緊急避難は、FAO本部で、国連の安全トレーニングをうけていったが、実際には、大変だった。予期せぬことがあり、人質、隔離、誘拐、事故、病気、テロロストにであったときどうするか、たべものにあたったとき、あるいは、病院がちかくになく、事故やけがにあったときどうするか、さまざまな場面を想定しているが、実際に、緊急避難はとっさには判断できない。空港も民衆はおそってくるから、コンゴのアシスタントと一緒であればおそわれないから、北のほうへ逃げたほうがいい、コンゴブラザビルのほうへにげたらどうか、湖があるから、船でいける、などなど、情報が錯綜した。モエマは、空港から逃げようといいだす。でも、わたしは、長くアフリカにすむアジア人の友人からの電話をうけた。ホテルと、空港は安全だ。迎えがくるまでじっとして待つように、忍耐、水はあるかの問いに、水はあるが、たべるものはない、というと、今日中に、助けがくるだろうから大丈夫だ。絶対に空港からでてはいけない、銃殺される。まつしかない。何回もの電話をうけて、夜9時すぎ、暗くなってから、わたしとコートジボワールの医師と一緒に緊急避難を行うという国連のキンシャサの決定がでて、医師をさがし、荷物をちかくへまとめ、ベルギー人のコンサルタントもいて、一緒に避難の準備。コートジボワールの医師は、前にもありました、と語る。車がきた、さーとでていき、民間の車で、農作物を運ぶような小さなトラックだ。女性は私一人。前の席にのるようにいわれた。荷物はシートの下にかくし、両脇に、国連軍兵士が銃をもって、安全確保。私の横に、ぴたーと2人がすわり、あさって、パリいきのエアーフランスにはのれるか、ときくと、明日のこともわからに、ここは内乱だ。今から30分後にあなたが生きているという保障はない、今から車で空港から街までつっきるが、ストップしない、でも銃撃されれば、銃撃しないといけない、今は夜だから、チャンスはある、といわれ、からだが硬直し、走馬灯のようにいろいろなことがよみがえった。ああ、開発途上国での希望をしたがここで死ぬのかもしれない、とおもった。ベルギー人は白人なので、後ろの座席のしたにスーツケースをおき、国連軍兵士の指示でいくつかのスーツケースのしたに隠れる形にして、コートジボワール人医師とモエマはコンゴ人で、黒人なので、国連軍兵士10人くらいのなかに、からだを兵士のように外にむき出しにした形で出発した。
このようにして行われた緊急避難は、30分くらいだった。途中で、隣の兵士からこわいか、ときかれ、もちろんだとこたえたが、何回は銃を外にむかたが、発砲せずに国連の事務所へ到着した。そこからまたホテルへわかれて、直行。メームリングホテルについたのは夜中だった。なかなか眠れない。日本大使館から電話がある。報告する。父へ電話してもらうよう頼む。
スーツケースを預けて行ったイタリア人同僚、マッシモの自宅がおそわれたときき、スーツケースはあきらめたほうがいいといわれた。でも、帰りの空港券、現金、資料、本がはいっていて、資料と本はもう二度とここはくることはないから、とコンゴ人現地コンサルタント2人にたのみこみ、普通の車でいってもらった。一緒にいくというと絶対だめだ、あぶないといわれた。ホテルで待機しているあいだに、スーツケースをもってあえってきた。感激した。今でも電話がなると、びくっとする。あのころがよみがえる。でもローマにかえり、緊急避難の際のショックでしばらく、仕事が前のようにできなかった。報告書をかくのに時間がかかったが、かきおえたのが、2004年の9月だった。
このようにして行われた緊急避難は、30分くらいだった。途中で、隣の兵士からこわいか、ときかれ、もちろんだとこたえたが、何回は銃を外にむかたが、発砲せずに国連の事務所へ到着した。そこからまたホテルへわかれて、直行。メームリングホテルについたのは夜中だった。なかなか眠れない。日本大使館から電話がある。報告する。父へ電話してもらうよう頼む。
スーツケースを預けて行ったイタリア人同僚、マッシモの自宅がおそわれたときき、スーツケースはあきらめたほうがいいといわれた。でも、帰りの空港券、現金、資料、本がはいっていて、資料と本はもう二度とここはくることはないから、とコンゴ人現地コンサルタント2人にたのみこみ、普通の車でいってもらった。一緒にいくというと絶対だめだ、あぶないといわれた。ホテルで待機しているあいだに、スーツケースをもってあえってきた。感激した。今でも電話がなると、びくっとする。あのころがよみがえる。でもローマにかえり、緊急避難の際のショックでしばらく、仕事が前のようにできなかった。報告書をかくのに時間がかかったが、かきおえたのが、2004年の9月だった。