芳野星司 はじめはgoo!

童謡・唱歌や文学・歴史等の知られざる物語や逸話を写真付でエッセイ風に表現。

好きな童謡

2016年10月10日 | エッセイ
                                                               

 あまり童謡や唱歌を耳にすることがなくなって久しい。はなはだ残念なことだ。
 これまでも童謡唱歌の逸話を、勝手な想像まじりに「掌説うためいろ」と題して書いてきた。「勝手な想像まじり」というのは、詩人や作曲者に関する様々な解説や逸話を読むと、どうも違うのではないか、あるいはその時代が立体的、重層的にとらえられていないのではないか、と感じられるため、こうではなかったのか? ということからくる想像なのである。
 これといった劇的な逸話が少ない童謡唱歌は、「掌説うためいろ」に入れなかった。しかし、二木紘三先生、池田小百合先生や、童謡唱歌の仕事に携わっておられる方々には、とてもとても及びもしないが、私にも大好きな童謡や唱歌が数多くある。

「どこかで春が」はそのひとつである。作詞は百田宗治、作曲は草川信で、大正12年(1923年)に発表された。
 百田宗治は明治26年(1983年)大阪生まれである。大正4年(1915年)に個人雑誌「表現」を出し、その翌年に詩集「一人と全体」を出版した。彼は人道主義的、民主主義的な傾向を強め「民衆」派詩人の一人と目された。その後は贅句を削った現代的な詩風に一変した。昭和7年以降は童謡詩、児童詩・作文教育に取り組み、児童文学者や全国の教師たちと綴方運動を始めた。

   一
    どこかで「春」が 生まれてる
    どこかで水が 流れ出す
   二
    どこかで雲雀(ひばり)が 啼(な)いている
    どこかで芽(め)の出る 音がする
   三
    山の三月(さんがつ) 東風(こち) 吹いて
    どこかで「春」が うまれてる
  
「緑のそよ風」も草川信の作曲である。昭和22年(1947年)に、清水かつらがNHKラジオの依頼を受けて作詞し、草川の最晩年の童謡となった。この頃の彼は、南方に出征したまま生死も知れぬ長男・宏のことや、罹病のため塞ぎ込むことが多かったという。
 しかしこの歌は明るい。彼の希いを込めた最期の明るさだったのだろう。この「緑のそよ風」は翌年の1月に放送されたが。彼はラジオから流れるこの曲を聴くことができなかった。

   一
    みどりのそよ風 いい日だね
    ちょうちょもひらひら 豆の花
    なないろ畑に いもうとの
    つまみ菜つむ手が かわいいな
   二
    みどりのそよ風 いい日だね
    ぶらんこゆりましょ 歌いましょ
    すばこの丸まど ねんね鳥
    ときどきおつむが のぞいてる
   三
    みどりのそよ風 いい日だね
    ボールがポンポン ストライク
    打たせりゃ二塁の すべり込み
    セーフだおでこの 汗をふく
   四
    みどりのそよ風 いい日だね
    小川のふな釣り 浮きが浮く
    静かなさざなみ はね上げて
    きらきら金ぶな うれしいな
   五
    みどりのそよ風 いい日だね
    遊びに行こうよ 丘越えて
    あの子のおうちの 花畑
    もうじき苺(いちご)が 摘めるとさ

「村の鍛冶屋」は大正元年(1912年)は「尋常小学唱歌(四)」として全国の小学校で歌われた文部省唱歌だ。したがって作詞者・作曲者は不詳で特定されていない。時代を経て、少しずつ歌詞が変えられている。
 昭和60年に音楽教科書から姿を消した。そのときの文部省の役人の話が忘れられない。要約すると「今の子どもたちには『鍛冶屋』だとか『ふいご』と言っても理解できない」と言った。そんなもの、教えればいいことだろう。
「チャンバラ時代劇の刀を作る職人さんは刀鍛冶という。農業に使用するクワ、カマ、スキ、ナタ(黒板に白墨で簡単な絵を描き)などを作る職人さんは野鍛冶という。鍛冶仕事には鉄を真っ赤に焼く炭火が必要で、フイゴはその火を盛んにするため風を送り込む装置だ」…何の不都合やある。明治初期の唱歌は、全国的に統一した「国語」、さらに品格のある日本語、万葉以来の伝統の五七調の言葉のリズム、韻律も教えることでもあったはずだ。また音楽好きの教師たちは、算数の授業で節を付けた数え歌を教えたこともあった。何の不都合やある? 

