hebigani(はなみず)式『アートの楽しみ方』

2010-11-19 23:27:32 | AROUND THE N818

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何をもって、「いい」とか「わるい」とか、判断するのか?未だに分からない。僕の周りにあふれがちな、それらの評価が何によって為されているのか?全く、分からない。自分自身、「いい」と思っているのか?「そうでもない」と思っているのか?判断がつかないところもある。前回の記事の補足。
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なにか分からない表現が、僕の周りをうろつき始めてから結構な時間が経った。それらは、僕の部屋のそこかしこに悪びれることなく鎮座している。偶に引っ越しを余儀なくされるのだけれど、新しい場所はダンボールの中だったりはしない。結構、いい場所(エリオット・スミスのレコードの前だったり、阿部公房の『砂の女』の上だったり)に引っ越す。
決して、そこに必要があるものではない。部屋のアクセントとして活躍しているわけではない。「いい?」「わるい?」そんなのもない。「凄く、いい」「なんだか不快」そんなものも、ないと思う。普通に頭で考えると、無論、不要なものだ。
(※「いい」「わるい」は直感で決まることもある。簡単に、それが、それで、その後も、「いい」が持続するなら、それは実に幸福な瞬間だ。)
僕は、アートについてこう思っている。
前の記事で『表現セザルヲ得ナイ人』と彼らを表現した。今回は、表現せざるを得ない人が、『表現シタ物』についての話。
どうしようもなくて、それを表現している。純粋とは一概に言えないかもしれないけど、切実な動機ではある。評価の対象になること自体が、ちょいとおかしい感じもする。そうしなければいけなかったのだから。
んで、ある場合、「なんじゃ!?こりゃ!?」が、出来上がる。作者ではない人は、タイトルを見ても、その意図が分からない。
んで、ここがターニング・ポイント。
「なんじゃ!?こりゃ!?」で、不安になる必要はない。勿論、分かろうとする必要はない。目の前にあるものは、作者の事情の産物であるのだから、実際、他人の自分に、理解できる筈がない。それを踏まえれば、後は、そこにあるものを許容するだけでいい。この姿勢を持つだけで「悪くないもの」が格段に増える。面白いものが、格段に増える。
ここで敢えて美術という言葉を使うけど、その点ではやはり西洋文化に負けてしまうと思う。作者の事情を「美しい!」として受け入れる体力と言うか、余裕が負けているのだと思う。普通、日常生活でいっぱいいっぱいだもの。だから、脳ミソをやんわり希釈して、ふんわり、見る。ふんわり、観賞する。なんだか分からないものが、目の前にある事実を楽しむ。帰って思い出した時、割と愉快である保障は、はっきり言って、できます。
はなみず式、アートの楽しみ方でした。

 


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