芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

光陰、馬のごとし 安田伊佐夫

2016年08月09日 | 競馬エッセイ
                                                        

 ワンセグ携帯電話に「元JRA騎手に有罪判決」というニュースが流れた。元JRA騎手とは、多くのファンが「ヤスヤス」と呼んだ安田康彦のことである。
 安田は昨年春、突然引退し、その後行方不明になったと言われていた。それが今年の初秋、京都市内のコンビニ店で店員に難癖をつけ、「殺すぞ」と恐喝し、五千円未満の商品を奪ったとして逮捕されたのである。そして今日、京都地裁で懲役2年、執行猶予3年の刑が言い渡されたのである。

 安田康彦は下手な騎手ではなかった。秋華賞や宝塚記念も制している。またよく重賞レースで人気薄の馬に騎乗し大穴を開けた。穴狙いのファンには「穴のヤスヤス」が乗る馬は、目が離せないのであった。
 かつて関東に「穴の安田」「大穴トミー」「泥棒ジョッキー」と異名をとった安田富男がいた。実に愛すべき男で、多くの競馬ファンは「富男」と気安く呼んでいた。名騎手で名伯楽だった故野平祐二は、この富男を「本当に天才だと思ったのは富男だけです」と評していた。安田富男の天衣無縫の数々のエピソードは、また一篇の物語になるだろう。

 安田康彦の父は、この富男ではない。康彦の父は安田伊佐夫という、一頭の狂気の名馬で頂点に登りつめたジョッキーだった。その馬の名をタニノムーティエという。
 彼、タニノムーティエが皐月賞、ダービーを勝った頃、私は競馬の興奮に惹かれていったのである。それはスタンドの大歓声と、二十数頭の馬たちが疾駆して轟かす地響きと、
「…アローとムーティエがまたやった! アロー! ムーティエ! アロー! ムーティエ! やっぱりムーティエだっ!! ムーティエが強い!!」
 という絶叫アナウンスがかき立てた興奮である。
 この時のアナウンサーについては、以前「ガナリのとっつぁん」として既に書いた。「ガナリのとっつぁん」とは、競馬の名実況で知られたラジオ関東の窪田康夫のことである。

 西のタニノムーティエは東のアローエクスプレスと、トライアルレースを含めダービーまで一騎打ちの死闘を続け、春のクラシックレースである皐月賞、ダービーを制覇した。そのムーティエの鞍上が安田伊佐夫だったのである。

 安田伊佐夫は引退後に調教師となった。そして91年に息子である康彦が騎手としてデビューした。康彦は父譲りの騎乗センス、度胸などを期待され、それなりの活躍をしてきた。大レースで大穴を出し、インタビューでは笑顔で人気馬を負かしたことを詫びた。しかし素行の悪さがちょくちょくと噂にのぼった。酒に酔いつぶれ調教をさぼったり、酔った状態で調教に出たり、多くの厩舎とトラブルを起こした。
 2000年の札幌の夏競馬の終わる頃、札幌市内を酒気を帯びた危険運転とスピード違反で現行犯逮捕された。2ヶ月間の騎乗停止処分を受けて、その後の天皇賞騎乗等を棒に振った。康彦はその後、次々と有力なお手馬を降ろされ、騎乗数が激減していった。父の伊佐夫も自厩舎の馬に息子を騎乗させなくなった。康彦はますます酒に溺れ、その素行は荒む一方だったようである。馬主も他厩舎の調教師も、そしてついに父も彼を見放した。

 康彦の突然の引退はファンを驚かせた。引退届は父の伊佐夫が出したそうである。こうして康彦は消えた。行方も知れぬようになったらしい。
 康彦が京都府警に逮捕された時、父伊佐夫は記者たちに「すでに勘当し、親子の縁を切っております」と答えた。
 悲しい父子である。伊佐夫は泣いていたのだろう。そして康彦も泣いていたのだろう。

「アローとムーティエがまたやった! アロー! ムーティエ! アロー!ムーティエ! やっぱりムーティエだっ!! ムーティエが強い!!」
 私はアローエクスプレスとタニノムーティエのあの激闘を忘れない。そしてタニノムーティエに跨った、青年安田伊佐夫の、あの颯爽とした騎乗姿を忘れない。