   一
    暫時(しばし)も止まずに槌打つ響
    飛び散る火の花 はしる湯玉
    ふゐごの風さへ息をもつがず
    仕事に精出す村の鍛冶屋
   二
    あるじは名高きいつこく老爺(おやぢ)
    早起き早寝の病(やまひ)知らず
    鐵より堅しと誇れる腕に
    勝りて堅きは彼が心
   三
    刀はうたねど大鎌小鎌
    馬鍬に作鍬(さくぐは) 鋤よ鉈よ
    平和の打ち物休まずうちて
    日毎に戰ふ 懶惰(らんだ)の敵と
   四
    稼ぐにおひつく貧乏なくて
    名物鍛冶屋は日日に繁昌
    あたりに類なき仕事のほまれ
    槌うつ響にまして高し

「村祭り」もいい。これも文部省唱歌で、作詞者・作曲者は不詳(南能衛作曲とする記述もある)。明治45年の文部省「尋常小学唱歌(三年)」に掲載され、昭和17年の「初等科音楽(一)」で歌詞が改められている。
   一
    村の鎮守の神様の
    今日はめでたい 御祭日(おまつりび)
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    朝から聞こえる 笛太鼓
   二
    年も豊年満作で
    村は総出(そうで)の 大祭(おおまつり)
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    夜まで賑(にぎ)わう 宮の森
   三
    治(おさ)まる御代(みよ)に 神様の
    めぐみ仰(あお)ぐや 村祭
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    ドンドンヒャララ ドンヒャララ
    聞いても心が 勇み立つ

 私は「あの町この町」という童謡を聴くと、なぜか横浜の夕焼けの坂道を思い出す。この曲は大正13年(1924年)に「金の船」に発表された。
 それにしても野口雨情と中山晋平コンビは「証城寺の狸囃子」「兎のダンス」「黄金虫」「雨降りお月さん」「シャボン玉」など、何と多くの素晴らしい童謡を残してくれたことか。

   一
    あの町この町 日が暮れる
    日が暮れる
    今きたこの道 帰りゃんせ
    帰りゃんせ
   二
    おうちがだんだん 遠くなる
    遠くなる
    今きたこの道 帰りゃんせ
    帰りゃんせ
   三
    お空に夕べの 星が出る
    星が出る
    今きたこの道 帰りゃんせ
    帰りゃんせ

「仲よし小道」は、三苫やすしが、ガリ販刷りの同人誌「ズブヌレ雀」に、昭和14年(1939年)1月に発表した童謡詩である。キングレコードの専属作曲家になっていた河村光陽が、これを偶然見つけて曲を付け、キングのディレクターに持ち込み、光陽の娘の順子と、金子のぶ子、山元淳子の三人の歌で2月にはレコード化した。すごいスピードである。この時、作詞の三苫には無断で勝手に三番、四番の歌詞を変更したという。そういう時代だったのだ。
「仲よし小道」はヒットした。日中戦争が拡大しつつあった頃である。
 三苫やすしは明治43年(1910年)に福岡に生まれた。福岡師範学校を出て教職に就き、川崎の小学校、生田の中学校に勤務するかたわら、詩作を続けた。彼は昭和24年に亡くなっている。
 河村光陽も福岡出身で、小倉師範学校を出て地元で音楽教師をした。その後作曲に専念し、キングレコードの専属となった。
 やがて時代は太平洋戦争に突入し、小学校は国民学校に、子どもたちは少国民になり、集団で登下校するようになった。「仲よし小道」の楽しい日々は、ごく短い間だったのだ。

   一
    仲よし小道は どこの道
    いつも学校へ みよちゃんと
    ランドセル背負(しょ)って 元気よく
    お歌をうたって 通(かよ)う道
   二
    仲よし小道は うれしいな
    いつもとなりの みよちゃんが
    にこにこあそびに かけてくる
    なんなんなの花 匂(にお)う道
   三
    仲よし小道の 小川には
    とんとん板橋(いたばし) かけてある
    仲よくならんで 腰(こし)かけて
    お話するのよ たのしいな
   四
    仲よし小道の 日ぐれには
    母さまお家(うち)で お呼びです
    さよならさよなら また明日(あした)
    お手手をふりふり さようなら

「歌の町」も好きな曲だ。終戦後の世相に、子どもたちに明るさを与えてくれた曲の一つだろう。
 作詞の勝承夫(かつ よしお)は明治35年(1902年)東京四谷生まれである。旧制中学の頃から詩人として知られ、東洋大学に進んで「新進詩人」「新詩人」に参加した。大学卒業後は報知新聞社の記者となり、昭和18年に退社して文筆に専念した。戦後は音楽教育活動や全国の学校の校歌も手がけ、日本音楽著作権協会の会長となり、また東洋大学の理事長も務めた。
 作曲の小村三千三は明治33年(1900年)神奈川県三崎町の生まれである。彼もまた全国の小・中・高・大学の校歌を作曲した。

   一
    よい子が住んでる よい町は
    楽しい楽しい 歌の町
    花屋はちょきちょき ちょっきんな
    かじ屋はかちかち かっちんな
   二
    よい子が集まる よいところ
    楽しい楽しい 歌のまち
    雀は ちゅんちゅく ちゅんちゅくな
    ひ鯉は ぱくぱく ばっくりこ
   三
    よい子が元気に 遊んでる
    楽しい楽しい 歌の町
    荷馬車は かたかた かったりこ
    自転車 ちりりん ちりりんりん
   四
    よい子のお家が ならんでる
    楽しい楽しい 歌の町
    電気は ぴかぴか ぴっかりこ
    時計は ちくちく ぽんぽんぽん

