ショパンコンクール1985-1995-2005
中級編とか上級編とかって表現はなんか適切じゃない感じが
したので、単にpart-2にしてみた。偉そうだよね、初級とか
とかいったらさ。そんな言葉、文字ひとつで不快になられたら
残念だしね。
ということでpart-2の始まり。
まずはホテルの話からしようかな。
オレが始めてワルシャワを訪問したのは1982年の夏。
翌83年そして85年の夏、そして秋のショパンコンクールと
なるのだけど、この間の宿泊はすべてヴィクトリア・インター
コンチネンタル。ワルシャワではまあトップクラスの快適な
アメリカンスタイルのホテルだった。
85年の秋はショパンコンクールの審査員も同じホテルに宿泊
していた。彼らが泊まるほどの、それほど不備のない、少ない
ホテルだった。確かにいいホテルだったと思う。
ただひとつ食事以外は・・・。
なにしろ、時は80年代。今でこそ何でもあるポーランドだけど
当時はまだベルリンの壁は冷酷に東西ベルリンを分断して
いたし、82年の頃はホテル前には戦車や装甲車が配備され
ていたからね。空気がまだまだ重苦しい時代だったよ。
85年のコンクールは朝が10時くらいから始まったかなぁ
ということは朝食を8時には摂り始めるんだけど、これが
あんまり記憶にないんだな。どんな朝食だったか・・・
だけど夕食は覚えてる。あれはちょっと忘れられない体験
だなぁ。とにかくコンクールの夜の部が終わると会場から
猛ダッシュでホテルへ帰ることになる。
時間はもう10時にはなってたかな。それまではショパンの
音楽に耳を傾け、心を・・・なんて世界から一変して
みんなコンクール聞き終わったら、今度は審査員も聴衆も
自分の胃袋のための戦いが始まるんだ。
ホールから徒歩12分。激走であった。タクシー?
そんなもん、まともなのは20年前にありません!”
ワルシャワ中で10台もあったかどうか・・・
だから走るしかない。審査員もオレも同じホテルのただの
宿泊客同士のそりゃあ壮絶なバトルでしたわな。
これってホントの話。
とにかくまずはナイフとフォークを確保する。
席につくなり注文しても15分遅れて同じテーブルについても
出てくるスープの時間が同じ事はしょっちゅうある。
とにかく長い。待たされる。
だいたい注文して食べ終わるのに2時間かかったかなぁ。
だからだいたい部屋に帰ると12時とか12時半。
そして相席当たり前!何度も審査員の先生が空いている席
を探して右往左往しているのを見たなぁ。
だいたいこの時間から食事しようっていうのは、みんな
ホールから帰ってきた聴衆ばかりだから、みんなそこで
今日は誰が良かった、彼は3次までいくとか、彼女の演奏
は素晴らしいとか、わいわいガヤガヤ、なんか今では
想像できない平和な話だなぁ。
85年のワルシャワでは最高級ホテルでもこんな風景だった
から、当時のコンクール参加者は大変だったんじゃないかな。
まあ何人かの日本人ピアニストと当時話したけど、みんな
いい性格っていうかタフっていうか、覚悟して来てたんだね。
缶詰、レトルト食品、うーん何を食べてたんだろうね。
これが95年になるとね、かなり状況も変わってた。乳製品は
あんまりなかったけど、レストランのメニューにあるものは
まず何でも注文できたし、食事も普通に1時間もあれば終える
ことできるようになったね。タクシー?きれいなのがたくさん
走ってたよ。審査員もバスで送迎されてたと記憶するな。
コンクール参加のピアニストの宿泊するホテルの食事も朝、夕
食ともに十分な量だったはず。
会場まで徒歩7分くらかな。途中にはピザハットにケンタッキーも
あったし、85年に比べればまあ格段の進歩、日本レストランも
音楽院のそばにあったし、中華料理もあるし、こうして徐々に
ワルシャワで戦う準備は整ってきたんだよね。
つまりオレがなんでホテルや食事の事にふれたかっていうとね
結局、アジア人が欧米の特にヨーロッパのコンクールで勝ち残
ろうと思ったら、この寝食の部分ってすごく大きいと思うんだよね。
ショパンコンクールって3週間に及ぶ長期戦だから、ちょっと
カップラーメンを2つとレトルトの何かでも・・・てわけには
いかないんだな。
3週間ともなれば、そりゃ体調の管理も大変だし、昔は下痢との
戦いがあったからね。現地の水は・・・なんてガイドブックに
