけは、はっきりとわかっていた。😊

マンション🏢に帰ってきてから、僕はすぐに制作を始めた。

目の前には、花🌸と画仙紙🗒だけだ。

乾いた筆🖊を持ち上げ、筆洗につけ穂先を湿らすと、水💧の中にいくつもの気泡が現れた。

筆がわずかに重くなる。

その重みに懐かしささえ感じた。💓

水💧を思いっきりすった筆の穂先を梅皿の縁で整え、筆をとがらせた。

筆🖊は心💓と一緒に少しずつ研ぎ澄まされていく。✨

最後に、布巾で穂先の中に残った余分な水分💧を吸いとると、

自分がこうして筆をとる瞬間⚡️を待ち望んでいたことに気がついた。🌟

人差し指と中指は筆管の感覚🌸を確かめている。

僕は一度、筆を梅皿に立て掛けて置いた。

陶器を軽く叩く、カタンという音🎵の後にやってきたのは、

筆の所作に沿って研ぎ澄まされた感覚✨だった。

僕はいま確かに絵師🖊なのだ。

だがいま、大切なことは描くことではない。

二つの目👁で花🌸を眺め、同じように自分の心💓を眺める👁ことだ。

大切🍀なものを眺めていた余韻は今も続いている。

菊🌸も、心もいまはっきりと見える。

湖山先生は、花🌸に教えを請いなさい🙏、と繰り返し🔄言っていた。

僕は、湖山先生の言葉🍀に従って、花🌸に思いを傾けた。

白い菊を見つめていると、白い菊もまたこちらを見て👁いるような気持ち💓になった。

「どうしたらいいんですか?」

と、僕は花🌸に向かってつぶやいていた。

花は何も答えてくれなかった。

花🌸はただ花瓶の縁に寄りかかって、退屈そうにうつむいていた。

僕はふいに、首を傾けて花を眺めた。

すると、まるで違う角度から花🌸が見え、

花もまた違う角度に移動した僕を見ているような気がした。👀

僕はうつむいた花🌸の横顔を眺めた👀。

それは正確には横顔ではないかもしれなかった。

ただ、僕の中では確かに花🌸は、僕から目をそらし、

そっぽ向いているようで、少しつまらなそうに見えた。

僕は花🌸を手に取った。

そして、隅から隅まで花を眺め、

花の重さを手に感じ💓、優しく丁寧に花瓶に戻した。

花は少し落ち着いているように見えた。😊🎵

描くことを忘れるくらい、じっくり👀と花を見つめていると、

花はまるで、くつろいで💕いるようにも思えた。

僕は花に向かって、微笑んで😊みた。

すると、花🌸もまた微笑んで😊いるように見えた。

形は何一つ変わっていない。

ただ微笑んで見えるのは、僕の心💓の内側に微笑と同じような心💓の動きが立ち現れているだけだ。

けれども、それは花🌸と同じ形になって花に投影され、心💓の移り変わりと一緒に消えていく。

目の前にある小さな命💓に、自分の心💓が呼応🌸しているのだ。

それはあまりにも微細で、感じ取ろうとしなければ見逃してしまいそうな細やかな変化⚡️だった。

僕は花にじっと目👁を凝らした。

そして、目😑を閉じた。

真っ白な空間の中に、一本の菊🌸だけが浮かんでいる。

それは僕の心💓の内側にある僕だけの菊🌸の姿だ。

そして目を開けると、目の前にある生きている菊🌸は、

その姿とはほんの少し異なって⚡️いる。

菊🌸は僕の心💓の中にあるそれとは、違う存在感✨で、僕の目👁の前にある。

この瞬(またた)く間に、花🌸の心💓は移ろい、僕の心💓も移ろっていたのだ。

現象🌸に対して手は遅すぎる、と湖山先生🍀が言いたかったのは、このことだった。🌟

命💓としての花🌸も極限のところでは、刻々と姿を変えて⚡️いるのだ。

確かに、僕らの手は現象🌸を追うには遅すぎる。😵

目👁が極まれば極めまるほど、その違いは大きくなる。

命💓とは、つまるところ、

変化し続けるこの瞬間⚡️のことなのだ。

では、どうすればいいのか。🍀

考えたときにすぐに思い浮かんだ言葉🍀は、やはり湖山先生のあの、

「花🌸に教えを請いなさい」

という言葉🍀だった。

湖山先生は花🌸を描くとは言わなかった。

それは現実🌸を描くことでも、現象を追跡⚡️することでもない。

ましてや、技の中にある形式化された独りよがりな花🌸を描くことでもない。✊

花に教えを請う🙏ということは、