             (この一文は2007年12月月20日に書かれたものです。)

                                            
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光陰、馬のごとし 皐月賞後記

2016年08月04日 | 競馬エッセイ

 ドゥラメンテの俊敏さと瞬発力、豪快な切れ味は素晴らしい。しかし、一瞬の間隙を突いた横っ跳びの俊敏さは進路妨害となった。むろんミルコ・デムーロ騎手の責任である。終始後方で馬と折り合うデムーロは、やはり上手い。一方、にこやかで穏やかそうな風貌に似ず、荒々しい危険な騎乗もする人だ。本当なら降着ものだろう。
 先週の桜花賞を制したレッツゴードンキに続いて、父キングカメハメハ、母の父サンデーサイレンスという配合の血統が、先ず春のクラシック二冠を獲ったわけである。
 ドゥラメンテの能力についてデムーロは「三冠を狙える」と言ったが、それはおそらく難しかろう。その理由のひとつは距離である。ドゥラメンテの父キングカメハメハは、典型的なマイラー体型で力馬だと思われた。そのダービーは実に力強いものだったが、彼にとってあの2400メートルが限界の距離だったと思われる。キングカメハメハ陣営もそれを百も承知で、神戸新聞杯(2000メートル)を貫禄勝ちしたあと、菊花賞(3000)には見向きもせず、天皇賞・秋(2000)を狙った。しかし直前の脚部不安からそのまま引退して種牡馬となったのである。
 彼の娘のアパパネも強い牝馬だったが、その距離の限界は2400メートルのオークスまでだったと思われる。牡駒のローズキングダムやルーラーシップの限界も2400までで、わずか100メートル延びただけで勝てなかった。むろんドゥラメンテが、現時点でダービーの最有力馬であることは間違いなかろう。
 三冠が難しいもうひとつの理由は、今年の三歳馬は牡牝ともに全体的に質が高く、ライバルたちも強力だと思われることである。質の高い年と、質の低い年は三冠馬が出にくい。質の低い年は団栗の背比べのためである。
 先ず、この皐月賞以後のクラシック戦線で消えたのは、北島三郎の愛馬キタサンブラックと、タガノエスプレッソ、コメートであろう。三頭とも父ブラックタイドである。この種牡馬はディープインパクトの全兄だが、どちらかというと早熟型の短・中距離馬だからである。キタサンブラックは3着に粘ったが、彼の母の父は短・中距離のサクラバクシンオーで、この後の路線をマイル戦に絞れば活躍するだろう(※)。コメートもタガノエスプレッソも路線を短・中距離に絞るべきだろう。
 2着のリアルスティールは、終始好位にいながらドゥラメンテとの追い競べに負けた。完敗といっていい。ダービーで逆転するには、やはりドゥラメンテより前の好位置にいて早めに抜け出し、彼より長そうな距離適性に賭けることになるだろう。直線の長い府中の追い出しは騎手の腕の見せ所だろう。
 1番人気のサトノクラウンは、直線目の前でドゥラメンテに横っ跳びされ、その不利も響いてか6着に敗れた。その能力からダービーでの逆転は十分あり得る。クリストフ・ルメール騎手は、何かを掴んだことだろう。この馬はかなり有力な一頭に違いない。
 惨敗したダノンプラチナの高い能力も捨てがたく、距離も問題ない。父ディープインパクト、その父サンデーサイレンスには珍しい芦毛だが、おそらく母系のフォルティノや、ネイティヴダンサーの毛色が出たのだろう。
 ブライトエンブレム、ダノンリバティ、クラリティスカイは、おそらくダービーの距離が適性ぎりぎりだろう。期待の新種牡馬ハービンジャー産駒のベルーフは、切れ味に欠ける。もっと距離が延び、あるいは古馬となってその能力が発揮できるだろう。
 おそらくハービンジャー産駒は2400メートル以上の、ゆったりとしたペースで進むレースに向き、強い馬は力でねじ伏せるような勝ち方をするのではないか。かつてのダイナガリバー、メジロデュレン、メイショウサムソンのようなタイプに育つのではなかろうか。つまり菊花賞なら狙える。
 距離が延びて良いのはミュゼエイリアンである。父はスクリーンヒーロー、その父はグラスワンダー(長距離向き、晩成型のロベルトの血を引く)で、中・長距離向きの晩成型であろう。しかも母の父は、フランスのGⅠイスパン賞に2着、サンクルー大賞典(GⅠ)とフォワ賞(GⅡ)を勝ち、凱旋門賞(GⅠ)に2着した、あのエルコンドルパサーである。エルコンドルバサーが、日本の競走馬と競馬界に国際化の扉を大きく開いてみせたのである。ミュゼエイリアンも父スクリーンヒーロー同様、意外性を持っているのではないか。
 距離が延びる菊花賞は、夏以降に台頭するトーホウジャッカルのような上がり馬も出るだろう。皐月賞14着に敗れたベルラップが面白い。父はハーツクライ(サンデーサイレンス産駒だが、どちらかと言うと中・長距離向きで晩成型)、母の父シンボリクリスエス(その父系はロベルト) である。
 皐月賞に出なかったが、早くから期待が大きかったポルトドートウィユや、あのオルフェーヴルの全弟アッシュゴールドがダービーを勝つ目はほとんどあるまい。この二頭はきさらぎ賞で牝馬のルージュバックに完敗している。アッシュゴールドは牡馬としては小柄である。古馬となって実が入ってからを期待したい。陣営はこの小柄な馬をあまり使い過ぎないよう願いたい。
 スピリッツミノルは脚の四白と額から鼻に掛けた白(作と呼ばれる)と、尾花栗毛の派手な馬で、一年後にはもっと華麗な姿になるだろう。本田優調教師の管理馬である。本田優は、かつて四白流星の華麗な尾花栗毛で知られたゴールドシチーの騎手であった。彼の目には、ゴールドシチーとスピリッツミノルが重なっているかも知れない。スピリッツミノルは父ディープスカイ(本質的にはマイラーだった)、母の父ラムタラである。父も、その父アグネスタキオンも、母の父のラムタラも栗毛だった。夏以降のスピリッツミノルに期待したい。歴史的名馬ラムタラの、母の父としての奇跡が見てみたい。
 ちなみに桜花賞は、スローペースに持ち込んだレッツゴードンキが勝ったが、今後は苦戦が続くだろう。10着のココロノアイとは実力的に伯仲している。1番人気で9着に敗れたルージュバック、4着のクイーンズリングが、やはり実力では上位であるまいか。
 アメリカ産馬のアルビアーノ(3戦3勝、フラワーC優勝)もかなり強い。さらに故障休養中のショウナンアデラ(4戦3勝、阪神ジュベナイルF優勝)も秋には復活して来るだろう。彼女たちなら男馬と闘っても遜色あるまい。 


