中野重治の神がかり その1
中野重治を取り上げるにはどうしても政治的転向の問題に触れないわけにはいかないし、それが当然だとされている。だが、中野の転向を、当時の状況を踏まえて原因から説き起こしたとしても、それで論証されるのは抽象としての中野の転向であって、個としての中野重治の転向の核心に触れることは難しい。
ここで言う抽象的な転向とは、中野と父親との関係を、満田郁夫を例外として、吉本隆明が早くから、そして柄谷行人までもが、進歩的知識人対封建的ファシストという対立の図式を描いて納得してしまうような事態を指している。
それは何よりも、「転向」という言葉による思想操作の罠に、皆が嵌っているからであり、そのことは中野自身も例外ではなかった。
この論考は、『村の家』の父と息子に対立は無かったとする満田郁夫氏の論考に触発されて、中野の転向決意の心理場面を私なりに読み取ったもので、一つの問題提起として受け止めていただきたい。
中野は、文学を貫くために政治的転向の汚名を浴びた。それは、筆を折れと言う父に対して「やはり書いて行きたいと思います。」と答えたことではっきりしている。それなのに中野の転向が問題とされるのは、転向に至る心理描写が無いとされるからだ。
しかし中野は書いている。自身の転向へと至る心理的な場面をはっきりと描いている。ただ、それが読者にも中野自身にも気づかれていないだけなのだ。
中野には、事後的な気づきが多い。中野にある「わかりにくさ」の一端は、この事後的な「気づき」にある。これは中野自身の特質だと言える。
「中野さんはね、大分前だけど、俺は死ぬときも、しまった、と云うかな、って云ってたのよ」(佐多稲子『夏の栞』)
事後的な気づきは「しまった!」として、突如何の脈絡もなしにあらわれることが多い。だから中野は、自分の誤りを後になって認めることが多かった。そして、他人の誤りについても、事後的に追求した。指摘された者たちは「何を今更!」と思っただろう。
中野の事後的な気づきは、意識的な内省の結果としてあらわれるものではない。突然に、超越的にあらわれる。超越的なものとは「神」と呼ぶしかないようなものだ。
もちろんキリスト教などの神ではない。中野の先祖または伝統と言い換えてもよいが、やはりそれは「神」なのだ。
中野は宗教的な環境に育った。宗派的なよいう意味ではなく、原始信仰的な、あるいは自然的・太古的な宗教性と言った方がいい。
そして彼は、先祖を自然信仰的に崇拝していた。
「私の先祖どもは記録を残さずに去っています。こういう先祖どもは必ずや私を助けてくれるだろうと思います。」(「蟹シャボテンの花」)
そして、中野に政治的転向を決意させたものもまた、この「神」だった。それを読み取ってみよう。
「ある日彼は細い手でお菜を摘み上げ、心で三、四の友達、妻、父、妹の名を呼びながら顎を震わせて泣きだした。『失わなかったぞ、失わなかったぞ!』と咽喉声でいつてお菜をむしやむしやと食った。彼は自分の心を焼鳥の切れみたいな手でさわられるものに感じた。一時間ほど前に浮かんだ、それまで物理的に不可能に思われていた『転向しようか。しよう‥‥‥?』という考えがいま消えたのだった。ひょいとそう思ったとたんに彼は口が乾あがるのを感じた。昼めしが来て受け取ったが、病気は食い気からと思って今朝までどしどし食つていたのがひと口も食えなかつた。まつたく食欲がなく、食欲の存在を考えるだけで吐きそうになった。両頬が冷たくなつて床の上に起き上がり、きょろきょろ見まわした。どうしてそれが消えたか彼は知らなかつた。突然唾が出てきて、ぽたぽた泪を落としながらがつがつ噛んだ。『命のまたけむ人は‥‥うずにさせその子』――おれもヘラスの鶯として死ねるーー彼はうれし泪が出てきた。」(『村の家』)
ここに転向を決意した心理の描写がある。
実際に弁護士との間で転向を悩む場面よりも時間的にひと月も前の描写として設定されているため異論を唱える評者もいるが、先入観を持たずに読めば見えてくるものがある。
中野には非論理的な面が多い。自分の決意を論理的に説明するのに時間がかかる。あるいは出来ない場合もある。転向を決意してから、それを表明するまでに一ヶ月かかったとしても不思議ではない。
勉次は「再び保釈願を書き、政治的活動をせぬという上申書を書き」、「病室に」はいれるよう要求した。この時点では共産党員であることには触れず、転向していない。そして、病室に入れられて、肺浸潤であるという病名を告げられ、体重は四四・五キロに減っていた。ここから、先に引用した転向決意の文章がはじまる。
友人や家族の名を呼びながら泣く。そして食う。「失わなかったぞ!」というのは、転向をしないということではない。転向はしても失わなかったものがある! という叫びなのだ。そのように読めるのは、中野が普段は見えない何かを見たように書いているからだ。
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