 私の幼少期、横浜には子どものお馬車が走っていた。それ以前に馬車道という地名もあった。少年期に銚子に暮らしたが、ヤマサやヒゲタの醤油工場の荷馬車が、醤油樽を積んで公道をガラガラと行き来していた。花屋は今も「ちょきちょき ちょっきんな」のままだが、さすがに鍛冶屋は町から姿を消した。しかし下町でたまさか見かける板金屋は「ばんばん」と叩き、通りかかった町工場の音は、今でも「がったん、がったん」と耳にすることがある。自転車の「ちりりん りんりん」は蕎麦屋の出前の兄さんか、三河屋の御用聞きのおじさんの自転車か。いきいきとした小さな産業と、暮らしの音があった。

                                                                 
                                                        

加藤典洋さん 日本の独立を語る

2016年10月09日 | 言葉
                                                                  

 明治維新期、フランスから帰ってくる途中、思想家の中江兆民は欧州人がサイゴンの港でアジア人を足蹴にして使役しているのを見て、彼らの自由平等博愛の原則は立派だが、彼らにはそれを実行できない。本当に実行できるのは、彼らではなくて、彼らの思想を輸入し、学ぶ自分たちのほうなのだと悟ります。それと同じことが、ここにもいえるからです。

 その課題とは、民主主義の原則は、戦後、占領期に米国によってもたらされたのですが、これを、米国以上にはっきりと実現し、国際社会に寄与していけるのは、彼らではなくてわれわれなのではないか、というものです。日本に民主原則、平和原則を確立するために、米国の非民主的、また軍事的な介入を排除し、あくまで平和主義を貫き通すかたちで、対米自立を獲得する、というのがその具体的な目標です。そこからはじめ、米国を含む近隣諸国とのあいだに友好的な善隣信頼関係を築き上げ、国連中心主義に立ち、世界の平和の確立に寄与していくのです。

            (2015年8月15日「ポリタス」より)

名歌誕生の不思議

2016年10月08日 | エッセイ
                                                                

   
   
    われは湖(うみ)の子 さすらいの
    旅にしあれば しみじみと
    のぼる狭霧や さざなみの
    志賀の都よ いざさらば
   二
    松は緑に 砂白き
    雄松(おまつ)が里の 乙女子は
    赤い椿の 森蔭に
    はかない恋に 泣くとかや
   三
    波のまにまに 漂えば
    赤い泊火 なつかしみ
    行方定めぬ 浪枕
    今日は今津か 長浜か
   四
    瑠璃の花園 珊瑚の宮
    古い伝えの 竹生島
    仏の御手に いだかれて
    ねむれ乙女子 やすらけく

「琵琶湖周航の歌」は旧制第三高等学校の端艇部の歌として歌われはじめ、ほどなく第三高等学校(京都帝国大学)全体の寮歌として、やがて各地の旧制高等学校でも歌われるようになった。詩と旋律が若者たちの持つ青春のリリシズムに響いたのであろう。

 明治26年に第三高等学校のボート部が創設以来、毎年学年末(この頃の旧制高等学校、大学は9月が学年初め、6月末が学年末で7月卒業であった)に、ナックルフォア(漕手四人、舵手一人)数艇に分乗し、数日かけて琵琶湖を周航するのが恒例行事であった。
 小口太郎は明治30年(1897年)、諏訪湖西岸の湊村(現岡谷市)出身で、大正5年9月に、第三高等学校の二部(理工農進学コース)に進学した。小柄でどこか女性的な優雅さがあり、温和な性格で、優しい面立ちと切れ長の目をし、笑窪が愛らしい美青年であったという。
 大正6年(1917年)6月27日、二部の学生たちはフィックス艇(漕手六人、舵手一人)に乗り、この恒例の周航に参加した。
 彼らは合宿所のある琵琶湖南端の大津三保ヶ崎を出発し、西岸沿いに北上し雄松で宿泊した。二日目も北上して今津で宿泊した。次の日は今津から東進して竹生島に寄り、長浜で昼食休憩し、南下して彦根で宿泊した。最終日は彦根を出発して、長命寺で昼食を取り、南下を続けて大津に戻った。
 小口は漕艇中に詩想を得て、密かに詩作し、今津で焚き火を囲んで放歌高吟しているとき、友人の中安治郎に見せた。すると中安が「おいみんな、小口がこんな詩を作ったぞ」と仲間たちに紹介した。それはなかなか評判が良かったが、仲間や先輩も「ここはこう表現したらどうだ」と意見を言った。小口は仲間や先輩の意見を取り入れ修正したらしい。おそらく詩は二番か三番までであったろう。
 その詞を前に「どんな曲で歌えば合うだろうか」と放歌高吟青年たちが、いろいろ試したのだろう。そのうち谷口謙亮がふと思いついて言った。「おい、『ひつじぐさ』の旋律が合いそうだな」…。
 当時三高の学生たちが好んで歌っていた哀愁と情感漂うイギリス民謡「ひつじぐさ」のメロディで歌ってみたところ、歌詞にピタリと合った。「おお」「合うじゃないか」
 小口は曲も自分で作ろうと思っていたのだが、みんな「ひつじぐさ」で盛り上がってしまった。
 今日歌われている六番までの歌詞は、翌大正7年にはできていたらしい。仲間や先輩の意見も取り入れ、小口太郎がまとめたのだろう。
 やがて「琵琶湖周航の歌」は、端艇部だけでなく、三高全体の学生たちによって歌い継がれ、広まっていった。しかし「ひつじぐさ」も譜面があったわけでもなく、口伝えで継承されたため、原曲のとはかなり違うらしい。
 
