芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

「掌説うためいろ」とは

2015年09月27日 | コラム
 何年か前、「グレッグ・アーウィンの英語で歌う、日本の童謡」というCD付き絵本の出版に関わった。それぞれの曲の童謡詩人や作曲家について八百字程度にまとめることになって、彼等のことを調べた。八百字では基礎的なこと以外、ほとんど書けないに等しい。私はそのことと、資料の内容そのものに対し、不満を持った。
 爾来、童謡詩人や作曲家について調べたり空想したりしている。 調べると言っても、何十冊も書籍や資料を当たっているわけではなく、私が読んだごく僅かな資料や、それと大差ない資料を読んでいるに過ぎない。
 空想するのには訳がある。そのごく僅かな資料に、大いに疑問を抱いてしまうからである。違うだろうと思ってしまう。おそらくこうだろうと勝手に考える。もちろん空想である。妄想と言ってもよい。
「春の小川」は作詞の高野辰之の家の近くを流れる河骨川(渋谷川に合流) とされる。彼が東京音楽学校への通勤で使う駅は、新宿駅か開業したばかりの代々木駅だったろう。もし新宿なら、紀伊國屋という薪炭屋の、いささか元気の良すぎる子が、辺りを走り回っていただろう。途中には幸徳秋水と管野スガが住んでいた平民社があり、スガが葬られた正春寺も近い。当時、秋水は有名人である。辰之はこの道筋で彼とすれ違い、それと気づいていたかも知れない。むろん…空想である。その秋水らが抹殺された大逆事件と、辰之の「春の小川」の成立時は、さほど時間を置かぬほぼ同時代のことである。一篇、一曲の童謡唱歌とその同時代の迷路を遊び、それを「うためいろ」と題した。
 川端康成に「掌の小説百篇」という短編集がある。自身が掌の小説とはコントのことであるとした。それに倣い「掌説」とした。エッセイのようでそうでなく、小説のようでそうでもなく、事実のようで…よく分からない。ただ私の掌にのった空想の産物だからである。


掌説うためいろ 二人の作曲家

2015年09月27日 | エッセイ
              

 本居長世は涙ぐみ、洟をすすった。ハンカチを取り出し、しきりに目尻や鼻を押さえた。野口雨情から「赤い靴」の〈きみ〉と言う名の童女の逸話を聞いたからである。子どもを手放すその母親の心情と、幼くして母と別れた少女の寂しさを思うと、もうたまらなかった。彼の心は濡れた。
「私の二女の名も貴美子と言います。この歌をその〈きみ〉ちゃんを想って、うちの貴美子に歌わせましょう」
 と言った。雨情は
「おゝ、それはよい」
 と言って相好を崩した。
 両親の記憶がない長世は、溢れるような親の愛に飢え、憧れていたのである。彼が作曲した「七つの子」にもそれが反映した。

    からす なぜ鳴くの 
    からすは山に
    かわいい七つの 子があるからよ
    かわいい かわいいと からすは鳴くの
    かわいい かわいいと 鳴くんだよ …

 本居長世は国学者・本居宣長六代目の子孫である。宣長は世にはびこる「漢意(からごころ)」を否定し「大和心」を称揚した。漢意(からごころ)とは海外から流入した知識、学問、芸術、思想哲学などを意味する。つまり宣長の国学・大和心の思想は排外攘夷の観念が生み出した対抗思想と言ってよい。
 その子孫の長世は音楽の道に進み、箏曲や長唄などの伝統音楽を研究しつつ、優れたピアニストとして邦楽と洋楽の融合を図った。
 長世の祖父は国学者の本居豊穎(とよかい)である。豊穎は一人娘の並子に、国学者の雨宮干信(ゆきのぶ)を婿に迎えた。長世が一歳の時、母の並子が亡くなった。その後本居家の中で浮いた父干信は、居たたまれず婿養子を解消して本居家を出た。長世の三歳のおりである。だから長世には両親の記憶というものがない。
 祖父豊穎は厳しく、そして優しかった。祖父は長世が小学校に上がる前から、彼に歌学や国学を教えた。しかしそれで身を立てよとは強制しなかった。長世が、日本の伝統音楽を将来に残すために、東京音楽学校に進みたいと打ち明けたとき、「それもよかろう」と言って頷いただけであった。

