ナカタの母親は、小学校の先生をしていたのですが、「中学校の先生と、高校の国語の先生の免許は持っている」と言っていました。
といまいえば、「あぁ、ナカタは親の影響でこげな生業を」と思われるかもしれません。
ですが、わたしが小学校2年の時に母親がクリスマスイブに、わたしの寝床においてくれたのは、『ドラえもん』の2巻と3巻でした。
「お父さんが毎日ラッシュの電車通勤が辛いと言っているからプライベート地下鉄を通してやろう」という親思いのドラえもんと、「ドラえもんが猫である」ということにたいそう感激したわたしは、
毎日毎日、「もう電気消して寝なさい」と言われても黄色い豆球ひとつで『ドラえもん』を枕元で呼んでいたために、途端に視力が暴落しました。
懲りりゃいいものを、「母親がセイユーに行くのについていけば『ドラえもん』が買ってもらえる」ということに味を占め、瞬く間に発売されている全巻を揃えました。
小学校のトモダチに、発売もされていない26巻かだかを「持っている」と嘘をついて、「読ませてくれ」「読んだら貸してやる」「いつになったら読むのだ」「まだ読んでない」「オマエは嘘ついたんちゃうんか」とバレてしまい、コスタ・リカに脱出する28歳まで飲みにいきゃことある毎に「今度『ドラえもん』の26巻もってこいよ」とイジられていました。
そんなワケで、わたしは本を読むのが大っ嫌いでした。
近所に住む同じ学校のイタガキ君なんかが、『西遊記』とか『三国志』とかを読んで、それはそれは教養を増していくのを、母親はその後たいそう嘆くことになります。
小学校の時の読書感想文なんかは、それはどえらい苦行で、わたしは「ウナギが海に出て旅をする」という物語を3回くらい使い回した記憶があります。
高校に入っても、ようやく文字を読みはじめて母親を少しは安心させはするものの、いつまでたっても『シャーロック・ホームズ』しか読む気になれなかったことに引けを感じたか、
でもやはり読書感想文があまりにも面倒くさかったので、図書室で絵本を探して『星の王子さま』でなんとか凌ごうと、完全おふざけ100%で、現代社会の矛盾となぞらえる裏読みをしたところそれがモノの見事に定年間近の先生が一周回って深読みしてくれてたいそうハマり、張り出しになりました。
こんなレベルで「これでいいのだ」と味を占めたものですから、国語なんて何が何だかサッパリです。古文や漢文に至ってはアラビア語の文字くらい宇宙人の暗号のようでした。
一方でy=2x+1みたいな字句に垂直に図形を回転させた体積の計算なんて、面倒くさいだけで何が難しいのかすら理解できませんでしたが。
ですので、結局一浪して満を持しても、二次の数学の問題は30秒くらいで一問目は見切ったものの、国語はセンター試験ですら120点としこたまの点数で、
わたしが単著をだした2013年、都内の私大が現代文の入試に使わせてくれと問題文を送ってきたのですが、漢字が全滅なのは言うに及ばず、最後の「著者がもっとも言いたかったものを次のア〜オの中からひとつ選びなさい」という問題に至っても、
イ・ウ・エのいずれもが「これは言いたかったこと」でして、結局60点くらいしか正解しませんでした。
このあとさらに「ベネッセ」がこの入試問題を気に入ったとかで、「さらに改良をして使いたいのだ」と仰ってこれまた問題文を送っていただきましたが、さらに難しくなっていて手に負えませんでした。
そんなわたしですが、やはり台風も去って秋ですので、「秋といえば鉄板は「読書の秋」」。
少しずつ味わいながら楽しめる本を紹介しようと思いました。池澤夏樹『マシアスギリの失脚』(新潮社)です。
19世紀初頭に多くの国が宗主国から独立し、19世紀後半には近代資本主義国家への発展の途上についたラテンアメリカでは、
当然20世紀を通じて米帝の「裏庭」にあったわけですから、そう簡単に国家資本主義経済が制約なしに展開できるはずがありません。
わたしがたいそうお世話になったグァテマラでいえば、エストラーダ・カブレラやホルヘ・ウビコ。いま書いている本の舞台にしているパラグアイでは、ラテンアメリカで最も長いだろうドイツ系移民のストロエスネルなんかがいました。
ということもあって、ラテンアメリカ文学には「独裁者小説」と言われるジャンルがあります。
たとえばグァテマラでしたら、ノーベル文学賞を取った小説家ミゲル・アンヘル・アストゥリアスが、そのカブレラに当て擦って『大統領閣下』を残しています。
ガルシア=マルケスやバルガス=リョサ、カルペンティエールなどなど、たくさんの世界的に有名な小説家たちがモチーフにしています。
『マシアスギリの失脚』もそれを意識しているかと。
いまチョコッとググったら、文庫版でも出ているので、(たぶん文庫本でも分厚いかと思いますが)マッタリと秋雨の音でも聴きながら、少しずつ読んでいくのは、たいそうオサレかと思います。
この物語のなかでも、カフカの小説によく出てくる「二人組」(二つ?)のように、ホモセクシュアルのカップルが「今日もたくさん話そう。このバーボンがなくなるまで」とかいった、もの凄く素敵なセリフが出てきます。
ハードカバー版の表紙がとても綺麗で、「ガチの純文学」みたいなコピーが紺色の帯に書いてあったと記憶しています。
池澤夏樹はもっと後にだした沖縄だかなんだかを舞台にした小説で、かなりエコ・脱成長主義の押し売りみたいなものを読まされかけたので、手に取ることをやめました。
「ここで取りあげるからには少しは大丈夫か」とググりかけましたが、なんかいろいろいわれてますね。
今回は池澤について深く述べませんが、個人的にはこの『マシアスギリの失脚』は、楽しんだ記憶があります。
今日、朝から、わたしがいま一番キレッキレだと思うひとりが関わっている畑に行ってきました。
秋ですね。
赤紫蘇の実をしこたまもらってきて、塩漬けにしようとしています。
わたしはこの「プチプチ」とした感触がとっても好きです。
沖縄料理屋さんでよくお目に掛かったことのある「海ぶどう」ってこんな感じだったかと思いますが、なんせいっつもベロベロだったのでよく覚えていません。
あと、なにげにマイナスイオンの善きカホリがする実をもらいました。
なんだか北米のピーナッツだとか教えてもらいましたが、名前は忘れてしまいました。もう健忘症であることすら忘れました。
とにかく「いくつかもらっていいですか?」とお願いしたのは「新築の家の匂いがする」というのが理由です。
『マシアスギリの失脚』で、独裁大統領であるマシアス・ギリは、毎日朝に、(南の日本ではない島の国なのですが特注で作らせた自宅の)檜風呂に入るのが習慣だ、という場面があります。
この実の匂いをかいだとき、この池澤の小説を思いだしました。
さっき綺麗に洗ったので、今日はこれを枕元に置いて寝ることにします。
😀