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労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその11

2021年02月20日 | 評論

労働価値論の可能性ーー贈与としての労働ーーその11

 

十一、贈与としての労働

 

労働を価値生産的労働に限定することは誤りだった。それでは、労働を人間身体の全ての活動に拡張することはどうだろう。ジョギ

ングや睡眠時の夢をも労働だとすると、労働概念は必要なくなる。労働を人間活動という言葉に置き換えることは、思考を放棄するに等しい。

贈与として労働を見る場合には、人間活動の内、自他への贈与可能なものを労働であるとする。

労働が賃金で拘束され、労働の生産物が商品となったり、あるいは家事労働に賃金が支払われない、といった労働を取り巻く政治経済的情況は、労働そのものの規定には影響しない。物を作る活動も物を作らない活動も、それが人に役立ち、贈与可能なものならば、全て労働となる。肉体労働と精神労働の区別もない。経済的価値の生産・非生産の区別もない。

労働とは、人の生活に役立つ行為そのもの、人の肉体および精神に有用で快感である活動が行なわれる、その行為自体をさす。その労働が直接的に、政治経済的に歪められずに現われているのが、贈与としての労働なのだ。

労働の活動の結果として、何かの物が製作・生産され、それに政治経済的な価値が宿るかどうかは、労働そのものの規定を左右しない。労働の活動そのものが労働の質料(マテリア)であり、マルクスはそれを生きた労働、対象化されていない労働と呼んでいる。しかしマルクスは、マテリアではなく、現象形態である労働の形式を重視する。それは、資本主義が形式主義だからなのだが、それでは唯物論的ではなくなる。唯物論(マテリアシスムス)は、形式主義ではなく質料主義でなければならない。

価値形式論においてマルクスは、労働の形式を対象化される労働とし、労働の質料を対象化労働の抽象的人間的労働とした。つまりマルクスは、質料を形式の抽象として取り出した。形式から質料を規定したのだ。

それは、マルクスの労働論が経済的価値論の一環でしかなく、本来の労働論をマルクスが考察していないところから来ている。価値形式論の考察はマクスの功績だが、その前提であるべき労働論を 価値形式論によって展開したことは、批判されなければならない。労働は、経済的であるより先に生命的なものなのだから。

 

 



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