健康と鍼灸マッサージ in キュアーズ長町 season 14 宮城県仙台市太白区長町七丁目にある鍼灸マッサージ治療院

ぴーちゃんによる鍼灸マッサージ雑学と独り言・14年目&食いしん坊な食べ歩き日記とクライミング雑記

お風呂は気持ちいいなぁ

2011年03月28日 | お散歩
昨日は震災後、初めてのお風呂に入ってきた。
仙台は依然、極めて厳しい給油事情。
ガソリンは非常に貴重である。
ガスも先週末より復旧工事が開始されてはいるが、ガス管の修繕、開栓作業は進んでいない。
もちろん、1500名を超える大勢のガス関係者の皆さんが懸命に作業してくれていることは、感謝の一言に尽きる。
でも、お風呂にはガスが来ないと入れない。
近所のジムでシャワーを浴びてはいるが、お風呂のようではない。
そんな中、昨日は家族5人と石巻から避難中の1人の計6人で、秋保温泉へ。
半月ぶりの入浴は気持ちいい。
「お風呂は命の洗濯」とはよく言ったものだ。
ガソリン問題が解決しないことには、そうそう秋保まで行けないが、お風呂に入れたことに感謝。
これでまた、地域の皆様の健康のために、鍼灸・マッサージでケアに当たっていける。
頑張ろう日本!
頑張れ宮城!
頑張れ仙台!!
ガンバ!俺!!


