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辻総合研究所ーTsuji Consulting

パリと東京を中心にして素敵な出会いや、いろんな地域の暮らしや文化、経済、新しい夢に向かっての動きをお伝えします。

コンゴ民主共和国ー紛争後の開発

2007-06-18 00:19:28 | Weblog
緊急避難は、FAO本部で、国連の安全トレーニングをうけていったが、実際には、大変だった。予期せぬことがあり、人質、隔離、誘拐、事故、病気、テロロストにであったときどうするか、たべものにあたったとき、あるいは、病院がちかくになく、事故やけがにあったときどうするか、さまざまな場面を想定しているが、実際に、緊急避難はとっさには判断できない。空港も民衆はおそってくるから、コンゴのアシスタントと一緒であればおそわれないから、北のほうへ逃げたほうがいい、コンゴブラザビルのほうへにげたらどうか、湖があるから、船でいける、などなど、情報が錯綜した。モエマは、空港から逃げようといいだす。でも、わたしは、長くアフリカにすむアジア人の友人からの電話をうけた。ホテルと、空港は安全だ。迎えがくるまでじっとして待つように、忍耐、水はあるかの問いに、水はあるが、たべるものはない、というと、今日中に、助けがくるだろうから大丈夫だ。絶対に空港からでてはいけない、銃殺される。まつしかない。何回もの電話をうけて、夜9時すぎ、暗くなってから、わたしとコートジボワールの医師と一緒に緊急避難を行うという国連のキンシャサの決定がでて、医師をさがし、荷物をちかくへまとめ、ベルギー人のコンサルタントもいて、一緒に避難の準備。コートジボワールの医師は、前にもありました、と語る。車がきた、さーとでていき、民間の車で、農作物を運ぶような小さなトラックだ。女性は私一人。前の席にのるようにいわれた。荷物はシートの下にかくし、両脇に、国連軍兵士が銃をもって、安全確保。私の横に、ぴたーと2人がすわり、あさって、パリいきのエアーフランスにはのれるか、ときくと、明日のこともわからに、ここは内乱だ。今から30分後にあなたが生きているという保障はない、今から車で空港から街までつっきるが、ストップしない、でも銃撃されれば、銃撃しないといけない、今は夜だから、チャンスはある、といわれ、からだが硬直し、走馬灯のようにいろいろなことがよみがえった。ああ、開発途上国での希望をしたがここで死ぬのかもしれない、とおもった。ベルギー人は白人なので、後ろの座席のしたにスーツケースをおき、国連軍兵士の指示でいくつかのスーツケースのしたに隠れる形にして、コートジボワール人医師とモエマはコンゴ人で、黒人なので、国連軍兵士10人くらいのなかに、からだを兵士のように外にむき出しにした形で出発した。
このようにして行われた緊急避難は、30分くらいだった。途中で、隣の兵士からこわいか、ときかれ、もちろんだとこたえたが、何回は銃を外にむかたが、発砲せずに国連の事務所へ到着した。そこからまたホテルへわかれて、直行。メームリングホテルについたのは夜中だった。なかなか眠れない。日本大使館から電話がある。報告する。父へ電話してもらうよう頼む。

スーツケースを預けて行ったイタリア人同僚、マッシモの自宅がおそわれたときき、スーツケースはあきらめたほうがいいといわれた。でも、帰りの空港券、現金、資料、本がはいっていて、資料と本はもう二度とここはくることはないから、とコンゴ人現地コンサルタント2人にたのみこみ、普通の車でいってもらった。一緒にいくというと絶対だめだ、あぶないといわれた。ホテルで待機しているあいだに、スーツケースをもってあえってきた。感激した。今でも電話がなると、びくっとする。あのころがよみがえる。でもローマにかえり、緊急避難の際のショックでしばらく、仕事が前のようにできなかった。報告書をかくのに時間がかかったが、かきおえたのが、2004年の9月だった。