 東京音楽学校の同期生には、声楽科の山田耕筰がいた。後年、長世と耕筰はその処世の術の違いから、対照的な姿勢を示すことになる。
 耕筰は学生時代から才気煥発ぶりと旺盛な好奇心を発揮し、その強気で活発な行動力は一際目立っていた。しかし卒業時に全学通じて首席だったのは長世である。
 耕筰はその多彩な音楽の才能に加え、自分を有力者たちに売り込む営業的能力に傑出していた。自信に満ち、話も巧みだった。彼はこうして三菱の総帥・岩崎小彌太らから資金的な援助を受け、ドイツに留学し作曲や指揮を学んだ。
 その後も耕筰は自らを内外の有力者たちに売り込んでいく。もちろん、それを保証する豊かな音楽の才能があったからである。耕筰の旺盛な創作欲は、強烈な上昇志向と出世欲に支えられていた。彼は強烈な自信家だったのである。
 一方長世はおっとりとしたものであった。卒業後も教授補助として学校に残り、伝統音楽の研究を続け、ピアニストとして、やがて助教授として、学生たちの指導にあたった。彼の指導を受けた音楽家たちに、弘田龍太郎、中山晋平、草川信らがいた。
 あるとき中山晋平から、子どもの雑誌「金の船」を紹介された。これが長世と童謡の付き合いの始まりとなった。晋平は野口雨情も紹介した。雨情さんの詩には、本居先生の持つ日本的曲調が合うと言うのである。
 こうして長世は雨情の「十五夜お月さん」に曲を付け、これを彼の長女のみどりが歌った。みどりは日本の童謡歌手の第一号となったのである。その後、長世とみどりに二女の貴美子も加わり、日本各地で童謡コンサートを開いた。

 大正十年、雨情は「国際愛」を込めて「青い目の人形」という詩を書き、長世が曲を書いた。この「青い目の人形」は「金の船」に発表された。
 大正十二年九月に関東大震災が発生した。そのおり日系人を中心に全米から被災地に援助物資が寄せられた。その返礼として日本の音楽家等で、ハワイやロスなどアメリカ各地で公演ツアーが行われることになった。師走、長世は答礼使節団を率いて横浜を発ち、ハワイとアメリカ西海岸に向かった。この一行に長世の二人の娘〈みいちやん〉みどりと、〈貴いちゃん〉貴美子も参加した。
 母親と離れた長い船旅に、貴美子が里心を出して
「お母さんに会いたい。貴いちゃんは、千鳥になって、お母さんとこに飛んで帰りたい」
 と、泣いては長世を困らせた。長世は貴美子に
「貴いちゃん、『赤い靴』の〈きみ〉ちゃんのことを考えてごらん。〈きみ〉ちゃんはたった三歳でお母さんと別れて、それからずうっと、お母さんに会えないんだよ。貴いちゃんはいくつ?」
 と言い聞かせた。
 公演では、みどりが「十五夜お月さん」や「七つの子」を歌い、そのかたわらで市松人形のような着物姿の貴美子が踊った。
 「青い目の人形」は姉妹で歌った。

    青い眼をした お人形は
    アメリカ生まれの セルロイド

    日本の港へ ついたとき 
    一杯涙を うかべてた

    「わたしは言葉が わからない
    迷子になったら なんとしょう」 

    やさしい日本の 嬢ちゃんよ
    仲よく遊んで やっとくれ

    仲よく遊んで やっとくれ

 長世は日本各地に古くから残る「わらべ唄」の採集と、その再生(編曲)に熱心に取り組んだ音楽家だった。日本を心から愛していたからである。各地で不統一に伝えられた唄を譜面に写し、西洋音楽の要素も取り入れた伴奏を加えて甦らせたのである。そのひとつに「通りゃんせ」がある。彼が最も好んだその曲を、まるで楽しく踊るように弾き始め、みどりと貴美子が掛け合うように歌い出すと、会場のあちこちからそれに和する歌声が起こった。それは震えるような涙声であった。