一枚の絵🎨を花🌸と一緒に描く🖊とうことだ。

花に、絵を描かせてもらう、と言ってもいい。

僕は一輪の白い菊🌸を愛おしく💕思った。

ほかにはどこにもない美しい花🌸だと思い、

とても大切🍀なものが、目の前に置かれているのだと思った。

自分以外の命💓がそこにあるのだという確かな実感💓を、目を通して感じて💕いた。

どうしてずっと気づかなかったのだろう?😄

たった一輪の菊🌸でさえ、

もう二度と同じ菊🌸に巡り会うことはないのだ。

たった一瞬⚡️ここにあって二度と巡り会うこともなく、

枯れて、失われていく。

あるとき、ふいにそこにいて、

次の瞬間⚡️には引き止めることさえできずに消えて☁️いく。

僕はそのことを誰よりもよく知っているはずだった。

命💓の輝き✨と陰りが、一輪の花🌸の中にはそのまま現れているのだ。

僕の心が、小さな感動💓の前に立ち止まった。

僕が生まれたことと、僕が見送った命と、僕が思っているこの時期、束の間の時間の中で、

僕にできる事ことは、ただこうして愛おしむ💕ことだけのようにも思えた。

白い菊🌸の心に僕の心💓が近づいていくのがわかり、

白い菊🌸が一瞬⚡️だけ微笑んで😊くれたような気がした。

僕の心❤️は、そのとき大きく動いた💕。

僕は筆🖊をとった。

僕の手は命じられた⚡️かのように自然🍀に調墨を始めていく。

淡墨を含ませ、中濃度の墨をわずかに吸わせ、

濃墨を穂先にわずかに噛ませ無限の色彩そのものを小さな穂先の中に作っていく。

調墨の手順はいつも同じだ。🌟

これまでだって何度も調墨を行ってきた。

だが、これほど自然🍀に手が動いたことはなかった。

硯の平らな面で穂先を尖らせ、

硯から画仙紙の上まで筆の穂先が自然🍀に持ち上げられ着地するまでの瞬く間を、

とてもゆっくりと感じだから、もう恐れなかった。

僕の手はいつもと同じ、自然🍀な形をしていた。

まるでお箸を握っているときのような自然🍀な所作だった。

あの微(かす)かな重みを感じるよりもはるかに繊細に、調墨された穂先の重みを感じて💓いた。

心❤️が解き放たれた今ならわかる。

これでいいのだ。😊🌟

穂先も震えていない。

導かれるように腕は動き、僕の人生🍀のすべてが、

心地よくして自然な所作で進んでいく。

命💓は心の内側で動き続けている。

穂先ももうすぐ着地する。

心の内側には菊🌸が生きて微笑み、

真っ白い部屋の中にいるようで、真っ白な画仙紙の中に入るように、

無駄なものは何もない。

自分の内側に次々と生まれてくる現象🌸の、
感動💓の、最初の瞬間⚡️を、

穂先は、このごく自然🍀な動きで捉えていくのだろう。

生涯でたった一度しか現れない筆致に変えていく。

それだけでいいはずだった。🌟

僕は微笑み😊かけてくれている一輪の花🌸を感じていた。

もう目に映っているのか、心に映っているのか、

画仙紙の上に映っているのかもはっきりしない。

だが、白い菊🌸は、さっきよりも、ずっと美しい✨。

「美の祖型✨を見なさい」

と湖山先生🍀が言っていたのはこのことだった。

それは命💓のあるがままの美しさ✨を見なさい✊ということだ。

こうして花🌸を感じて、絵筆を取るまで何もわからなかった。😵

水墨とはこの瞬間⚡️のための叡智🌸であり、技法⚡️なのだ。

自らの命💓や、森羅万象🌲の命💓そのものに触れようとする想いが絵に換わったもの、

それが水墨画だ。

花🌸の命を宿した一筆目を僕は描いた。

穂先の重みは画仙紙🗒の白い空間の中に柔らかく溶けながら、

移しかえられた。☁️

心💓がそっと手渡されるように、
命💓は穂先から、紙🗒へ移った。

心💓の動きが体に伝わり、

身体の動きが指先👉に伝わり、

指先は筆を操るわずかな圧力を使って、
画仙紙という不安定で白い空間に向かって消えて☁️いた。

それは、たった一瞬⚡️だった。

だが、それは、ここに至るまでのあらゆる瞬間⚡️を秘めた一瞬⚡️であり、

一筆🖊だった。

菊🌸の芳香と墨の香りが部屋🚪を満たしていた。😊


(「線は、僕を描く」(講談社)砥上裕將さんより)