 このエッセイは2015年4月20日に書かれたものである。それから早くも一年以上が経ってしまった。
 それにしても競馬は難しい。なんとマイラー系の早熟タイプと思われたキタサンブラックが、長距離の菊花賞と春の天皇賞を勝ったのである。しかも差し返すなど素晴らしい根性勝ちでる。血統論者をこれほど裏切ってくれた馬は久しぶりである。やはり彼は右回り、特に京都が合うのだろう。好走のパターンとしては、内枠を引き、スローの先行・逃げに持ち込み、4コーナーから直線に入るときに内が大きく開くのでその最短コースを突く。
 いやあ競馬は難しい。それにしてもキタサンブラックは大した馬である。


               
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光陰、馬のごとし 田原成貴

2016年07月30日 | 競馬エッセイ
                                                                                                                  

 総選挙後やっと始まった臨時国会、鳩山総理の初めての所信表明演説を、案の定、民放各局のニュース番組はほんのわずかばかり触れただけであった。彼らがその時間のほとんどを割いたのは、酒井法子の初公判なのである。どの局にも、某カルト教団、某巨大宗教法人青年行動隊や、某国の日本人愚民化工作に従事する連中が入り込んでいるらしい。 近年、市場原理・競争原理の名の下に市場原理主義者を会長に迎え、TV界に於ける市場競争原理の尺度「視聴率」を気にし、民放番組の模倣に著しく傾斜しているNHKは、有事の際は大本営発表のみをタレ流すことを義務づけられた国策報道機関としての矜持と良心はあるらしく(中立公平の旗の下に自らの批判精神を封じ、ジャーナリストの矜持は些かも持たぬに)、「腐っても」NHKで、鳩山所信表明に時間を割き、ついで酒井法子初公判に触れた。流石である。大声で誉めてあげたい。 私は酒井法子とは口を利いたことはないが、サンミュージックの創立者で、酒井事件の責任をとって会長職を退いた相沢秀禎氏なら、その社長時代にお世話になって何度かお会いしたことがある。闊達で温厚な方という好印象が強く残っている。