    通りゃんせ 通りゃんせ
    ここはどこの 細道じゃ
    天神さまの 細道じゃ
    ちょっと通して 下しゃんせ
    御用のないもの 通しゃせぬ
    この子の七つの お祝いに
    お札を納めに まいります
    行きはよいよい 帰りはこわい
    こわいながらも
    通りゃんせ 通りゃんせ

「赤い靴」は貴美子が歌った。貴美子は、あの〈きみ〉ちゃんが会場にいるかも知れないと思い、心を込めて歌った。

    赤い靴 はいてた 女の子
    異人さんに つれられて 行っちゃった

    横浜の埠頭から 船に乗って
    異人さんに つれられて 行っちゃった …

 会場の日系人たちは啜り泣き、号泣する人も出た。言葉の分からぬアメリカ人たちも、長世の曲と二人の少女たちの歌に深く心を打たれ、その眼を潤ませた。
 みどりも貴美子も、大勢の人に囲まれて握手ぜめにあった。「本当にお人形のよう」「本当に可愛い女神だ」「平和の使徒だ」…二人はたくさんの人に抱きしめられ、頬にたくさんのキスをされた。
 
 帰国後、三女の若葉らも加わって、父娘はハンセン氏病施設や少年院等の慰問活動を熱心に行った。長世は娘たちに言い聞かせた。病気ゆえ不当な差別に苦しむ人たちを、優しい歌で慰めたい。その不幸な生い立ちゆえか何ゆえかで心が荒み、犯罪を冒してしまった少年たちに、優しい歌で愛を伝えたい。彼らは愛に渇き、餓えているのだから…。

 やがて時代は軋み、軍靴の音が大きくなっていく。日本の露骨な大陸進出は、踏みにじられた人々の愛国心と反日感情を高めさせ、欧米列強の既得権益と軋轢を生み、国際的緊張を強めていった。アメリカ本土でも日系移民排斥運動が激しくなった。
 シドニー・ルイス・ギューリック博士はそのことに胸を痛め、「世界の平和は子どもから」と、日米親善のために、日本の子どもたちに人形を贈ろうと呼びかけた。こうして一万二千七百体を超える数の人形が集められた。ギューリックは日本の財界人の渋沢栄一にその受け入れ方法を相談した。渋沢が動き、こうして昭和二年、人形たちは日本にやって来たのである。文部省は高野辰之らに「人形を迎える歌」を作らせ、これを日本青年館での式典で子どもたちに歌わせた。しかし「人形を迎える歌」はその式典等で歌われただけで、すぐ誰も歌わなくなった。人形を受領した全国の小学校や幼稚園で歌われたのは、雨情と長世の「青い目の人形」だったのである。
 再び渋沢栄一らが音頭をとり、この人形のお礼に、日本からアメリカの子どもたちに市松人形が贈られた。童謡や人形の交流は日米親善であり、平和と友好の象徴であった。それは雨情の言う「国際愛」であった。
 しかしこの童謡と人形という普遍的な愛と平和と友好の象徴は、荒々しい国際外交とその手段である戦争に踏み潰されてしまう。アメリカから日本の子供たちに贈られた「青い目の人形」は、全て焼却するよう、軍部から全国の学校に命令が発せられた。その人形を、子どもたちに竹やりで突かせた学校も出た。実に愚劣で狂的で病的な、気味の悪い反応である。

