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ショパンコンクールってなんだ?初級編

2005-10-22 21:20:49 | Weblog
このコンクールをワルシャワで2回聴いたことが
あるんだよね。1985年と95年。
スポーツファンにとってもわかりやすく書いてみよう
と思うので、ちょっと読んでみない?
ワールドカップやオリンピックは何年ごとに行われる?
4年ごとだよね。でもこのコンクールはなんと5年に
1回なんだ!それも年齢制限があるから一生で一度しか
参加のチャンスがないかもしれないんだよ!
まずは初級編。読んで興味をもってくれると嬉しいなぁ。

まずこのショパンというのは作曲家兼ピアノ演奏家でね、
現代では作曲家とするのが一般的だけど、当時は自作自演
の活動だったんだよね。
生まれは1810年現在のポーランド領首都ワルシャワの郊外
で誕生日は3月1日とも2月22日ともいわれている。これはね
教会での洗礼日をとるか生まれた日なのかということなんだ
けど最近は3月1日が多いかな。
父親はフランス人、母親はポーランド人だ。ハーフという
ことになる。父のニコラはフランス語教師だったかな確か。
契約切れか失業してそのままポーランドに残る事に決め結婚
するんだ。
ショパン少年、あまり体が強いほうではなく、まあ病弱ね、
しかし音楽の才能にはあふれていたようで20歳になる前に
すでにポーランドでは名の知れ渡った音楽学生だった。
この1830年頃の欧州はさ、ドイツ、ロシア、オーストリア
なんかが強くてね、彼が20歳の頃は今のポーランドはロシ
ア領かな。植民地というか、支配下におかれていたわけ。
つまり、現在ポーランドと呼ばれている土地はドイツなど
の周辺列強(政治的・軍事的大国)の思うままに、勝手に
切り取られ翻弄され、そこに住む人々=ポーランド人は
独自の文化・言語の最低の部分に自由は与えられたものの
彼らの魂、心の部分はその環境、立場にものすごい抵抗を
感じていたのは想像つくよね。
そんな彼らの悔しさ、悲しみ、そして誇りでもあり希望の
光がショパンという青年のピアノ演奏家としての才能、
成功であり、また彼が作る曲にあらわれるポーランドの
民謡をベースにしたマズルカ、ポロネーズと呼ばれる作品
なんだな。
抑圧されたポーランド、そしてポーランドにとってショパンが
ピアニストとして成功することで、ヨーロッパに名が知れ渡る
ことで、「あの素敵なピアニストは誰?ショパン?へー
ポーランド?それってどこ?」「ポーランド人にもあんな
素晴らしいピアニストがいるんだ・・・」
「なんか応援しよう」「私がパトロン=スポンサーになるから
もっと曲をつくってほしい」などというような
こうしたショパンへの賛辞、活躍を目に耳にすることで
ポーランドの人々は自分たちの土地や尊厳が一時的に奪われて
も、彼がいれば、曲を作り弾き続ければ、ショパンによって
ポーランドの名は残る、魂は生き続けると思ったんだな。
だから、ワルシャワ市民がロシアに対して抵抗運動を行う直前
に、彼は周囲の勧めでフランスへ脱出することになるんだ。
そして2度と祖国に生きて帰ることはないんだけどね。