 小口太郎は第三高等学校を卒業すると、東京帝国大学理学部物理科に進学した。彼は「きわめて頭脳明晰で真摯」であったという。在学中に「有線及び無線多重電信電話法」を発明し、数か国の特許を得たという。卒業後は東京帝大付属の東京航空研究所嘱託の研究者として勤務した。
 太郎は徴兵検査を受けた後、神経衰弱となり、退所した。諏訪湖畔の故郷に戻ったが、病は重くなるばかりで、大正13年に豊多摩郡の淀橋町の病院に転院している。その療養の甲斐なく、大正13年5月に27歳で亡くなった。
 自殺であった。鬱病だったのかも知れない。その頃彼は、諏訪中学の後輩の妹・浜岡すずと婚約していたが、小口家は浜岡家に対し「太郎は脳溢血で亡くなった」と伝えた。

「琵琶湖周航の歌」は学生たちの間でのみ歌われていた。昭和8年(1933年)にタイヘイレコードから「第三高等学校自由寮生徒」の歌唱によるものとして発売されている。
 第二次世界大戦後は歌謡曲としてひっそりと歌われ続け、昭和30年代になると歌声喫茶でも歌われるようになった。昭和36年(1961年)にボニージャックスが、さらにペギー葉山、小林旭が歌い、その後も多くの歌手によって歌われている。昭和46年(1971年)、加藤登紀子が「琵琶湖周航の歌」をカバーし70万枚を売り上げた(これまで60組以上の歌手がカバーしている)。この加藤登紀子の大ヒットから「琵琶湖周航の歌」の研究や調査が始まったのである。
「琵琶湖周航の歌」は作詞作曲・小口太郎とされていて、「ひつじぐさ」を原曲としていることは忘れられていた。「ひつじぐさ」はイギリス民謡らしい。イギリス民謡とされているが不明なことが多い。そもそも曲は伝わっていなかったのではないか? ではその作曲者は誰なのかという調査が本格化した。
 やがて「吉田ちあき」という人がイギリス民謡「ひつじぐさ」を七五調で訳し、その訳詞に自ら曲を付けたらしい。…
 しかし、「吉田ちあき」という人は、どこのどんな人かは、ほとんど知られていなかった。
 その「ひつじぐさ」の楽譜が出てきたのは昭和50年代に入ってからである。どうやら「吉田ちあき」は、新潟に縁があるらしいことがわかってきた。
 そして地元紙の小さな記事が、偶然「吉田ちあき」を特定することになった。

 平成5年、新潟県安田町で「吉田東伍展」の準備をしていた旗野博氏の目に、新潟県の地方紙の小さな記事が目に留まった。滋賀県今津町教育委員会の落合良平氏が「琵琶湖周航の歌」で町興しを企画しており、作曲者「吉田ちあき」の消息を探している、というのである。旗野博氏は吉田家の系図を目にしていた。
 吉田東伍の次男は「吉田千秋」であり、元新潟大学文学部教授の吉田冬蔵氏の実兄である。旗野博氏は冬蔵氏に連絡を入れた。
 吉田千秋は11才年上の吉田冬蔵氏の実兄である。冬蔵氏は旧制新潟高等学校に通っていた時に「琵琶湖周航の歌」を良く歌ったという。愛唱していた歌の作者が、夭折した兄の千秋であったとは!
 千秋は、歴史・地理学の巨人・吉田東伍の次男であった。天才・吉田東伍は大正7年に亡くなったが、その翌年に千秋は24歳で夭折していた。