書いてあるの当たり前だったし。
参加者がコンクールを制すには、鑑賞のための旅行者が演奏に
集中できるには、快適な寝場所、衛生的で十分な栄養のとれる食
事は必須条件だよね。よく寝れない、おなかが空いたでは、悔いが
残ってしまいそうだよね。
2005年のショパンコンクールは日本人男性が2人も入賞した。
これは1990年の3位入賞以来の快挙だな。なにしろピアノでは女性
が圧倒的に好成績を残しているからね。
過去入賞者は前回まで8人かな、そのうち女性7名男性1名だから
ね。モスクワのチャイコフスキーコンクールも含めて東欧圏のピアノ
やヴァイオリンのコンクールで(失礼ながら)劣悪な環境でも実力を
発揮できるのは女性?って思ってしまうよね。
ショパンコンクールで日本人が優勝するには、やはり過去のアジア人
で1位になった2人のようにヨーロッパで留学しているか(ユンディ
はドイツ、ダンタイソンはモスクワに留学だったよね)もしくは現地
ワルシャワに自分のアパートがあるような状況からしかチャンスが
ないように思えるなぁ。
数年留学して、ポーランド語も話し、10月の空気も吸って土地の食べ
ものや水に慣れた体でないと、あの3週間の激戦を生き残るのは
至難ではないかと思ってしまうなぁ・・・
ピアノを題材にした漫画「ピアノの森」の作者が今回のショパンコン
クールに取材に訪れていたらしい。この漫画はなかなかおもしろいから
もしショパンやピアノコンクールに興味を持っていただけたら、ぜひ
読んでほしいと思う。
もうひとつ女性が主人公の漫画もある。こちらはパリに留学中かな
たしか「のだめカンタービレ」だったかな。
どちらの主人公も2010年のショパンコンクールを目指す事になるんだと
思うな。
次回5年後はショパン生誕200年。日本人初の優勝者が生まれてほしい
と願うな。ショパンコンクールは過酷で、一度入賞(今回は12人)して
しまうと再挑戦できないんだよね・・・そして年齢制限がある。
もし18歳から28歳までとなれば、現在13歳から23歳までの若者にしか
チャンスがないことになる。
厳しい話だよね。
だから、次があるって安易にいえない。
参加資格、ルールが変更になることあるしね。85年は年齢制限が確か
32歳までだったのに95年は27か28になったしね。次回だって27がコン
クール開始時なのか、2010年の1月1日の時点なのかで運命がかわって
しまうだろうしさ。
2010年の第16回ショパン国際ピアノコンクールへの戦いはもう始まって
いるんだよね。
中級編とか上級編とかって表現はなんか適切じゃない感じが
したので、単にpart-2にしてみた。偉そうだよね、初級とか
とかいったらさ。そんな言葉、文字ひとつで不快になられたら
残念だしね。
ということでpart-2の始まり。
まずはホテルの話からしようかな。
オレが始めてワルシャワを訪問したのは1982年の夏。
翌83年そして85年の夏、そして秋のショパンコンクールと
なるのだけど、この間の宿泊はすべてヴィクトリア・インター
コンチネンタル。ワルシャワではまあトップクラスの快適な
アメリカンスタイルのホテルだった。
85年の秋はショパンコンクールの審査員も同じホテルに宿泊
していた。彼らが泊まるほどの、それほど不備のない、少ない
ホテルだった。確かにいいホテルだったと思う。
ただひとつ食事以外は・・・。
なにしろ、時は80年代。今でこそ何でもあるポーランドだけど
当時はまだベルリンの壁は冷酷に東西ベルリンを分断して
いたし、82年の頃はホテル前には戦車や装甲車が配備され
ていたからね。空気がまだまだ重苦しい時代だったよ。
85年のコンクールは朝が10時くらいから始まったかなぁ
ということは朝食を8時には摂り始めるんだけど、これが
あんまり記憶にないんだな。どんな朝食だったか・・・
だけど夕食は覚えてる。あれはちょっと忘れられない体験
だなぁ。とにかくコンクールの夜の部が終わると会場から
猛ダッシュでホテルへ帰ることになる。
時間はもう10時にはなってたかな。それまではショパンの
音楽に耳を傾け、心を・・・なんて世界から一変して
みんなコンクール聞き終わったら、今度は審査員も聴衆も
自分の胃袋のための戦いが始まるんだ。
ホールから徒歩12分。激走であった。タクシー?
そんなもん、まともなのは20年前にありません!”