 さて、私も覚醒剤事件で逮捕された人物について語ってみたい。 今月の中頃、京都で田原成貴が覚醒剤所持と使用で逮捕された。
 田原成貴は天才と呼ばれた元JRAの騎手である。今回の田原の逮捕はあまりニュースにはならなかったようだが、私には酒井法子より、「田原、再び覚醒剤で逮捕」のほうが、思うところ多い。
 彼のその華やかな騎手時代、私は仕事で何度か彼と話を交わす機会があった。彼はいつもすこし背を丸めていた。周囲から生意気だと聞いていたが、シャイで、穏やかで、なかなかユーモアもあり、笑顔の美しい好青年だった。ナルシストかと思われた。
  以前も書いたが、田原は天才が騎手になった男だったのである。騎手の天才・福永洋一が事故でターフを去った後、その後を襲うように勝ちまくったのは河内洋騎手であった。しかし彼は天才とは呼ばれなかった。河内は後に名手と呼ばれた。やがて河内を凌いで天才と呼ばれる若者が登場した。その若者が天才福永の後を襲うかに思われた。それが田原成貴である。彼はその甘いマスクから競馬界の玉三郎と呼ばれた。しかし彼は福永のようには勝ちまくることはなかった。田原成貴が天才と呼ばれた期間は短かったのである。
 その狷介な性格から、彼を生意気と思う調教師や馬主も多く、嫌われて、いつもニコニコとした福永のようには愛されなかったからである。またその後、「名人」と慕われた武邦彦の息子・武豊がデビューしたからである。武豊は福永洋一のように温厚、素直な性格で、また若さに似ず冷静で知的で、芯があり、どこか老成した感があった。武豊はたちまち圧倒的な騎乗数と有力馬の騎乗依頼に恵まれ、その期待通り勝ちまくって、「天才」と呼ばれるようになった。だから田原成貴が天才騎手と呼ばれた期間はごく短かったのだ。しかし騎手の天才・福永洋一や武豊と違って、田原は天才が騎手になった男だったのである。

 田原は実に大胆な、舌を巻くような騎乗ぶりを見せた人だった。その狷介孤高の精神は彼に災いし、トラブルメーカーと言われた。よく調教師や馬主、厩務員らと対立したからである。鞭で若い騎手や厩務員を殴った、記者を殴打したというトラブルも起こした。騎手は一般ファンに嫌われても商売に支障はないが、調教師や馬主という依頼主から嫌われれば商売にならない。
 その報道される調教師や馬主との主なトラブルは、見解の相違と越権にあった。彼は調教師の指示する騎乗方法を無視した。「乗るのは僕だから」である。
 また馬主が騎乗方法やレースの作戦に口を挟むことに対しては、「素人は引っ込んでろ」という態度を示した。言葉にしたこともあったのであろう。あくまで乗るのは自分である。馬の調子や気持ちが分かるのも自分である。
「なあ、おい、そやろ」と田原は馬に語り続け、会話し、調教師や馬主を無視し、生意気と言われ、対立したのである。彼は決して自分を曲げなかった。そして馬から降ろされた。以下のやりとりは私の勝手な想像である。

「調教師(せんせい)、この馬疲れています。レースは回避した方がいいですよ」
「そんなことはないやろ。体調も万全なはずだ」
「いや、疲れてますよ。僕には分かります」
「俺も調教師やで、馬のことなら分かる」
「いや、先生はこいつの気持ちがよう分かってません。こいつは精神的に疲れているんです」
「…」
「こいつの言うことに耳を傾けてください。嫌や、言うとるやないですか。もう嫌や、疲れた、言うとるやないですか」
「…」