 さて山田耕筰は、地方公演の度に行く先々の周辺の学校から校歌を受注した。事前に手紙を出して、さかんに営業をかけたのだ。偉いもので、見習うべきものである。自らを売り込む営業力、行動力、強烈な個性、溢れる自信、有力者への取り入り方…これらは実に日本人離れしたものである。
 耕筰はあまりにも多く受注し作曲したために、手がけた曲を片っ端から忘れていった。繋ぎ合わせ、切り張りしたような曲、似たような曲をたくさん産み出した。発注した側は、曲の良し悪しなど分からず、何しろ当代一流の有名な山田耕筰先生だから、ただただ有り難かったのである。
 耕筰は受注した校歌に忠君愛国・国家主義を盛り込んだ。時勢に乗ったのである。
 耕筰は右翼国粋的日蓮主義の国柱会に出入りした。やがて彼は軍部や内閣枢要や警視庁等の官権に急接近した。権力が大好きだったのである。彼は満州国国歌を作った。
 日中戦争の頃からレコード検閲が強化され、さらに時局歌が制定されると、耕筰はその時勢の先頭に立って、皇道翼賛と国家主義を鼓吹した。時流に便乗し、権力に従諛し、強く公的名誉を欲した。演奏家協会を設立しその会長になった。ナチスをモデルに演奏家協会音楽挺身隊を結成し隊長になった。軍から将官待遇を受け、軍服に軍刀を下げて闊歩した。
「カチヌケニッポン」「立てや非常時」「日独伊同盟の歌」「米英撃滅の歌」「肉弾三銃士」「銃後家庭強化の歌」「なんだ空襲」等百曲を超す下らぬ軍歌を粗製濫造した。
 耕筰は、戦地への慰問活動や戦意高揚の音楽活動に積極的でない音楽家たちを「楽壇の恥辱」と激しく詰り、罵った。
「平和的な音楽は葬られるのが当然」「戦争に役立たぬ音楽は要らぬ」「全日本の音楽関係者が欧米模倣の域を脱却し、皇道翼賛の至誠を尽くすべき」と獅子吼した。
 欧米模倣の脱却とは、漢意(からこごろ)からの脱却のことである。耕筰が本居宣長になったのである。

「楽壇の恥辱」本居長世は、作曲活動も演奏活動も停止した。つまり「音楽関係者」から完全に引退したのである。従って演奏家協会にも音楽挺身隊にも日本音楽文化協会にも加わることを拒否した。ピアノも手放した。それが長世の抗議であり、処世である。
 長世は想う。童謡は子どもたちに、優しい心や、生命の大切さを教えてきたのではなかったか。平和の精神や国際愛を伝えてきたのではなかったか。いつまでも純真さを失わないで欲しいと、願ってきたのではなかったか。その子供たちが、やがて殺し合いの戦場に駆り出され、その手を血で汚す。あゝどうかその手を血で汚すことなく、皆無事に戻ってきて欲しい。耕筰よ、耕筰よ、激しい砲弾の音や地響きに怯えながら、小さな子どもたちが婆(バーバ)や母(マーマ)にしがみついて震えているのが見えないか。幼子たちの恐怖に怯えた眼が見えないか…。
 時代が、山田耕筰的な狂奔が、戦争に役立たぬ平和的な音楽を葬ったのだ。
 
 東京音楽学校の同期生、本居長世と山田耕筰は、その処世の術から全く対照的な立場をとった。戦時中「私は死んでから生きるよ」と長世は言っていたらしい。
 野口雨情は戦争に深く失望し、平和になった戦後を見ることもなく、昭和二十年の一月に疎開先で亡くなった。その平和の同志であった長世は、終戦の日を迎えたが、病気で体調がすぐれぬこともあり、ほとんど生きる気力をなくしていた。終戦の日からちょうど二ヶ月が経った日、彼も静かに息を引き取ったのである。三人の娘たちが父の遺品を整理していた時、机の中から「終戦讃歌」と題された作品を見つけた。それは八月十五日以降に書かれた彼の最後の作品であったのだろう。
 
