Blog ©ヒナ ─半径5メートルの毎日から見渡す世界

ラテンアメリカでの日々(1999〜)、さいたま市(2014〜北浦和:2021〜緑区)での日記を書いています。

わくちん三回目

2022年04月08日 | 日本で暮らすなかでの日記
四半世紀前くらいに死んだオカンが生きてたら、
 
「おかーさん、今日わくちん打ってきたからご飯つくられへんしな。でもな、特別やからバリっと張り込んできたでぇ」といって、たぶんこんな買い物をしてきたと思います。
 
ま、ここまで程に「清一色」ではないにせよ、「混一色」でたぶん「チャンタ」くらいは乗っけてきてたはず。
 
「ほんでな、おかーさん、今日、帰ってきてからお寿司食べさせてもーたわ。おかーさん、甘エビすきやろ。プリップリやったわ」とか言わんでもええこといいながら、でもそれも割引シールがあったはずです。
 
でもって、明日ボクは、学校で友達に、
 
「え、ナカタ、今日なんやねん。スパゲッチィけ。なんやカッコええやんけ。なんかイキってるやんけ」
「ちゃうねん。なんかオカン、昨日わくちん打ったとかで「今日は弁当作られへんしな」っちゅーてこんななってん」、と、
 
この4食200円(たぶんオカンは「しかもそこから3割引やで」と自慢げに言ったことでしょう)そのまま二人前ずつ、でも、ちゃんとチャチャっとレンチンでモヤシ(でも大豆豆のエエヤツ。でも割引)のお浸しとか、レタスとか揃えてもらってたんでしょう。
 
 
むかし、朝日新聞の四コマ漫画に、
 
「サトウサンペイ」というのがあって、たしかもの凄い長者漫画だったのですが、二月末日の朝刊で、たしかオカン役の女性が、
 
「今月は二月だ。日数が少ないから家計が助かった」というのが連載されたとき、オカンは、「これ、めっちゃわかるわ。この漫画、ホンマあたし好っきゃわ」といったのを鮮明に覚えています。
 
終生、「子どもたちと一緒にいたい。子供らはもっと若い人がエエやろけど。わたしは嫌なんや。教頭とか校長とか。だから教頭試験受けへんねん。その代わり、うるさいから教育大の研究生になってん」と言い張り続けたオカン。
 
ある日、あまりにボクらが食べても食べてもいつも「腹減った。なんかない、オカン」というので、ブチ切れてついに、
 
一升炊きのジャーを買いました。弁当に一人二号ずつ(一人二つ。早弁用とクラブ前用と)。夜に一人1号ずつ。
 
 
1997年春。広島大学附属病院の病棟で、わたしにオカンは、
 
「なんや、ガンちゅーのは親がなったら子どもはならへんらしいで。おかーさんがなって死んだげるから、あんたらは大丈夫や」、と囁きました。「来年も黄金山の桜のトンネル、みれるかな」──その8月15日が命日です。
 
それから十何年。
 
偉そうに教壇なんぞに立ちやがって、上野先生とか落合先生の書誌情報を板書するようになって、
 
「ようやく気づきました。こんなバカなわたしだから」(かりゆし58「アンマー」)
 
本当にありがとうございました。そして、
 
こんな単純な目の前の不平等を、何も気づかずにすみませんでした。
 
死ぬまで考え続けます。
 
 
 

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