 吉田千秋は明治28年(1895年)2月に、新潟県中蒲原郡小鹿村大字大鹿(現・新潟市)に生まれた。兄は春太郎、妹が小夏、弟が冬蔵、その後に生まれた妹は、梅とあやめである。
 千秋の誕生時はちょうど日清戦争の最中で、父・東伍は読売新聞の従軍記者として軍艦「橋立」の上にいた。
 東伍は吉田家の婿養子だったが、大鹿の家ではなく、東京で研究と執筆生活を送っていた。千秋の二歳の時、母と上京して父と暮らし、尋常小学校に入学したが、数ヶ月後に新潟の実家に預けられて転校した。高等小学校に入学したのも新潟だったが、二年次には再び東京に転校した。明治40年に東京で中学校に入学したが、その頃に肺結核に罹患した。
 彼は英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語、ロシア語など外国語を独学し、さらにはドイツ語の本で音楽を独習した。療養のために入院した茅ヶ崎南湖院の院長であった高田耕安を通じ、キリスト教に触れ、聖書も外国語で読んだという。
 千秋が中学校に入学した頃、東伍は千秋と兄の俊太郎の語学の勉強のため、高価だった蓄音機を買い与えた。二人はこの蓄音機にかじりついて英語のレコードを聴いたらしい。千秋の英語聞き取りの能力は優秀だったという。音楽は独学だったのだが、耳が良かったのであろう。聞き覚えた曲を採譜し、さらに自分の声域にあわせて歌っていた。千秋の声は低く、ハーモニカを器用に吹き、バイオリンや手風琴(アコーディオン)や卓上ピアノを上手に弾いたという。
 千秋の音楽はやがて作詞と作曲に向かった。彼は自分で作詞、訳詞したものに曲を付けた。本当は自分で歌いたかったに違いない。今ならシンガーソングライターを目指しただろう。彼は自分の作品を、雑誌へ投稿した。
 明治45年、大日本農会附属東京農学校(現東京農業大学)に入学した。大正4年に、イギリス民謡の英語の詞を訳し、混声4部合唱曲「ひつじぐさ」を作曲した。これは「音楽界」8月号に掲載された。その「ひつじぐさ」が気に入り、愛唱する青年たちがいた。それは静かに、千秋の知らない遠い所で広がっていったのだ。
 千秋は京都に行ったことがない。谷口謙亮という青年も知らない。千秋は琵琶湖を見たことがない。小口太郎という青年と会ったこともない。
 病状が悪化し、東京農大を休学、後に退学した。茅ヶ崎南湖院への入院を経て、その年の秋には新潟の大鹿に帰郷し、療養することになった。
 大鹿ではキリスト教無教会派の集会に参加し、オルガンで讃美歌などの作編曲や唱歌の指導をし、実家の庭にチューリップや菖蒲、ダリアやボタンなどの花を植えた。
 大正7年に父・東伍が亡くなった。その翌8年2月、千秋は24年の短い生涯を閉じた。
 千秋は自分の作った曲が、全く別の詞で、「琵琶湖周航の歌」として歌われていたことなど、知るよしもなかった。


めだか

2016年10月07日 | エッセイ
                                                                

 むかし茶川一郎という目が飛び出るように大きな喜劇俳優がいた。彼の名を聞くと、童謡の「めだかの学校」を思い出したものである。くだらない連想だが、めだか、目が大きく頭の上に飛び出すようについている、作詞者・茶木滋…。
 めだかの名の由来は、目が大きく、頭の上端に飛び出していることからくる。

 日本全国のゆるやかな小川や田んぼに生息し、小さく愛らしく、飼育も簡単なことから、古くから観賞魚として飼育されたきた。江戸時代後期に来たシーボルトが、「めだか」を初めて西欧に紹介した。今ではMedakaで通用するという。
 いま「めだか」は絶滅危惧II類に入れられている。危機の原因は、田んぼの農薬使用、水路整備と護岸工事…そして繁殖時にめだかが田の用排水路から水田内に入ることが難しくなったことが最大の原因とされる。めだかの産卵時期と水田に水が張られる時期は一致している。この可憐な小魚は稲作の文化と共存してきたのだ。
 めだかは、北日本集団と南日本集団に大別されるらしい。南日本集団は生息水域ごとに東日本型、東瀬戸内型、西瀬戸内型、山陰型、北部九州型、大隅型、有明型、薩摩型、琉球型の9種の地域型に細分されるという。
 めだかは流れのゆるやかな小川を好み、またすぐ身を隠せる水草があり、あるいは岸辺の草が水辺に垂れたような小川を好む。子どもの頃、家の裏の小川にはめだかがおり、夏は蛍が飛んだ。ゲンゴロウもミズスマシもカエルも普通にいた。

 さて、荻窪と言っても杉並ではない。小田原の荻窪である。童謡「めだかの学校」のモデルの地である。
 小田原市荻窪地区は、江戸時代は足柄下郡荻窪村といった。水田のない貧しい村で、村民はこの地に水を引いて水田を開きたいと思っていた。足柄上郡川村の百姓・川口広蔵が農閑期には行商として歩き回っていた。彼はまた、、大工も副業とし、足柄上郡の灌漑工事・瀬戸堰の建設にも参加していたことから土木工事の知識もあった。彼は荻窪村の人たちの話を聞くと、早川からの水路開削を決意し、それを近隣の村民にも説いて回った。
 広蔵は水路が通ることになる足柄下郡入生田村、風祭村、板橋村、水之尾村の村民も参加する五ヶ村共同事業として提案したのである。工事は天明二年から始まり、二十年後の享和二年に完成した。しかし洪水や堰の決壊、土砂の流入が多く、その維持には各村の負担が大きかったらしい。荻窪地区に広蔵の石碑があり、今でも彼岸の時には広蔵念仏が唱えられるという。
 茶木滋は明治43年(1910年)、神奈川県横須賀市に生まれた。本名は七郎である。中学生のころから「赤い鳥」「金の星」「童話」などに童話や詩を投稿する文学少年だった。明治薬学専門学校専(現明治薬大)を出て、製薬会社に勤めた。勤めの傍ら、童話や詩を書き、投稿も続けた。一部にはすでに茶木滋の名前は知られていた。
 ちなみに明治薬専ということは、「オウマ」「ウミ」の童謡詩人・林柳波の後輩になる。林柳波は明治25年生まれで、当時の明治薬学校を出た。スキャンダルに晒されていた日向きむ子と結婚した。林きむ子は大正三美人の一人として知られた。
 話を茶木滋に戻る。戦中、彼の勤めていた製薬会社の工場は、空襲を恐れて小田原に移転した。茶木はその工場の監督だった。茶木の家は小田原市の万年町にあった。その小田原も危うくなると、茶木一家は箱根町宮城野のバラックのような家に疎開した。一週間後に万年町の家は焼失した。その翌日が終戦である。