 処世に長けた山田耕筰は、戦後ほどなく日本指揮者協会の会長に就き、昭和三十一年に文化勲章を受賞した。


掌説うためいろ 「春の小川」異聞~交錯する人と時代

2015年09月27日 | エッセイ
 駅の改札を出た細面の眼鏡の紳士が、彼を出迎えた丸い赤ら顔の眼鏡の紳士に向かって帽子をとって会釈をした。濃い鼻髭を蓄えた恰幅の良い紳士も帽子を取って会釈を返した。
「これはわざわざお出迎えいただき相済みません。だいぶお待たせいたしましたか?」
「いやいや、たった今着いたばかりです。こちらこそ、こんな所へお出でいただき恐縮です」
 こんな所とは、新宿である。江戸時代、内藤家の屋敷があったことから内藤新宿と呼ばれ、当時はまだ東京府下豊玉郡で、東京市外であった。甲州街道と青梅街道が交差する所を追分といい、そこには宿屋や一膳飯屋、馬具屋が並び、裏に回ると女郎屋もあった。甲州街道は肥桶や薪炭を山と積んだ荷馬車で賑わい、馬糞と肥の糞尿の臭いがした。晴れれば馬糞混じりの砂埃が舞い、雨が降れば泥濘と化す町であった。
 新宿駅は飯田町と塩尻間を結ぶ中央東本線と、品川と赤羽間を走る山手線が交わり、旅客利用よりも、桐生や伊勢崎、八王子の絹や、奥多摩や秩父、甲州の材木、石灰石、薪炭、野菜等を扱う貨物駅としての機能のほうが高かった。

 二人は甲州街道に面した本屋口で待ち合わせたのである。荷馬車が行き交う甲州街道を渡り始めた二人に、猛然と走ってきた小さな少年が危うくぶつかりそうになった。
「おっとと、危ない危ない」
「危ないのはおじさんだい、どこ目つけてんだア」
 子どもが乱暴に怒鳴った。彼は脱げそうになったわらじをつっかけると、再び猛然と走り去った。二人は暫し少年の走り去った方を見、そして微笑んだり、首を振ったりした。少年はちょうど六、七歳だろうか。いささか元気過ぎる少年は、この辺りでは有名な悪ガキで、駅裏の紀伊國屋という薪炭屋の小倅だった。名を田辺茂一という。
 駅裏には何軒かの薪炭問屋や、外した戸板に野菜を並べただけの高野八百屋店と、駅近くの追分から場所を替えた中村屋というパン屋がある程度だった。このパン屋は元々、本郷春木町で開業し、クリームパンを売り出して評判となった。この後の大正四年、主の相馬愛蔵と妻の黒光が右翼の頭目・頭山満に頼まれ、インドの亡命革命家のラース・ビハーリ・ボースを匿い、彼からカレーを教わったことは有名な話である。

 二人の紳士は千駄ヶ谷の玉川上水の葵橋を渡った。葵橋は道よりやや隆起した土橋であった。この辺りは武蔵野台地の雑木林の縁で、田や畠の中に取り残された雑木林がまだら模様に点在していた。近年は畠や田が潰され、雑木林も伐られて住宅が建ち始めていた。
 しばらく行くと、黒板塀に囲まれたかなり古い傾いたような木造平屋の家の前に差し掛かった。家の裏には一二軒の家作があって、さらにその後ろは田圃のようであった。
 丸顔の紳士は声をひそめ
「もう看板は取り外されましたが、ここが秋水の平民社でした」
と言った。細面の紳士は
「ほう」
とだけ言ってその家を見やった。
「向かいの家はもともと八百屋だったのですが、警察が強引に借り切りましてな、昨年まで警邏の監視所にしていました。この家に入ろうとするものを引きずり込み、人体(にんてい)尋問、荷物検査に身体検査をしておりました。家から出てくる者はずっと尾行がつきます」
「ほう」
「あまりに剣呑だから、私はこの家の前を通るのを避けておりました」
「ほう」…
 当時この辺りは千駄ヶ谷町であった。現在の代々木二丁目七番辺りで、文化女子大の近くである。この年の一月、この家の主・幸徳秋水や管野須賀子ら十二名が大逆罪で死刑になった。
「須賀子は近くの正春寺に葬られたそうです」
「ほう」
 
 すっかり春めく中を長く歩いたため、太めの紳士はその丸い赤ら顔に汗をにじませた。彼は大きなハンカチを取り出して額の汗を拭った。細面の紳士は春風の中を心地よさそうであった。彼は濃緑の風呂敷包みを抱えていた。
 太めの紳士は切妻の小屋根を持った小さな門の前に来ると、立ち止まって
「ここが私の家です」
と言って、格子の引き戸を開けた。
「そのお荷物をお預かりしましょう。先ずは小川へご案内します」
 彼は細面の紳士から風呂敷包みを預かると、玄関を開けて家人を呼んだ。この家は現在の代々木三丁目三番あたりで、今の山谷小の近くである。