コンゴ民主共和国ー戦争と開発

2007-06-18 00:12:40 | Weblog
4週間弱の出張だったが、ルワンダへも足をふみいれた。エチオピア、ドイツをとおりローマへかえってきた。
いったいあの戦争はなんだったのだろう。あるいは、今でも問題のつづくアフリカでなにができるのだろうか、という基本的な問いにかえっていく。小さなことがアフリカ開発に関わっていくのだろうが長い時間がかかるし、津波地震災害後で、
ムジマイからキンシャサの空港につき、空港は閉鎖。国連職員をねらっているという情報もながれた。コートボワールの医者とベルギーも国際コンサルタントとわたしの国内出張に同行してくれたコンゴ人アシスタント。モエマというコンゴ人アシスタントは、わたしの国内ミッション3つのうち2回同行し、調査、会合、日本の資金でのFAOのプロジェクトの受益者へのインタヴューなどで、コンゴのフランス語はまた違うため、理解できないところがありずいぶん助けてもらった。
コンゴ民主共和国では、研修ということもあり、長く国際機関に勤務したいわたしの希望もあり、引き受けた。
キンシャサ空港閉鎖で、飛行機が、お昼ごろついたとき、待合室でまつようにいわれ、大使館殻30分おきに電話がある。FAOの本部もコンゴキンシャサFAO事務所へ電話をしたとあとでしった。はじめての国連(短期職員)のスタッフとして、青いパスポートを持ち、外交官として出発したが、強烈な体験になった。国連の名前がかかれてある、車だと、すぐにみつかり、銃撃されるから、民間の車で迎えが来るまでの長い時間。

モエマのほうがおろおろしていて、家族に電話をしていた。わたしは、携帯の電話のバッテリーがきれて、空港で電源をさがして、やっとつながった。


イタリア人の友人とーソレントとナポリ

2007-06-17 23:57:33 | Weblog
ソレントとナポリーガエタナの家族との出会いー

ガエタナ、初めてのイタリア人の友人だ。イタリアで家族を尋ねる機会がもてた。
フランスは10年ちかくすみ、何人かの友人に招待されたし、家族のようなつきあいになっているひともいる。一方、イタリアは、バングラデッシュへ行く前に3週間ほど、旅行したが、それはイタリアルネサンスを本でよんだが、実際美術館へいって、自分の目でたしかめたかったためだ。その後、イタリアへは数回いったが、いずれも旅行で、ヴェネチア、ローマ、フィレンツェ、カプリ、ナポリ、ソレント、トスカーナ地方へいき、それぞれ10日から2週間はかけて、朝早くからおきて、フィレンツェの、ウフツイ美術館に通い、ローマもあるけるだけあるいて、バチカン美術館も3回くらいいった。

イタリアローマにすんだのは、2003年11月上旬から、2005年5月上旬までの、1年半だった。その間、国連の食糧農業機関で、仕事をしたので、国連のレッスンで、イタリア語もまなんだがミッションで、中断。フランス語にかけてきた情熱に比べるとイタリア語は、会話ができるほどではないし、それもあって、イタリア人との交流、会話は困難だった。仕事場では99%英語の世界でこれも、悩みの種だった。

ある日、福井の母から電話とFAXで、ガエタナというイタリア人女性が鯖江の国際交流会館ではたらいているという話をきいて、日本語をナポリで勉強し、日本語は達者だという。それで、EMAILのアドレスをきいて、妹に連絡した。

2004年の1月2日から4日まで、
2泊3日の小旅行をした。ガエタナとパウロという友人がナポリ駅まで迎えにきてくれた。
ジュウジという妹と両親にであったにはソレントの太陽がふりそそぐ、家のなかだった。

きれいに整えられた家。専業主婦のお母さんは働き者で、料理じょうず。海の幸のリゾットと、テイラミスのつくりかたを教えてもらった。

ガエタナがうまれるまでは、船乗りだったおとうさん。イタリア人男性だからもっとおしゃべりかとおもったが、ガエタナと、お母さんとジュジの3人で話すのをきいていると、いるとかしまし娘という言葉が浮かんできた。とまったのは、ガエタナのおへやで、いつももはジュウジは眠るベッドを借りた。