「先生、この馬、左の後肢がおかしい」
「そんなふうには見えへんが…」
「乗った僕がおかしいと感じたんです。休ませましょう」
「それはお前が決めることではない! 馬主(オーナー)も次のレースは絶対使って欲しいと言うとるんや」
「オーナーなんて素人やないですか。休ませましょう」
「それはワシが決める」
「休ませましょう」
「じゃかしい!」

 木訥であまり言葉を知らない他の騎手に比し、田原はどちらかといえば饒舌であった。語彙も豊富で、まるで詩人のような美意識、ユニークな言葉の「感覚」を持っていた。絶対我々には分からない、騎手にしか分からない、騎乗時の微妙な一瞬の感覚を、明確に、的確に伝える言葉の鋭さと、切れ味を持っていた。彼が馬と共に突っ込むべき光の中、音のない真空の広がり、自分たちの前にぽっかりと開いた異空間、異次元、神の領域、そして勝負師の凄みのある冷徹さと、美と、めくるめく陶酔…。彼の言葉は詩の言語であった。
 彼は自分の言葉に感応する相手に対してだけ、その独特な言葉を発した。それが鶴木遵のインタビューに、実によく顕れている。聞き手の鶴木が予想紙の記者やスポーツ紙の記者、テレビのインタビュアーではなく、言葉に対して鋭い感覚を持った「詩人」のような書き手だったからである。

 田原はレース中、ターフにしたたかに叩きつけられた。一つの腎臓が破裂し、摘出された。復帰後の田原の騎乗数は半減した。それでも大レースでは、あっと驚くような凄みのある騎乗を見せ、上位に食い込み、大穴をあけ、優勝してみせた。劇画の原作を書き、小説もエッセイも書き、歌手としてレコーディングもした。
 あるときJRAの職員の一人が私に小声で吐き出すように囁いた。
「田原は駄目だよ。あいつの周りには悪い奴らがいる。あんな奴らと付き合ってちゃ駄目だ!」
 やがて、田原と好ましくない人物たちとの交際が囁かれるようになった。
 彼はまだ現役を退く年齢ではなかったが、騎手を引退した。腎臓がひとつしか残っていないことが、肉体的にも精神的にも負担であったのだろう。
 調教師になって三年、彼は東京に出張してきたおり、覚醒剤所持の現行犯で逮捕された。当然、調教師免許を剥奪され、競馬界から永久に追放されたのである。

 それから数年、彼は再び覚醒剤に手を出し、今秋逮捕されたのである。更正したかに伝えられていた田原は、再び転落し、地上にしたたかに叩きつけられたのだ。 「幸福は幻にすぎないが、苦痛は現実である」と言ったのはヴォルテールであった。数々の大レースを勝った田原の栄光は一瞬に過ぎなかったのだ。幸福を栄光に、苦痛を転落という言葉に置き換えるなら、田原にはヴォルテールの箴言がふさわしい。
 彼は何か苦痛から逃れるために薬に手を出したのだろうか。覚醒剤が呼び起こす幻覚の中に、栄光時代に見た「馬と共に突っ込むべき光の中」「ゴールまでの静謐な真空」「馬と自分の前にぽっかりと開いた異空間、めくるめく異次元」、「神の領域」を見たのだろうか。そして、転落もまた彼にとっては、甘美と陶酔の中の一瞬の出来事なのではなかったか。
 額や目の上にかかったさらさらした髪を、顔を振って払い、すこし背を丸め、両の手を無造作にズボンのポケットに突っ込み、甘いマスクに恥らうような笑みを浮かべながら、受け答えする田原の姿が思い出される。私は今でも田原成貴の天才を、いささかも疑っていない。


             (この一文は2009年10月29日に書かれたものです。)
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光陰、馬のごとし 横山典弘