ショパンの国外脱出計画はフランス以前に一度オーストリアで
試されたけど、ウィーンとは相性が悪かったのか本人も失意の内
に帰国してる。やはりポーランドの田舎者がピアノで才能だけで
成功するのは難しく、特に同胞の支援者のいない土地では困難な
ことがわかって、次に選ばれたのは必然だけど父の国フランス。
ドイツ、ロシアが右といえば左を選ぶような政治バランスの国
フランスだったからロシアの手を逃れたポーランド抵抗勢力を
受け入れていたからねパリに。
それでポーランド亡命政府、貴族が多く暮らしていて、ショパン
には好都合な環境が整っていたんだな。
ショパンはロシア国籍のパスポート(移動証明書)を持って密かに
ワルシャワを離れたんだ。ほらワルシャワでさロシアの占領軍に
対して抵抗運動が起こると脱出しにくいし、国境を閉鎖される前
にね、ポーランドの宝を危険から遠ざけたわけだよね。
ロシア側もポーランドの象徴、人気者のショパンを押さえにくる
だろうしさ、反政治的だとか難癖つけて牢獄にでもつながれたら
大変だからね。
脱出資金は直前の演奏会や寄付があったようで、ショパンはとに
かくドイツ南部のシュツットガルトまでたどり着く。そこでワル
シャワの抵抗運動がロシアによって鎮圧されたことを知るんだ。
自分を送り出した家族、友人、愛する祖国が踏みにじられた思い
その悲しみと怒りが交錯する中で作られたのが「革命」のエチュ
ードと呼ばれている作品だ。
ワルシャワにポーランドに帰りたい思いを胸に封じ込めてショパンは
フランスに到着する。サロン文化が華やかなパリでは、若き天才
ピアニストであり作曲家ショパンはサロンの寵児、つまりアイドル
だな、その状況を受け入れながらも、演奏会、レッスン教師をしな
がら、生きること、作曲すること、そして演奏することが、自分に
とっての「ポーランド」なんだ!って使命なんだって信じていたの
ではないかなぁ。


1810年に母の国ポーランドで生まれたショパンは1849年に父の国
フランス・パリで39歳の生涯を終えるんだ。墓はパリのペール
ラシェーズ墓地にあるが、心臓は遺言で取り出されワルシャワに
帰った。生きて帰ることはなかったショパンだが、せめて心だけ
はワルシャワに帰りたかったんだろうね。
心臓はワルシャワ市内の聖十字架教会の柱に埋め込まれた。この
教会に向かって右隣の建物の最上階に一時期ショパンは住んで
いてね。そこは今では博物館になっていて当時の部屋が再現されて
いるんだ。きっとあの部屋で過ごした時間、悩み、語った時間を
遠いパリで思い出したのかな。

そろそろ初級編は終わりだよ。
ここから下には中級編への予告っていうか、コンクールについて
触れていくね。中級編はいつできるかな。今夜やってみるけどね
実は今回のコンクールからインターネットで演奏が配信されてさ、
それが時差の関係で夜になるでしょ。
だからさ、ブログを作る時間と重なるかもしれないんだよね。
でも、たぶん今夜は中級編つくれるはず。

あれ?ひょっとして先週ヨーロッパにいった理由?
ひょっとして?いやー違いますよ”そりゃドイツまでいってたから
それも考えたよ。でもね今回は仕事でした!はい!いきたかったけ
どね。

バッハ、ベートーヴェン、モーッアルト、シューマン、リストに
ラヴェルにドビュッシーに、ロシアにはチャイコフスキーやラフマ
ニノフとか作曲家っていっぱいいるんだけど、楽器によって名前の
あがる作曲家が異なるんだよね。
オールラウンドな、つまりオーケストラが演奏するものから楽器を
つかうもの、声によるものもあるでしょ。フルートやヴァイオリン
で有名な作曲家がピアノ曲でもそうかというと、そうでもないし
だから正確には、ピアノ(鍵盤作曲家)、ヴァイオリン・チェロの
場合は弦楽作曲家なーんて名乗ってくれると助かるんだけど、
世界中どこでもそんなこといわないんだよクラ(シック)の世界で
はね。
それでショパンは?っていうとこれがもう完璧にピアノオンリーと
いっていいほどの作曲家なんだよね。
だからこのショパンコンクールというのは、だからピアノ部門しか
ないわけ!よってピアニストにとって最高峰のコンクールともいわ
れる理由にもなっているんだ。もちろん、このコンクールの入賞者が
その後世界で活躍しているのも大きいんだけどね。
でもオレが一番好きな、ショパンコンクールって何?の答えはこれ!