ナポリをガエタナと2人でいった。ソレントの街は靴とかばんで、有名だ。小さなかばん、大きな旅行かばん、あるいはポシェットなど、かわいいいものから、しっかりと一生使えるものまである。イタリアは靴とバッグでは世界一だといわれる。
ナポリでは、映画で有名なナポリの回廊や、卵城をみた。お城から見る、ナポリと、ナポリを見て死ね。といわれるのは、前になぜだろうかとおもったが、しかし、ナポリの市街をからみると夜景もきれいだし、今回はいけなかったが、カプリモンテという美術館は、数年前にき、フランスのルーブル、スペインのプラドに並んで個人的好みからいえばお気に入りの美術館だ。

ガエタナとみた海とヴェスビオ火山。ヨットの練習なのか、多くのヨットがいっせいに、海奥深く、走っていった。

ガエタナと日本語では話をしながら、家族、日本、イタリア、鯖江のことや、ローマでの仕事やアパートのことを話し、ソレントからナポリまで1時間弱で、時間をわすれたイタリアナポリでのお正月だった。

太陽と、海がすぐちかくにあり、いいですねーというと4月はもっといい天気だし今度はカプリへいきましょう。とおかあさんがいうので、国連の仕事で忙しいから、いつ休みがとれるかわからないというと、ここはイタリアで仕事がおわってもおわらなくてもゆうがた、5時には仕事をおえて、家にかえらないとからだをこわすわ、といわれたのを今思い出すと、本当にそのとおりで、いい加減にすることができにくい。今はパリで静かな生活で、毎日、ミッション中、南アジアでレストランへいって外食をしていたのとくらべると、まったくかわった。

その後、イタリアでも日本語がブームだときいた。パリも同じだ。日本の伝統文化へのあこがれは、続いている。



タイ津波復興プロジェクト

2007-06-17 23:50:41 | Weblog
私が興味があって、写真をとったのは、破壊後、すげてはめちゃくちゃ、家も家族も財産もうしなって、でも復興、再建にむかうとき、人間は、前向きになり、でも過去はわすれることはできない。事故、災害後、ショック後のいきかたに、興味があるわたしは開発途上国で、内乱、戦争、お金をめぐるごまかし、癒着、など、貧しいひとたちに関わる際のヒューマニズム、それだけでは、解決できない。それから、国際開発、援助を、ビジネスにできるかという問いもでてきた。フェアートレードなどは、フランスでは完全の企業の形でしか存在しにくいし、いくらもうけるかの世界だ。わたしは、日本のNGOは独自な方法で、ビジネスと、ヒューマニズムのあいだで、なにか国際貢献の道はあるとおもっている。日本の援助は、国際機関でもお金を出す国として、有名になっているが、もっと知恵をだして、知的貢献に寄与することができるだろう。あるいは、市民レベルでも経済的貢献をするなら、国際MGOに寄付をする、いらなくなった衣類を預ける、アフリカアジアへ送ることをしているNGOに寄付をする。

国連の、プロジェクトは額が大きい。1億単位で、物事は進められる。人件費が多いのだが、
国連にしかできないことは、各国際機関の、独自なプロジェクトと、国際機関同士の協力とNGOの協力関係で、進められるプロジェクトだろうか。

日本のNGO,は今変わるべき時期にきている。これからは、現地にもいけるリーダー、そして国際会議でも堂々と日本のNGOの代表として、外国語をつかって外国のNGOと交渉できる人材育成が必要かとおもう。そうして初めて、国際的な協力ができるだろう。日本人の感覚では世界がうごいていないことをまずしってほしい。日本文化を相対的にみられるひとがこれから大事だろう。







津波地震被災地視察

2007-06-17 23:43:54 | Weblog
39度のコロンボで過労で倒れ、入院するまで、国際公務員としてローマで日本政府と日本の現地NGOとの共同プロジェクトを作成するために、現場へ向かった。現地で被災地を訪れ、被災者と話し、専門家と毎晩討論し、復興プロジェクトの作成と現場視察に打ち込んだ。全身全霊を打ち込んだ仕事だった。
それこそ、24時間体制で働いた。

インドネシアの現場視察も強烈な体験だった。