2016年07月28日 | 競馬エッセイ
                                                            

 競馬ほど追憶を呼び覚ます娯楽はない。そもそも競馬は記憶のゲームなのだ。
今年のダービー、優勝馬はロジユニヴァース、勝利騎手は横山典弘だった。また私は感慨に耽った。
 1986年、我が社名アプローズを馬名に見出した。フミノアプローズという関西馬である。新馬戦を勝ち、二戦目の万両賞は敗れたが、その後雪割草特別、重賞きさらぎ賞に優勝した。4戦3勝でクラシック第一弾の皐月賞の有力馬として名乗りを上げ、トライアルのスプリングステークスを目指し、勇躍東上して来るのである。父はイングリッシュプリンスというアイルランド・ダービーを勝った一流馬である。その父はペティンゴで、母の父はネバーセイダイであることから、血統的に長距離を得意とする馬であろう。
 三月の末、社員たちは「フミノアプローズを応援に行きましょう」と言い出し、私たちは連れだってスプリングSを観戦に中山競馬場に出かけた。その日の何レースか覚えがないが、横山典弘が騎乗したレースがあった。この月の三月一日に、横山典弘は騎手デビューしたばかりである。彼はまだ初勝利を挙げていなかった。
 彼の父は職人的な名手として人気のあった横山富雄である(※1)。父の名が高い分、典弘は注目されていたと言っていい。したがって、彼の騎乗馬は実力より少しばかり多くの人気を集めていたのだろう。その時のレースも典弘は人気馬に騎乗していた。彼の乗った馬はゲートが開くと同時に敢然とハナにたち、暴走気味の大逃げをうった。スタンドがどよめいた。案の定、横山が乗った馬はバテて、四コーナーを回った坂下であっという間に馬群に飲み込まれていった。彼らは離された最下位で入線した。
 私たちは下馬所近くの柵に取りついていた。戻ってきた馬と典弘に、群衆の中から大声が掛かった。それは本当に大きな声であった。
「横山ァ、お前はペース配分を知らんやつだなァ。でも面白かったから誉めてやる!」どっと笑いが起こった。「少しはオヤジを見習えよォ! オヤジを…」
 典弘はその後もなかなか勝てず、彼が初勝利を挙げたのは一月後であった。このデビューの年、典弘はたった8勝しかできなかった。

(※1)横山富雄は障害競走の騎手として中山大障害を五度優勝している。その長手綱が長距離競走に向くという理由で、メジロの冠名で知られる大馬主の北野豊吉に騎乗依頼され、メジロタイヨウやメジロムサシで天皇賞を勝った。障害競走の騎手が平場の大レースを勝つことは珍しい。今日フリー騎手は珍しくもないが、彼は当時渡辺正人(まさんど)騎手に次ぐ二人目のフリー騎手となり、その先鞭をつけた。ニットウチドリで桜花賞やビクトリアCに優勝し、ファイブホープでオークスに優勝した。またツキサムホマレでワシントンDCインターナショナルにも挑戦した。
 彼が騎手生活の晩年に騎乗したメジロファントムは、強いはずなのに惜敗続きで、へんな人気を誇った。この鹿毛の馬は引退後に東京競馬場で誘導馬になったが、そのときの大レースの出走馬より人気があったほどである。なぜなら、ファントムはまるで現役馬のように美しい鶴っ首を示して、闘志を漲らせていたからである。その姿にスタンドから「ファントム!」の声が掛かり、拍手が起こった。

 デビュー三年目あたりから横山典弘は頭角をあらわしてきた。メジロの馬をはじめ、有力馬にも騎乗するようになった。ダービーフェスティバルや有馬記念フェスティバルなどのイベントに、ゲスト騎手として出演するようにもなった。彼は楽屋でふざけて騒ぎ回り、ステージの進行説明をする私の話もろくに聞かず、多弁で、生意気で、やんちゃで、陽気で、落ち着きがなく、全くの悪戯っ子だった。皐月賞当日に行われる「騎手とファンとの集い・運動会」イベントでも、悪戯っ子ぶりを発揮していた。インタビューを受けてもふざけた発言を繰り返していた。…
 そんな典弘がすっかり大人になって、若い騎手たちから「ノリさん」と慕われ、「ノリさんこそ天才です」と憧憬されるようになったのだ。父に似て長距離が得意で、メジロライアンでの天皇賞は果たせなかったが、サクラローレルで天皇賞と有馬記念を勝った。芦毛のセイウンスカイで人気のスペシャルウィークを敗って皐月賞に勝ち、菊花賞では博打的な大逃げをうって優勝した。イングランディーレ(※2)に騎乗した天皇賞でもハナから飛ばし、二十馬身も離した大逃げの博打をうって優勝した。まるで「ペース配分を知らん」かのような、暴走気味の逃亡劇である。しかし長距離レースこそ騎手の技量がものを言うのだ。

