GWで二週間ぶりです。
今週のbeを、お楽しみください。
まず、1.街のB級言葉図鑑 - ブライタル
濁点有るか無いかあまり気にしていませんでした。
「澄むも濁るも大らかに」良いですね。
2.サザエさんをさがして - トヨタ・パプリカ
日本の大衆車パプリカ。
私の乗用車の思い出は、高校1年か2年生の時、クラスメートが免許を取りドライブに誘ってくれました。
守口から京都方面に走った記憶が残っています。
3.歴史のダイヤグラム - 茨木のり子が見た天皇
神様と思った方が居眠りをしていて幻滅したのかな?
でした。
【子規365日】■5月16日
葉柳(はやなぎ)の風は中から起(おこ)りけり 1892(M25)年
夏井いつき【子規365日】朝日文庫
《葉柳》の俳句
歩道に水辺に、重たげに茂り垂れた夏の日の柳を言う。夏柳。
・葉柳町の隅(すみ)より点燈夫 徂 春
・汽船いつか入りて川なり夏柳 幼 童
・葉柳に舟おさへ乗る女達 みどり女
横田正知編「写真 俳句歳時記 夏」現代教養文庫 より
谷口 璽照さんのコメントです。
《澄むと濁る (谷口璽照)
世の中は、澄むと濁るで大違い。刷毛(ハケ)に毛があり、禿(ハゲ)に毛がなし。心が澄めば仏に近づき、心が濁れば悪魔に近づきます。どちらに近づくかは、貴方の気持ち次第です。中国の『魏志』という古典には、酒の澄んだのを「聖人」と云い、酒の濁ったのを「賢人」と云うそうです。すなわち、灘の生一本なら聖人、濁酒(どぶろく)は賢人、となります。つまり「聖」とは濁っていない、澄んでいる、無私であり無我であるということです。
『歎異抄』に「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」とありますように、御開山は師匠に対しても無私なら、「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたず候ふ」、弟子に対しても無私の態度でした。『御伝鈔』にも「さらに私(わたくし)なし」という言葉があります。》
『歎異抄』に「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」とありますように、御開山は師匠に対しても無私なら、「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたず候ふ」、弟子に対しても無私の態度でした。『御伝鈔』にも「さらに私(わたくし)なし」という言葉があります。