「ピアニストとしての才能を発見するのがショパンコンクール
  力量を認めてあげるのがその他のコンクール」っていうとこかな


異論反論はあるだろうけど、誰がどんな解釈、理解でコンクールや演奏
をとらえているのか、発言し、応援し時には批判から誹謗中傷している
のか?その根拠が明確であればいいなって思うことあるな。
誰が発見するのか?認めるのかって?それは上級編あたりで・・・

初級編 おわり



中級編の前に

ショパンコンクールは最初は生誕日の頃、つまり2月から3月に行わ
れていたのだけど。冬の厳しい時期であることやさまざまな理由も
あってか途中から10月開催に変更になったんだ。
そしてだいたい上旬に始まって、3回の予選が終わり、これが16日
かな?というのは17日はショパンの命日なんで、1日本選の前に
休憩を入れる意味もあってね、もちろん最大の理由はショパンへの
敬意だよね。
そうそう音楽の世界では演奏を鑑賞というんだな。(スポーツは観戦
だけど音楽の世界では鑑賞となるね、演奏も「聞く」ではなく「聴く」
になるんだ)
それで17日は聖十字架教会で、朝は入賞者による献花の行事が行わ
れる(今年はしたかはしらないが85年と95年はオレもそこにいたか
らね)当時は本選に出場するコンクール参加者=ファイナリスト=
入賞者は6人だったんだ(今回は12人)。入賞者はこの朝のセレモ
ニーに義務だったようだけど、95年は6人のうち何かともめたロシア
人がいてね、彼はいなかったような記憶があるね、まあどの世界にも
いるタイプだけど、このときから「ふーん!」って思ってたよ。
審査員も歩いて5分のホテルに20人以上泊まっているのに10人も来て
いなかったな。5人くらいかな。まあ連日の審査で確かにお疲れだった
と思うけどね。夜には追悼ミサがあってモーツァルトのレクイエム。
これはパリのマドレーヌ寺院でショパンの葬儀がおこなわれたときと
同じ。ショパンの遺言だったらしい。

命日の翌日からはコンクール再開。いよいよ本選だ。
本選、さいごに選ばれた6人が2日間、一晩に3人がショパンの
作った協奏曲(オーケストラと競演するもので確か5曲あったかな)
でもだいたいは、このうち有名な1番と2番のどちらかを演奏する
んだ。今年も2曲からの選択だった。95年だけ1番か2番から1曲
とその他の3曲から1曲を弾いたね。つまり一晩で2曲続けて弾く事
になっていた。
この2日間は決勝だからね、世界からも王族や首相クラスが来賓とし
て聴きに来るんだ。
今回の2005年コンクールはホント聴きにいってないし。ルールも
大きく変わったのでここでは過去のケースではなすよ。その前に少し
会場のこと話そうかな。

会場のワルシャワフィルハーモニーホールはわずか1100くらいしか
座席がなくてさ、まあ現代の音楽ホールは2000っていうのが大ホールの
標準なんだけどね。それにしても小さいよね。
特にクラシック好き以外は収容人数1000ちょっとの場所ですんの?
って驚くもんね。まあそういうものなんよ。スポーツイベントと芸術は
こんなとこでも大きく異なるよね。
だから当然チケットの入手も大変でさ。だってね1100っていっても1階
700,2階350、3階100くらいなわけよ、ここは。
2階は凹こんな形で座席があるんだけど両サイドは一列目は体を乗り出
すようにすれば見えるが座席に背をつけるとまずほとんどステージは
見えない。
このあたり6-8列あるけど座席の向きが斜めとはいえず、姿勢も
かなり苦しいもので鑑賞することになるのだ。
へこんだ部分、ステージの真正面は審査員席だ。2から3列に審査員が
座っており予選の点数が累積されて、本選分を加えた合計点数で基本的
には順位が決定する。

基本的に?
うん、そこが芸術のねぇ・・・
スポーツと芸術の違いってさ何かな?
そんなこと中級編でもふれてみようと思ってるから、よかったら見てね









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