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労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその10

2021年02月19日 | 評論

労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその10

 

十、縄紋時代の労働

 

階級や権力的支配のない時代、例えば縄紋時代を考えてみよう。

縄紋集落の基本単位は、三軒ほどの家屋と墓や祭場などがある広場(または広い前庭)を利用する居住集団である、と見られている。そこに一年中暮らしていたのではなく、地域によっては食料事情等で移動もしていたと考えられるが、そのような集団が縄紋時代での基本的な協同労働組織、すなわち家族と言えるだろう。考古学者たちの多くは、一軒の家屋に一つの家族を想定しているが、この時代にすでに核家族のような、固定した夫婦や親子の関係が形成されていたとは考えられない。次の記述は弥生時代の九州地域に関するものだが、このような見解を更に弛めたものが、縄紋時代の成人男女や子供の関係だったと思われる。

 

「たとえ単婚的な男・女の夫婦が存在したとしても、海外への渡航とか、遠隔地の村へ分村する時、夫婦揃って行くのでなく、一方だけが移動することが多いため、その家族は容易に分解するものだったのではなかろうか。一応血縁や地縁で集団として村を形成した中でも、男・女は夫婦であるより先に個々人で村の構成員であって、子供が生まれても、誰かの子供ということよりも、村の子供として、村の総体の中で育てられたように思われる。」(間壁葭子、『日本の古代』第十二巻)

 

基本単位集団(家族)が幾つか連帯して組織を形成し、その大きな組織がまた別の組織と連携して、大がかりな集会(祭りや成人式や信仰儀式など)を行なうなどの組織活動が想定される。石器・土器・木器・手工品・塩・加工食品・祭具・装飾品(希少品)などの特産品や特殊技能は、各家族間ではなく大組織間で流通し、そこから家族に分けられたと思われる。

問題は、その流通の原理が交換(強制的な相互贈与)か、それとも家族内と同様の積極的贈与なのかにある。縄紋時代には戦争の痕跡がないので、略奪などによる流通ではなかった。それでは、贈与と交換の違いは何か。

 

「『交換』の両当事者の各々が自分の所有する財を相手の所有に移すに際して(この所有権の移転ということまでは『贈与』『献上』『下賜』とも共通だが)、相手の所有する所定財の反対給付を受ける約束が事前に成立している場合(簡略に言い換えれば、所定財どうしの所有権の契約的相互移動)、そのような交換をわれわれは商品交換と定義し、そこで交換される財を商品と定義する。」(廣松渉『生態史観と唯物史観』)

 

贈与とは一方的な行為であるが、皆がそのようにすれば、結果的には相互的な行為に見える。だが、贈与に対してお返しという負債観念が強制されれば、それは交換に近い。

家族という協同労働組織内では、損得勘定のない一方的贈与が有機的に結合して、その生活共同体が運営される。これと同じ贈与労働の意識が、各家族間や大組織(部族や部族連合も協同労働組織であり、政治的組織は戦争の発生と共に形成される)においても、贈与の原理が貫徹されたのではないだろうか。

これを裏付けるものとして、縄紋時代には墓が住居地内部に設置されていたのに、戦争や略奪が行なわれる弥生時代では、墓は住居地から森一つ隔てたという具合に遠ざけられる。死者と日常的に生活を共にしていたのが、死者を日常から排除するようになる。レヴィ=ストロースによれば死者は他者のイメージであり、他者としての死者は贈与を強要し、死者との応接に期日を限ることは贈与を限定することだから(「火あぶりにされたサンタクロース」)、縄紋時代には他者のイメージはなく、誰に対してもいつでも贈与の原理で接したのではないだろうか。

 

「損得の観念が先立てば、マリノフスキーが理想とした《純粋な贈与》、つまりお返しをまるで期待しない一方的な財の流れなどなりたたないだろう。愛によって結ばれた関係では、むしろ無償で贈与すること、そして喜んだ相手の顔をみることそのことが無性に嬉しいわけである。文明社会ではごくせまい範囲でしかみられなくなった、人間の真の共同

体的本質が未開ではまだ全面的に開花していた、といえるだろう。」(山内昶『経済人類学への招待』)

 

考古学者も人類学者も家族を協同労働組織としてでなく、血族や姻族として見ているので、純粋な贈与を労働そのものではなく《愛》に起因するものとしている。だが、純粋な贈与の観念は《愛》から生ずるのではなく、労働そのものから、労働が人に役立ち、自然から贈与された生命を活かすことが出来るという喜びの事実から生まれる。

 



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