私のご先祖様の林勇蔵の年表その5。「林勇蔵日記」の巻末より。(注:)は私が補ったもの。―――――元治1年(1864年)6月4日。諸隊追討沙汰を明記した高札を津市など宰判内6か所に掲示する。慶應1年(注:1865年)2月7日。諸隊全軍が萩へ進出のため、美祢郡大田村へ集結する。(注:高杉晋作が藩内クーデターとして功山寺で挙兵し、佐幕派が牛耳る萩の藩を攻めようとしているのだ。これから、大田絵堂(おおだえどう)の戦いが始まる)。慶應1年(注:1865年)1月7日。諸隊方の山田市之丞(顕義)外50名が小郡勘場を訪れ、市川代官に路銀を要求する。代官は林勇蔵を呼び出し資金の有無を尋ねる。林勇蔵は資金はないが準備金として旧札35貫があると答え、死を決してこの札銀を諸隊方へ融資して借用書を受け取る。(注:いよいよ奇兵隊が代官所を襲うという、幕府時代の秩序を壊す行為を始めた。林勇蔵は、奇兵隊に金を融資したことによって、いよいよ引き下がれなくなった。「死を決して」と書いてあるが、一世一代の賭けだろう。これが、「林勇蔵が奇兵隊に財政援助をした」と歴史に書かれることになったイベントである。もし、高杉晋作のクーデターが失敗に終わっていれば、今の私は生まれていなかったかもしれない)。慶應1年(注:1865年)1月8日。小郡宰判地下役人28名が集会し、軍夫を派遣して諸隊方を援助することに決める。(注:これが、林勇蔵が佐幕派につくか、奇兵隊につくかの分かれ道になった決断である)。慶應1年(注:1865年)1月10日。大田村川上口の戦いで、諸隊方の狙撃隊が藩府軍を撃退する。慶應1年(注:1865年)1月10日。小郡宰判の軍夫1,200人が、諸隊援助のため大田村(注:おおだむら)に向かう。慶應1年(注:1865年)1月14日。大田村の呑水の戦いで、諸隊方が勝利する。慶應1年(注:1865年)1月15日。鴻城(注:こうじょう)隊の隊長井上馨(注:かおる)が同隊の資金として小郡宰判の蔵米1,000石の貸与を林勇蔵に乞う。林勇蔵は500石分を手形で支払う。慶應1年(注:1865年)1月16日。林勇蔵は秋本藤作から札銀を借り、手形を買い戻す。慶應1年(注:1865年)1月16日。諸隊が赤村の藩府軍を攻撃して勝利する。(2024年8月24日)これで、林勇蔵は後戻りできなくなった。しかし、藩の任命でなった大庄屋が、藩に逆らって奇兵隊に味方するとは、何という賭けだろう。こういう、人生自体が賭けであるという生き方は、私にも受け継がれているかもしれない。
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