空(hanul 하늘)風(palam 바람)湖水(hosu 호수)2……青空を吹きぬける風が、湖水にさざ波をたてる。

私たちの暮らしは、美しい自然と共生をとりたい物です。そんな日々の暮らしで、感じたことを綴ります。

be - 三題噺240516

2024-05-16 06:26:34 | 日記

GWで二週間ぶりです。

今週のbeを、お楽しみください。

まず、1.街のB級言葉図鑑 - ブライタル

濁点有るか無いかあまり気にしていませんでした。

「澄むも濁るも大らかに」良いですね。

2.サザエさんをさがして - トヨタ・パプリカ

日本の大衆車パプリカ。

私の乗用車の思い出は、高校1年か2年生の時、クラスメートが免許を取りドライブに誘ってくれました。

守口から京都方面に走った記憶が残っています。

3.歴史のダイヤグラム - 茨木のり子が見た天皇

神様と思った方が居眠りをしていて幻滅したのかな?

でした。

 

 

【子規365日】■5月16日

葉柳(はやなぎ)の風は中から起(おこ)りけり   1892(M25)年

夏井いつき【子規365日】朝日文庫

《葉柳》の俳句

歩道に水辺に、重たげに茂り垂れた夏の日の柳を言う。夏柳。

・葉柳町の隅(すみ)より点燈夫     徂 春

・汽船いつか入りて川なり夏柳     幼 童

・葉柳に舟おさへ乗る女達     みどり女

横田正知編「写真 俳句歳時記 夏」現代教養文庫 より

 

谷口 璽照さんのコメントです。

澄むと濁る (谷口璽照)

 世の中は、澄むと濁るで大違い。刷毛(ハケ)に毛があり、禿(ハゲ)に毛がなし。心が澄めば仏に近づき、心が濁れば悪魔に近づきます。どちらに近づくかは、貴方の気持ち次第です。中国の『魏志』という古典には、酒の澄んだのを「聖人」と云い、酒の濁ったのを「賢人」と云うそうです。すなわち、灘の生一本なら聖人、濁酒(どぶろく)は賢人、となります。つまり「聖」とは濁っていない、澄んでいる、無私であり無我であるということです。
『歎異抄』に「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」とありますように、御開山は師匠に対しても無私なら、「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたず候ふ」、弟子に対しても無私の態度でした。『御伝鈔』にも「さらに私(わたくし)なし」という言葉があります。》

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 松尾大社と勝幡城 | トップ | <コラム 筆洗>1948年の米大... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
澄むと濁る (谷口璽照)
2024-05-16 09:15:09
 世の中は、澄むと濁るで大違い。刷毛(ハケ)に毛があり、禿(ハゲ)に毛がなし。心が澄めば仏に近づき、心が濁れば悪魔に近づきます。どちらに近づくかは、貴方の気持ち次第です。中国の『魏志』という古典には、酒の澄んだのを「聖人」と云い、酒の濁ったのを「賢人」と云うそうです。すなわち、灘の生一本なら聖人、濁酒(どぶろく)は賢人、となります。つまり「聖」とは濁っていない、澄んでいる、無私であり無我であるということです。
『歎異抄』に「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」とありますように、御開山は師匠に対しても無私なら、「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたず候ふ」、弟子に対しても無私の態度でした。『御伝鈔』にも「さらに私(わたくし)なし」という言葉があります。

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事