(※2)イングランディーレは、おそらくプリティキャストと共に史上もっとも低い評価しか与えられていない天皇賞馬ではないか。彼は典型的なステイヤーであった。中央から地方競馬を転戦していたが、天皇賞は横山典弘の大胆な捨て身戦法がまんまと功を奏し、何と「優勝してしまった」感がある。全く勝負師・典弘の騎乗技術による。
 ちなみに私はプリティキャストもイングランディーレも嫌いではない。なにしろプリティキャストは、あの吉田一太郎・権三郎らの「頑固」な「信念」という「浪漫」が生みだした「奇跡」だからである。またイングランディーレのようなドサ回り的役者が、並み居るスターたちを霞ませてしまう、そんな痛快事は滅多にないからである。

 横山典弘は95年、05年、06年は年間百勝を超え、関東のリーディングジョッキーに輝いた。そして昨年の秋、通算勝利度数は千八百勝を超えた。典弘はいつしか関東を代表する名騎手になっていたのだ。
 しかしダービーに勝てなかった。2着が最高で、どうしてもダービーに勝てなかったのである。今年、典弘は騎手生活二十三年になるという。あれから二十三年、すでに四十一歳である。そしてダービー十五回目の挑戦で、ついに優勝した。そのインタビューは喜びを爆発させることもなく、たんたんと落ち着き払って語っていた。あの典弘が、ロジユニヴァースに感謝の言葉を述べ、まるで父・横山富雄のように、渋い落ち着きを醸していた。あの典弘が「ダービーも未勝利(戦)も、一勝ですから…」と言ったのだ。無論、ダービー制覇が嬉しくないわけはなく、ただ静かに喜びを噛みしめているのである。
 今JRAの騎手学校に、典弘の息子がいるそうである。順調にいけば、来年の三月初旬にデビューするだろう。親子で同じレースに乗ることもあるだろう。その子に向かって誰かが、「横山ジュニアァ、お前はペース配分を知らんやつだなァ。少しはオヤジを見習えオヤジを! でも面白かったから誉めてやる!」と言う声も掛かるかも知れない。さすがに「爺さんを見習え、爺さんを!」というファンはいないかも知れないが。
ともかく、ロジユニヴァースと典弘に賛辞を送りたい。不良馬場のイン三番手にジッと我慢し、直線突き抜けたロジユニヴァースの忍耐力と、本物の強さを見た。典弘は実にうまく乗った。典弘のインタビューによれば、ロジユニヴァースの体調はあまり良くなかったそうである。この馬は左前脚が外向しているという。同様の脚が外向した馬にトウショウボーイがいたが、今後ロジユニヴァースは脚部不安に悩まされるかも知れない。一方、一番人気のアンライバルドは、位置取りがあまりにも後方過ぎたようである。最後方グループで泥を被り続け、おそらく馬はやる気をなくし、直線で追われても重い馬場に脚をとられて自慢の末脚も発揮できなかったのだ。明らかに名手・岩田騎手の騎乗ミスである。また離れた二番手で「逃げ」、2着に粘ったリーチザクラウンの武豊を絶賛したい。流石に巧みな騎乗である。

 さてフミノアプローズと、デビューから彼の背にあった丸山勝秀騎手のことである。丸山騎手は、関西の中堅騎手としてオサイチジョージ等で大レースにも優勝して活躍していたが、後年、どうしたことか騎手仲間の部屋に盗みに入って逮捕され、競馬界から永久追放された。フミノアプローズは、私たちが応援に行ったそのスプリングSで、一番人気に推されながら3着に敗れた。皐月賞ではすっかり人気を落とし、ダイナコスモスの11着に惨敗した。体調を崩し秋まで休養に入ったが、復帰戦の神戸新聞杯も冴えずに敗れた。その後脚部不安で一年を棒に振り、古馬となって復帰した三戦目に競走を中止した。故障を発生したのである。彼はついに喝采を浴びることなく、ターフの舞台から去っていった。

          (この一文は2009年6月2日に書かれたものです。)