 戦後、食糧を確保するためにたびたび山を降り、買い出しに出た。昭和21年(1946年)のある日、滋は息子の義夫と買い出しのために山を降りた。二人は麦畑の道を歩き、荻窪用水のところに出た。用水周辺を歩くうちに、義夫がめだかを見つけ、「お父さん、めだかがいるよ!」と大声で滋の袖を引いた。滋が小川をのぞくと、もうめだかの姿はなかった。草の覆う水辺に隠れたのだろう。
「あんまり大声を出すんで逃げてしまったんだよ」と言うと、義夫は「大丈夫だよ、きっとすぐに出てくるよ、ちょっと待っていようよ」…
「ほら、出てきた…先頭が先生、後に続くのが生徒だよ。めだかの学校だね」と義夫が滋の顔を見上げて笑った。滋も子どもの頃に、同じようにめだかを見つけては、まるで学校のようだと思ったことがある。
 それから四年後の昭和25年、船橋に住んでいた滋のもとに、NHKから連絡が入った。彼が雑誌に書いた童話を放送したいというのである。
 その打ち合わせの際に、彼は童謡を書かせて欲しいと申し出た。担当者はしばらく考えてから、「春先に放送する明るい歌」ならと言った。
 滋は小田原の荻窪用水で息子の義夫と見た「めだか」を思い出し、「めだかの学校」を書いた。
 滋が作った詞は、NHKの番組で曲を担当する中田喜直のもとに、NHKを経由して届けられた。中田はその詞にピアノで曲を付けながら小声で歌っていた。

    めだかの学校は 川のなか
    そっとのぞいて みてごらん
    みんなで おゆうぎ しているよ

 すると、そばで聴いていた婚約者が言った。「そっとのぞいて みてごらん、のところを繰り返したほうが良いと思うわ」…「なるほど」中田はすぐ賛成した。繰り返しがないと8小節で曲が小さくまとまってしまう。
 当初、滋が作った歌詞には特定の歌詞の繰り返しはなかったのだ。中田は「そっとのぞいて みてごらん」「だれが生徒か 先生か」「水にながれて つーいつい」と繰り返す詞に変更し、曲を完成させた。
 しかし中田は当初、この「めだかの学校」がこんなに多くの人々に歌われ、親しまれるようになるとは思わなかったらしい。
 翌年3月、茶木滋作詞、中田喜直作曲の「めだかの学校」は、NHKラジオの「幼児の時間・歌のおけいこ」で発表された。翌月に「うたのおばさん」で安西愛子が歌った。また松田トシも歌っている。
 やがてコロムビアレコードから、安西愛子と杉の子こども会の歌唱でレコード化され、大ヒットし、「めだかの学校」は日本中で愛唱されるようになった。そして昭和29年、文部省芸術選奨文部大臣賞を受賞した。

   一
    めだかの学校は 川のなか
    そっとのぞいて みてごらん
    そっとのぞいて みてごらん
    みんなで おゆうぎ しているよ
   二
    めだかの学校の めだかたち
    だれが生徒か 先生か
    だれが生徒か 先生か
    みんなで げんきに あそんでる
   三
    めだかの学校は うれしそう
    水にながれて つーいつい
    水にながれて つーいつい
    みんなが そろって つーいつい

 ちなみに、以前「戦争と馬」という一文にも紹介したが、私は茶木滋が昭和15年に書いた童謡詩「馬」が好きだ。茶木滋の優しい眼差しが胸を熱くする。この詩にはまだ曲は付けられていないだろう。また曲が付いたとしても、悲しくて、誰も歌わないだろう。胸が痛むからである。

    馬はだまって
    戦争(いくさ)に行った
    馬はだまって
    大砲引いた。

    馬はたおれた
    御国のために
    それでも起とうと
    足うごかした

    兵隊さんが
    すぐ駆けよった
    それでも馬は
    もううごかない。

    馬は夢みた
    田舎のことを
    田ん圃をたがやす
    夢みて死んだ。

 馬が耕す田んぼの傍らを、温みはじめた小川が、ゆるやかに、ゆるやかに流れ、めだかの群れが つーいついと 泳いでいる…。

                                                               