あれから2週間 東北関東大地震 東日本大震災 明けない夜は無い

2011年03月25日 | 独り言
早いもので、あの大地震から2週間が経過した。
依然、余震は続き、震災当日の記憶を鮮やかに蘇らせる。
 
3月11日 14時46分。
14時35分頃、患者さんの治療を終え、見送った後にカルテをつけるために机に向かう。
この日は偶然にも次の患者さんの予約までに1時間の空きがあった。
受付を手伝ってくれている母親は、この時間を利用して治療で使用しているバスタオルの出来上がり分を、近所のクリーニング屋さんに受け取りに出かけた。
カルテをつけていると、「ビューッ!ビューッ!ビューッ!」と、けたたましく携帯電話のエリアメールが鳴る。
大きな揺れに備え、携帯を掴んで立ち上がる。
ズドドドドド…。とダンプが何十台も突進してくるかのような大きく低い地鳴り。
次の瞬間、ドン!グラグラグラグラ…。と激しい揺れが襲う。
コレまでも、ここ10年くらいの間に宮城県北部地震、三陸沖地震(?)、岩手宮城内陸地震など、仙台でも震度5強~6弱の地震を経験している。
なので、今回の地震も立ち上がって構えてはいたものの、初めの数秒は「おっ!かなり大きいぞ!」と思いながら、揺れの収まっていくのを待っていた。
しかし、その期待はアッサリと裏切られた。
揺れは激しさを増し、猛烈に治療院の建物を揺らし続ける。
自分の経験した体感震度を越えてもボルテージを上げていく揺れ。
待合室と治療室を隔てているパーテーションのガラス窓が落下し、カルテ棚がダンスし、窓枠からサッシが外れていく。
それを見た瞬間、「不味いぞ、これが本当の宮城県沖地震か!」と確信した。
自分の中の経験値を越えた瞬間、急激に襲ってくる戦慄と恐怖。
キャスター付きのために走り回っているパルス台を横目に、外れた窓から外に出る。
猛烈に激しい揺れは30秒くらいだったのだろうか。
外に脱出し、道路へ出る。
地面は依然として揺れ続けている。
あちらこちらでガシャンガシャンとガラスや瀬戸物が割れる音。
近くのマンションでは、警報や非常ベルが鳴り響いている。
隣近所の人々も道路に出て、揺れの収まるのを待つ。
掴んで出た携帯電話。
急いで妻に電話をかけてみる。
しかし、既に電話は不通になっている。
発信規制がかかるには早すぎる。
しかし、全くと言っていいほど発信しない。
だが、弟から「大丈夫か!」と、短い一通のメールと共に、妻からの不在着信を伝えるメールが届く。
とりあえず二人は大丈夫だと自分に言い聞かせ、「大丈夫だ。急いで帰って来い!」とメールを同時送信する。
ここまで5分。今度は本当に規制がかかった。
何度も「送信出来ませんでした」のメッセージ。
諦めず、何度も何度も何度も送信。
やっと送信出来たところに、母親が戻ってくる。
「大丈夫か?怪我は無いか?」と尋ねると、ハカハカしながらも「大丈夫!」と答える母親。
余震が続く中、火災、ショート、漏水を避けるために、治療院と家のブレーカーを落とし、ガスの元栓、水道の止水栓を急いで締める。
ここまで15分。
玄関の扉を開け広げたまま、再び余震警戒のために道路へ出る。
母親が「あぁっ!車が!」と指差す。
車は落下した屋根瓦のせいで、リヤウインドゥが粉々になっていた。
そして、路上に散乱する屋根瓦。
通行の妨げになってはと、母親と共に急いで家側に寄せる。
ここまでやって、治療院の方が気になり、外れた窓から中へ入ってみる。
落下し、散乱するカルテ。
耐震金具で壁に止めてあったはずのカルテ棚は、倒れこそしなかったものの壁からネジを引っこ抜いて大きく動いていた。
ふと、机を見てみるとパソコンが立ち上がったままになっている。
地震の瞬間に停電が起こったものの、ノートパソコンだったおかげでバッテリ駆動していた。
極度の緊張状態にあると、普段の何気ないルーチンワークでさえ不能になる。
そう、大きな余震が襲ってくるのではないかという強迫観念に囚われ、慌てすぎてシャットダウンが上手くいかない。
とにかく電源が落ちてくれればいいと思い、電源ボタンの長押しでシャットダウン。
そんな作業をしているところに、1台の原付が停まる。
「先生!ご無事ですか!?」との声。
友達の接骨院で働いている、見知った柔道整復師だった。
本院へ戻る道なりで、心配になって寄ってくれたのだという。
無事を伝え、自分の本院へ急ぐように促した。
こんな非常事態に悪さを企む奴などいないと信じ、治療院を開けっ放しでいえを見てみる。
家の方も、窓枠からサッシが落ちていた。
そこからテレビとテレビ台が1/3ほど外に出ていたので、中に押し込む。
当然と言えば当然なのだが、家の食器棚からは様々な食器が落下し、破損、粉砕した。
幸いだったことはタンス類が倒れなかったことか。
ここまで30分。
治療院、家の状態が把握出来ると、次に気がかりなのが妻と住んでいるアパート。
状況は容易に想像できたが、それでも見て来ずにはいられない。
白杖片手に、徒歩5分のアパートへ向かう。
とりあえず、アパートの階段は落っこちていない。
しかし、段が破損していないとも限らないので、慎重に登る。
玄関を開けてみると、想像通りの状況。
下駄箱が倒れ、玄関を通せんぼしている。
倒れた下駄箱を起こし、台所へ。
電子レンジ、炊飯ジャー、食器カゴは見事に落下、冷蔵庫は半倒れで中身が散乱、食器棚の食器は流しの中に全て落下、納戸の荷物も全て飛び出ていた。
しかし、部屋の中にある、昨年購入したばかりの地デジ液晶テレビとパソコンは奇跡的に難を逃れていた。
ここまで確認して、少し片付けようかとも思ったが、再びグラグラッと揺れたので危険は冒すまいと思い直し、再び家へ戻った。
ここまで45分。
家に戻ると、母親がリビングに散乱している壊れた食器の破片を拾っていた。