            
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競馬エッセイ 巨泉さんと競馬

2016年07月21日 | 競馬エッセイ

 大橋巨泉さんは競馬が好きで、中央競馬(JRA)に何頭かの馬を所有する馬主だった。
 何冊かの競馬の本も書かれ、中央競馬会には耳の痛い、競馬界のリベラルな改革を直言していた。耳が痛かろうと思われるのは、まさに正論だったからである。今は当たり前になってしまったことも、当時の抵抗は強く、その壁は厚く高かったのである。巨泉さんの提言は20年、30年後に徐々に実現していった。しかし巨泉さんは、その頃すでに競馬を止めていた。

 当時の提言の一つは外厩制度の導入であったが、これはなかなか実現しなかった。外厩制度の導入はオーナーブリーダーであったシンボリ牧場の和田共弘氏や社台の吉田善哉氏も主張していた。それが実現したのは20数年も経ってからである。
 また巨泉さんは当時の調教師たちをかなり強い口調で批判していた。調教師たちが、調教助手や赤帽(見習い騎手)たちに「15ー15で回ってこい」と指示を出すと天狗山(調教師スタンド)に陣取って昨夜のキャバレーの話に興じている、あんな人たちは調教師失格だと苦言を呈した。
 また、馬名に関して「冠馬名」に疑問を呈していた。つまりシャダイ◯◯、シンボリ◯◯、メジロ◯◯…。最近の好例ではキタサン(北島三郎さんの冠馬名)…、サトノ…。
 欧米の競走馬の馬名は、その名を聞いただけでその血統がわかり、またその馬名に血統に因んだ物語や、ユーモアあふれる洒落が込められている。日本の競走馬の馬名もそうなってほしいというのである。大賛成である。
 巨泉さんの馬にヌレギヌと名付けられた馬がいたが、中央競馬会はそれを許可しなかった。巨泉さんは何故ヌレギヌと命名したか、その理由を何日もかけて説明したという。まさに欧米風の命名術の実践で、しっとりと濡れた薄いビロードのような肌、そして確かリマンド牝馬だったと記憶するが、リマンド(remand)とは法律・裁判用語で「再取り調べのため再拘留する、下級裁判所に差戻す、再審理する」意味であり、その母系や血統からもこれこれの洒落で名付けたと説明したという。
 見事だ、あらぬ言いがかり、あらぬ濡れ衣を晴らしてくれ。競馬会は競馬文化の中に、長い「馬名の文化」「馬名命名の文化」もあることを理解していなかったのだ。また、こんな小洒落た命名をする日本人馬主は稀有で、巨泉さんくらいであったろう。ヌレギヌは未出走のままで終わったが、「さすが巨泉さん。和のイメージの綺麗な名前だ、そしてニヤッとさせる」と心から感心したものである。
 近年、やっと冠馬名より、考え抜かれた凝った馬名が付けられるようになった。その好例は菊花賞馬でオーストラリア最大のレースであるメルボルンカップに優勝したデルタブルースである。その父はダンスインザダーク(その母はダンシングキイ)、母ディクシースプラッシュ、母の父ディキシーランドバンド、その母ミシシッピマッド、ミシシッピマッドの父デルタジャッジ、母サンドバギー…洒落ている。思わず微笑んでしまう。
 しかし懲りすぎた訳のわからない外国名の馬名も増えてきた。格好をつけすぎ、その血統もさっぱりわからないし、物語性も欠如している。小洒落たユーモアもない。つまり馬主たちに文学的素養がないということだろう。巨泉さんは「語彙は教養だ」と言った。その通りである。

 小倉智昭さんはテレビ東京で競馬中継を担当していたが、巨泉さんがニッポン放送で「日曜競馬ニッポン」をスタートさせるときに、彼を引き抜き、大橋巨泉事務所の所属とした。
 私が競馬会(JRA)のイベントで、ダービーフェスティバルや有馬記念フェスティバルをやり始めた頃、その司会進行は小倉智昭さんと鈴木淑子さんであった。しかしある時、小倉さんの番組での発言が中央競馬会の批判に当たるとして、競馬会を激怒させた。内容は忘れたが、私には以前に巨泉さんが言っていたことと同じ内容と思われた。しかし競馬会は小倉を外せ、もう彼を競馬のイベントに起用するなと言ってきた。以後、関西テレビの杉本清さんと鈴木淑子さんでいくことになった。
 巨泉さんの訃報で、ふとそんなことも思い出した。

   
       
コメント
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