ソング ヒストリー

2016年10月06日 | エッセイ
      

 沢柳政太郎が実験的教育・大正自由主義教育運動として始めた成城小学校(成城学園)に、小原國芳が招聘された。昭和4年(1929年)、小原はそこから枝分かれして玉川学園を創立した。
 この学園は開校当初より本格的な合唱を取り入れた音楽教育や、デンマークの新体操術やワンダーフォーゲル等を導入した教育を売りにし、その知名度を上げた。またその成果を問う全国公演旅行を実施することにした。
 その第一弾は昭和11年(1936年)4月28日から5月7日の、10日間の東北公演旅行である。
 音楽教育や合唱の指導に当たっていたのが東京高等音楽学院(国立音大)出身の岡本敏明で、彼は秋田県鹿角出身の作曲家・成田為三の弟子であった。また体操指導に当たっていた斎藤由理男は秋田県象潟町出身で、デンマークのニルスプック体操学校で学んだ人であった。
 小原園長やこの教師らに引率された男女学生・生徒たちで、一行34名であった。この学生・生徒たちで合唱や新体操術の公演する芸能隊、ワンダーフォーゲル隊を編成した。
 学園出身者の縁故もあって、5月1日に秋田市の金足西尋常高等小学校を訪問した。まず一行は斎藤先生の号令で、体操の演技を披露し、斎藤がニルスプック式体操の解説をした。
 彼らの歓迎会が学校の畳敷の作法室で行われた。今度は岡本先生の指揮で、ハレルヤのコーラスを披露した。秋田側も民謡を披露し、やがてのど自慢大会の様相を呈し会は盛り上がった。
 そのうち「先生も歌えや」と舞台に押し出されたのが教師の中道松之助であった。中道は照れ屋ながら、前任地の能代の渟城女子小に勤めていた頃に覚えた詩吟調の歌を披露した。歌というより朗詠である。会場はその詞の面白さに爆笑した。
 岡本敏明がメモを取り出し、「先生、もう一回、もう一回、歌ってください」と照れる中道に頼み込み、その詞を書き取った。聞けば中道は佐藤という英語の先生から教わったという。その佐藤先生も同じ学校の真崎という先生が歌っていたのを、爆笑ものの面白い歌詞なので、せがんで教えてもらったということだった。まさに口伝である。
 岡本はすぐに曲作りをはじめた。彼は混声三部合唱にしようと思いついた。
 一行はその夜、学校に合宿させてもらった。すでに岡本の曲はできていた。その翌日、斎藤の故郷の由利に向かった。移動の奥羽本線の車中で生徒たちに練習させ、羽越本線羽後本荘駅で降り、訪問先の秋田県立本荘高等女学校に入った。ここで新体操術の披露に先立ち、岡本の指揮で混声四部合唱を披露し、会場を沸かせた。

  一
   春になれば しがこもとけて
   どじょっこだの ふなっこだの
   夜が明けたと 思うべな
  二
   夏になれば わらしこ泳ぎ
   どじょっこだの ふなっこだの
   鬼っこ来たなと 思うべな
  三
   秋になれば 木の葉こ落ちて
   どじょっこだの ふなっこだの
   船っこ来たなと 思うべな
  四
   冬になれば しがこもはって
   どじょっこだの ふなっこだの
   てんじょこはったと 思うべな
      ※しがこ(氷)

「どじょっこふなっこ」の歌の初演である。
 季節の移ろいとそれを感ずる人々の情感が、小川の小魚たちにユーモラスに託されてまことに微笑ましい。 この東北訛りの強い方言の詞に、現代的な西洋音楽の旋律と混声合唱とは、岡本敏明のセンスは実に素晴らしい。
 歌唱曲に大胆に取り入れられた方言は、その意味が知れずとも何とも愉快で、後の「かえるの合唱」と共に玉川学園の愛唱歌として歌い継がれていった。戦後、映画「やまびこ学校」の中で「どじょっこふなっこ」が歌われ、大流行した。「うたごえ運動」にも取り上げられ、「青年歌集」の人気曲として、さらに教科書にも掲載された。秋田国体の開会式では小学生のマスゲームにこの曲が使用された。そればかりかソ連国立アカデミー・ロシア合唱団のレパートリーとなって日本国中で巡回演奏されたのである。

 この歌のルーツはどこにあるのだろう。教師・中道松之助が、能代の渟城女子小の教師・佐藤武雄から教えてもらったのは大正14年の頃である。佐藤が教師・真崎徳から教えてもらったのも、その一、二年前だろう。
「どじょっこふなっこ」の作詞者は豊口清志とされ、秋田県にはその歌碑も二つある。一つは金足西小学校であり、もう一つは鹿角市十和田毛馬内の仁叟寺の境内の一角に「どじょっこふなっこ」の歌詞の第一章節を刻んだ碑がある。その建立者は豊口清志の長男・清一氏である。しかし豊口作詞説には異説も多く出るようになった。

 豊口清志は明治18年、鹿角の米問屋「多助屋」の次男坊として生まれた。明治32年に高等科を卒業し、花輪の受験準備場へ一年通い秋田師範学校の試験に臨んだ。受験中に彼が宿泊していた旅館には、県内外から大勢の受験生が泊まっていた。試験の最終日、受験から解放された若者達の宴会が始まった。
 清志は以前から面白いことを言う剽軽な性格で、こういう席にはうってつけであった。歌は下手だが即興的に吟じたのが「どじょっこふなっこ」であったという。これが大受けに受けた。「どじょっふなっこ」は、やがて秋田県内に広まり、金足西尋常高等小学校の中道に伝えられ、さらに岡本に伝えられたというわけである。

