華灯り

読書と毛糸

冬から
アウシュビッツの
「夜と霧」を読んでいる。

怖くて、今まで
きちんと読めなかった本。

内容が苦々しく重たいので、
少しずつ少しずつ読んでいるけど
読むページごと泣いてしまう。

著者のヴィクトール・フランクル先生
(精神科医。ユダヤ人だからという
理由で収容されていた)が
どんな状況下でも理性的、
そして善良で優しい。

ユダヤの方々は
信心深くて慧眼を持っている。
そうした命が、魂が破壊されたことが
苦しく、悔しい。

本当は、魂までは
壊されることなく
大切な人々と天国で
神様の元にいらっしゃるけれど。

この世には、平和に見えても
地獄がある。
日本にもある。
どんな時代にもある。

祈りって何だろう。
救いをもたらせない祈りには
意味があるのか、ないのか。

救いって、どこから救いなのか。
助けることが出来た!という
結果が全てなのか、それとも
祈りによる途中までの救済だけで、
神様の仕事を手伝えたことに
なるのか。

死は、救いだろうか。
病の痛みからの解放が
死だったら、そこに導く過程を
私が決めて良いのか?
自分のことでも、他者のことでも。

私の仕事は何だろう。
何で、祈らせて貰えるのだろう。

何かを決定して良い時があるけど、
ご依頼人様が
答えを預けてくださるのは
なぜ?

どうして、この世の地獄のありかを
子供の時に神様から教わったのだろう。
それは祈る為、祈りの仕事の為だけど
何で私なのか?

神様のご意志は絶対だけれど、
死ぬかもしれない苦しさは
味わいたくなかった。
でも、感謝だけをすべきなんだろう。
痛みを喜びに変えるべきなんだろう。

普通の物音は聞こえにくいのに、
誰かの苦しい悲鳴は遠くでも
聴こえて来て……激しい動悸。

これが私の人生だから、
それも感謝すべきで。
誰かが死ぬのを知って、
祈るしかない。

やっぱり、
祈りって何だろう。
会ったこともない、他人の
私の意識の塊が
その人の孤独や
死に際、苦しさをわかっていて
ひたすらに祈っていたら、
亡くなったその人は
救われるのだろうか?

フランクル先生は
ウィーンの出身。
中世からの建物、街並み。
先生が見ていた景色を見に行く。
呼ばれていることを感じる。

フランス、スイス、
もう1回フィンランド、
またはスウェーデン、
チェコやハンガリー、
デンマーク、オランダなど
色々な選択肢があった中で
今回、オーストリアか…。

ドイツには、怖すぎて
行きたくない。

どこの国も、闇の歴史は
あるけれど。

多嘉良にカーディガンを
編むつもり。
次の冬用。

袖の一部。

毛糸がいっぱい。
下側にもいっぱい入っている。

カーディガンの一部にする予定の
切れ端。
今は、ドールのお布団に。


ちゃんとした作り方は
わからないので
(編み図を理解できない)
袖、前身頃、後見頃、
襟ぐり的な感じのやつを
部分ごとに編み、
縫い合わせたら
それらしきモノになるのでは?
という適当さ。

多嘉良の体がデカいので
使う毛糸玉の数が多い。
20玉で行けるか?
と思ったけど
もっと必要になって
買い足した。
今、30玉ある。


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