ワルシャワ中で10台もあったかどうか・・・
だから走るしかない。審査員もオレも同じホテルのただの
宿泊客同士のそりゃあ壮絶なバトルでしたわな。
これってホントの話。
とにかくまずはナイフとフォークを確保する。
席につくなり注文しても15分遅れて同じテーブルについても
出てくるスープの時間が同じ事はしょっちゅうある。
とにかく長い。待たされる。
だいたい注文して食べ終わるのに2時間かかったかなぁ。
だからだいたい部屋に帰ると12時とか12時半。
そして相席当たり前!何度も審査員の先生が空いている席
を探して右往左往しているのを見たなぁ。
だいたいこの時間から食事しようっていうのは、みんな
ホールから帰ってきた聴衆ばかりだから、みんなそこで
今日は誰が良かった、彼は3次までいくとか、彼女の演奏
は素晴らしいとか、わいわいガヤガヤ、なんか今では
想像できない平和な話だなぁ。
85年のワルシャワでは最高級ホテルでもこんな風景だった
から、当時のコンクール参加者は大変だったんじゃないかな。
まあ何人かの日本人ピアニストと当時話したけど、みんな
いい性格っていうかタフっていうか、覚悟して来てたんだね。
缶詰、レトルト食品、うーん何を食べてたんだろうね。
これが95年になるとね、かなり状況も変わってた。乳製品は
あんまりなかったけど、レストランのメニューにあるものは
まず何でも注文できたし、食事も普通に1時間もあれば終える
ことできるようになったね。タクシー?きれいなのがたくさん
走ってたよ。審査員もバスで送迎されてたと記憶するな。
コンクール参加のピアニストの宿泊するホテルの食事も朝、夕
食ともに十分な量だったはず。
会場まで徒歩7分くらかな。途中にはピザハットにケンタッキーも
あったし、85年に比べればまあ格段の進歩、日本レストランも
音楽院のそばにあったし、中華料理もあるし、こうして徐々に
ワルシャワで戦う準備は整ってきたんだよね。
つまりオレがなんでホテルや食事の事にふれたかっていうとね
結局、アジア人が欧米の特にヨーロッパのコンクールで勝ち残
ろうと思ったら、この寝食の部分ってすごく大きいと思うんだよね。
ショパンコンクールって3週間に及ぶ長期戦だから、ちょっと
カップラーメンを2つとレトルトの何かでも・・・てわけには
いかないんだな。
3週間ともなれば、そりゃ体調の管理も大変だし、昔は下痢との
戦いがあったからね。現地の水は・・・なんてガイドブックに
書いてあるの当たり前だったし。
参加者がコンクールを制すには、鑑賞のための旅行者が演奏に
集中できるには、快適な寝場所、衛生的で十分な栄養のとれる食
事は必須条件だよね。よく寝れない、おなかが空いたでは、悔いが
残ってしまいそうだよね。
2005年のショパンコンクールは日本人男性が2人も入賞した。
これは1990年の3位入賞以来の快挙だな。なにしろピアノでは女性
が圧倒的に好成績を残しているからね。
過去入賞者は前回まで8人かな、そのうち女性7名男性1名だから
ね。モスクワのチャイコフスキーコンクールも含めて東欧圏のピアノ
やヴァイオリンのコンクールで(失礼ながら)劣悪な環境でも実力を
発揮できるのは女性?って思ってしまうよね。
ショパンコンクールで日本人が優勝するには、やはり過去のアジア人
で1位になった2人のようにヨーロッパで留学しているか(ユンディ
はドイツ、ダンタイソンはモスクワに留学だったよね)もしくは現地
ワルシャワに自分のアパートがあるような状況からしかチャンスが
ないように思えるなぁ。
数年留学して、ポーランド語も話し、10月の空気も吸って土地の食べ
ものや水に慣れた体でないと、あの3週間の激戦を生き残るのは
至難ではないかと思ってしまうなぁ・・・
ピアノを題材にした漫画「ピアノの森」の作者が今回のショパンコン
クールに取材に訪れていたらしい。この漫画はなかなかおもしろいから
もしショパンやピアノコンクールに興味を持っていただけたら、ぜひ
読んでほしいと思う。
もうひとつ女性が主人公の漫画もある。こちらはパリに留学中かな
たしか「のだめカンタービレ」だったかな。
どちらの主人公も2010年のショパンコンクールを目指す事になるんだと
思うな。
次回5年後はショパン生誕200年。日本人初の優勝者が生まれてほしい
と願うな。ショパンコンクールは過酷で、一度入賞(今回は12人)して
しまうと再挑戦できないんだよね・・・そして年齢制限がある。
もし18歳から28歳までとなれば、現在13歳から23歳までの若者にしか
チャンスがないことになる。
厳しい話だよね。
だから、次があるって安易にいえない。
参加資格、ルールが変更になることあるしね。85年は年齢制限が確か
32歳までだったのに95年は27か28になったしね。次回だって27がコン
クール開始時なのか、2010年の1月1日の時点なのかで運命がかわって
しまうだろうしさ。
2010年の第16回ショパン国際ピアノコンクールへの戦いはもう始まって
いるんだよね。
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