 清志は秋田師範の受験に失敗した。その後は不老倉小、七滝小山根分校、草木小などを代用教員として転々としていたが、辞めて本家「多助屋」を手伝っていた。後に本家から花輪へ「のれん」を分けてもらい米問屋として独立した。
 小坂・尾去沢両鉱山の発展につれ商売の基礎も固まり、一時は酒田方面まで足を伸ぱして庄内米を買付け、東京の市場にも販路を拡げる大店となっていった。しかし、欧州大戦後に米相場が大変動し、彼の店は破綻した。
 その後、金物雑貨商に転じたが、戦時統制で行き詰った。戦後は古書などを扱っていたらしい。
 長男清一氏は戦後中国大陸から引揚げて来たという。昭和23、4年頃、よく父の清志のもとに、同郷の石田一学先生が遊びにやって来ては、若い頃の思い出話に耽り、その中で「どじょっこふなっこ」の話をしていたという。あの歌の詞は父の即興から流行りだしたのか…。
 清一氏は父の死後上京し、生活と仕事に追われた。彼は建設関係のパテント等を扱う会社の社長となった。父が作ったという「どじょっこふなっこ」の歌のことなど考えることもなかった。
 秋田県が全国高校スキー大会の会場となった昭和41年頃、何度も往来する機会が増えた。彼は知己縁者に会った際、むかし父と石田先生の「どじょっこふなっこ」話の記憶を確認してみた。多くの人がそう聞いていると言った。
 その中で、青森県の陸奥横浜に嫁いでいる従妹が、小学生時分に「どじょっこふなっこ」を学校で習ったとき、先生が「作詞はこの町の多助屋のオンチャマだ」と言ったので誇らしかったと証言した。
 清一氏は詩碑の建立こそ、父への何よりの供養と思い立った。碑の文字は、父清志の三年後輩にあたる教育家で県文化功労賞を受章した高橋克三先生(老松庵)にお願いした。鹿角市十和田毛馬内の仁叟寺の詩碑である。
 しかし詩碑が建てられ地元紙などに紹介されると、他の東北隣県各地からも、似たような「田植え歌」がある、「わらべうた」「民謡」があるという声が寄せられるようになった。
 この歌はもともと岩手や秋田、青森などでわらべうた、民謡として広く唄われていたが、その歌詞を最初に採録したのが鹿角市の豊口清志ではないかというものである。
「どじょっこ」のルーツと思われる津軽の唄はこうだ。

  春くれば 田堰(ぜき)小堰(ぜき)サ水コ出る
  どじょっこ鰍(かじか)コせ
  おどろいで海サ出ハだと思うベァね

 弘前市の作曲家・木村繁(しげし)によると、仙台の平家琵琶演奏家の館山甲午が、彼の幼時、父がよく歌っていた唄として「民謡大観」の中に木造田植唄として歌詞と譜を載せているという。館山甲牛は津軽弁の弘前市の出身であり、その幼少年期は明治20年から30年頃にあたる。
 また新民謡としての田植え唄もある。

   春来れば 田ぜき小ぜきサ 水コ出る
   ドジョッコ カジカッコ 喜んで喜んで
   海コさ へえったと 思うべね
   コーリャコリャ

   夏来れば 田ぜき小ぜきサ ぬるくなる
   ドジョッコ カジカッコ 喜んで喜んで
   お湯コさ へえったと 思うべね
   コーリャコリャ

   秋来れば 野山お山は 赤くなる
   ドジョッコ カジカッコ 驚いて驚いて
   山コは 火事だと 思うべね
   コーリャコリャ

   冬来れば 田ぜき小ぜきサ すがはこる
   ドジョッコ カジカッコ 喜んで喜んで
   天井コ 張ったと 思うべね
   コーリャコリャ

 これは吉幾三も「津軽平野」の挿入歌にしている。
   春くれば 田ぜき小ぜきサ水コ出る
   どじょっこ鰍(かじか)コせ 
   喜んで喜んで 春がきたなど おもうベナ
   コリャコリャ

 弘前大学の長坂幸子助教授の郷里は秋田県増田町であることから、「どじょっこふなっこ」のルーツ論争に興味を抱き、学問的見地から調べたという。秋田県、青森県の古老二十人ほどに当たり、調査の結果を「民謡の発生と伝播」という論文にした。
 彼女の調査では、館山甲午の記憶する唄は、おそらく木造地方の田植唄とし、また津軽民謡の名人・成田雲竹師が生前歌っていた「津軽方言入り上河原(じょんがら)節」を発掘した。そこには四季を詠んだ地口があった。

   春くればいーでぁ
   田堰(せき)小堰コの すまこぁとけべぁね
   泥鱒(どじょ)コだの鮒(ふな)ッコだの
   湯(よ)コサはいたべぁねと思うべぁね

 長坂は、その歌の発祥・原流は、特定の創始者の創作意思や伝承者の個性が問題にされぬ「民謡」だとした。明治三十年代初め、青森西南部と秋田県北部にかけて、田植唄や詩吟調で歌われていたという事実は確認できるが、他の民謡と同様、長い間の交流で旋律、歌詞ともに幾種類かに変わって伝わったものであろうと結論した。
 また先述の木村繁によると、津軽飴の行商人が唄を歌いながら売り歩き、その唄を広めたのではないかともいう。この旅の津軽飴売りの唄を覚えていた豊口清志が、その剽軽な詩才で、即興的に歌詞を完成させたというところかも知れない。