新里 陽一展 標本「水の呼吸 シリーズ3」 

2008-04-29 11:15:34 | AROUND THE N818
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*詳しくはアートステーションギャラリーか、ゴトウシュウ HPを見てください。異空間を満喫できます。

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 とういうことで、レンタカーを借りて、正確に言うと借りに行かされて安代まで『搬入』という作業を手伝いに行って来たのは先週だった。

 廃校になった小学校を改修して、岩手の芸術家を応援するギャラリーを作ったのはゴトウシュウさんです。芸術家の方々に縁があるのは、単にN818(新里さん)の呪縛によるものだけれど、疲れた身体に鞭打つ程かと言われると、ちょっと疑問。
 その日は、これまた小学校を改修した宿泊所(←名前を忘れたけど、とても良かった!)で新里さんと大喧嘩したんだった。隣のお客さんに多大なる迷惑をかけたんだった。そんな2日間があった。


 話は戻って、

 ゴトウシュウさんはとてもチャーミングで、来年で70歳になるとは思えないほどエネルギッシュな人です。達観したような感じが近くに居て伝わります。達観、物々しいモノの積み重ねの質量が感じられるというか、分かんないけど。


 僕は芸術家と言うのは、現代の僧侶のような役割と考えているんだけれど、例えば新里さんなんて一休だし、やはり自覚的にアウトサイドで生活している人たちだと思う。アウトサイドに居る理由は、高いビジョンだったり、美学美意識だったり、批評的なものだったり、スタイルだったり、原理だったり、霊的な幻覚だったりするにしても、つまりアウトサイドからの視点を世間に示しているんだと思う。何のこたぁない、いわゆるルールに縛られず一見自由にだけれども実はストイックに生きている様子から。どんな自由であるか?どんな制約を自己に課しているのかは知らないけれど。それを訊くのも、訊いて知るのも、野暮だし。


 電話を盗み聞きしたのは良くないことだけれど、ゴトウシュウさんが「本当の意味での文化人がいなくなった!」と誰かと話していた。そのことに関して僕は実感することはないんだけれど、「そうなんだぁ…」と思った。『本当の意味での文化人』が不在であるにしても、そのことが何を意味するのか僕には分からない。多分、僕は困らない。文化人のイメージが湧かないのは、本当に見たことがないからかもしんない。分かんない。


 アウトサイダーが何を示しているのか分からない。ただ、彼らが創りだすモノは僕の眼に飛び込んで来て、彼らの付ける題名が僕の中に刻印される。混乱を受け入れさえすれば、そんなに悪いものではないことは最近、僕の中で明らかになった。


 悪くはないわけだが、一日の時間が足りない。一年の時間が足りない。煮え切らない僕の態度が悪いんだろう。なんとなくの境界線上、という立ち位置が悪い。「そんで?だから?何?」って言われちゃいそうだけれど。

 



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