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おどるなつこ 「あしおとがきこえる?」

タップダンサー・振付家おどるなつこの日常から浮かびあがることばを束縛せず書きとめています。2005年開設。

愛と圧迫

2020-06-28 | あしもとからの思索
今日は絶賛事務仕事日。ざんざんの雨も午後には上がり、ひと息いれに野菜ボックスまで。お金を入れると鍵が回り、中の野菜を買えるボックスが近くにある。近くといってもチャリで10分弱、今は胡瓜、トマト、茄子がメインで、時々とうもろこしや枝豆も出ている。

昨日、蛍を見ていた時に何かに刺されたようで、何ヶ所か刺し跡のあった左のふくらはぎが真っ赤に腫れてきた。刺された時に気づかなかったから、蚊よりも戦略的な虫だろう。気づくのが遅かったかもしれないが、ドクダミをすり下ろし、炙ったユキノシタを揉んでラップしておく。

事務仕事をしながら、ハラスメントとハンディキャップについて、考えるともなく考える。外国暮らしの友人が、かの地では言葉がうまく通じない状態などをソーシャルハンディキャップという、と書いていた。私も先週ちょうどnoteに書いたところで、ハンディキャップとは状態、というところに共感する。サポートが十分ならば改善される可能性がある。
では、バリアとは、意識が生み出す壁だろうか。リアルな壁もきっと意識から生まれた。立ちはだかる壁、どうにもならない壁。壊すのか遠回りするのか、壁への対処法も色々編み出されている。ハラスメントが起きるのは、バリアのこちらとあちらに上下関係が生じた時か。何か対等ではなくなった時、それは起きる。
ハラスメントは連鎖する。だから、一概に片方を悪者に祭り上げれば終わるわけではない。遡れば、ハラスメントを続けてきた土壌が現れるだろう。個人を擁護する意ではない。でも、これは、みんなの意識がつくってきたことと自覚しよう。
面倒だからと見逃して受け入れてきた小さな圧迫。声を上げる勇気を叩く態度、傷つけてきたことを受け入れられず攻撃してしまうこと。胸に手を置いて考える。日常の中に潜む。

今だって、夜の街が悪者にされている論調で、満員電車は咎められない。どちらにも、生業の必然はあるのだが。また、国から補償がわり(多分)の緊急支援募集が始まろうとしているが、まず初めに、舞台と映像は、本来違う媒体である。映像として出すならば、その専門性が必須。

「あいこうる〜タップで文学Ⅱ嵐が丘」の舞台作品準備段階でつくったデモ映像は、映像を共演者として舞台をつくる試みの第一歩だった。“記憶”という共演者。

アップリンクの映像WSは、参加者がつくった映像をみんなで見て、ほめたりダメ出ししていくものだった。高いカメラがなくてもスマホで撮れるなら参加できる。お互いに学び合って、みなそれぞれに伝わる映像をつくろうとしていた。実践がいちばんの学びになる。これも、映画を愛する人を増やしたいという試みだったと思う。その最中にも潜んでいたかもしれない日常的な圧迫に、私は気づかなかった。おそらく、映画への愛の方だけみていた。自分の日常にも近い空気で違和を感じにくいかったのだろうか?

そういえば、嵐が丘も、愛情がねじれすり変わってしまい世代をまたぐ。


「伝聞方式への試み タップで文学Ⅱ 嵐が丘 tap drama with movie 」作品デモ UPLINK映像WS作品



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