 丸顔の紳士が誘ったのは田圃の畦道と雑木林ばかりの小径であった。小径の畦にウマゴヤシの黄色い小さな花や、薄紫のレンゲの花が咲いており、傍らを小川が流れていた。水の流れはあるかなしかに思われた。幅は一間か広いところでも一間半くらいだろう。
「河骨(こうほね)川と言いましてな。その名の通り河骨の花が咲きます。間もなくですな」
「ほう…河骨は水のきれいな所にしか咲かぬそうですな」
「そのようです」
「ここが先生の散策道なのですな」
「はい、毎朝この辺りを歩いております」
「ほう…羨ましいですな」
「あ、あれが河骨ですよ。ほら水の中の茎が白い骨のようでしょう」
「ほう、ほんとですな」…
 小魚が隠れ、細面の紳士は目を細めた。底から小さなあぶくが一つ浮かんで、水面で消えた。この場所は現在の代々木五丁目あたりである。

 丸顔の紳士は国文学者の高野辰之博士で、細面の紳士は東京音楽学校の岡野貞一教授である。高野は文部省国定教科書の編纂委員であり尋常小学校読本唱歌の作詞委員、岡野は作曲委員であった。高野は家の近くの散策道の傍らを流れる河骨川の風情を詩に書いた。岡野がその詩に曲を付けるにあたって、ぜひその可憐な流れを見たいと言って、今日の約束となったのである。

   春の小川はさらさら流る。
   岸のすみれやれんげの花に、
   にほひめでたく、色美しく
   咲けよ咲けよと、ささやく如く

   春の小川はさらさら流る。
   蝦やめだかや小鮒の群に、
   今日も一日日向に出でて
   遊べ遊べと、ささやく如く

   春の小川はさらさら流る。
   歌の上手よ、いとしき子ども、
   聲をそろへて小川の歌を
   うたへうたへと、ささやく如く

 ちなみに河骨川は、玉川上水の終点である新宿御苑の玉藻池の余水が流される渋谷川や、宇田川と合流して、代々木練兵場横を流れた。夏ともなると、子どもたちはこの宇田川で泳いだり水遊びをしていたのである。
 これらは東京オリンピックを前に暗渠となって、今は渋谷駅の先から大きめの下水溝となり、名ばかりが渋谷川として残っている。「春の小川」の果ての姿である。

 日露戦後、十一万人の死傷者と重税という犠牲を強いられた人々は、その犠牲と引き換えの如く政治的な発言をし出した。人々の意見は政府や官僚に厳しく、何故か明治天皇のカリスマ性が高まり、また心底のナショナリズムを高揚させていた。政府はこれを利用しようとした。国内に人民の敵を作り出し、国民を再結集させなければならない。政府はこれを天皇制に異を唱える社会主義、共産主義、無政府主義を壊滅させる機会と捉えた。
 明治四十一年戊申詔書が出され、国家主義と忠君愛国を全面に押し出した「国定教科書改訂」が進められることになった。高野と岡野はその流れの中で、尋常小学校読本唱歌の編纂委員を委嘱されたのである。
 そして、二人が先程通り過ぎてきた黒板塀のボロ屋の主、幸徳秋水と管野須賀子も、その流れの中で処刑されたのである。優れた国文学者である高野も、優れた作曲家である岡野も、無論そのような巨視的な把握はできなかった。
 彼等は「日の丸の旗」という歌をつくった。国歌にしても良いほどの簡潔で捷勁な名曲である。
  
   白地に赤く 日の丸染めて 
   ああ美しや 日本の旗は

   朝日の昇る 勢い見せて 
   ああ勇ましや 日本の旗は

 そして彼等が「春の小川」の傍らにたたずみ、河骨川の水草の陰に小魚が隠れるさまを見て目を細め、その周辺を散策した年、東京と大阪に特別高等警察が発足した。