手伝おうかとも思ったが、治療院を開けっ放しで来たのを思い出し、治療院へ戻る。
そこへ、弟がタイミングよく到着。
何故か自転車で来ている。
理由を尋ねると、あまりにも大きな地震だったので、道路の隆起、陥没、建物が倒壊してるはずと考え、車をアパートに置いて自転車で来たのだと言う。
その予想は当たり、道路も歩道もガタガタ、様々な物が落下、散乱、信号も停電で止まってしまい、大きな交差点では渡るも大変だったとか。
とりあえず、弟には母親に声を掛けてくるよう指示し、その後、治療院のサッシを直すのを手伝ってもらうことにした。
サッシを戻してから治療院を閉め、家へ。
停電は長期戦になりそうだと直感的に感じた我々。
明るいうちに危険なものは片付けてしまおうということに決定した。
懐中電灯を探し出し、電池交換して点灯のチェックと、ラジオの用意。
ラジオに電池を入れてみると、そこからは想像を絶する情報が繰り返し伝えられていた。
速報値で宮城県内の震度は、仙台を中心に震度6強、登米・栗原が震度7、地震の強さを表すマグニチュードはM8.6。
さらに耳を疑う情報。
大津波が東北地方の太平洋沿岸を襲い、沿岸部の市町村を飲み込んだと伝えていた。
沿岸部?大津波?気仙沼は?親戚は?友達は?街は?
急に不安と心配が襲ってきた。
しかし、そんな気持ちを嘲笑うかのように繰り返し揺れる大きな余震。
ラジオに耳を傾けつつ、家の窓枠に、サッシを弟と入れる。
そんあ作業をしていたところに、「先生!ご無事でしたか!」と聞き慣れた声。
いつも治療に来院してくれる患者さんだった。
「こちらは大丈夫でしたが、奥様の職場は?津波は?」と、その患者さんに尋ねてみる。
「連絡はつきませんが、建物の高いところに非難してるはずなので無事だと思います」と気丈に答えてくれたものの、やはり心配でたまらない様子だった。
ここまでで1時間。
次は妻と住んでいるアパートを、弟と片付けに行く。
とりあえず、冷蔵庫を起こし、冷凍庫の物だか、冷蔵庫の物だか判らないが、とにかく冷凍庫に戻しておく。
先に戻った際には気づかなかったが、ベランダ側の窓が、まるで換気中でもあるかのように真ん中に寄せられて開いていた。
もちろん、施錠状態のままで。
網戸は外れていたが、今の季節は用が無いので外したままにしておいた。
部屋も足の踏み場だけは確保。
窓を閉め、再び家に戻る。
ここまで作業して、自分が白衣であることに気づく。
そして、慌てて着替え。
太陽も傾き、気温も一気に下がってくる。
雲行きが怪しくなり、霙のような雪のような冷たいものが降ってくる。
車のリヤウインドゥが割れているのを思い出し、弟とレジャーシートを倉庫から出して、応急的に覆う。
とりあえず、明るいうちに大体の片付けを終えることが出来た。
その間も、ラジオからは時々刻々と深刻さを増していく被害状況が伝えられていた。
仙台市内も津波が襲い、仙台新港や国道45合繊、荒浜地区が流されていると伝える。
マグニチュードも上方修正され、M8.8に。
そうこうしているうちに父親が会社から帰宅。
妻からは「歩いて帰宅中」のメールが。
父親と弟は、近所のローソンが停電の中でも販売していると知り、乾電池や食料を調達に出かける。
母親は夕飯の準備のために、普段なら鍋物の時にしか出てこないカセットコンロを引っ張り出していた。
職場から家まで一番遠い妻は、いわゆる帰宅難民のような状態で約1時間半かけての帰宅。
どうにか家族の無事が確認できて一安心。
陽が落ちて、漆黒の闇が訪れる。
余震が絶え間なく続く中、まずは御飯を食べることにした。
そう、非常事態の時ほど、食事が取れるというのは重要になる。
カセットコンロでお湯を沸かしながら、同時に暖も取る。
妻も帰り道にローソンへ寄ったようで、食卓にはクレープやレトルトのハンバーグ、朝に炊いた御飯が並ぶ。
この状況下で、食べられると言う有り難さ。
幸い、地震直後でも水道が止まることなく出てくれていたので、飲み水とトイレに不自由しなかったことは有り難いの一言に尽きる。
この夜は、家で寝ようかとも思ったが、弟も非難してきているので、我々夫婦はアパートへ戻ることにした。
アパートに戻ってみて、改めて揺れの凄まじさを垣間見ることが出来た。
常々、ほぼ8分目まで入っている浴槽の水が半分くらいになっていたこと、トイレのタンクの水が揺さぶられて溢れていたことだ。
トイレの掃除を妻がしてくれている間に、寝るための布団を敷く。
余震の収まらない中、いつでも非難できるように服を着たまま、ジャンパーを布団に掛け、枕元には携帯電話、懐中電灯、ラジオ、持ち出しカバンを用意して横になる。
もちろん、眠れるわけなどない。
外は、自衛隊のものと思われる大型ヘリコプターが飛び交い、消防車やパトカー、救急車のサイレンが鳴り響く。
正に、非常事態だという実感が湧いてくる。
大きな余震が起こる度、ガバッと跳ね起き、ジャンパーを掴んで窓を開け、非難の準備をする。
寝たんだか、寝ないんだか判らないまま朝を迎えた。
3月12日からの1週刊は、まるで2、3日のようなスピードで過ぎ去り、時間間隔をも奪っていった。
そして今日、3月25日。
とても2週間が経過したとは思えない。
必死の救援活動、復旧活動に尽力されておられる方々には、深く感謝申し上げます。
我々家族も、それぞれの立場で、頑張って復興支援をしていきます。
「明けない夜は無い」
そう信じて。
 
仙台は電気、水道、電話の復旧が急ピッチで進み、ガスも新潟からパイプラインで引く作業が昨日より始まってきている。
ガソリンは不足したままだが、物流は少しずつ回ってきており、スーパーやコンビニなどにも商品が届き始めている。
週末は再び妻と、「買出し」に出かけることになるだろう。
頑張ろう日本!
頑張れ東北!
頑張れ宮城!!
ガンバ!俺!!