東日本大震災2カ月 原発安定に総力戦 「想定外」からの防衛(産経新聞) - goo ニュース
今回の原発事故は私たち技術の仕事に携わる者にとって考えさせられることの多い事例です。
科学技術を以って人類の幸福に貢献することをモットーとするのが技術者の本能のようなもの。
しかし、その科学技術が地域住民の敵となってしまっているのだから
正直いたたまれない気持ちと、敗北感が漂っております。
私自身は原子力発電とは無縁に近い分野を生業としておりますが、
だからと言って自分が今回の事故とまったくの無縁だとは思いたくはありません。
というのも、重電とはいえ原子力発電は科学技術の集合体であり、
この分野すべてを網羅できる技術者も存在していないからです。
極言すれば事故対策の不備は技術者全員で分かち合うべきだと思っており、
少なくとも、自らの敗北は認めるべきです。
技術者であろうとするなら、なおさらです。
そして、この敗北から何を学ぶべきか考えていきたい。
今回の事故で一番考えされたのは「リスク管理」でした。
「想定外」という言葉は技術者ならば禁忌に近い言葉です。
想定できる能力を備えているからその道の専門家として遇されるわけで、
想定できないのは無能の証です。
しかし、想定したものをすべて対策しなければならないわけではありません。
例えば道を歩くときに、転んで怪我をするかもしれないからと言って、
膝や肘にサポーターを巻いてヘルメットをして歩いている人を見たことを、私はありません。
転倒しやすいお年寄りならまだしもですが。
しかし、自転車に乗る際はヘルメットの着用は義務です。
何故なら、徒歩と自転車とでは転んだときの損害の大きさが違うからです。
徒歩で重装備することは、事故後のリスクよりも利便性の喪失の方が大きいということ。
言ってみれば、経済性による判断です。
同時に、自転車に乗る際には多重の防御策を講じることで、リスクを大幅に減じることが出来ます。
常に左側通行をする。
信号を守る。
自転車用道路を最大限利用したルートを通る。
薄暗くなったらライトを点灯する。
傘さし運転やケータイをしながらの運転をしない。
どれも当たり前のことですが、これらを守るだけでヘルメット着用以上の安全性を得られます。
しかし、ヘルメットをかぶる事で安全性はその乗数で効いてくるわけです。
(ちなみに私は歩くときでも薄暗くなったら鍵にぶら下げているLEDライトを点灯しています。)
基本は自転車の運転も原子力発電所の運転も同じ。
防御を多重化することで、事故の可能性や事故の際の際の被害を最小限に出来ます。
ただし原子力発電の場合、フォールトトレランスが難しいということが対策を難しくしております。
例えば車の運転中にエンジンが壊れたら、おそらく自然停止するはずです。
エラーが生じた場合、装置全体が安全な方向に停止する設計思想がフォールトトレランスです。
逆に急加速したら事態は最悪ですね。
一方、それが難しい事例もあります。
例えば飛行中の飛行機のエンジンが止まった場合、最悪落っこちます。
空を飛んでいる以上、安全に停止することはありえません。
(そうならない様、一機くらいエンジンが停止しても
ジャンボジェット機は飛び続けることが出来るよう設計されているとか。)
原子力発電の場合、電源が止まったら暴走を止める手段がないこと元から分かっておりました。
そのための対策は取っていたのですが、今回のケースはその見通しが甘かったのでしょう。
津波が起きることは分かってもその大きさを過小評価していたのか?
それとも、津波による原子力発電所に与える被害を過小評価していたのか?
どちらかと言うと私は、津波による電源喪失を想定したけれども、
事故が起きた後の事態の大きさを想定しきれていなかったように思えます。
経済性を理由に対策を取りやめることは必ずしも悪いことではありません。
理由は先ほどの徒歩と自転車の例えの通りです。
しかし、事故が起こった後で「対策をしておくべきだった」と言うのは卑怯。
その”ツケ”は、対策を講じなかった人達とそれに関与した人達がかぶらなければなりません。
その”ツケ”の大きさを考えた場合、どちらが見合うかを考えるのが技術者の仕事であり、
例え相手が経営のトップと言えども、進言するべきは進言しなければなりません。
もっとも今回の事故の場合、
進言をするシステムとそれを受け入れるシステムがあったのか?
あったとしてもそれがキチンと機能していたのか?
それが、問題の根本だったように思えます。