にうすと日常について考えてみた

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リスク管理

2011-05-12 05:24:19 | Weblog

東日本大震災2カ月 原発安定に総力戦 「想定外」からの防衛(産経新聞) - goo ニュース

今回の原発事故は私たち技術の仕事に携わる者にとって考えさせられることの多い事例です。
科学技術を以って人類の幸福に貢献することをモットーとするのが技術者の本能のようなもの。
しかし、その科学技術が地域住民の敵となってしまっているのだから
正直いたたまれない気持ちと、敗北感が漂っております。

私自身は原子力発電とは無縁に近い分野を生業としておりますが、
だからと言って自分が今回の事故とまったくの無縁だとは思いたくはありません。
というのも、重電とはいえ原子力発電は科学技術の集合体であり、
この分野すべてを網羅できる技術者も存在していないからです。
極言すれば事故対策の不備は技術者全員で分かち合うべきだと思っており、
少なくとも、自らの敗北は認めるべきです。
技術者であろうとするなら、なおさらです。
そして、この敗北から何を学ぶべきか考えていきたい。


今回の事故で一番考えされたのは「リスク管理」でした。
「想定外」という言葉は技術者ならば禁忌に近い言葉です。
想定できる能力を備えているからその道の専門家として遇されるわけで、
想定できないのは無能の証です。
しかし、想定したものをすべて対策しなければならないわけではありません。

例えば道を歩くときに、転んで怪我をするかもしれないからと言って、
膝や肘にサポーターを巻いてヘルメットをして歩いている人を見たことを、私はありません。
転倒しやすいお年寄りならまだしもですが。
しかし、自転車に乗る際はヘルメットの着用は義務です。
何故なら、徒歩と自転車とでは転んだときの損害の大きさが違うからです。
徒歩で重装備することは、事故後のリスクよりも利便性の喪失の方が大きいということ。
言ってみれば、経済性による判断です。

同時に、自転車に乗る際には多重の防御策を講じることで、リスクを大幅に減じることが出来ます。
常に左側通行をする。
信号を守る。
自転車用道路を最大限利用したルートを通る。
薄暗くなったらライトを点灯する。
傘さし運転やケータイをしながらの運転をしない。

どれも当たり前のことですが、これらを守るだけでヘルメット着用以上の安全性を得られます。
しかし、ヘルメットをかぶる事で安全性はその乗数で効いてくるわけです。
(ちなみに私は歩くときでも薄暗くなったら鍵にぶら下げているLEDライトを点灯しています。)

基本は自転車の運転も原子力発電所の運転も同じ。
防御を多重化することで、事故の可能性や事故の際の際の被害を最小限に出来ます。
ただし原子力発電の場合、フォールトトレランスが難しいということが対策を難しくしております。

例えば車の運転中にエンジンが壊れたら、おそらく自然停止するはずです。
エラーが生じた場合、装置全体が安全な方向に停止する設計思想がフォールトトレランスです。
逆に急加速したら事態は最悪ですね。
一方、それが難しい事例もあります。
例えば飛行中の飛行機のエンジンが止まった場合、最悪落っこちます。
空を飛んでいる以上、安全に停止することはありえません。
(そうならない様、一機くらいエンジンが停止しても
ジャンボジェット機は飛び続けることが出来るよう設計されているとか。)

原子力発電の場合、電源が止まったら暴走を止める手段がないこと元から分かっておりました。
そのための対策は取っていたのですが、今回のケースはその見通しが甘かったのでしょう。
津波が起きることは分かってもその大きさを過小評価していたのか?
それとも、津波による原子力発電所に与える被害を過小評価していたのか?
どちらかと言うと私は、津波による電源喪失を想定したけれども、
事故が起きた後の事態の大きさを想定しきれていなかったように思えます。

経済性を理由に対策を取りやめることは必ずしも悪いことではありません。
理由は先ほどの徒歩と自転車の例えの通りです。
しかし、事故が起こった後で「対策をしておくべきだった」と言うのは卑怯。
その”ツケ”は、対策を講じなかった人達とそれに関与した人達がかぶらなければなりません。
その”ツケ”の大きさを考えた場合、どちらが見合うかを考えるのが技術者の仕事であり、
例え相手が経営のトップと言えども、進言するべきは進言しなければなりません。

もっとも今回の事故の場合、
進言をするシステムとそれを受け入れるシステムがあったのか?
あったとしてもそれがキチンと機能していたのか?
それが、問題の根本だったように思えます。


中電の決断

2011-05-09 18:07:31 | Weblog

浜岡原発、首相の要請を受諾…運転停止へ(読売新聞) - goo ニュース

おそらく、中電がこのまま浜岡原子力発電所の運転を続けたとしても
事故を引き起こす可能性はすこぶる少ないだろうと思います。
たとえ東海地震が発生したとしても。

しかし、すこぶる少ないはず事故が福島第一原発で最悪の事態を引き起こしてしまい
地元の人たちの生活を根底から覆してしまったのを目の当たりにしてしまった以上
有効な対策が完了するまでは運転を見合わせることは仕方がないだろうと思います。
何せ事故が起こったときの備えがハード、ソフトともに不足していることが暴露されてしまいましたから。

ハード面に関しては、
「想定外」ではなく、今後同じ規模の地震を「想定内」とした上で耐えられる構造であることが必須であり
特に甘かった津波対策を拡充させなければなりません。
(2年なんていわずに緊急に防潮堤を建設するなどの対策案をして欲しかった。)

しかし、それ以上にソフト面は脆弱でした。
何より事故が起きた時の指揮系統と事故後の対応フォーマットは
明確な基準がまったくと言っていいほど無かったせいで、対応が行き当たりばったりでした。

そして事故後の事故補償。
東電にしても企業の補償は有限であり、それを超える分は政府保証だと思っていたのが
そうでなくなりそうになったのだから
「約束が違うよぉ~」
と、言いたいのを我慢しているのではないでしょか?

私たち国民にしたって、
原発がクリーンで安全であることのPRをずっっと見せられていたのに
今の状況は決して安全でもクリーンでもありません。
こんなものの後始末に血税を支払わなければならないのは、納得しがたい。
正直、無駄なPRをしてきた人たちには真っ先に責任を負ってもらいたい。
ついでに言えば、PRに関与した人たちにはギャラを全部吐き出してほしいような気もします。
(電力のPR活動には官民併せて年間2000億円以上投じられていたとも・・・・)

政府は停止要望するだけで、事故後の責任を放棄できるのだから、ある意味気楽です。
しかし、民間企業である中部電力は利潤をあげる事が必務であり、
好き好んで単価の高い燃料にしたいはずはありません。
でも、前述のとおり、政府は本来取るはずの責任を取ることをやめてしまいました。
結果として、リスクを含めた場合の原子力発電のコストは算出不能なくらい高コストになってしまいました。
もはや原子力発電をを続けることすら難しい状況かもしれません。

今回の政府のやり方は、
原子力発電を廃止に追いやる覚悟も今後も推進していく覚悟もあったとは思えず、
単に止め易かったから要請したという印象はぬぐえません。
政府の決断には、ある意味無責任にすら見える打算性しか窺えませんが、
中部電力の決断は苦渋の中の決断であったことを考えると
多少なりとも敬意をはらっても良いのではないでしょうか?

もっとも、
今回の運転停止の決断は原子力発電との決別をも意味しているのではないか
という懸念もありますが・・・・